61話 武辺者の街、聖夜祭を迎える・1
冬至前日。
キュリクスの市場には、朝早くから人の流れができていた。風は冷たいが空は晴れており、焼き栗の煙と香ばしい蜜菓子の匂いが空気に甘く混ざっている。広場の一角にはすでに十を超える“灯火売り”の屋台が並んでいた。
そこには赤や橙の薄紙で作られた小さな灯火が、木の枠に吊るされ、風にゆらゆらと揺れている。屋台には札が掲げられていた。
「願いを一筆、白銅貨一枚」
この地方では、冬至の夜明け前に灯火を空へ放つ風習がある。
もとは冬至は「主神の力が弱まる夜に火を絶やさず祈る」という古い儀式だったが、後に「願いを託す」「死者に想いを届ける」といった信仰や民間伝承が加わり、今では「彼岸と此岸がもっとも近づく夜」として親しまれている。
そしていつしか市民は灯火にそれぞれ思い思いの言葉を記し、火を灯して空へ放つようになった。形式は宗教的だが実際には「誰かへの私信」や「夢、希望」を書いて飛ばすことが定着しており、町ぐるみの祭りとして根付いていた。
その屋台のひとつの前で、ネリスは筆を握ったまましばらく動けずにいた。目の前には淡い桃色の紙でできた丸型の灯火が並んでいる。一年少し前に亡くなった祖母・リーネスへ何を書くか迷っていたのだ。横ではクイラが何やら真剣な顔で筆を走らせている。
『もじ、じょう、たつ』
たどたどしい文字で一行書き終えると、クイラは嬉しそうににんまりと笑った。ネリスはそれを覗き込み嬉しそうな声で言う。
「上手くなったよねあんた」
クイラははにかみながらも、満足げにランタンを大事そうに抱えていた。二人は多くは語らないがそれで十分だった。かつて同じ部隊に所属し、切磋琢磨していたていた相棒だが違う配属になっても今でもこうして休みが合えば顔を合わせるようにしている。
だがネリスはまだ筆を置けないでいた。クイラが隣でちらりと彼女の顔を覗き込む。不安げな目。ネリスは照れ隠しに目をそらし、さっと筆を動かす。
「じいちゃん共々元気にやってるぞ」
彼女はそれだけを書きなぐった。それを見た屋台の婆さんが「ぶっきらぼうだねぇ。でも、そういうのが一番届くと思うよ」と笑いながら言うと、そのランタンを受け取っていた。ネリスは気恥ずかしそうに頷いて、白銅貨を婆さんに一枚渡す。
そのときふと後ろに振り向くと、屋台のすぐ脇に祖父のレオダムが立っていた。出不精なレオダムを外に連れ出そうと無理やり連れてきたのだ。しかしレオダムは無言で灯火のひとつをじっと見つめている。
「じいちゃん、書けば?」
ネリスが声をかけるがレオダムは少し眉をひそめて「要らん」とだけ返した。それでも立ち去らず、揺れる灯火をじっと見つめていた。やがてレオダムはゆっくりと懐から財布を取り出し白銅貨を数枚取り出すとネリスに手渡した。
「――二人で祭りを愉しんで来い」
ネリスは驚いた顔をすると白銅貨を返した。
「ちゃんと俸禄もらってるからさ、じいちゃんこそ飲みに行っておいでよ」
そう言って自分の財布を出そうとすると、レオダムは「生意気な」と吐き捨てて踵を返した。その背中でネリスに言った。
「いい聖夜を」
レオダムは足を止めず、小さく返した。
「お前らも良い聖夜を」
*
夜も更け、キュリクスの市場はすっかり静まり返っていた。屋台の多くは幕を下ろし、灯火屋だけがぽつぽつと残っていた程度だ。そこに千鳥足で現れたのは酔いどれのオキサミルだった。顔は赤く工具袋を肩にぶら下げ、手にはスキットルをぶらさげていた。
