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41話 武辺者のところへイケメンが現れる・2

 プリスカは廊下の角で足を止めるとそっと執務室の扉の隙間から中を覗いた。

 普段なら軽い足取りで中に入り、「トマファ様、クラーレちゃん、遊びに来たよー」とおどけて声をかけるところだが、今は声をかけるべきかどうかすら迷ってしまう。何故なら机に向かって座るトマファの背中はなぜか少しだけ小さく見えたからだ。


 背筋はまっすぐなのに、肩や首に力が感じられない。


(――やっぱり、おかしい)


 プリスカは応接室でのやり取りを思い出す。『旅の者』と名乗った男と対面した直後、トマファはほんの一瞬、喉の奥で何かを詰まらせるような音を立てていた。そして終始その男に対して目を逸らし続けていたし返事をする間もいつもより長く感じた。


 そして今。

 彼は書類に向き合っているけれど、そのペン先からインクが滲み、書類にじわじわと黒い染みを作っている事にすら気づいていない。書類なんか見ておらず、どこか遠く――いや、ぼんやりと中空を見ているようであった。まるで過去を見てるかのように。


(だめだこれ。本当にだめなやつだ)


 プリスカは音もなく踵を返すと一気に駆け出した。

 廊下を滑るように抜け、スカートの裾を翻して階段へと跳ねるように上がっていく。心臓が少し早く鳴っていた。走っているせいだけじゃない、胸の奥に焦りのせいだ。ただ、どたばた走るわけにもいかないので靴音をできるだけ殺しながら領主館の階段を二つ飛ばしで駆けた。まるで風に追われるように駆け抜けた。

 向かう先は、たったひとつ――あそこしかない。


 *


「失礼します、オリゴ様――トマファ様、今日はちょっとダメです」


 プリスカの声は低く、真剣だった。

 帳簿をめくっていたオリゴは返事も頷きもせず、手を止めると署名だけを一つ記して返す。


「それなら早退扱いにして部屋で休ませなさい。今日はヴァルトア様も外出中ですから、あなたが付き添ってあげなさい」

「そうですか――了解ですッ!」


 それだけ言い、プリスカは今度は勢いよく扉を閉めて出ていった。その背や足音には先ほどの軽さはなかった。


「プリスカさん、もう少しおしとやかに! ――って聞こえないか。本当に困った子ね、プリスカといい、トマファ殿といい」


 そう言うとオリゴは再び帳簿と向き合うのだった。


 *


 執務室のノック音にトマファは気づいていた。ただ返事をするのが一拍遅れる。


「――どうぞ」


 入ってきたのはプリスカだった。いつもは軽口のひとつも添える彼女が、今は一切の飾り気なく口を開いた。


「トマファ様、今日はもう休みしましょう。オリゴ様が早退していいですって」


 その言葉を聞いた瞬間、トマファの肩がわずかに落ちた。そして彼の胸の奥に詰まっていた何かが、ほんの少しだけ緩み吐き出される。


「――すみません。じゃあ、お言葉に甘えて」


 車椅子を動かそうとするトマファの手をプリスカがそっと添えてから車椅子の背に手をかける。

 彼はもう何も言わなかった。声も、感情も、すべてを胸の奥へしまい込んだまま。ただ静かに、彼女に背を預けることにした。


 宿舎に着き、トマファと部屋に入ると、プリスカは無言で彼を抱え込み、寝台にそっと横たえた。


「今日は強がらなくていいですよ。誰も見てませんから――寝巻に着替えるの、お手伝いしますよ」


 トマファはゆっくりと目を閉じ、かすれるような声で 「ありがとう。でも、大丈夫――自分で、できます」と応える。その声には張りがなく、まるで自分に言い聞かせるような響きだった。


