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55話 武辺者の新人文官、迷子になる

 彼女らが金属加工ギルドの玄関を出ると、冬の優しい日差しが石畳に降り注いでいた。


「ふぅ、これでおつかい完了! 書状もちゃんと渡したし――さて、みんなこれで直帰だね!」


 いつものように元気いっぱいのレオナが、肩にかけた小さな鞄をぽんと叩く。同僚文官のトマファに頼まれた書類配達の任務を終えた彼女は、両手をいっぱいに広げて自由を謳歌する。たまたま休日出勤に応じたためこれから直帰、午後からは振替休日だ。


「おつかれさまでございます、レオナ様」


 先に続いたのはしっかり者の中堅メイド、サンティナ。優雅な物腰で深くお辞儀をする。続いてまだ訓練隊を出たばかりのおっとりメイド、モリヤがのんびり歩いてきた。


「今日の午後は私たちも振替休日でございます。私たちは南門通りの甘味処の予約を入れております。レオナ様もご一緒にいかがでしょう?」


 それを聞いた瞬間、レオナの目がきらきらと輝いた。


「いいねぇ、甘味処! でもその前にアイス食べていかない、ご馳走するよ? ほら、ギルドへ行く途中に美味しそうな屋台があったでしょ!」


 彼女が指差したのはまるで迷路のように入り組んだ横道だった。屋台のあった通りとはまるで逆方向――それなのに、レオナは確信めいた笑顔で、その道を指し示していた。サンティナとモリヤは顔を見合わせる。サンティナは訝しげに、モリヤはのほほんと首をかしげた。


「レオナ様、そちらは職人街ですよ――」


 サンティナが言いかけた瞬間にはもう、レオナはスキップ気味の足取りで横道に吸い込まれていく。


「レオナ様、どうかお待ちを――!」

「えぇ〜、レオナさま〜? こっちは南じゃないですよぉ〜」


 サンティナとモリヤが慌てて追おうとするが、レオナの姿はすでに曲がり角の向こうに消えていた。残されたのは、軽やかな靴音と、あちこちから響く槌音だけが辺りに響き渡る。


 ──数分後。


「あれぇ……レオナさま、いませんねぇ〜。どこいったんでしょう〜?」

 モリヤがぽやっとした声で辺りを見回した。その呑気な響きが、サンティナの神経をじわじわと逆撫でしていく。


「まさか、職人街の奥へ行ってしまわれたのかも?」


 サンティナの額に汗が滲む。胸の奥がじわりと冷えてきた。エラール出身の彼女にとって西区の職人街は不慣れだ。道はあちこちに入り組んでおり、準備もなく中に入れば迷子になること必至である。


「ねぇモリヤ、あんた地元なんだから、この路地がどうなってるか、わかるでしょ?」

「うぅ〜ん、私は東区の人間なのでぇ~、分かんないです〜」


 その返答にサンティナは言葉を失った。そして数拍の沈黙ののち、ぐっと唇を噛む。――レオナ様、本当にガチ目の迷子”になってる! そう確信した瞬間、サンティナの顔はどんどんと青ざめていった。


「モリヤ、南門の広場に戻るわよ。巡回の衛兵隊を見つけたら声掛けて、お願い!」

「は〜い! でもレオナさま、あの時楽しそうでしたよねぇ」

「そういう問題じゃないでしょ! ――いいから、見つけたら教えて! 急ぐよ!」


 二人は路地を駆け抜けて先の南門広場に出る。そこは昼の喧騒に包まれていた。屋台が並び、買い物客や行商人、荷馬車の往来がひっきりなしに続く。その一角に銀色の小さな紋章を胸に付けた二人の衛兵が通りの警戒にあたっていた。


「あっ、サンティナさま〜、あそこに衛兵さんがいますぅ〜」


 モリヤののんびりとした声に、サンティナが顔を上げる。彼女は素早く二人に駆け寄り、背を正して敬礼すると声を張った。


「お疲れ様です! メイド隊所属サンティナ兵長、緊急報告致します。こちら――認識票の確認願いします!」


 そのまま胸元の制服をかすかに引いて、首から下げていた銀の認識票を手に取り、衛兵たちに差し出した。衛兵の一人、鋭い目をした中堅衛兵が手を伸ばして素早く確認する。


 もう一人の衛兵――若干軽薄そうな青年がサンティナの指が制服の内側に伸びた瞬間、その襟口の奥を覗き込んでいた。――サンティナが緊急報告と言ってるのに緊張感がまるで無い。その視線に気づいたサンティナが無言のままぎろりと睨みつける。青年は小さく咳払いして目を逸らし、「い、いや、その――見えてませんから!」と声を裏返していた。そんなやり取りを横目にモリヤが「この人えっちっちなんですぅ〜」と小さくつぶやく。


