63話 武辺者、公共事業に手を掛ける
晩秋の冷たい風が厚手のカーテンを揺らしていた頃。
キュリクス領主館の一角。文官執務室では早朝にもかかわらず暖炉の薪がぱちぱちと音を立てて燃えていた。トマファは机の上に広げた分厚い帳簿の山を前に車椅子を寄せるとひざ掛けをした。すこしずつ温められて暖かくなってゆく部屋に紙をめくる静かな音だけが響く。
「年貢はぎりぎりまで上げた。それに見合う還元策を──始めましょうか」
誰に語りかけるでもなく、独り言のようにトマファが呟いた。
帳簿の左隅には、秋口にクラーレが提出してきた『減税案』の写しが挟まれていた。あのときトマファは首を縦に振らなかった。財政が安定しない限り減税は無責任な人気取りに過ぎない──そう言って突き返したのだ。だが思いのほか豊作だった結果、歳入が予想を上回ったのだ。それに歳入増加の一事業として民間からの融資を受けたのも幸いし、安定的に経済が上向いていることが帳簿上の数字で判る。
ふう、と静かに息を吐く。ペン先をインク壺に軽く浸し、滑らかな手つきで羊皮紙に何かを書き始めた。年貢を上げた責任、そしてその果実を“還元”という実利で農民たちに示すこと。それがトマファ・フォーレンが文官長として選んだ政道だった。
窓の外では聖夜祭に向けて飾りを運ぶ村の子どもたちの姿が見え隠れしていた。きらびやかな行事の裏で領主館の文官は静かに動き始めていた。
※
聖夜祭の準備が本格化し、街のあちこちで笛や太鼓の練習が聞こえはじめた頃──アニリィはひとり、西門付近の城壁修繕現場にいた。この作業現場の監督はアニリィで、とっとと終わらせて領主館の面々に「やればできる子」というのを見せてやろうと躍起になっていた。
しかし工事用の仮設足場に背を預けながら工程表をぱたぱたとあおぐようにして眺めていたが、その工程表の文面に思わず首を傾げ、呟いてしまった。
「『できる限り時間をかけて丁寧に』だと? ──どした、トマファ殿。ついに疲れて壊れたな?」
彼女が手にしているのは、今季行う城壁修繕に関する詳細な作業工程表だった。北側はスルホンが、南門はウタリが担当となって、各種作業に関する工程などが事細かに記載されている。しかし工程表のどの箇所にも『慎重を期し、安全に丁寧に』とか、『工程に余裕があるので焦らない』などと、これまで見たこともないようなゆるやかな方針が並んでいた。
そんな時、首にマフラーを巻いた出稼ぎ農民のひとりが前から近づいてくる。彼は周りからは班長と呼ばれている男だ。その男も作業工程表を持っており、わざわざそれを持ち出してアニリィの元にやってきて一礼すると口を開いた。
「なぁなぁ姐さん。この工程、どうなってんだ?」
「ん、どしたの?」
「いやさ、時間かけて丁寧にって言うわりに、俺らの賃金は『一区間いくら』の出来高のままって話じゃなかったか? そうなるとこれ、懇切丁寧にやってたら損なンだわ」
周囲の作業員たちも手を止めてうなずく。そして誰かが立ち上がると他の作業員たちも立ち上がり、アニリィの周りにぞろそろと集まってきた。
「早く終わらせたほうが得なのに丁寧にって言われたら、そりゃ日数分ドヤに払う銭がかかって困るっつーか」
「これ、上が考え直してくれねぇなら、やってらンねぇぞ」
「姐さん。作業手順はきちんと守るんでさぁ、工期を半減するとかもう少しお上によう言ってくんねぇか?」
アニリィは工程表の端に記された文筆責任者の署名を見る。『文官長 トマファ・フォーレン』。
『──やっぱり、奴さんの仕込みかぁ』
嫌な予感が脳裏をよぎる。口調こそ柔らかだが、あの男が何かを仕掛けているときはたいてい裏がある。
「これはもう、本人に直接聞くしかないな」
アニリィは「今すぐ確認に走るから、今のところ工程通りにやってくれ」と言って工事現場から走って後にすると、飯場の横に繋いでいた自分の馬に跨った。
「何の魂胆か聞き出してやるからな、トマファ殿ォ!」
馬蹄が雪混じりの地面を蹴って駆け出していった。
※
「トマファ君、クラーレさん、お茶が入りました」