「ちゃんとお休みするまで見てましょうか?」


 トマファは顔を横に向けたまま、かすかに眉をひそめる。


「嫁入り前のお嬢様が、そんなこと言っちゃ――だめですよ」


 プリスカは一瞬だけ目を細めて見つめると、小さく笑った。


「それでしたら、ゆっくり休んでください。鈴が鳴れば飛んできますから。どんな時間でも、すぐに」


 そう言うとプリスカは薄い胸をどんと叩いて扉に向かうとそっと静かに出ていった。


 *


 ベッドに体を横たえてからも、トマファは目を閉じられなかった。

 天井をぼんやりと見つめながら、あの時の声が耳の奥で何度も再生された。


「お前ごときが、王族である俺様に口応えするなんて――身の程を知り給え」


 振り返ったその瞬間、土を蹴る音とともに木剣が振り下ろされた。

 ぐしゃ、という音とともに、背中に何かが刺さるような衝撃。

 息ができない。足が、動かない。視界が揺れる。どこかで誰かが笑っている。

「これは決闘だぞ、この国では合法だ!」と誰かが叫ぶ。誰かが囃し立てる。そして誰も止めなかった。いや、一人だけ声を挙げる者がいた。しかし記憶にあるのは土の匂いと空の色。そして腰から力が抜けて崩れてゆく感覚。そして誰かが見下ろしていた。その顔に、驚くほどよく似た誰かを――今日、自分は見てしまったのだ。


 *


 部屋に戻ってきたのは午前中だったが、もう既に月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいた。トマファはベッドの中でずっと目を閉じていた。眠っていたわけではない。眠れなかったのだ。天井を見つめながら、あの声の響きが耳に頭にこびりついている。静かな声。丁寧な語尾。どこか優しげですらあった。けれど――あまりにも似ていたのだ。


(ちがう。あの方は――レピソフォンじゃない。あいつじゃない。わかってる。わかってるのに)


 思考の中に再び入り込んでくるかの男の残響。何度も何度も、感情ではなく身体がそれに反応してしまう。息を吸うたびに、喉がかすかに痛んだ。


(あの方に罪はない。でも心の傷がまた腫れてきたんだ)


 あの声で穏やかに話しかけられたとき、脳が、脊椎が、過去のそれを再生してしまっていた。

 そしてクラーレのあの言葉が胸に残る。「嫉妬、ですか?」と。――あれが嫉妬なら、どれほど救われたか。

 トマファは目を閉じた。まぶたの裏側にも声が響いていた。

 静かな夜は、ただ静かに流れていく。


 *


 宿舎の隅にある小さな仮泊室。

 プリスカは湯沸かしの前で銀製ポットの蒸気をぼんやり眺めていた。沸騰直前に茶葉を放り込むとやや強めの香りが部屋中に広がる。そこにほんの少しだけ火酒を加える。冷えきった心と体には沁みる薬になるはずだ。


 母には『今日はトマファ様の具合が悪くて、看病勤務で帰れない』とだけ伝えたのに――わざわざ領主館まで着替えを持ってきてくれた。ありがたいけど、もっと……こう……落ち着いたのを選んでほしかった。よりにもよってフリルだらけの寝巻きって、どういう意図?  しかも鞄の奥には見覚えのない小瓶まで入っていて――中身は訊いてない。訊けるわけがない。「あの子が()婿()()()に来てくれたら我が家も安泰ね」なんて話が最近じゃ家でも定番化してて、正直、胃が痛い。


 そんな事を思い出しながら彼女はカップの湯気が落ち着くのを待ってから、お盆に載せて静かにトマファの部屋の扉をノックした。


「おじゃまします。――まだ起きてますよね?」


 返事はなかったが気配はある。そう判断して静かに扉を開けた。

 トマファはベッドの上で目を開けたまま、天井を見つめていた。反応は薄い。けれど完全に心を壊してしまったわけではない――プリスカはそう感じ取った。


「お茶、入れました。ちょっとだけ火酒入り。寝つき悪そうだから、薬代わりです」


 彼女はそう言ってカップをベッド脇のテーブルに置いた。


「ありがとう。プリスカ()()って、いつも妙にタイミングが良いよね」


 トマファがようやく声を出した。掠れてはいたが少しだけ体温が戻ったようにも聞こえた。


「いつもは『プリスカ殿』なのに、今はさん呼びなんですね――ふふ、酒場の娘を侮っちゃいけません。独りで飲みたい方には声を掛けないスキルは英才教育済みですよ」


 プリスカは椅子に腰掛け、視線を外しながらもふと尋ねた。


「――誰かに、似てました? あの人」


 一拍の間。


「いや。そんなこと、ないよ」


 言葉を飲み込んだような返答だった。



「うん、じゃあ似てなかったってことで記録しておきます」

「――記録って何の?」

「オリゴ様に翌日提出する看病記録帳。誰かが熱を出したりして看病に当たった際は記録を付けないとダメなんですよ? お茶のは飲み残しも記録しますよ」


 プリスカがにやりと笑うと、トマファも苦笑した。


「じゃ、お茶、貰っていい?」

「どうぞ。熱々ですから気を付けて」


 トマファは寝台の上で、ごそごそと布団を押しのけるようにして、ゆっくりと上体を起こした。動きはどこかおぼつかなくぎこちない。プリスカは迷わず傍に歩み寄ると、彼の背にそっと手を添えて支えた。 そのままもう片手で、お盆から湯気の立つカップを取り上げ、言葉もなく彼の前に差し出した。 彼がそれを受け取るまで、彼女は静かに寄り添っていた。


