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45話 武辺者、間諜の扱いを決める

 キュリクスから南に馬車で一昼夜走ったところにある国境の町・サキーヤ。


 草むらと共に揺れる二国の王国旗がはためく国境の門——その向こう側がロバスティア王国、こちら側がキュリクスを含む王国領である。門前に立つふたりの衛視を前にして儀式用の文官服に身を包んだクラーレは真顔で一歩進み出た。


「法に基づき不法入国者の身柄をロバスティア王国へ返還致します。身柄引渡書に署名を願います」


 トマファ直筆の手続きマニュアルを片手に儀礼に則った宣言をする。クラーレの隣には護衛の武官アニリィと静かに背筋を伸ばすカボチ。手枷もない彼女の姿は堂々としてさえ見えた。


 ロバスティア側の衛視ふたりは、どちらも武骨で無精髭まじり。制服はしわくちゃで袖のボタンも一つ外れかけており、まるでだらしがない。立ち姿にも緊張感はなく、ダラリとした背筋がその国の威信を物語っているだろう。クラーレはその様子を冷めた目で見やると書類を差し出した。片方の衛視が無言で書類を奪い取り、もう一人がにやにやと品定めするような目つきでカボチを眺めていた。生理的に不愉快、クラーレはそう思った。


「ふん。不法入国者一人の護送か。わざわざご苦労なこった」


 衛視は書類を碌に確認もせず雑な字でサインを走らせる。それを見てクラーレはカボチに軽く耳打ちするとロバスティア側にそっと押し出した。にやけ顔の衛視がカボチの肩を乱暴に掴み、さらに膝で軽く小突くように足蹴にしてロバスティア領へと受け入れた。


「――」


 クラーレは目を細めたが、すぐに平静を保ち、声の調子だけを低くした。


「そちらにとっては、たかが不法入国者の引き受けかもしれませんが――その扱い、礼儀にかなっているとは到底思えません。まさか、それが“法治国家”の正式な対応というわけ?」


 にやけ顔の衛視が顔をしかめて振り返る。


「ぁん? うっせぇな、内政干渉すんな――ブス」


 アニリィの眉がぴくりと動き、口元が歪む。声は出さずとも殺気を隠す気はないらしい。手が柄に触れかけ——た時、クラーレがすぐに一歩進み出てアニリィの手首を軽く押さえた。


「やめておきましょう。武官が剣に触れたとなればこちらの非にもなりかねません。――行きましょう、アニリィ様。国際儀礼に従い、こちらはすでに責任と義務を果たしました。あとは、余計な火種を残さないことです」


 クラーレは衛視から書類を引ったくるように受け取り、署名の確認をする。そしてギリリとにらみつけたあと踵を返した。アニリィも派手に舌打ちするとロバスティアの衛視たちに一瞥だけくれ、黙ってクラーレの後を追った。そしてふたりは静かにサキーヤの町を後にした。


 その二人の後ろ姿を、衛視らに連行するカボチは一度立ち止まると深々と頭を下げて見送った。

 ――あなたたちの温情に、心から感謝します。


 誰にも届かぬ想いを胸に、カボチは静かに深々と一礼を捧げた。


 *


 領主館別館一階。

 小さな取調室に差し込む朝の光が、机上の書類を淡く照らしていた。トマファは一枚の尋問記録様式を整えると、椅子に浅く腰を下ろして前に座る女を見つめた。


「本日は国際刑訴法第198条に則って、私、トマファ・フォーレンが尋問し、アニリィ・ポルフィリが書記として立ち会います。黙秘はあなたの権利ですが、そうすることでこちらが行う“推論的記述”も裁判資料として扱われる可能性があります。その点をご理解ください」


 女の名はカボチ。拘束されてはいるが手枷も足枷もつけられていない。椅子に腰掛けた姿勢は静かで、どこか誇りすら漂わせていた。


「了解しました。まずは何をお話しすればよろしいですか?」


 拍子抜けするほどの素直な返答にトマファの眉がわずかに動く。


「では、名前、生年月日、出生地から。順にお願いします」


 そこからカボチは生い立ちを語り始めた。ロバスティア王国の商家の娘として生まれ、初等学校を出たあと徴兵制度により一年間の軍務。復員後に結婚し、息子を授かったが、夫は旅商いの途中で別の女と消えた。