「――おほん。サンティナ兵長、認識票は確認した。続けたまえ」

「はい。先ほど、金属加工ギルドへの書状配達任務を終えた文官のレオナ様が行方不明となりました。同行していた私たちが目を離した隙に、路地の奥へ……」

「そのレオナ様って――、ズラン伍長、ひょっとして行方不明者って『迷い猫のレオナ』様の事では?」


 サンティナは頷きつつ、苦々しげに言葉を継ぐ。


「おっしゃる通りです。現状では誘拐や事故などによる行方不明ではありませんので、乙種捜索を宣言いたします」

「乙種捜索、了解した。ドマリ、領主館に急報だ、走れ!」

「了解ッ!」


 ズラン伍長と呼ばれた中堅衛兵が鋭く頷くと、若い衛兵ドマリに指示を飛ばす。ドマリは持っていた槍をズランに渡すと敬礼ひとつで駆け出していった。


「状況、再確認する。進行方向の見当は?」

「職人街方面……おそらく、北東寄りの古路地だと思います」

「よし。俺がここから現場に入る。そちらは一度休憩を」

「いいえ同行します。責任がありますので」


 サンティナのまっすぐな目を見て、中堅衛兵は口角をわずかに持ち上げた。


「了解だ、兵長」


 *


 キュリクス領主館の門前に、砂埃を巻き上げながら若い伝令衛兵が駆け込んできた。息も絶え絶えに文官受付に身を乗り出す。


「緊急報告です! レオナ様、外出中に所在不明! メイド隊サンティナ兵長より、乙種捜索が宣言されました!」


 一拍の静寂の後、領主館がざわついた。


「レオナ様が――!?」「乙種捜索って!?」


 ざわめきが広がる中、すぐさま階段を踏み鳴らして誰かが駆け下りてくる。かつかつと甲高い戦靴が床を蹴る音。真っ先に受付前へ進み出たのは領主の妻――ユリカ・ヴィンターガルテンだった。


「伝令、報告を繰り返しなさい」

「はっ、メイド隊所属サンティナ兵長より乙種捜索宣言。レオナ様が書状配達任務完了後、同行者とはぐれて所在不明! 不明箇所は西区路地、通報地点は南門広場であります!」


 腕を組んで仁王立ちするユリカの双眸が鋭く光り、静かに右手を突き上げた。


「全隊、出動準備!」


 その場の空気が一変する。


「いい? “あの子”がいなくなったら――キュリクスの街をひっくり返す覚悟で探すのよ!」


 *


 文官執務室、急ごしらえの作戦卓の上にキュリクスの地図が広げられた。メイドたちが次々と書類を持ち込み、情報が手早く書き込まれていく。


「斥候隊アルファ班は西区の路地構造を再確認。建物の裏道や廃屋も洗ってください! ベータ班は通報地点から東へ展開。女子班は西区初等学校の周辺には子どもが多い、彼女らにはやさしく聞き取り捜査を」