「私の独り言、聞いてくれますか?」

「独り言を聞いてほしいって、面白いこと言うね。――どうしたの?」

「トマファ様の寝物語の一つとして、少しだけ」


 プリスカは紅茶の香りに包まれながら、ぽつりと語り出した。


「あるところにね、踊るのが大好きな女の子がいたんです。小さな街に生まれて、舞台に立つ夢を見て――エラールまで行った。『赤風車』っていう、有名な劇場のオーディションでした」


 トマファは黙って聞いていた。彼女の声は少しだけ照れていて、でも懸命で、どこか胸を打った。


「だけど、不合格。理由は“舞台映えしない”って。でも、本当は足の怪我だったんです。有痛性外腓骨(がいけいこつ)障害――若い踊り子には多いって聞きました。その子の夢は、その日で終わりました」


 そして彼女は笑った。ほんの少し、さびしそうに。


「でもね、その子は諦めなかった。違う夢を見つけたんです。今度は、自分じゃなくて――誰かの夢を一緒に見たくなったんです」


 プリスカはそっと、トマファが持つカップを見つめながら囁いた。


「我が国のために、我が国の剣を持て。――そう命じてください、“ハインリヒ王”」


 トマファが静かに瞬きをする。その顔には少し驚きと、少しだけ笑み。


「そうなると、プリスカさんは白鳥の騎士ですね。……でも、その比喩はあまりに危うい。滅多に言ってはいけませんよ。もし僕に野心があると疑われたら、それを口にした君も――」

「断頭台の露、ですね」


 プリスカはまっすぐに微笑んだ。


「それでもいいんです。誰かの夢の続きを見ることができるなら。……たとえその終わりが、隣で終わるものだったとしても」

「――」

「ちゃんと飲んで寝てくださいね。飲み干さなかったら――明日はオリゴ様が看病に来ますよ」

「ふふ、絶対に飲みます」

「今夜は仮泊室におりますので、何かありましたら鈴を鳴らしてください。いくらでも寝物語のストックはございますよ。踊り子になれなかった女の子の話ばかりですけど」

「それでしたら、また今度聞かせてください」


 部屋に、小さく笑いの余韻が残った。だが、言葉の背後にあるものは決して軽くはなかった。

 プリスカは静かに立ち上がると、そのまま部屋から出て行ったのだった。


 *


 彼女が出ていった後、部屋にはしんとした静けさが戻ってきた。

 トマファはひとり、まだ温もりの残る紅茶のカップを手にしたままぼんやりとカーテンの隙間から見える月明かりを見上げていた。言葉にできなかったことが、胸の中で何度も形を変えて渦を巻く。


(夢の続きを、一緒に見る――か)


 彼女の言葉が染み込むように頭の中で響いていた。誰かの夢に添い剣を取る。自分がずっと避けていた覚悟を、あの子はあんなに真っすぐに語ってみせた。


(僕は、何を怖がってる?)


 憎しみだけなら、とうに持っている。復讐心だけであれば、持ちきれないほどある。だけどそれを越えて何かを成すには――何かを築くには、自分はあまりに非力だ。ふとカップを置いた。指先に残ったぬくもりがどこか心地よくも寂しい。

 カーテンの隙間からは煌々と月が輝いていた。


(――もうそろそろ立ち上がる時ではないのか。何を悩む、カリエル)


 *


 翌朝、仮泊室の寝台でうとうとしていたプリスカは、陽の光と扉を叩く音で目を覚ました。


「プリスカー、起きろー! もうそろそろ点呼だぞ!」


 眠い目をこすって寝台から降り、ふと入口に置いてあった姿見が目に入る。昨日母が持ってきてくれたフリル一杯の寝間着を見てため息を付いた。これを着てトマファの部屋にお茶を持っていき、夢を語ったなんて誰かに知れたら領主館が大騒ぎだ。寝間着を脱ごうにも扉はドタバタと叩かれ続ける。