 生活は徐々に困窮し、最後に受けたのが『話を聞くだけ』いう曖昧な仕事だったという。


「依頼内容は、キュリクス領主館に潜入してどんな話をしているか聞いてこいでした」


 トマファが目を細める。


「――」


「領主の執務室でどのような話をしているか、どんな政策方針か、年貢の扱いはどうするか。とにかく『話を聞いてこい』という指示だったので、私はそのまま、耳に入った情報をできるだけ持ち帰るつもりでした。あわよくばメイドとスケベしてるようなゴシップでもスキャンダルでも、何でもいいから持ち帰れという含みだったと理解しております」


 カボチはトマファの目を見たままよどみなく応える。トマファは相槌を打つことなくカボチの話を聞き終えると静かに訊いた。


「それで、諜報活動はうまくいきましたか?」


「いえ、全く。盗聴用だと言って渡されたのは、漏斗にホースを付けたような粗末な伝声管の作り方の紙だけ。特別な訓練もしてないのに現地調達で何とかしろ、でした。それにメイド服が支給されましたが、尋問官もご存じでしょうが私が着ていたのがそれです」


「――まさか、あれで?」


「ええ、この領主館でメイドに“成りすませ”と。素人目にも不自然なほど雑な縫製の服で、所属章も滅茶苦茶。やる気があるのかないのか……正直、最初は冗談かと思いました」


「中途半端な間諜指示ですね」


「わたし一人なんかの成果、期待していたわけではないのでしょう」


「というと?」


「誰でもいいんです。“適当に撒いた駒のうち、どれかが情報を持って帰ればいい”──たぶん、そういう作戦だったのだとでしょう」


「つまりあなたは、ばら撒いた“草”の一つだったと?」


「でしょうね。――でも、だからこそ“失敗しても死刑にはならない”程度の任務だったとも言えます」


「報酬は?」


「私と息子が冬を越せるだけの現金と、『うまくいけば、帰国後に仕事を世話することも考える』という口約束だけでした」


 少しだけ鼻で笑いながら、カボチは肩をすくめた。


「まあ、信用はしてませんでしたけど。それでも、一回くらい、賭けてみたくなるくらいには困っていたんです」


 トマファは机の下で静かにメモを取った。


「――っ、ひどい」


 微かな嗚咽が部屋の隅から漏れる。トマファが振り返ると、尋問書記を務めていたアニリィが手元の記録用紙に震える手で筆を走らせていた。肩が上下し、鼻をすする音を時折響かせている。


「そんな人生――あんまりじゃないですか」


 トマファは言葉を失った。尋問するたびに洟を啜るアニリィに少しため息を付いた。




「本日の尋問は終了です」


 一通りの尋問を終えてトマファが終了を静かに宣言すると、カボチは最後まで静かな口調を崩さず一礼して席を立つ。取調室に入ってきた衛兵にカボチの身柄を引き渡す。そしてその背を見送る間、アニリィは涙をこぼしながら筆を握りしめたまま書き続けていた。


 *


 翌日、再び取調室。


 カツン、カツンと規則正しい靴音を響かせて現れたのは漆黒のメイド服を纏った一人の女だった。ヴィンターガルテン家のメイド長、オリゴである。冷ややかな目元と完璧な所作。柔らかな声色ながら、その威圧感は否応なく取調室の空気を緊張させた。その後ろから昨日と同じくアニリィが筆記官として入る。


「本日は私が担当いたします。質問事項はすでに整理されておりますので、順にお答えください」


 椅子に腰かけたオリゴは資料に視線を落としながら問いかけた。カボチはまっすぐにオリゴを見返し小さく「はい」と言って頷いた。


「まずあらためて確認します。あなたはロバスティア王国の国籍を有し、住所もこちらで間違いありませんか?」


「はい、間違いありません」


「ロバスティアで仕事を紹介され、キュリクス領へ不法入国して諜報活動をした。間違いありませんか?」


「はい、そうです」


「潜伏期間中、誰かと接触しましたか?」


「いいえ。私はあくまで『話を聞いて報告するもの』と理解していましたので、誰とも接触しておりません」


「では、この証拠品の伝声管を使って盗聴はしていましたよね?」


「……はい。けれど正直なところ、あの粗末な道具で聞き取れることなどほとんどありませんでした。文官執務室で経済学や法学の質問をする女性と、それに淡々と答える男性の声――昨日の車椅子の彼の話と、メイドの雑談しか聞き取れませんでした」