 地図を指でなぞりながら、トマファが声を張る。斥候隊隊長のメリーナが「あいよッ」と言うと飛び出していった。クラーレは地図の端を片手で押さえたまま静かな声で続ける。


「通信隊、当直組は衛兵詰所と警吏所に連絡。現地報告は逐一、本部に集約。発見次第、赤色信号砲で即時通知」


 彼女の指示に、通信隊長ガルボーが右腰から下げる信号砲筒を確認しながら頷く。


「衛兵隊は歩哨を減らしてもいい。巡回より今は捜索に一点集中して」


 一拍おいて、クラーレは低く言い添える。「この手の迷子は、時間が命取りになるから」


 *


 作戦卓の周囲がにわかに騒がしくなる。指示が飛び交い、メイドたちが行き交う中――


「レオナ様が誘拐!? う、うそ……本当に!?」


 出動準備命令を聞いて洗濯籠を抱えて走ってきたロゼットが、目を見開いて立ち尽くした。洗濯物を床にぶちまけながら、青ざめた顔で周囲を見回す。


「今は出動準備よ、落ち着いて。誘拐かどうかなんてまだ誰も言ってないわよ。サンティナちゃんの乙種宣言だって下知があったでしょ」


 横でぶちまけられた洗濯物を籠に戻すパルチミンは眉をひそめる。しかし、そのやりとりをよそに、ある者がすでに“戦闘準備”に入っていた。


「あれっ! ナイフが一本足りないんですけどッ!」


 スカートを派手にまくり上げてごそごそと探りながら叫ぶのは、メイド隊の“爆走猫”、プリスカ・ティグレだった。彼女は椅子に右足を乗せて太もものガーターに差していたナイフの本数を確認中である。その様子を見て、背後からすっと近づいたオリゴが露わになった太ももをぴしゃりと叩くと涼しい声で言った。


「プリスカ。はしたない真似はおやめなさい。太もも晒すならともかく、暗器まで見せない!」


 びくっと肩を跳ねさせて固まるプリスカ。ぴしゃりと叩かれた太ももを思わず両手でさすりながら、小声で「いったぁ……」と涙目になる。普通は太ももを晒すほうがはしたないと思うのだが。


「落ち着きなさい。これは乙種捜索――つまり、ただの迷子探しです」


 場にスン……とした静寂が訪れる。ロゼットが洗濯籠を胸に抱え直しながら、ぽつりと呟いた。


「こういうときほど昔っから一番に騒ぐよねプリスカって」


すかさず、オリゴが静かに返す。


「お互い様でしょ? 捜索が終わったら洗濯物、洗い直しよ」


 *


 トン、テン、カン。


 鉄を打つ音が、路地の奥から規則正しく響いていた。


 レオナは足を止めた。

 ふらりと路地を折れたはずが見知らぬ通りへ迷い込んでいた。だが不思議と怖さはない。むしろ鉄と油の匂いや火花の熱気が彼女の胸の奥を心地よくくすぐっていた。


「すごい! なんだろ、見てるだけで面白そう!」


 ふらりふらりと立ち止まって作業風景を覗き込む。そこで低い屋根の古びた鍛冶場にそっと目を向けると――ふいごの動きを止めた年配の女性と目が合った。その女性は一瞬驚いたように目を細めると、やさしく微笑んだ。


「まあ――迷い込んだ子猫かしら?」


 レオナが思わず頭を下げると、女性はふいっと工房の奥へ顔を向けて声をかけた。


「ねえちょっと。あなたの鉄火に引き寄せられた子猫が来たみたい」


「――はん、変わった縁だな」


 奥に座って槌を振っていた職人が立ち上がる。煤にまみれ、白髪の髷がきちりと結われている。槌を手にしたその男はレオナに向かって顎をしゃくった。


「嬢ちゃん、やってみるか? 今ちょうど地金を起こしてるとこだ」

「えっ、いいんですか……?」


 驚きつつも目を輝かせるレオナを見てふたりは顔を見合わせて微笑む。


「こっちはうちの親方、ゲオルグ。あたしはニコルよ」

「レオナっていいます。ご迷惑じゃなければ!」



 熱を孕んだ炉の前で、ゲオルグは赤く染まった鉄の塊を火床から引き上げた。鍛錬台に載せると、立てかけていた鎚をレオナへ差し出した。


「この鎚、持ってみな。重いぞ?」


 受け取った鎚はレオナの想像してたよりも重かった。彼女の腕にずしりと響く。


「わ、重っ!」

「はっはっは、当たり前だ。鎚で熱い地金を叩いて強く鍛えるんだ――そりゃ軽いわけがねぇ。両足開いて、腰おろして槌を打て」


 レオナは言われた通りに構える。鍛冶場の床が熱く、頬に汗が伝う。


「ニコル、もっと炭と空気を。火力だ」

「はいはい、ノッてきました?」


 ニコルが笑いながらも手際よくふいごを踏み、コラール村の特製炭をくべ直す。ゴウ、と火床がうなりを上げ鉄の芯までがさらに赤く染まっていく。


「あぁ、今日はいい具合だ」


 二人のやり取りは、まるでお互い火と鉄の気持ちを正確に読み合っているようだった。きっと何十年も一緒に火を見てきた、そんな“呼吸”である――レオナはその光景に目を奪われていた。


「なんかすごい。鍛冶って、“打つ”だけじゃないんだ」

「あぁそうだ。――じゃあ打ってみるか。いいか振るんじゃねぇ。槌は上から下へ“落とす”ように。腕で叩くな、腰で打て」

「……“落とす”?」

「そう。槌の重さで落とし、打つんだよ。自分の力を無理に押し込もうとすんな」

「はい、がんばります!」


 レオナは息を整えて、鎚を構えた。


 そして、えいっ――!


