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43話 武辺者のところへイケメンが現れる・4

「私は、王になれない『一人娘』として生まれました」


 ソーテルヌのその声は驚くほど落ち着いていた。恥じるでもなく誇るでもなく。ただ事実として淡々と述べるように語る。


「生まれた時から王位継承法によって『女では王になれない』と決まっておりました。兄も弟もいない家で、私にはただ王国の看板として振る舞うことだけが求められました」


 誰も言葉を挟めなかった。グレイヴですら表情を崩すことなくじっと彼の――彼女の言葉を聞いていた。


「私はそれが嫌でした。王にはなれないのに王子として生きろと命じられる。それは何故か? 私が王女で王位継承権が無いと判れば、日和見な貴族共はあのレピソフォンを正当な王太子として担ぎ出すでしょう。前王からの系譜で継承権が上なのはあいつです。そして私の命も無事では済まないでしょう。――それなら逃げるしかなかった」


 ソーテルヌは指先で胸元の襟巻をゆっくりと整えた。それが喉仏を隠すための小道具だとバレてしまった今も、その仕草にはどこか優雅な気品が宿っていた。


「だから私は、ロバスティアへ渡ろうとしていたのです。――逃げるために、生き延びるために」


 最後に彼女は少しだけ目を伏せた。静かだけれどどこか決意を滲ませた沈黙が部屋を包む。しかしその沈黙を破ったのはヴァルトアだった。彼は静かに腰を上げ、ゆっくりと歩を進めながらソーテルヌの真正面に立った。


「――逃げることは、悪いことではありませんよ。殿下」


 その呼び名にソーテルヌがわずかに眉を動かす。だがヴァルトアは穏やかな笑みを浮かべたまま続けた。


「私やスルホンは、かの統一戦争でも何度も“逃げる”という選択をしてきました。逃げるタイミングが良かったから守れた命もあったはずです。戦うだけ、前進だけが道じゃない。逃げるのも生きるための戦いですよ」


 ソーテルヌは黙って聞いていた。その表情はもう微笑みではなかった。ただ真剣に向き合う眼差しだけがそこにあった。


「殿下、いや――ソーテルヌ殿」


 ヴァルトアはひと呼吸置き、はっきりと言った。


「この地で、キュリクスで、あなたが“ソーテルヌ”として生きる意思があるのなら――どうか我が家に仕えていただけませんか? もし殿下に火の粉が飛んできたとしても、我が領地の民であれば皆が命を懸けて守ります」


 決意にも似たその言葉に息をのむ音が誰のものかも分からないほど小さく響いた。


誰かに担がれるためでなく誰かのために名を貸すのでもなく、あなた自身の本当の名で意志で。人として生きる場所をここに決め、置いていただければと願います」


 それは決して『帰る場所』の提示ではなかった。『歩き出す場所』としての申し出だった。

 しばらくの沈黙ののち、ソーテルヌは口を開いた。


「――そんなふうに言っていただけるとは、思っていませんでした」


 声はわずかに揺れていた。それは感謝でも感動でもなく、長い緊張の糸がほどけたあとの戸惑いの残滓。


「殿下としてではなく、誰かの象徴でもなく――“私”として生きる場所」


 繰り返すようにそっとつぶやいてから静かにうなずいた。


「それなら少しだけ、甘えてもいいでしょうか」


 わずかに口元がほころぶ。けれどその笑みは、初めて見せた彼女の本当の表情だった。


「無論です、殿下」

「ただ、『ソーテルヌ』という名はこれまで幾度となく偽名として使ってきました。ひょっとしたら王宮が放つ密偵にも記録がある名前かもしれません。こちらに滞在を続けるならさすがに都合が悪くなるかと思います」


 そう言って、彼女はヴァルトアに視線を向ける。


「――新しい名で生きても、よろしいでしょうか」


 ヴァルトアはうなずいた。「えぇ、もちろん」とだけ。


「では今日より私は、この名で生きます」


 ほんのわずかに間を置き彼女はまっすぐ前を向いた。それは殿下でも王子でもなくただ一人の人間としての視線だった。


「――レオナ・ドリーヴと申します。以後、お見知りおき願えれば幸いです」


 その声は、よく通る美しい声だった。威光も悲壮もなかった。ただひとりの人間の意志としてその場に立った。ヴァルトアは微笑んで頷いた。スルホンもまた静かに片膝を立てたまま頭を垂れる。クラーレはまだぽかんとしたまま固まっていたが、やがて、ようやく一言――