 確かに床の点検窓に繋がっていた伝声管はメイド控室と文官執務室だった。オリゴが試したところ、聞き取れはするが情報収集に役立つ場所に設置したかと聞かれれば疑問だろう。まぁ領主ヴァルトアの執務室に取り付けようものならアルラウネのカミラーに感づかれてもおかしくはない。

 オリゴは手元の書類をぱたんと閉じると、真正面からカボチを見据える。


「あなたがここで語っている事は、あなたの今後の扱いを左右します。命運に関わると理解して、あらためて伺います。——これまでの供述は、すべて事実ですか?」


 カボチはわずかにまぶたを伏せてから、毅然とした声で答えた。


「すべて、本当です」


 数秒の沈黙ののち、オリゴはほんのわずかに口元で笑った。


「スパイの尋問には拷問をちらつかせることは国際的に認められています。……怖くはないのですか?」


「正直に言えば、怖いです。だからこそ、先に全部お話ししました」


 その日の尋問調書にはこう記された——。


《被疑者は尋問に対し終始協力的であり、供述内容は初日の調書と一致。矛盾点なし。尋問官による心理的圧迫の試行あり》


 ただし、書記を担当したアニリィは一文を付け加えてしまう。


《オリゴ様が“拷問をちらつかせて”自供を引き出そうとした》


 *


 尋問最終日。

 アニリィ・ポルフィリは尋問官として取調室に入室した。いつも通り張りのある元気な声で自己紹介し、机に座ったが、鼻頭はすでに少し赤い。そして泣きはらしたのか目頭も赤くなっていた。