 カァン、と甲高い音が鳴った。狙いは少し外れて火花がばらりと跳ねる。


「惜しいな。狙いが上ずった。肘、引くな。腰、残せ」

「も、もう一回……!」


 すぐに次の一打を構えるレオナ。汗が髪に張り付き、目の奥が真剣に光っていた。


「よし、打て!」


 ――ガァン!


 今度は芯を食った音が響いた。鉄が凹む。火花が高く弾ける。

 ゲオルグがにやりと笑った。


「……いい音だ。お嬢、悪くねぇ」

「ほんとに……私の力、ちゃんと伝わった……?」


 レオナの頬に、火の粉とは違う紅が差していた。


 *


 火床から吹き上がる火柱と煙突からもくもくと立ちのぼる白煙。職人街の通りを歩いていた親方たちが、次々と足を止める。


「おいおい、あれゲオんとこじゃねぇか? 火ぃ焚きすぎだろ、火事じゃねぇよな?」

「いや待て。トンテンカンって……なんかリズミカルに鳴ってるぞ?」

「なんだなんだ? 面白そうだ、見に行こうぜ」


 ぞろぞろと職人たちが集まり、ゲオルグの工房の前に人だかりができ始める。その職人の目にはゲオルグの工房の奥、火花を撒き散らして鎚を振るっていたのは少女だった。無駄のない動きと、すらりと伸びた体躯が目を引いた。火照った顔のまま、少女は笑顔で鎚を振り下ろしている。


