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42話 武辺者のところへイケメンが現れる・3

 午前十時。

 文官執務室にはクラーレの溜め息とペンが羊皮に打ち付ける音だけが響いていた。


「何でこうなるんですか、もう」


 嘆息しながらクラーレは積み上がった帳簿の束に手を伸ばした。トマファの休暇がついに二日目となり、仕事の山は減るどころか増える一方だ。判を押すにも誰かの確認が必要な文書が多すぎる。クラーレが採用されるまでトマファがひとりでやっていたとメイドのマイリスから聞いて唖然としたが、まずは処理しなければ領主館が機能停止してしまう。


 そこへ、静かに扉がノックされた。


「失礼します。――お加減の悪いトマファ殿に代わり、よろしければ微力ながらお手伝いを」


 クラーレが返事する間もなくスッと入ってきたのは、例の青年ソーテルヌだった。彼はきっちりと仕立てられた上着を着こなし、髪も整えた状態で書類を抱えていた。


「えっ、ちょっ――勝手に入らないでください、ここは部外者は」


「心得ております。ですが、こちら今朝未処理として回されていた三件、既に草案起こしが済んでおりまして。内容はそちらの帳簿とは整合および照合済みです」


 そう言って差し出された紙束に目を通したクラーレの手が止まる。これは時間を掛けてじっくり取り組むべき案件だと思って後回しにしておいたものだった。しかしその書類を確認すると計算式も書式も誤りが無い。


「え、内容、合ってる。しかも原価計算方式も損益計算表も今の大陸式に替えてあるわ!」


 ソーテルヌは静かに微笑んだまま、次の書類束を差し出した。


「合わせて、先月分の費目分類に齟齬がございました。これはクラーレ殿のサインがございましたが、確認いただけますか? 消耗品勘定と消耗品費勘定との振替をご提案申し上げます。そしてここの部分の計算が違っていたので訂正も」

「そ、そんな、大変! トマファ君も気づかなかったのに」


 クラーレは喉の奥が詰まる感覚に襲われた。なにこの人、いったい何者なの? なんでそんなに涼しい顔して完璧に仕事できるの? 視線を書類から持ち上げたらふと目が合った。淡い灰色の瞳にさらさらの金髪。胸の奥がきゅっと締めつけられる。  恋……? いや、でも、こんな一瞬で? 違う。私はずっとトマファ君の事が。――でも、その思いが少し揺らぐ。


(やば……この人、完璧すぎる)


「あ、あの! もしかしてどこかの貴族家で文官をなされてました? それとももしかして王宮で官僚をされてたとか――?」

「いえ、ただの旅人ですよ。ご迷惑でなければお手伝いも(やぶさ)かではありません。出国手続きが完了するまで手は空いておりますので」


 すらりとした指先で書類を整えながら笑顔で言うソーテルヌに、クラーレは呆然と見入ってしまう。


「ではソーテルヌさん。いくつか急ぎの業務があるのでお手伝い頂けませんか!? 今日中までに仕上げなければならない資料がいくつかありまして!」

「構いませんよ、むしろいくらでもお言いつけください」


 そう言ってソーテルヌは跪くとクラーレの手を取ると甲に軽くキスをした。


「え、ええ! ちょ、ちょっとぉ!」

「今はクラーレ様の忠実な家臣でございます。何なりと命じてくださいませ――急ぎの案件はどれでしょう?」


 クラーレの頭の中は爆発寸前だった。指先が、自分の手の甲に触れた瞬間のことを何度も何度も反芻してしまう。柔らかく、でも礼儀正しくてほんの一瞬で終わったその動作。


(い、今の……今のって……!?)


 心臓が跳ね上がり頭の芯がぐらぐらする。手の甲に残った感触を、水で洗い流したくないと強く思ってしまった自分が情けない。二十数年の人生で、男性からこんなことをされたのは初めてだったし、自分がそんな対象になるとも思っていなかった。


(だめだ、落ち着いて。冷静に……ああもう無理っ!)