 プリスカはしぶしぶ扉を開けると、サンティナがひょこっと顔を出した。陽気な笑顔全開だった。


「おはよー! ていうかプリスカ、なにその寝巻き。まさか王子様お迎えスタイル!?」


 プリスカは寝巻の裾を見て、小さくため息をついた。


「母の気遣いだってさ。“少しは女の子らしくなさい”っていう……家庭内圧力」


「いやいや、女の子というか“恋する乙女”通り越して姫じゃんそれ。プリスカらしいというか、プリスカらしくなさすぎるというか……」


 二人は顔を見合わせてくすくす笑った。プリスカが寝ぼけまなこをこすりながらサンティナを仮泊室に招き入れようとして、フリルの裾を踏んで軽くよろめく。


「わ、うっとうしい……」

「ほらほら、さっさと着替えて。もうそろそろ点呼なんだから! メイク道具は持ってきてあるから、それ使っていいよ! ほら、早く」

「準備いいなあ、さすがロゼットと違って気が利きますね先輩」

「あんたが遅刻でオリゴ様に叱られたら私たちも連帯責任なんだから! ほら、元気出して。看病夜勤から日勤なんて手当がチャリンチャリンで羨ましい! 酔虎亭で一杯ぐらいご馳走しなさいよね!」


 プリスカは苦笑しつつも、目を細めて頷いた。


「意外とがめついっすね、先輩」


 プリスカがそう言いながら寝巻きを脱ごうとしたところ、サンティナが「やめて! 部屋出るから待って!!」と叫び、ぱたぱたと逃げていった。


(……にしても、ほんとになんちゅー寝巻きよ、プリスカ)


 *


 一方そのころ。

 執務室ではクラーレが昨日の勤務記録を淡々と整理していた。普段はトマファがしてくれるのだが、昨日の昼前に体調を崩して早退したから慣れない手つきで彼女がこなしていた。しかし夜勤記録とは別の『看病勤務記録』にプリスカの名を見つけた瞬間、手が止まる。


「……泊まり込み?」


 思わず備考欄に目を走らせる。


《体調を崩した文官・トマファの看病のため》


 オリゴが書いたであろうその一行が胸に刺さる。自分が昨日、軽い気持ちで放った言葉が突然の重みを持って蘇る。


(あんなこと言うんじゃなかった……“嫉妬ですか”なんて冗談のつもりだったのに)


 プリスカが本気で心配していたこと。トマファが本当に傷ついていたこと。どちらも自分だけが気付かなかったのだ。


「……私、また?」


 クラーレは思わず書類を胸に抱えたまま、立ち上がろうとした。でもどこへ行く? プリスカのところ? トマファのところ? 唇を噛み、俯いたまましばらく動けなかった。


(……どうして、私はいつもこうなんだろう)


 トマファの優しさに甘え、無神経な言葉を平気で投げて。 プリスカの機転にも気づかず、彼女が動いていたことすら見落として。自分はいつも気づくのが遅い。


(ねぇ、私。トマファ君のこと、また傷つけたのかな)


 その問いが心の中で何度も何度も繰り返されていた。


 * * *


 陽が高くなりはじめたころ、プリスカは中庭のベンチでひと息ついていた。

 結局サンティナが起こしに来てくれたけど点呼には間に合わず、オリゴからこっぴどく叱られたのだった。だけど事情を察してか始末書と連帯責任は許してもらえたのだが。そのため遅めの朝ごはんを中庭で摂っていた。パンを片手に、もう片方の手にはぬるくなった紅茶のカップ。

 夜勤明けの疲労感はまだ体に残っていたけれど、不思議と心は軽かった。


(――でもさ、夕べけっこう恥ずかしいこと言ってたよね、私)


 独り思い出しては顔を赤らめたりしかめたりと忙しくしながらパンにかじりついたそのとき、背後から足音が聞こえた。振り向くと、旅装姿のソーテルヌがゆっくりと歩いてくる。