「は? なんだあの子?」

「おいおい、ゲオが弟子でも取ったのか!?」

「いや、女の子だろ!? あのゲオが!?」

「見ろよ、ちゃんと芯を打ってるぞ……スジは悪くねぇどころか、結構イイぞ!」


 その騒ぎの中、ひときわ声の大きな男が前に出る。浅黒い肌に短く刈った白髪。胸元には「鉄鋲屋カラン」の刺繍入りの革エプロン。


「ようよう、ゲオー! 火事かと思ったら、えらく景気いいじゃねぇか!」


 ゲオルグは鎚を握ったまま、ちらりとカランを一瞥する。


「うるせぇカラン……黙って見てろ」

「へいへい。けどなこの嬢ちゃん、なかなかのもんだぜ! 俺んとこにくれよ、嫁ッ子と代わってくんねぇかなあ!」


 その発言に、すかさず後ろから別の親方が笑いながらツッコむ。


「カラン、おめぇなんかにこのお嬢はもったいねぇ、古女房でがまんしろ!」

「そりゃあ鉄鋲屋だもんなあ」「そっちの方が火花散りそうだわ!」

「さっきの夫婦喧嘩、鍛冶よりすごい音立ててたな!」


 工房の外には親方だけでなくいつの間にか子供や通りすがりの町人まで集まりはじめていた。


「すげぇー!」「お姉ちゃん、火の中で戦ってる!」


 そんな声に、レオナは一瞬手を止めて恥ずかしそうに振り返る。けれど次の瞬間、小さく笑って、また鎚を構えた。


「よし、いくよ!」


 火と鉄の音に混じって、町全体がほんのりあたたかくなっていくようだった。


 *


 キュリクス領主館の通用門が、バンッと大きく開かれた。


「報告ッ! 職人街にてレオナ様らしき人物を発見! ただちに保護、搬送中!」


 伝令の声が飛ぶ。


「場所は?」

「中央工房街の第三区画です。煤まみれの女性が槌を振っていたとの証言あり!」

「それ以上の特徴は?」


「長身、金髪を黒っぽく染めた長い髪、名前の一致です!」

「確保しなさい!」


 ユリカが手袋を締め直し、靴音を響かせて駆け出す。


 数十分後、領主館の門前。

 斥候隊の護衛に囲まれて、一人の若い女性がしずしずと連れてこられた。


 すらりとした体格。作業服。肩から下がる工具袋。煤で黒くなった頬。

 だが、よく見れば――どこか、雰囲気が違う。


「……あれ、この方」


 トマファが困惑した声を漏らす。女性は立ち止まり、やや目を泳がせながら控えめに口を開いた。


「えと――ここって領主館、ですよね? あの、私はどうして兵の方々に囲まれているんです? いまから何かされるんでしょうか?」


 ユリカが一歩前に出て、凛とした声で問いかける。


「名を名乗りなさい」


「えっ……はい。私、レオナ・イヴァチョフと申します。あの、船大工の仕事をしていまして……」


「船大工?」


「はい、イヴァチョフ造船所の三女で、小型ボートや桟橋などを専門にしてるんです」


 その場が、静かに凍りついた。斥候隊の面々が全員、じわじわと顔を青くする。クラーレが片手で額を押さえてため息を吐いた。


「完全に人違いですね。名前だけで捕まえるから……」


 トマファが小さく頷く。


「我々のレオナ様とは似てませんね。まぁ身体的特徴と名前しか情報がなければこうなるとは思ってましたが」


「はああああああ――! 本当にごめんねぇー!」


 ユリカが天を仰ぐと深々と頭を下げた。周りにいる皆も頭を下げる。


「あ、あはは。解放ですよね――では、し、しつれいします」


 *


 そしてその頃、実際のレオナは――


「よし、もう一回いくよ! そいっ!」


 火花の向こう、ゲオルグ工房で元気いっぱいに鎚を振り下ろしていた。


 *


「よし、今日はここまでだな」


 ゲオルグのひと声で鍛冶場に一息つく空気が流れる。火床の明かりはまだ赤く鎚もまだ温もりを残していた。レオナは両手で額の汗を拭う。額も頬も首も灰と煤で真っ黒だ。それでも、その顔には誇りさえ感じるいい笑顔だった。