 しかし冷静になれなかった。


「きゃあ、旅の方がクラーレ様に求愛なさいましたわ!」


 たまたま廊下を通りかかったサンティナに見られてしまったのだ。彼女は恋愛沙汰には普段あまり興味を示さないタイプだが、娯楽の少ない領主館内では噂は疾風の如くに駆け抜けるだろう。


「ささ、クラーレ様、ご命令を」


 恋愛耐性が無いクラーレの思考回路は完全に焼け落ちた。あわあわ言いながらもなんとか指示を飛ばす。


「あ、はい! ではこの書類とこれを片づけてください!」

「御意、お心のままに」


 そう言って二人は文官執務室へと消えていったのであった。


 *


 昼鐘が鳴り、街も領主館も昼休みのせいか静かになる。

 しかし三階のメイド詰所では昼食休みの乙女たちがおしゃべりに花を咲かせていた。その中でロゼットは言葉どおり凹んでいた。片足を椅子に立ててだらしなく座り、昼ごはんとして出された白パンをかじるその姿はいつもの快活さとは違ってどこか陰って見えた。乱暴に頭を掻いたのか髪は乱れ、制服のリボンタイもずれている。


「はあ――ずるくない? 王子様ポーズで手の甲にキスって、もう、ねぇ?」

「は?」


 プリスカが眉をひそめた。


「クラーレ様のとこでさ、あの王子様っぽい旅人がね、『御意』って膝ついて――ほっ、て手取って――ほっ、てやったんだって! もう、吟遊詩人の色恋唄かよって!」

「うわ、あんたそれ……見てたの?」

「サンティナ先輩が見てたんだって! てか、あたしだって夢見たかったの! 何よ、クラーレ様ばっかり、イケメンから“ほっ”ってされてさぁ……」

「“ほっ”って何よ」

「“ほっ”は“ほっ”だよ!」

「藤井隆かッ!」


 プリスカは呆れたように息を吐いた。


「……ってか、凹むのは勝手だけどさぁ、そんな座り方やめなよ、ぱんつ丸見えじゃん。乙女の最終防衛戦だよ?」

「良いじゃん女同士減るもんじゃねーし!」

「こっちの気が滅入るっつってんだよ! こちとら飯食ってんだよ! きったねぇぱんつ見せんなバカ!」

「ンだとぉ猫娘ぇ!」

「静かになさい、あなたたち――」


 そこへ、湯気の立つ茶器を静かに載せた盆を手にマイリスが姿を現した。足音はまるで気配のように軽いのにその視線だけは場の空気を一変させる力を持っていた。笑みは浮かべているが目が一切笑っていない――そのことに気づいた瞬間、ロゼットもプリスカも背筋を正した。


「ロゼットさん。足は下ろしなさい。ここは休憩室ですがだらしなく食事する場所ではありません」

「っ、はい……」


 ぴしりと言い切られたその一言に、ロゼットは肩をすくめると素直に足を下ろした。反論する言葉が浮かびかけたがそれを飲み込むくらいにはこの屋敷で生きる術を知っている。


「姿勢が崩れると心も崩れます、ヴィンターガルテン家の紋章を付けた制服を着ている以上、その振る舞いには意味があります」


 マイリスは一人ずつに茶器を配りながら淡々と告げた。声は静かだが芯のある響きがそこにあった。ロゼットはパンを手にしたまま俯き、乱暴にひと口かじった。皆も背筋を伸ばして聞く。


「あとプリスカさん、人をバカと言ってはいけません」

「はい、申し訳ありません」

「あとサンティナさん。――フリルいっぱいのものは寝巻ではなくネグリジェというべきです」

「え、今それ関係あります!?」

「はい、サンティナさんの勤務報告書によると、プリスカさんは宿舎でトマファ殿の看病宿泊勤務ではフリフリの寝巻を着用してたとありましたが、それはネグリジェです」

「副長ォォ!」「それ今言ったら公開処刑ッ!」


 しかしマイリスは首を傾げたまま、紅茶のポットをゆっくりと傾けていた。言っていることは間違っていない――でもそれを言うのは今ではない。そんなマイリスには、オリゴとはまた違った意味で“逆らえない迫力”を感じるのだった。なおマイリスはたまに変な事を言うから困ったもんだ。――でも、みんなはそういうところも嫌いじゃないと思っている。


 *


 昼過ぎの文官執務室。

 あれだけ滞留していた書類は担当者やギルドへ『出荷』できる状態にまでに仕上がった。特に今日中に仕上げなきゃいけないもの、昼一番までに提出しなきゃいけないものも全て処理できたのだ。


「――ソーテルヌさん、本当に、本当にありがとうございました!」


 昼下がりの陽光が差し込む執務室でクラーレは胸の前で手を合わせるようにして深く頭を下げた。机の上の書類はすべて片づき、帳簿も整理され、文官室にいつもの平穏が戻っている。


「いえ、こちらこそ。……こんなに楽しい事務作業は初めてでしたよ」


 ソーテルヌはやわらかく微笑んだ。その穏やかな笑みにクラーレの胸の奥がどんッと跳ねる。だめ。――だって彼は、ここに留まらない人。いずれ南のロバスティア王国へ旅立ってしまう。だけどそれでも――今、この人の力があれば――きっと、キュリクスはもっと変われると思った。


「ソーテルヌさん。もし良ければですが、滞在中だけでも構いません。当家の事務作業をお手伝い願えませんか?」


 クラーレの問いかけに、ソーテルヌは少し驚いたように目を瞬かせ――すぐに、穏やかな声で答えた。


「ええ、喜んで。クラーレ様の頼みとあらば」


(うっ……“クラーレ様”って……!)