ひとつの灯火屋の前で立ち止まると札が目に入る。『願い一筆、白銅貨一枚』。彼はしばらく札を見つめ、懐から硬貨を取り出して静かに差し出した。店の老婆から筆と薄紙を渡され、オキサミルはしばらく筆を止めたまま考えていた。そして、そっと一行だけ記す。
『寂しい』
それだけだった。
ふと隣に目をやると白髪の老人が同じように筆を走らせている。そして、そこにも同じ文字――「寂しい」が書かれていた。
「奇遇ですね」
オキサミルが思わずぽつりと漏らすと、老人は小さな酒瓶を傾けながら応じた。
「一年少しほど前に妻を、な――」
そう言うや老人はゆっくり語り始めた。研究に明け暮れて家庭を顧みなかったこと。今では子どもたちとも疎遠で、年に一度の手紙すら届かないこと。だが妻だけは自分の研究を信じて横についてくれていたこと。オキサミルは黙ってそれを聞いていた。そしてぼそっと呟く。
「死んだ嫁自慢か」
老人にもその言葉が耳に入ったのかふんと鼻で笑って酒瓶を差し出した。
「ひょっとして、儂なんかから解放されて向こうで好きにやってるのかもしれん。そう思うとな、残されたこっちは――」
オキサミルは肩をすくめた。
「それならとっとと離婚してるでしょ」
酒瓶が二人の間で傾く。
「お前のは?」
オキサミルは少しの間沈黙したのち、短く答える。
「ユナ、俺の嫁だ」
オキサミルは首から下げているロケットを引っ張り出す。ぱかりと開いたその中に、二人で撮った光画が納められていた。灯火の火が揺れる。老人が言う。
「ありがとうとか愛してるとか書く奴が多いが……儂はまだ、そう言えんな」
「大将の言ってることが判るな」
ふたりは黙ったまま、屋台にゆらめく火を見つめる。やがて、灯火屋の老婆が声をかけた。「そろそろ片付けますよ」オキサミルが言う。「――冷えてきましたね」
「そうだな」
「場所を変えませんか? 酔虎亭、まだやってると思うんで」
老人は懐かしそうに目を細めた。
「なつかしいな」
「ご存じなんですね」
二人はゆっくりと歩き出した、静かな夜の街を並んで。
*
「あらレオダムさん、それにオッキさんも! 寒いでしょうから入って入って!」
酔虎亭の女将が表の縄暖簾を下げようとしていた時に二人がやってきた。いつもなら断るのだろうがせっかくの夜、しかも店には数年ぶりに来たレオダムだったから女将は店に招き入れたのだ。店内にはわずかな灯りと薪がはぜる音が残っていた。にこにこしながら女将は火酒が入ったグラスを二人に渡す。
「珍しい取り合わせね、錬金術のお偉いさんと物理と測量の先生って」
「あぁ。この爺さんと灯火の屋台でばったり会ってな」
「そっかぁ、リーネスさんが亡くなってもう1年ちょっと経つもんね――寒かったら言ってください、薪を足しますんで」
二人は女将に小さく会釈を返す、再び静けさが落ちた。グラスを口に運んだオキサミルがロケットを手元で弄ぶ。銀の蓋をぱかりと開くと中には小さな光画――若い夫婦が不器用に肩を寄せる姿が写っていた。
「――ユナって下級貴族の娘だったんだ。彼女はお嬢様暮らしだったから生活能力ゼロでね。台所や洗濯は悲惨、掃除は凄惨。とにかく手間のかかる女でな」
オキサミルはユナとの結婚生活をあれこれくくっと笑いながら言うと少し遠くを見た。
「でも楽しかったんです。――むしろ思い通りにいかない方が面白かった」
老人――レオダムは頷くように湯飲みを揺らした。
「ユナに病気が分かった時からは努めて笑顔を見せるようにしてな。まぁ稼げる測量の仕事を辞めて教師になったんだ。――ユナを看取るために」
「――」
「でも看病空しく、あいつはあっさり逝った」
ふっとロケットを閉じる。
「ああ、やっぱ寂しいわ」
「何年、――経った?」
「十年、かな」