「えーと……では、お聞きします。息子さんは今、何歳ですか?」


「今年で七つになります」


「そっかぁ……七つ……っ」


 ——第一問から、もう無理だった。既に目頭を押さえ始めるアニリィ。筆記を担当していたトマファがちらりと目を向けたが、特に言葉を挟まず書き続ける。


「その、あの、言いづらかったら黙秘――して。旦那さんは、どうして――?」


「行商中に他所の女性と暮らすようになったと聞きました。残されたのは書き置きと離婚届だけ。タンスに入れてあった婚約指輪とへそくりは持ってかれました」


「えっ、うぐ……ひ、ひどい! それひどくない!?」


 アニリィは憚ることなく鼻をすすり、ハンカチを取り出して涙をぬぐう。カボチは少し困ったように視線を落とした。


「いえ、私が不運だっただけです」


「いえ、悪いのは国であり、男であり、運命であって……っ、あなたじゃない!」


 トマファは思わず手にしていたペンを置き、眉をひそめた。

 カボチは目の前の尋問官が声を上げて泣いている光景に言葉を失い、ぽかんとした表情を浮かべる。

 尋問官、被疑者、書記役——三者三様に言葉を失い、室内にはアニリィのしゃくり上げる声だけが響いていた。


「でね、その……ロバスティアも冬、寒いじゃないですか。あの、夜は――どうしてたんです?」


「薪を買うお金もありませんでしたので、息子と家じゅうの服を重ね着をして、一枚の毛布に包まって寝ました」


「やっ……やめて……っ、そういうの……! 一番だめなやつぅぅぅぅ!!」


 アニリィはついに机に顔を伏せ、しゃくり上げながら泣き崩れた。

 ペンを放り投げたトマファが、一瞬、口を開きかけて黙る。

 カボチは椅子の上で姿勢を正したまま、何も言わず、ただアニリィを見つめていた。

 アニリィはなおも涙声で尋ねる。


「あの、うちの……エグッ――うちで拘束さ、されてるけど、ごはん、ウグッ、美味しいですか――?」


「あ、はい。お肉は半年ぶりに食べました。あと出される根菜とモツの煮込みがいいですね。きっと息子が好物です」


「よがっだぁぁぁぁ……!」


 筆記を再開したトマファは、淡々と記録欄に一文を記す。


《尋問官は情緒不安定のまま、被疑者と対話を進めた。供述は終始一貫しており、記録は感情的だが虚偽は見られない》


 部屋には、泣きじゃくるアニリィと、静かに見守るカボチと、呆然とするトマファだけが残された。



「そうだ!――ちょ、ちょっと待って! ねぇ、尋問中だけどちょっとタンマ!」


 訳の分からないことを言い残すとアニリィは取調室を飛び出していった。トマファとカボチは顔を見合わせる。


「……あの人、どこへ?」


「さあ……いつも情緒不安定な人ですから」


 しかし、尋問中に女性の被疑者と男性の筆記官だけが密室にいるのは非常に好ましくない。トマファはすぐに外の詰所へ伝令を出すと、女性衛兵を呼び入れた。


「一応、監視役としてここに座っていてください」


「了解です。……でもアニリィ様、どこ行ったんです?」


「僕が判ると思います? プリスカ君なら判るかもしれませんが」


「――ですね」


 誰も分からない。

 三人は少し間を置いて、自然と雑談を始めることになった。


「夜中、留置場は寒くないですか?」

「いえ、寒いと伝えたら清潔な毛布をたくさん貸してくれました」

「そういえば! 食物アレルギーの有無を聞いてませんでした!」

「あ、何でも食べますよ」

「メイド服、あれ本当に支給品だったんです?」

「まるでコ●カフェのそれですよね」


 笑いは起きなかったが、緊張は少しだけ和らいだ。



 小一時間ほど経ち、アニリィが元気よく取調室に現れた。手には灰色の石板のような物体。表面には手のひらの型と古代文字のような線が刻まれ、端には赤い小さな(パイロットランプ)が埋め込まれている。


「じゃーん! 持ってきました! 嘘発見器!」


 トマファがペンを止めて眉をひそめる。


「……それ、冒険者ギルドの備品の魔導具ですよね! 取調べで使うのは法令違反ですよ」


「大丈夫ですっ! 尋問は取調べじゃありませんからセーフですっ!」


 何が大丈夫なのか分からない理屈を押し通し、アニリィは石板をカボチの前に置いた。


「手をここに置いてください。嘘をつくと、ここの赤いランプがピコピコって光る仕組みなんですよ!」


 カボチは苦笑しながら石板に手を置く。


「では質問します。あなたの名前は?」


「カボチです」


 ――ランプ、点灯せず。


「ロバスティア王国の間諜としてキュリクスに潜入しましたか?」


「はい」


 ――点灯せず。


「供述内容はすべて真実ですか?」


「ええ、すべて」


 ――点灯せず。


 沈黙が落ちた。石板は何も反応を示さない。


「……壊れてるんじゃ?」とトマファがぽつりとつぶやく。


「じゃ、試してみましょう。カボチさん、わざと嘘ついてもらっていいですか?」


 カボチは少し考え、真顔で言った。


「私はロバスティア国王の隠し子です」


 ピコピコンッ! 赤いランプが瞬時に光る。


「ふふっ……実は火を噴けるんです」


 ピコンピコン!


「私、()()が付いてます!」


 ピコンピコンピコンッ!


「さ、最低だなッ!」


 トマファが顔を真っ赤にして視線を逸らすと、女性衛兵が面白がって身を乗り出した。


「これ、私の彼に使ってみていいですか? ――結婚する気、あるのって」


 冗談めかしてそう言った女性衛兵に、アニリィが即座に食いついた。てか、女性衛兵、まだ居たの?