 もう一度、胸が鳴った。鼓動が早くなる。


「それでしたら、是非とも! 当家の領主にお会いください!」


「えっ?」


 ソーテルヌの返事を聞くより早く、クラーレは彼の手を取っていた。涼やかな手をぎゅっと握り、戸惑う彼をそのまま引っぱって立ち上がる。


「ちょ、ちょっと、それは……!」

「ささっ、ぐずぐずしてるとヴァルトア様、うとうとお昼寝しちゃう時間ですから!」

「お昼寝……っ?」


 ソーテルヌは困惑したように小さく眉をひそめた。口元にはかすかな笑みを浮かべていたが、その瞳は明らかに戸惑いを湛えていた。


「クラーレ様、それは。あまり大袈裟にされるのは――少々」


 言いかけた声は、クラーレが彼の手をぎゅっと握ることでかき消された。勢いよく走り出す彼女に引かれ、ソーテルヌはわずかに抵抗するような足取りであとをついていく。心の奥で冷たい警鐘が鳴っていたがクラーレの手の温かさとまっすぐな目の圧に抗えなかった。


「ちょ、ちょっと。それは、ほんとうに!」


 訴える声は届かず、廊下の向こうに彼の足音が吸い込まれていった。


 *


 執務机に並んだ報告書に目を通していると、扉の向こうから軽いノック音――かと思えば、それが鳴り終わるより早く、バタンと勢いよく扉が開いた。俺もスルホンも、思わず手にした湯呑を固まったまま止める。


(またプリスカか!?)


 そんな思いが同時に脳裏をよぎった。あいつは平気で「ノックと同時に開ける」女だ。次の瞬間、嵐のごとく飛び込んできたのは――プリスカ、ではなかった。


「ヴァルトア様っ、この方、すごいんです! 帳簿も指示書も全部、ぜんぶ完璧で――!」


 声の主はクラーレ。彼女が息を弾ませて飛び込んでくる青年の手を引いて従えていた。上質な仕立ての上着に涼やかな立ち姿。そして妙に慣れた所作がいかにも只者ではない雰囲気を漂わせている。

 そのとき、俺の向かいのソファに座るスルホンが小さく息を呑む。ちらりと彼の視線の先を見やると、青年をじっと見据えているのがわかった。あの目だ――昔、戦場で敵将を見抜くときの獣のように鋭い眼差し。スルホンが動かずにいるのを見て、俺も無意識に姿勢を正す。青年がこちらに向かって一礼したとき、俺の目が彼の胸元――光を受けた銀縁のバッジへと僅かに揺れた。


「鷹と剣百合(フ・ラ・ダリ)の紋――やはり」


 スルホンが小さく、しかしはっきりと呟いたその瞬間、俺の背筋に走るものがあった。そうだ――この佇まい、口調、そして眼差し。俺も一度だけ新都エラールの式典で見かけたことがある。あの若き青年。間違いない。俺は椅子を蹴るように立ち上がり、その場に跪いた。


「王太子殿下――でいらっしゃいますよね」


 静かな空気が、執務室を満たした。

 青年――いや、殿下はほんの一瞬だけ目を伏せた。

 それだけで、答えは充分だった。

 スルホンもまた、音もなく片膝をつく。


「お懐かしゅうございます、殿下。あの頃に比べて背が高くなられましたね」


 俺のその言葉にソーテルヌは明らかに一瞬目を泳がせた。逃げ道はもうない――そう悟ったように浅く息をつくとぎこちない笑みを浮かべる。


「あ、あぁ。は、はは――参りました。そこまで見抜かれては、もう」


 笑ってはいるがその声音は乾いていた。口元は微笑んでいるのに肩はほんの僅かに沈んで見える。静かな諦めだった。振り返ればクラーレが呆然と立ち尽くしている。先ほどまでの勢いはどこへやら、ぽかんと口を開けたままだった。



 執務室には、重たい沈黙が落ちていた。

 ヴァルトアとスルホンは跪いたまま、クラーレはぽかんと口を開け、ソーテルヌは困った顔で立ち尽くしている。四人が揃っているはずなのに誰もなかなか言葉を紡ぎ出そうとしなかった。ようやくその沈黙を破ったのはソーテルヌだった。