「あっ、レオナさん……はい、よろしくです! え、えっ、なんか今、歴史の一幕みたいな場面じゃなかったです!?」


 彼女のその間の抜けた一言で、場に小さな笑いがこぼれた。ようやく沈黙は解けていった。


 *


 昼下がりの陽がカーテン越しに淡く差し込んでいた。トマファの部屋は静かだった。鳥の声も遠く遠くで風の音がかすかに聞こえる。彼は寝台に横になったまま目を閉じていた。けれど眠ってはいなかった。ただ目を開ける理由が見つからないだけだ。身体は動く、薬も効いている。それでも――気力が湧かないから起きられない。

 そんな彼の耳に、小さく戸を開ける音が届いた。


 「……トマファ君」


 クラーレの声だった。彼の部屋の扉を静かに開け、そして寝ている彼に近づいてくる。寝台の脇のスツールに腰を下ろす気配とともに小さなため息をつく。


「起きていらっしゃるのは、知ってます。寝たふりってけっこう分かるもんですよ」


 少しだけ意地悪を混ぜたような言い方だった。でもそれは彼女なりの優しさだった。


「私、あの時――あなたをちょっとからかおうと思って。あとソーテルヌさんの事、ちょっとかっこいいと思ってて、そして舞い上がってて。だけど本心をちゃんと伝えるのは苦手で。だからつい口が滑っちゃって」


 トマファは目を閉じたままだった。クラーレは膝の上でぎゅっと握った。履いていたスカートに皺が寄り、声はかすかに震えていた。


「でも――ごめんなさい。あなたを傷つけるつもりなんてなかったんです、本当に」


 少しの沈黙のあと、微かに布団の下から吐息の音がした。そのときだった。扉の向こう側から微かに「失礼しま〜す!」という声が聞こえたかと思うとがらり、と勢いよく扉が開く。


「ちょっと通るよ〜!」


 それはプリスカだった。手には温めたカップとたっぷり入ったティーポット。


「ほら、トマファ様! そろそろ起きないと夕方だよ?」


 しかしトマファは声を挙げることは無かった。静かに寝がえりを打つ。


「あとさ、クラーレちゃん。あなた、顔は可愛いけど心が()()だよね?」

「なっ……! ちょっとプリスカさん!」


 突然の暴言にクラーレは顔を赤くしてスツールから立ち上がる。プリスカは眉間に皺を寄せながら一歩前に踏み出すと、クラーレとの距離を詰める。


「もう少し素直になったほうが良いんじゃない? 人の心に土足で上がって、自分の心にも嘘をついて、そこまでやって心がブスじゃないんだったら、みんな聖人君主だよ!」

「――ッ」

「私ね、今のクラーレちゃん。大っ嫌い!」


 プリスカは一歩詰め寄ると、続けざまに吐き出すように言った。


「私は自分の心に嘘をつくのが嫌いなの。だから今、はっきり言わせてもらったの! これで私は終了!」

「――私は」

「はいはい、でもまずは、みんな紅茶!」


 そう宣言して、ずい、とティーポットを差し出すプリスカ。トマファの肩が、クラーレの表情がようやくぴくりと動く。そしてごそごそと毛布を手探りで押しのけるようにして、トマファは身体を起こした。まだ顔には疲れが残っていたがかすかに笑って言った。


「今日もプリスカさんの紅茶。飲みたいです」


そのときだった。またもや、こんこん――と扉の外から控えめなノック音。


「トマファさん。ご迷惑でなければ」


 聞き慣れない、けれど柔らかく凛とした声だった。扉が静かに開き、陽光の中に姿を見せたのは――

金の髪を束ね、淡い灰色の瞳に微笑みを湛えたレオナ・ドリーヴだった。野外任務帰りらしい簡素な軍務服姿に、白いスカーフが軽やかに揺れている。


「このたび、当家の文官として新たに着任いたしました、レオナ・ドリーヴと申します。――あらためて、ご挨拶に参りました」


 トマファはレオナの顔を見て目をしばたき、クラーレとプリスカも思わず跪く。しかしそれをレオナは手で制する。その所作は優雅だったが、彼女のその瞳はまっすぐにトマファに向けられていた。


「ヴァルトア様とオリゴ様からトマファさんのご容体のこと、そしてお身体の事情も伺いました。私の叔父――レピソフォンのせいであなたがこんな目に遭ったこと。――姪として謝罪いたします」