「キャー! それ絶対やった方がいいって!」


 騒ぐ二人を見て、トマファが眉をひそめる。


「遊んでるんじゃないんですよ! これは尋問です、尋問!」


 カボチはと言えば、石板に手を置いたまま、ぽかんと目を丸くしてそのやり取りを見ていた。

 アニリィがぱっと明るい顔をして言った。


「ほら、ちゃんと反応しますよ! ね、昨日一昨日の尋問で本当のことしか言ってないんです、カボチさん!」


 トマファは腕を組み、ゆっくりと車椅子に深く沈み込みながらつぶやいた。


「被疑者がこれだけ素直に語ってくれたら、どれだけ楽だろうか」


 *



 取調後、執務室に集められたのは、トマファ、オリゴ、アニリィ、スルホン、そして領主ヴァルトアだった。調書を机に出したトマファが、深く息を吐いて切り出す。


「問題が発生しました。この調書を元に裁判をかけるには、少々厄介な瑕疵が混じっていまして」


「何の話だ?」とヴァルトアが眉をひそめる。


 トマファは、調書の一節を読み上げた。


「尋問官オリゴが、心理的拷問をちらつかせたことにより、供述を引き出した……二日目の調書のこの一文です」


「……それ書いたの、誰?」と、オリゴがアニリィを睨む。


 アニリィがそっと手を挙げる。「私です。だって、ちらつかせてましたし……」


「なんだ、どこが問題なんだ?」


 ヴァルトアが腕を組み、ふぅと嘆息する。


「つい先月、王宮は“対間諜尋問における非暴力条約”に署名しました。つまり、物理的拷問はもちろん、“ちらつかせたり匂わせたりすること”も明確に禁止されたのです」


 それを聞いた瞬間、オリゴの表情が青ざめる。


「申し訳ありません、勉強不足でした」


 オリゴは深く頭を下げる。


「まぁ仕方ないですよ。ついこの前、新聞報道でたった2行ほどしか書かれてませんでしたし、その件に関する王宮からの通達すらこちらに届いてません」


 トマファはそう言うと車椅子の背もたれに身体を預けて天井を見上げた。


「こんなもん、偽装するとか書き直すとかすればいいだろ?」


 スルホンが面倒くさそうに言うが、調書は三枚綴りで構成されている。カーボン紙を挟んで一度きりで複写される仕組みであり、原紙を修正したところで控え用の複写には同じ記録を再現できない。


 さらに問題なのは、三枚目の被疑者控えが既にカボチの手元に渡っていることだった。回収して差し替えれば不審がられるし、それこそ正式な記録操作として法に触れる。


「物理的にも制度的にも書き直しは不可能です」


 トマファは厳然と断じた。


「で、どうする? 手続き無効ってことか?」


「はい。このままでは裁判を継続することはできません。取調べ段階での不法行為が記録された以上、手続きの正当性が崩れ、無駄に時間を要するだけで大した罪に問えない――間諜に関する不法取調べに関する判例が実はあるんです」


 沈黙が落ちた執務室に、ぽつりと声が上がる。


「じゃ、不法入国者として当事者国に引き渡せばいいんじゃねぇか?」


 ソファにもたれかかっていたスルホンが、面倒そうに頭をかきながら言った。「留置するにも金は掛かるし、向こうで坊ちゃんが母ちゃんの帰りを待ってるんだろ? 母子を長く引き離すなんて酷なことはしちゃだめだ」


 そのあまりに軽く、雑で、しかしどこか優しさを孕んだ言葉に、アニリィの大きな瞳から涙があふれ出す。思わず机に拳を打ちつけて叫ぶ。


「そうなんですよ! かわいそうですよ! 子どもと引き離されるなんて――そんなの、絶対に……!」


 本当に激情家だな、とトマファは小声で呟くと、話を続ける。


「それが最も現実的です。亡命申請を促そうにも息子がロバスティアにいる以上、彼女は断るでしょう。心情的にも、物理的にも——それが手っ取り早いです」


 ヴァルトアはその言葉を聞いて短く唸り、重々しく頷いた。オリゴは調書を閉じ、静かに告げた。


「ヴァルトア様、ご判断を」


 ヴァルトアが椅子を軋ませながら立ち上がる。


「じゃあ、“国としての”処理はお前らに任す。あとは——本人の判断だ」


 *


 その日の夜。

 取調室でトマファはカボチと面会していた。机を挟んで向き合う二人の間には、静かな沈黙が流れていた。今回はメイドのマイリスを立ち会わせている。


「あなたの処分について領主閣下から正式に決裁が下りました。あなたを不法入国者としてロバスティア王国へ強制送還とします」


 カボチは静かに頷いた。


「――承知しました。温情あるご配慮に、感謝いたします」


 その礼儀正しい口ぶりにトマファは少しだけ眉を寄せると小さな包みを差し出した。


「これ、二重底のリュックです。中には書類が数点。あなたが『持ち帰った情報』のように見えるでしょう。もちろん虚偽ですが、提出すれば“それなりに評価されると思っております」


 カボチが目を見開く。トマファはその反応に微かに笑ってみせた。


「あなたの供述がすべて真実であると信じてます。はやく息子さんにお会いできるよう、そして多少の糧になることも含めてね」


「ですが、私が嘘をついてるとは思わないんですか?」


 カボチがいたずらっぽく笑いながら言った。その瞬間、後ろに控えていたマイリスが一歩前に出て、柔らかい声で応じる。


「あなたが捕縛された後、当館のメイドたちが身体検査を施した際、妊娠線があることを確認しました。そして、供述調書を元に領主館側でも独自に裏付け調査を進めました。……バンクス君の存在も、あなたが母親であるという傍証も、すでに確認が取れています」