一礼してマイリスとクイラがワゴンを引いて文官執務室に入ってきた。そしてマイリスがお茶の淹れ方や出し方の手順について懇切丁寧に教えている。クイラもメイド隊に入って半月も経ったせいか、緊張からティーカップをガチガチ鳴らしながらテーブルに置くことは無くなった。
「トマファ様、お茶でございます」
そう言って提供されたお茶を、トマファがペンを置いて口をつけようとしたそのときだった。扉が、ばんっ、と派手な音を立てて開く。あまりの粗野な開け方なので皆は一瞬、プリスカの仕業かと思ったくらいだ。
「トマファ殿! 作業工程表について一言モノ申すッ!」
そんな声とともにアニリィが勢いよく執務室に飛び込んできた。羽織っているコートや髪には淡雪がひっついていた。早馬で駆けてきたばかりの様子で頬は赤く、息はまだ白い。
トマファは一瞬驚いたようにまばたきをしたが、すぐにいつもの穏やかな調子で口を開いた。
「アニリィ様、おはようございます。……そのような強引な登場は、扉にも僕らの心臓にも優しくありませんよ」
「優先すべきは扉でも心臓でもなく、現場の混乱ですっ!」
アニリィは大股でトマファの机まで詰め寄り工程表をばさっと広げた。横ではマイリスが「心臓は止まっちゃうとドキドキできませんよ」と的外れな事を口走っていた。
「これ、これですよ! この『ゆっくり丁寧に』とかの方針! 働いてくれてる出稼ぎ農民たちがこれじゃ損しかないぞって怒ってるんです! 出来高制なのに工期延ばせとか、どういう了見ですか!」
トマファは静かに工程表に目を落とし、うんうんとうなずく。クラーレが何か言おうとしたが、トマファは手で制した。
「ええ仰るとおりです。──ですが今回から『日給制』に変更したって前の評定で正式に承認されたじゃないですか」
トマファは机の脇に積まれた議事録の束から一枚を抜き出し、アニリィの前に差し出した。
「ほら、ここです」
アニリィは目を細めて議事録を読む。──確かにそこには『本件、冬季修繕工事の賃金は日給制を試験導入する』と記されていた。そして、傍らに添えられた出席者の署名欄には──
「あっ」
アニリィの顔がひきつる。──自分の名も、議事録の承認サインもしっかりされていた。
「え? あれ、これって」
「そうです。アニリィ殿も参加してましたよ。たしか評定の後半には無言でうんうんとうなずいていらっしゃいましたが」
トマファの声は淡々としているがどこか楽しげでもあった。アニリィは額に手を当て記憶をたぐる。評定の場面──確かにいた。だが、あの時は──
(そういえば、部屋があったかくて、昼食のあとで──)
頭の中にほんのり『船を漕いでる』記憶がよみがえる。
(やだわたし──くかー、って……)
「そ、それはその! 寝てたわけじゃなくて、軽く目を──目を閉じて!」
言い訳にもならない言葉を口走るアニリィに、トマファは微笑を返す。クラーレやマイリスに至っては笑いを堪えるのに必死そうであった。
「どちらにせよ日給制は施行済みですのでご安心を。農民を集めて頂いた代官殿や派遣元にも連絡してありますし、働いて頂く皆様にはきちんと『働いたその日に対価』をお支払いします──とっ払いですよ」
「最初から、そう言ってよ!」
アニリィは肩の力をどっと抜いた。怒鳴り込んできたはずなのに、なぜか納得している自分が可笑しくなる。しかもその理由が、自分が寝てたって事がさらに輪をかける。
「まったく策士というか確信犯というか──ほんと、トマファ殿は!」
どこか安心したように笑ってアニリィは椅子に座り込んだ。
「私にもお茶、飲ませて」
「ええ。クイラ殿、練習の成果をアニリィ殿に見せてあげたらどうですか?」
「はッ! はィーッ!」
クイラにとってアニリィは命の恩人だ。そんな彼女に自分が淹れたお茶を出せるなんて。先ほどからの緊張がさらに高まったのか、ティーカップをガチゴチ鳴らしながら湯気の立つカップが差し出された。
冬の朝。静かな執務室で、ほんのひとときの安堵の時間が流れていた。
※
その夜。
城壁修繕を終えた農民たちの一団がいつもの立ち飲み屋──ドヤの近くにあった酔虎亭へとなだれ込んでいた。
