51話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・2 =幕間=
かつては王家の威信、民の統一、未来への希望を象徴したエラール王宮──
その堂々たる城砦は今や呪われた遺跡のように沈黙をたたえていた。
正門に立つ衛兵たちは生気を失い、風に翻る王国旗はその色を褪せ、むなしく空に泳ぐ。長き戦乱を終えたはずの王政は、腐臭と沈黙に覆われていた。佞臣たちが跋扈し、忠誠は金で買われ、賛辞の言葉には魂がなかった。
現王クセナフォンは、朝議の場から姿を消して久しい。
奥宮では胡乱な神託に耽溺し、佞臣と御意見番気取りの太鼓持ち、贅を尽くした遊女たちに囲まれた退廃の中で暮らしていた。昼は昼で終わることのない宴、夜は夜で終わらぬ瞑想と享楽の淵に沈み、現実の政務にはまったく関与しようとしなかった。
その実、王政の運営は側近であるノクシオス卿に丸投げされており、彼とその取り巻き――通称「ノクシィ一派」――が実質的な国政の支配権を握っていた。ノクシオス卿と彼を頂点とする派閥――通称「ノクシィ一派」――は、宮廷内の有力者たちを抱き込み、反対者を遠ざけ、国政を私物化する体制を作り上げていた。
そのノクシィ一派は有能であるよりも忠誠と沈黙、そして袖の下の額を重んじた。政務会議では忖度と空虚な賛辞が飛び交い、重要な報告書は袖の下の軽重で破られる。異論を唱える者は左遷や失踪に追い込まれ、都から消えていった。
キュリクス地方を治めることとなった子爵ヴァルトア・ヴィンターガルテンも、ノクシィ一派に迎合せず、さらに時代錯誤とも思えるほどの「前王への過剰な忠誠」が鼻につく存在だった。誠実な性格と正論での発言が仇となり、ノクシオス卿の進言によって「将軍の栄転」と称した左遷が行われたのである。
庶民や地方貴族の間では、「王太子の御代こそが救いである」という声が、地下水のように静かに湧き上がる。王都から遠く離れた地では、すでに王太子を支持する動きも見えはじめていた。腐敗した都の政治に辟易した一部の文官や軍人たちが、密かに政治的成功の兆しをみせるキュリクス地方の動向に注目しているという話もある。しかし、その王太子の姿は、王宮では久しく見られていない。
その“彼”は今、病気療養という名目で奥宮の一室に身を隠していた。
幼少期から「王太子」として育てられてきたその若者は、実のところ女性であり、成長とともに現れた身体の変化――とりわけ、女性らしい丸みを帯びた体つきは、もはや周りに隠しきれるものではなくなってきていた。 もともと背が高く、凛とした顔立ちだったため長らく誤魔化せていたが、十七を過ぎた頃からは自室にこもり、筋力訓練や矯正下着によって必死に“王太子”の輪郭を保とうと努めていた。 だが、ついに限界が来たのだった。
現在、奥宮の一角にある「その彼女」の居室には、乳母ラダミアと女官トレハの二人のみが仕えている。外部との接触は厳しく制限され、文書のやり取りさえ検閲の対象だ。奥宮にはノクシィ一派の「記録監察官」が常駐し、送受信される書簡や命令文はすべてその手を通して開封・抜粋される。王太子の筆跡すら控えられ、文字の癖から“誰に何を伝えようとしたか”を読み解くための専属係までいた。
ラダミアはかつて統一戦争で兵站と指揮を担った名将であり、前王の厚い信頼を受けていた女傑であった。戦後は結婚して名誉貴婦人の称号を与えられたものの、それでも彼女は地位や名誉をかなぐり捨てて王家への奉仕を選んだ。前王妃との間にも深い友情があり、その遺言を受けて、王太子の乳母として永く仕えるようになったのである。
奥宮内では「歩く軍規」「剣を棄てた武人」と呼ばれ、若手の女官たちからは一目置かれつつも時折息を呑むほどの緊張感を持って接されていた。強い口調と無駄のない動きから「怖い人」とも囁かれるが、それでも王太子の世話をする姿だけは誰の目にも柔らかい光を帯びて映る。
左目には深い刀傷を眼帯で隠し、その背筋は今も槍のように真っ直ぐだった。だが彼女の厳格さの奥には、王太子への深い愛情が見え隠れしていた。
かつて王太子が言葉を覚えた頃、最初に呼んだのは「母」ではなく「ラダ」だった。王太子の小さな手を引いて歩くラダミア、その後ろを静かに見守るトレハの姿は奥宮でも微笑ましい光景として知られていた。またある晩に高熱を出してうなされた王太子の額に布を当てながら、ラダミアは「私はそなたの槍であり盾だ。何者にも傷つけさせはせぬ」とそっと囁いたという。王太子はその夜のことを今でもしっかり覚えている。
一方のトレハは、黒髪の女官であった。
無表情で言葉少なく、所作のひとつひとつが研ぎ澄まされていた。控えの間では「感情のない氷の像」「笑わない月の影」と囁かれており、周囲からはどこか“怖がられている”存在でもあった。