「ふふ、お嬢さん。顔がすっかりまっくろさんね」


 ニコルがタオルを手渡し、きりりと冷えた水を差し出した。


「でも、いい顔よ」

「ありがとうございます……!」


 笑顔のままレオナはごくりと喉を鳴らす。冷えたお茶が、芯まで熱された身体がすっと冷やされる。


 そのとき、ゲオルグがひとつの地金を鍛錬台に置き、手にした小槌で叩くと“キンッ”と鳴った。高く澄んだ音が鍛冶場の隅々にまで響き渡る。


「――よく聞いてくれ。このキンッて音、澄んでるだろ。これは俺たちの気持ちが、鉄にちゃんと沁みてる証拠だ」


 ゲオの声は低いが、確かだった。レオナは未だ残響が残る空気を見つめるようにしばらく黙っていた。ニコルも静かに佇む。


「ほんとに、音が違う! ずっと聞こえるみたい」

「叩くだけが鍛冶じゃねぇんだ。その結果がこれだ。自分の気持ちを地金に預けるんだよ」

「そういうの、知らなかった。なんか育ててるみたい」

「そりゃ『鍛造』って聞くと鍛えまくってるって感じだろうが、実は叩いて叩いて育ててるんだよ」


 その言葉を聞いてレオナは静かに頷く。それを見守るゲオルグとニコルの視線は、どこか家族のような温かさがあった。


 夕鐘が響く。そうなると工房から鳴り響く槌の音は急に冷める。


「おーい、そろそろ上がりじゃねぇか! 酔虎亭、空いてるぞー!」


 そして騒がしい声と共に通りの向こうから親方たちが戻ってきた。カランが大きく手を振り、他の職人たちもわらわらと後に続いてくる。


「お嬢の初槌だ、乾杯しねぇと気がすまねぇ!」

「祭りだ祭りだー!」「今夜はツケで頼むぞ!」


 レオナが目をぱちくりさせていると、ニコルが笑った。


「じゃ、みんなで行きましょうか。職人の“いい一日”は、飲んで締めるのよ」


 ゲオルグも、煤けた顔で鼻を鳴らす。その言葉に、レオナはぐっと喉の奥が熱くなった。笑顔のまま、頭を下げる。



 通りを、職人たちの大行進が進んでいく。笑い声と灰色の作業服とたくましい背中。その中にうら若き少女が混じっていた。


「お姉ちゃーん! また来てねー!」


 子どもたちが手を振る。レオナも、煤まみれの手を振り返した。


 *


 領主館の作戦室では、いまだ緊張感のある空気が漂っていた。メイドたちが書類と地図を抱えて走り回り、クラーレが短く指示を飛ばす。そのなかでふとプリスカが呟いた。


「レオナ様、もしかして……ウチに飲みに行ってたりして?」


 その場の空気がぴたりと止まる。


「はあ? まだ夜の営業、始まってないでしょ?」


 クラーレが即座に眉をしかめて返す。


「いえ、もう夕鐘は鳴りましたし、冬場ですから昼営業と夜は繋いで営業してるんですよ――あと、この前、『心がブス』な方と来てた時、火酒をいたく気に入ってましたし」


 クラーレの顔が固まる、この前の事件でみんなで行った事、そしてレオナが深酒してた事を思い出す。そしてオリゴが静かに口を開いた。


「巡回隊、飲食街を確認させましょう。酔虎亭も含めて」

「ラジャ!」


 数分後。伝令が息を切らして駆け戻ってきた。


「報告ッ! 酔虎亭にてレオナ様を発見――鉄鋲屋のカラン親方らと乾杯中です!」

「えええええええっ!?」


 クラーレが額を押さえ、プリスカが満面のドヤ顔を浮かべてガッツポーズした。


「ほらぁ〜、言ったでしょ〜!」


 オリゴが涼しい声でつぶやく。


「今後、レオナ様の“お出かけ”には、捜索隊と通信班の即応体制を常備しましょう」



 一方その頃――


「叩けば応える、飲めば笑える、燃やせば鉄も人もあったまる! 今日は叩け、明日も叩け――最高の鉄火ができました!」


 髪の毛は毛先がちりちりに焼け、煤と汗まみれの顔でレオナや職人たちは満面の笑みでジョッキを掲げ歌っていた。酔虎亭の空気がひときわ熱く沸き立ち、笑いと酒が夜を焦がしていった。




 乙種捜索宣言から5時間。レオナ無事確保――。

 その後、ヴァルトアからものすごく叱られたという。


 *


 執務室の空気は静かだった。壁際の暖炉は橙の火がぱちぱちと燃え、細やかな火の粉が天井へ昇っていく。大窓には重たい冬のカーテン。夕方の陽はほとんど差さず、部屋の明かりは暖炉の火と幾つかのランプのみ。そんな柔らかな灯りのなかソファに沈み込むように腰かけたヴァルトアの表情はどこかぐったりしていた。


 向かいのテーブルでは、車椅子に乗ったトマファが、几帳面に折り目を揃えた報告書を静かに差し出している。その傍らにはメイド服に身を包んだオリゴが立ち、火の明かりを受けて影のように控えていた。


「とまぁ、これがレオナ殿の迷子事件のあらましです――なお、金属加工ギルドの長から『あの姉ちゃんは大目に見てやってくれ』という直筆の陳情が届いております」


 トマファの声は丁寧で冷静だがその内容はどこか場違いなほど緩い。報告書を受け取ったヴァルトアは重く息を吐いた。額を押さえ報告書ではなく自分の目頭を拭うような仕草で嘆息する。


「当直の兵、ほぼ総動員で大捜索だったからな。これで間諜でも紛れ込んでたら王宮でどんな噂が立ったことか」

「良いじゃないですか。バカ騒ぎしていた方が王宮はこんな片田舎、気にも留めませんよ」

「言うようになったな、お前も」

「失礼――有事に対して良い訓練になったと思います。情報が錯綜したとき、通信隊をどう使うかの実践となったと思えば――ところで一つ提案があります」


 トマファは車椅子の背から一つの封筒を取り出した。


「当家の文官の事務処理能力は現在過剰です。僕やクラーレさん、レオナ殿の三人が居れば午前中にすべての業務が処理できてしまいます。それでしたらレオナ殿に午後から『社会経験の一環』としてゲオさんたちのとこの鍛冶屋に通わせてみたらいかがでしょう? 本人もイキイキしてますし、向こうのギルドさんも彼女に対して好意的です。領主館との顔つなぎにもなるでしょう」


 封筒には、閑散期の文官配置と技能交流による領内結節強化案と書かれた提案書が入っていた。その提案書をぱらりとめくったヴァルトアは、しばし唸る。


「ただなぁ。レオナ殿、また迷子になるだろ?」

「はい、なりますね」


「――わかった。当面はメイド隊から一名、護衛名目で見張りにつけるか」

「そうですね、賛成です」とトマファ。

「オリゴ。キュリクスの地理に明るい人員は調整できるか?」

「大丈夫です」


 というわけで、レオナは嬉々として鍛冶屋へ通う日々が続いた――。ただ見張りのメイドは必ず一名同行。服は煤と火花で焼け焦げるため丈夫な木綿製の特製作業着が支給された。



 そして作業着の背中には、金の刺繍でこう縫われていたという。


『彼女を街中で見かけたら、近くの衛兵にお知らせください』

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