「あの、ヴァルトア子爵。まずはお立ち下さい」

「いえ滅相もございません。殿下に粗相がありましたら末代までの恥となりますので」


 ヴァルトアは顔を挙げられないでいた。ちらと横目でスルホンを見た、彼も顔を真っ赤にしたまま俯き緊張を解いていない。クラーレは領主と武官長が跪く様を見て自分も慌てて膝を地に付けた。そわそわと視線を泳がせながらちらちらとソーテルヌの横顔を盗み見る。声をかけようとして、やめて、また見て、また逸らす。


 ――気まずい。


 全員が心の中でぼやいた時だった。特にクラーレに至っては、王太子殿下を顎で使ってたわけだ。王宮にバレようものなら三代にわたって不敬罪に処されそうで肝を冷やしつつある。


 コンコン、とノック音。


 反射的にスルホンと目が合う。反射的にスルホンと目が合う。時間と仕事の流れからして、配送書類をのんきに持ってくるプリスカだろう――そう、無言で目配せし合った。あいつはノックとドアを開けるタイミングが同時すぎる。案の定、ノックが終わるより早く、バタン、と勢いよく扉が開いた。


「粗相のないように入れ!」


 ヴァルトアの声が重なるが、その頃にはもう二人の来客が部屋に踏み込んでいた。

 ひとりはオリゴ。寸分の乱れもない完璧な身嗜みのまま静かに一礼する。もうひとりは、ゆるく羽織った軍服に木剣をぶら下げた男。髪はぼさぼさで目は細く、口元には気の抜けた笑みを浮かべている。


「失礼。いやあ、急ぎで書類の決済が欲しくてオリゴ殿と来たんだけどさ。……え、なんか空気、重くない?」


 *


 その男を見たクラーレが、小さく「あ」と声を漏らした。


 オリゴと一緒に入ってきた男は、練兵所で武芸教官をしているグレイヴ。元は王都の中等学校で武芸を教えていた人で、メイド隊副長のマイリスさんの夫・テンフィさんや、測量士のオキサミルさんとは同僚だったらしい。

 気の抜けた話し方をするけど、あれでいて実力者。キュリクスの武道館でも師範代のバイトをしていて、メイド隊の子たちに護身術とか近接戦闘術も教えてくれている。

 ちなみに奥さんのアルセスさんは、酔虎亭のカウンターによく立ってる。見た目のわりに意外と真面目な家庭人だったりする……らしい。


「どうした先生方、この男装の御麗人に跪いて。最近の流行りかい?」


 グレイヴが気の抜けた声で言った。からかいとも冗談ともつかない口ぶりだけど、どこか空気を和らげるような優しさがあった。本人に悪気がないのはわかるのに、妙に核心を突いているからタチが悪い。 ソーテルヌがぴくりとまぶたを震わせて視線を逸らした。その動きに場の空気がひときわ緊張する。


 と、横からスッと進み出たのはオリゴだった。

 完璧な身嗜みのまま、静かに一礼すると、きっぱりとした口調で言い放つ。


「あなた、女性ですよね。ソーテルヌ嬢」


 うわ――とクラーレは心の中で叫んだ。ちょっとオリゴさん、はっきり言いすぎでは!?

 だけど、本人はまったく動じていない。むしろ、いつも通りの冷静さで続ける。


「喉仏を隠すように巻かれた襟巻、そして肋骨の角度と胸郭の丸み。男性とは異なる身体構造が明確に出ています」


 オリゴは淡々と、自分の胴に手を当てながら説明を始めた。


「これはランバー接骨院で伺った話ですが、性差によって肋骨下部の弧と腰椎の開き具合に――」

「ちょっ、ちょっと待って! オリゴさん、それ以上言っちゃダメっ!」


 クラーレは思わず叫んでいた。顔が真っ赤になって、立ち上がった勢いで机に膝をぶつけてしまう。


 (骨格とか肋骨とか喉仏とか、そんな単語で頭がいっぱいになるんですけど!)


 でも時すでに遅くて――


「く、ふっ……ぷっ……ふふっ……!」


 堪えきれずに、ソーテルヌが肩を震わせ、そして口元を押さえながら笑った。それは気まずさを押し流すような、どこか観念したような笑いだった。


「――完全にバレてしまいましたか」


 ソーテルヌは静かに息を吐いた。もう隠し通せる段階ではないと悟ったらしい。ゆっくりと視線を上げると穏やかな微笑を浮かべながら言葉を継いだ。

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