もちろん勤務態度は優秀だったが、他者と交わらないその気質のため相対的な評価はあまり高くない。それだけに、なぜ彼女が王太子付きの女官となったのか奥宮の内外で疑問視されていた。本人もその経緯について一切語らない。それでも王太子とラダミアの側に常に控えるその姿は、宮中でも特異であり、三人だけの空間に差す“微かなぬくもり”を静かに象っていた。
トレハは誰もいない時、王太子のことを「あなた」と呼んだ。それは敬称でも親称でもなく、彼女にとっての“揺らがぬ距離”だった。名を呼べば情が入りすぎ、称号を使えば嘘になる。だから彼女は、あえて中庸の言葉を選んだ。
幼い頃、王太子がふと「“あなた”と呼ばれるの、好き」と言ったことも、そのままの呼び方を続けた理由のひとつかもしれない。トレハにとってその言葉は感情を交わす唯一の許可のように響いていた。ただ、王太子がうっかり「お姉ちゃん」と口にしてしまうと、「私は私です」と静かに叱る。その言葉の裏には、二度と会えぬ妹の面影が滲んでいた。
奥宮の小庭で三人が囲碁を打つことがよくあった。王太子は白黒の石を五つ並べるのが好きで、勝敗にはあまり頓着しなかった。むしろ二人と盤を囲む事を好んでいたようにも見受けられた。逆にラダミアは一手一手が真剣そのもので、無邪気に石を打つ王太子に「そなたが国を治めるなら、この盤上で詰んではならぬ」と咎めるのが常だった。
その日も王太子が無警戒に石を置いた瞬間、ラダミアがため息まじりに「また詰んだわよ」と呟く。その言葉に涙を浮かべる王太子の横で、トレハがぽつりと「王は盤に立ちませんよ」と返したとき、ラダミアは思わず吹き出した。珍しく三人が同時に笑った静かな午後だった。石の音だけが小庭の空に穏やかに響いていた。
奥宮の静けさとは裏腹に、王都の政務官たちの間では、奇妙な噂がささやかれ始めていた。
「王太子殿下は重い病に伏され、政務どころか立つこともままならぬらしい」
「後継について、水面下で“調整”が始まっているとか……」
誰が言い出したのかは定かではないが、出所は必ずと言っていいほどノクシィ一派の周辺だろう。そして噂に紛れて、ひとつの名が慎重に、だが確実に繰り返されるようになっていく。『前王のもうひとりの子』──レピソフォン侯爵。
その名を聞いて眉をひそめる者は多かったが、時代が動く予感は、すでに城内の空気を濁らせつつあった。
彼――レピソフォンは若い頃、ヴィオシュラ学院では“問題児”の名をほしいままにしていた。留学生という立場でありながら講義には滅多に顔を出さず、来ても授業中に勝手な演説を始めたり、実技演習では教官の指示を無視して指揮を執ろうとしたりと問題行動に事欠かなかった。教師には「口より先に命令が出る」とこぼされ、同級生からは腫れ物のように扱われていた。
定期試験の前には、優等生だったトマファに「ヤマを教えろ」と絡み、懇切丁寧に要点を説明されたにもかかわらず、翌日には「カンニングを手伝え」と言い出して拒絶されている。さらに女性同級生ハルセリア・ルコックがトマファと親しげにしているのを見て逆上し、暴力事件を起こすという決定的な問題をも引き起こした。これも王宮からシェーリング公国に官僚を遣わせて政治的にもみ消している。それに疑念を持ったハルセリアが公国と学院に対して法的に抗議したところ、『好ましからざる人物』を宣言されて退学、国外追放となっている。
卒業後。彼は自らの存在感を誇示しようと王都近郊のロムド山地で行われた冬山演習に無断同行。しかし物見遊山のつもりで勝手に付いてきたくせに『寒い』って理由で師団長から勝手に指揮権を奪い、撤退命令を出したことで伝達系統が完全に崩壊。――結局、六十余名の命が吹雪の中に消えた。その中には、凍傷で下肢を失いながらも生還した者もいたが、部隊長は責任の重さに耐えかねて自ら命を絶った。痛ましさと後味の悪さだけが、山に残された。
この事件について調査委員会から問われても「天候が悪かった」「俺に逆らった者が悪い」と平然と言い放ち、反省の色は一切ない。それどころか、今では「俺こそが真の王にふさわしい」と吹聴して回っている。
そして今、ノクシィ一派の金権体制に疑問を抱く者や、派閥からあぶれた若手貴族たちに甘言を囁き、『新たなの旗』を掲げようとしていた。王太子は病床にある。今こそが簒奪の機と見ていたのだ。自らに従う若手貴族を酒と女で囲い、取り巻きと共に王宮に笑顔で出入りするその姿を見て、多くの官僚が嘆息した。中でも優秀な者ほど「もう終わりだ」と口にして、次々と下野していったという。
その取り巻きの中には、かつてヴィオシュラ学院で「バカ王子の太鼓持ち」として悪名を馳せたカルビン・デュロックの姿もあった。レピソフォンに対しては「殿下のご慧眼、驚嘆の極みでございます」と平伏しながら、裏では「こいつが王になれば俺は宰相」とほくそ笑む、三流貴族の打算家である。
だが――まだ、王太子は生きている。
そして、ラダミアとトレハの二人は、その命を守るために、静かに、しかし確実に準備を進めていた。
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