オキサミルは静かにグラスを傾けた。テーブルに置いた音が妙に店内に響いた。
「じゃあ儂は、こんな想いをあと八年も続けなきゃならんのか」
「たぶん一生だ、――まァ、別の女でも見つけりゃすぐ治るんでしょうけど」
レオダムはグラスを一気に飲み干すとくっと笑う。
「じゃあ、お前さんは若いんだからとっとと新しい女を見つけな。――儂はもう棺桶に片足突っ込んでる」
「無理だよ、俺の中でユナは大きすぎるんで」」
暖炉の薪がぱちぱちと音を立てて燃える、女将が黙って薪をくべていた。しばらくは薪の爆ぜる音だけが店内に響いた。しばらくしてオキサミルが口を開いた。
「火っていいですね、素直に語れてしまう」
「シラフじゃ言えんことも多いからな」
グラスがからんと空になる音。
「もう一杯、飲みますか?」
女将の声がやさしく響く。
「頼むわ」
火の音がそれに応じるように静かに爆ぜた。女将が新しい火酒を注ぎながらふと思い出したように言った。
「そういえばリーネスさんってね、酔うとレオダムさんの話ばっかりしてたのよ。笑いながら『うちのレオダムさんがねー』って怒り出してたよねぇ。リーネスさんのレオダムさん自慢、聞く? せっかくの聖夜だよ?」
女将がグラスを三つ置く。
オキサミルはグラスからふとレオダムを見ると俯いて肩が小さく震えていた。オキサミルは返事をせず、ただ静かにロケットを胸元に戻した。
*
「そろそろ灯火を空に送る時間ね」
女将の言葉に、老人がゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ行こうか。儂らの気持ちを空に送り出してやろう」
「そうですね」
オキサミルも腰を上げて、コートの襟を立てる。二人が扉を押し開けると、外はまだ夜の帳が残っている。だが東の空に明け星が静かに瞬いていた。
*
明け方。
市場から坂を少し登った先小さな丘があり、人々はそこへ向かって歩いていた。灯火を胸に抱いて寒さに肩をすくめながらも、どの顔も静かに空の先を見つめていた。オキサミルとレオダムもその流れに紛れて丘を目指す。二人は肩を並べ、何も言わずに歩いていた。途中、二人を追い越していく親子が小さな声で「おはようございます」と頭を下げる。町の職人らしき若者たちも、手に灯火を抱え、風に目を細めながら登っていく。
丘の上にはすでに多くの人々が集まっていた。色とりどりの灯火が並び、その火種が風にゆらめいている。白い息が空に昇っていく。ネリスとクイラの姿もあった。ネリスは少し離れた場所に立つ祖父とオキサミルを見つけたが、声はかけずただそっと目を伏せた。
そのオキサミルは胸元のロケットを一瞥し、無言で空を見上げる。
どこかで鐘が鳴った。それが合図のように、人々が一斉に手を掲げる。
「せーのっ」
誰かの声をきっかけに、灯火たちが空へと放たれた。
灯火はするすると上昇していくと風を掴み、ゆっくりと、柔らかな炎の列が夜明け前の空に流れていく。紙の灯火たちは音もなく静かに舞い上がるように天へと昇っていった。赤、橙、青、白。さまざまな色の光がすれ違い、添いながら、空の谷間を飛んで行った。レオダムやオキサミルが放った灯火もまた、そのなかに混ざり合っていた。
少し離れたところにいたネリスは、レオダムが放った灯火を目で追いながら小さくつぶやいた。
「ばあちゃん、見てるか」
空の果てに一際高く昇っていく灯火があった。まるでその先から招かれたかのように。
夜が少しずつ白み始めていた。
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