 語調は淡々としていたが、その言葉の一つひとつが確かな温度を持っていた。


「これでも、あなたを信じない理由になりますか?」


 その瞬間、カボチの頬がかすかに震え、瞳が潤んだ。静かに顔を伏せ、一筋の涙が頬を伝った。


「あなたの誠実に対する、小さな手土産ですよ――ここから先は僕の“独り言”です」


 椅子に手をかけ、背を向けたまま、ぽつりと語り出す。


「あなたがもしロバスティアに戻り、息子さんを連れて再びここを訪れる決意があるのなら、これを使ってください。これは正規の入国許可証です。そしてその時は、僕らは『偶然にも』あなたたちが亡命希望者であると知るでしょう。出国手続きも許可証があれば国境衛視も無碍にはできませんよ」


 車椅子のポケットから一片の羊皮紙を差し出す。そこにはカボチとバンクスの名前と、短期滞在許可と書かれた入国許可証だった。


「僕の知り合い、このキュリクスの街にちょうど経理が出来る女性を探してるんです。あなたは商家の娘ですから簿記は出来るでしょうし、算盤の扱いも出来るでしょう。話していて判りますが、あなたは頭の回転も相当早いんですから、その気があるなら紹介状も書けますよ」


 カボチは唇を引き結んだまま、ただ深く一礼した。


「――あなたの『独り言」、しかと拝聴いたしました」


 *


 そろそろ冬の便りが届きそうな国境の町・サキーヤ。


 国境を隔てる門へと整えられた髪と靴で歩く母子の姿が向かっていた。ロバスティア側の衛視二人は、以前と同じ無精髭のまま、ダラけた背筋で手続きをさばいている。


「はいはい、入国許可証あンのね? はいはい、次ぃ……」


 碌に書類に目も通さず判を押し、衛視の前を通り過ぎた母子。そのとき門の向こうから儀式用の文官服を身に纏ったクラーレが歩み寄ってきた。


「カボチさんこっちこっち! そして、ようこそいらっしゃい、バンクス君」


 その声に、ようやく衛視たちは顔を上げた。


「おい。あいつら前に来てた無礼な女だろ?」


 にやけ顔の衛視が思い出したように口を開く。


「よぉブス、また来たのか!」


 門を通り過ぎた母子を見てアニリィが一歩前へ出るとバンクスを抱き上げた。


「あの、クラーレさん。亡命を希望したいんです」

「え?」「はぁ?」


 衛視二人は頓狂な声を上げる。しかしクラーレは衛視を見ることなく手大声を出した。


「亡命、亡命ですね?」


「はい」


 カボチは顔を伏せ、肩を震わせながら応える。


「ママ、どうしたの……?」


 アニリィの腕の中で、バンクスが不安そうにささやく。クラーレは静かに一歩前に進み、手にしていた書類を広げ、朗々と読み上げる。


「カボチ殿及び同行子息バンクス殿の政治亡命は、難民条約の庇護権に基づき正式に受理されました。本申請に基づき身柄は保護の対象とされ、威圧、拘束、侮辱のいかなる行為も国際規約に抵触する恐れがあることを——ここに通達いたします」


「おいおいおい、亡命って……あのババア、ロバスティアを裏切る気か!」


 衛視が声を荒げたその瞬間、クラーレはぴたりと指を立てて制した。


「保護対象者に対する暴言は国際規約に抵触します。これ以上続けるのでしたらロバスティア王国の出入国管理庁へ正式に抗議致します——それでもよろしければ、続けてください」


 衛視は唇を引き結び、何も言えずに顔を背けた。


 カボチは、ゆっくりとクラーレとアニリィの方へと歩み寄り、そして深々と頭を下げる。


「ようこそ、そしてお帰りなさい」


「うん。ここは安全だからな」


 クラーレとアニリィが笑って言うと、バンスクは訊く。


「ねぇ、またママと一緒に暮らせる?」


「もちろんだ。二度とママの手を離すんじゃねぇぞ!」


 国境を吹き抜ける寒風が草の匂いとわずかな土埃を巻き上げながら乾いた空を渡っていく。 その流れに紛れるように、誰にも届かぬほどの小さな声がただ静かに溶けていった。



「ありがとう、あなたの“独り言”のおかげでまた踏み出せそうです」

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