店内は薪の香りが漂い、湯気を立てるグリューワインと香草ソーセージの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「いやぁ工程さえ守ればゆっくりでも賃金が出る、しかも日当がとっ払いで出るってんだから助かるなあ」
「安全第一とか言われたけど、くだらんことでケガしたら食いっぱぐれだもんな!」
「今季は雪解けが早いって聞くし、がっちり稼いで収穫まで食いつなげるぞ!」
「帰ったら、かーちゃんに何か土産でも買ってってやらねぇとな!」
あちこちで笑い声があがり、杯がぶつかり合う音が響く。その間を縫って、料理皿を抱えた小柄な娘が店内を右へ左へと駆け回っていた。
「はいはいはいっ、通りまーす! そこ、長〜い足伸ばさないでー!」
プリスカである。普段は領主館のメイドだが、実家がこの酔虎亭であるため、忙しい時期にはこうして手伝いに出ていた。とくに聖夜祭前後や出稼ぎ農民が来る時期は最高の稼ぎ時でもある。
「よぉお嬢、こっちの注文まだかーっ!?」
「ごめん、エールが足りないわ、おかあさーん!」
厨房の奥からはどっしりとした声の女将が返す。
「ちょっと待ってて、今準備する! ねぇ父ちゃん、こっちの桶も運んで!」
「おぉわかった!」
店の隅には、懐がほかほかになった出稼ぎ農民たちがひときわ上機嫌で語り合っていた。
「毎日こうだったら冬が明けても残ってもいいぐらいだなあ」
「はっはっは、それじゃ嫁ッコに逃げられッぞ!」
笑い声と湯気が立ちのぼる中、酔虎亭の帳場にはしっかりと領主館提出用の税帳簿が積まれていた。飲めば飲むほど、食べれば食べるほど、キュリクスの歳入は着実に増えていく。そうとは知らず出稼ぎ農民たちは満足そうに今夜のエールを飲み干していた。
※
夜更け、酔虎亭のにぎわいも遠ざかる頃。領主館の一室にはまだ灯りが灯っていた。
トマファ・フォーレンは、机上にひろげられた帳簿を一枚一枚確認して算盤を弾いていた。夕方から強くなってきた雪のせいか窓を強く打ちたたく。
「酒場ギルドの売上速報値、前年比で──ふむ、かなり伸びましたね」
ひとり言をつぶやきながらトマファは淡々と記録を取っていた。そこへ随分とラフな格好のアニリィがマグカップとワイン瓶を持ってひょっこりと現れた。
「まだ帳簿いじってんの? もう日付変わるわよ」
「ええ、この時間が一番好きな時間帯ですから」
「──相変わらず熱心だこと」
アニリィは椅子を引いてクラーレの席に腰を下ろし、ワインをカップに注ぎ込んだ。それを一口舐めるように飲むと「いいことあったの?」と訊く。帳簿に目を落としたままトマファが口を開いた。
「出稼ぎ農民たちに毎日支払ってる賃金が、飲み屋や宿場からの税収となって確実に回収できます」
「──全部、それが狙いだったの?」
トマファは小さく笑ってアニリィが差し出したマグカップをひと口飲む。
「日給制を導入した理由はちゃんとあります。出稼ぎの方々に『現金で即支払い』すれば、その一部は必ずキュリクスに落ちる。しかもまとめ払いではなく、小出しで払えばなおのこと」
「つまり、どういうこと?」
「手元に金があれば、こちらでの生活に必要なものだけじゃなく、酒や、女や、賭け事にも使っちゃうってことです。抑止はできませんしするつもりもありません。──むしろ、使ってもらったほうが地域経済には良いんです」
アニリィは半眼でトマファを見つめると、ゆっくりと言った。
「それ、全部わかってて制度設計したんなら、あなたってサイコパスでしょ?」
「ただの文官です」
表情を変えずに言い切るトマファに、アニリィはくふっと笑った。
「ま、困ってる人を助けて、税収も稼げるなら──それでいいか!」
「善政と収支の両立。それが僕の理想です」
ふたりのマグがこつんと軽く鳴った。外では風が雪を連れて踊っていたが、執務室の中は静かに暖かく満たされていた。
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