「――」

「謝って許されることではないと承知しています。ですが私は、家名も何もかも捨てて“レオナ”として生きることを選びました。そのことだけ……心に留めていただければと」

「レオナさん、顔を上げてください」


 トマファがゆっくりと言う。俯いたまま、言葉をひとつひとつ噛み締めるように。


「たしかに、レピソフォン様の顔が、あなたと重なって、胸がかきむしられる思いでした。でも、それは……あなたが悪いんじゃない。僕が、僕の心が弱かっただけです。僕は、本当に、ダメな人間なんです――」

「――ダメじゃないよ! どこがだよ!」


 プリスカが叫ぶ。大きく見開かれた瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。


「お願い、そんな悲しいこと言わないで」


 ずずっと洟をすすりながら、プリスカは顔を両手で覆う。


「そうだよ、トマファ君ってヴァルトア様に何て言ってたっけ? “覇を唱えませんか”って、真顔で言ってたじゃん。心が弱いのは人間だもん。晴れの日もあれば、雨の日もあるよ。でも――ダメな人間が、そんな言葉、言えるわけないでしょ? あなた、ちゃんと算段してたじゃん!」


 クラーレの声にトマファはふっと小さく笑った。少し湿っぽい鼻声だったが、それでもたしかに今の彼が出した“笑い”だった。


「ありがとう。なんだか、みんなに救われてばっかりですね」


 少し照れたように言うと、レオナがふっと口元をほころばせた。


「じゃあ、文官三人で。半歩ずつでも、0.5歩ずつでもいいから――前を向いていきません?」

「そうですね、レオナ殿下」

「あ、レオナでいいです。もう、王族じゃないので」


 そう言って、レオナはそっと右手を差し出した。


「トマファ君。一緒に、頑張ろうよ」

「えぇ。一緒に頑張りましょう、レオナさん。――あと、半歩と0.5歩って、意味同じですよ」


 一同が小さく息を呑んだ。そして、部屋にふわりと笑い声が広がった。

 その空気に乗じて、プリスカが手を叩いて叫ぶ。


「よし、じゃあ――!」


 勢いよくトマファ、レオナ、クラーレを指しながら高らかに宣言した。


「回復祝いと、新人歓迎と、心がブスの反省会をまとめて――酔虎亭でやろう!」

「えっ!? えっ!? なんか私だけすごい扱い悪くない!?」

「ソンナコトナイヨー♪ 楽しく飲むのに理由なんかいらないでしょ! で、レオナさん、お酒いけるクチ?」

「赤ワインか火酒なら、少しだけなら」

「やった! じゃあ決まり! 酔虎亭で、乾杯っ!」


 プリスカが元気よく手を挙げる。その明るさにトマファはようやく身体を少し起こし――


「じゃあ、準備します。よければ皆さん、一旦部屋から出てもらえますか」

「よーし、じゃあ全員でトマファ君の着替え介助だー!」

「いそげ脱がせー!」

「私、髭剃りと櫛持ってきますね!」


 プリスカが飛びかかり、クラーレが寝台下を探り、レオナが洗面台へ走る。――そんなふうにして、彼らは小さく、けれど確かに歩き出した。


 今日はとりあえず、目指すは酔虎亭。立ち飲み酒場で新しい一夜が待っていた。


=武辺者のところへイケメンが現れる・了=


 *


 キュリクス西区職人街の立ち飲み酒場・酔虎亭。

 通りに面した引き戸をがらりと開けて現れたのは、クラーレ、トマファ、レオナ、そして先頭を歩くプリスカだった。


「さあさあ、飲みましょう食べましょう騒ぎましょう!」


 プリスカが両手を広げて宣言すると酔客たちがちらりとこちらを見る。この街では見慣れない顔に加えてどこか貴族めいた立ち振る舞いのレオナが目を引いたが、誰も特に詮索する様子もなくまたそれぞれの杯に向き合っていった。


「へぇ、これが――プリスカさんの実家、なの?」


 レオナが物珍しそうに店全体を眺める。天井にはキュリクスの街旗が棚引き、柱や壁は燈照ですこし煙けているが清潔感があり、客席代わりの樽を囲んで職人たちが仕事上がりの一杯を愉しんでいた。


「そうそう! うちの店は腸詰焼きとピクルスがお勧めだよ! まぁ今日は特別に裏メニューも出してもらうから!」

「こらこら、勝手な事言うんじゃない!」


 厨房の奥から顔を出したのはエプロンをかけた女性――アルセスだった。クラーレとトマファは思わず軟く頭を下げる。それを見てレオナも併せて頭を下げる。


「ん? このハンサムな彼女さんはどちら様?」


 アルセスがお盆にエールを4杯汲んで持ってくると声を掛ける。


「あ、はい。領主館で新たに採用された文官のレオナ・ドリーヴです――レオナさん。この方、グレイヴさんの奥さん!」

「あぁ、あの高名な剣術師の!」


 レオナは思い出したかのように表情を明るくする。それを見てアルセスも旦那を褒められて少し嬉しそうな表情を浮かべる。


「なんだい、私の旦那の事知ってるんかい。まぁ文官と武芸教官だったら接点もそんなに無いだろうがよろしくね――プリスカ、あんたも手伝いなさい! 今日は妙に忙しいんだから」

「そうだよね、今日は一杯飲んだらすぐに給仕に入るね。――母さんは?」

「女将? あぁ、チーズ作った余りをレオダムさん家に持っていったんじゃない? まだ繁忙時間じゃないからくっ喋ってるんじゃない?」


と、そんな話をしていた時に常連客のひとりで、いつも酔客に音楽の話ばかりする男が、ほろ酔いのままぽつりとつぶやいた。


「なんか今日は人が多いな。あの金髪の姫、どこかで」

「え、知り合い?」

「いや、知らん」


 その音楽家の独り言にジュリアが訊く。しかしけんもほろろな反応にパウラがふぅとため息を付いた。ジュリアとパウラの二人は仕事上がりに一角で飲んでいたらしい。ジュリアがロゼを傾け、パウラは火酒をちびちびと舐める。


「レオナ・ドリーヴ。うーん、私、なんか名前だけは聞いた気がする」

「パウラ先輩知ってる?」

「ちょっと思い出せない」


 その瞬間、店内がずっこけたような空気に匂われた。


「俺は知ってるぜ? これはどうだ?」


と音楽家。酔虎亭の隅に鎮座し、今じゃ天板がテーブル代わりになってるチェンバロの前に立ち、スツールに腰掛けるとぽろりと一曲。『シルヴィア』のピチカートという曲が響き始めた。

 チェンバロの軽快なその旋律に――ふとパウラの背がゆれる。右足が小さく一歩、左足が次に。気づけば身体が自然にリズムを刻んでいた。


「あ、あの先輩――」とジュリアが戸惑う中、パウラは既に裸足になっており、上着をジュリアに投げ渡すと突然舞い始めた。


「うわ、すごッ!」「なんだこの姉ちゃん!」

「あ、この前踊ってた軍人の踊り子だよ!」


 酔客たちがテーブル代わりの樽を隅に押しのける。その真ん中でパウラはひときわしなやかに足を振り上げるとクペで一旦流れを切ってプレパレーション。そしてエカルテ、前アチチュード、そしてアラベスク。そしてプリエ。


 この一瞬で流れで酔客らの歓心をあっさり奪い取る。


「プリスカも行っちゃえ!」

「はいっ!」


 アルセスの勧められるがままに飛び込んだプリスカもパウラに併せて軟らかでしなやかながらも力強く、小柄な身体も大きく見せるように舞う。そしてパウラもそれに併せてパ・ド・ドゥ。


 たまたま客にツィンク吹きがいたために彼が混じりゆっくりと滑らかな旋律を吹くと曲調が変わる。それでも二人は力強く、そしてしなやかに躍り切ったのだった。


 やがて店内には拍手が潰れ起こり、皿が鳴り、笑いがはじけた。チェンバロ弾きが店の真ん中に被っていた帽子を置くと皆は銅銭を放り投げていた。気づけば、誰もが笑っていた。



 ジュリアがチェンバロを弾いてた男に訊く。

「なんで今の曲、弾こうと思ったの?」

「いや、今の『シルヴィア』のピチカートの作曲者がレオ・ドリーヴってんだ」






ブクマ、評価はモチベーション維持向上につながります。


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お好きな★を入れてください。




よろしくお願いします。



=作者註=

シルヴィアのピチカート:ロシアの国立ペルミバレエで上演された「ファデッタ」("Fadette")という作品(もしくはシルヴィアのV)のほうが有名かも。バレエのコンクールで課題曲にもなってるし、吹奏楽のコンクールでもたまに自由曲でやる学校もある。なお中の人はバレエが好き、やったことないけど。


シルヴィアと言っても決してニッサンのS13の事ではない。

シルヴィア買えなかったから日産・パルサーGTI-R(RNN14型)に乗ってたなぁ。

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