「おはようございます、メイドさん。――プリスカさんでしたっけ? 失礼。こんなところでお会いできるとは」

「おはようございます。休憩中ですがみっともないところをお見せして申し訳ありません」


 パンとカップをベンチに置いて立ち上がろうとしたところ、ソーテルヌが右手で小さく制する。


「良いですよ、そのままで――横を失礼しても?」

「えぇ、構いません。ところで旅の方が中庭なんか散歩して、何かございました?」

「ええ。キュリクスの湯治場が評判と聞いて。どこから回ったら良いのかと聞こうと思ったら、あなたが見えたので」

「おすすめ? いっぱいあって絞れませんね。いっそ片っ端から巡ったらいかがです? 私たち地元民ですら天気と気分で入りに行くところ変えるぐらいですから」


 プリスカは冗談めかして笑う。ソーテルヌも口元をほころばせる。


「では、案内してくれま――」

「男性が女性と一緒にお風呂に行くなんて! ――私、そんな尻軽に見えます?」


 プリスカはムッとした顔でピシャリと言い返すと、ソーテルヌは一瞬驚いたあと、ふっと吹き出した。


「失礼ッ! そんなつもりでは――」


 ふたりの間に、しばし静かな風が吹いた。ソーテルヌは懐から焼き干菓子を出すとプリスカの前に優しく突き出した。「いいんですか?」と訊くと「どうぞ」と彼は応える。


「ふふ。あなた、悪い人じゃないね、お菓子くれるもん」

「こんなのであなたの歓心が得られるなら安いもんですよ。――そう言えば、館の人々はみんな温かいですね」


 ソーテルヌがぽつりとこぼす。その目にはどこか遠くを見るような光が宿っていた。

 そのとき、小さな鈴の音が風に乗って届く。

 プリスカは紅茶をぐっと飲み干すと立ち上がった。


「――お菓子ありがとうございます。ちょっと、夢の続きを見る人がお呼びみたいですね」


 プリスカはカーテシーをするとスカートの裾をはためかせながら風のように宿舎へのショートカットを駆け抜けていった。




(とある新任女兵士、ネリスの日記)

入隊2か月と12日目


 私たちは何を見せつけられているのだろうか。

「レードルの戦い(1682)」と書いたら歴史書っぽくなるだろうか?


 事の発端は『予備役隊の戦闘訓練見学』だ。

 この領主軍には正規軍の他に予備役というのがある。例えば寿退役や出産育児退役した女性軍人には月々の僅かな俸禄が支払われるけど、有事には出動義務がある人たちだ。そして月に数日は訓練をすれば日当まで出るって制度もある。領主のヴァルトア様が赴任してきた際に夫婦でエラールからキュリクスへやってきた軍人の妻(元軍属に限る)が対象らしい。


 例えばヴァルトア様の妻ユリカ様、武官長スルホン様の妻エルザ様、他にも数名の予備役がいるらしい。それに実は軍属のメイド隊の隊員も月に数日は訓練の義務があるらしい。


「はいはーい! では予備役のみんなはそれぞれの()()を持ったら勝ち抜き戦で訓練するからねー!」


 最近では靴ベラを腰に下げてるメリーナ小隊長が言うと、まずはエルザ様とオリゴ様の訓練が始まった。エルザ様の得物はレードル。『調理道具のお玉』と言えば判りやすいかな? オリゴ様はスティレット代わりの細い棒っ切れ。


「最近スルホちゃんがおさかなさんを食べるようになったのよ? オリゴちゃんのアドバイスのおかげね!」

「いえ。子ども舌は甘酢が好きな方と苦手な子と別れますけど、スルホン様はそこまでガキ舌じゃなかったんですね」

「そうみたいー。でもお肉の方が好きなんだって」

「スルホン様のすかしっ屁、すこし匂いますからお野菜も食べたほうが良いですよ」

「そうそう! スルホちゃんのおなら、くさいよねー!」


と、ぶっちゃけしょうもない雑談を交わしながらレードルとスティレット(風の棒)が有り得ない速度で打ち合いカチ合ってる様は滑稽であり、恐怖である。あの中に割って入れと言われたなら、問答無用で除隊を申し出たい。



「ところでオリゴちゃん、この前サンプルで渡した化粧水、どうだった?」


 そう言いながらエルザはオリゴから間合いを取ると、オリゴは横移動でエルザの左側へ回り込もうと移動する。


「隊の若い子たちの数名はファンデーションの馴染みが変わったと言ってましたね」


と応えながらオリゴは飛び込んで間合いを詰める。


「あらら、創薬ギルドのアルディさんに報告したいから詳しく教えて?」

「良いですよ。マイリス副長の感想は――」


 この二人はお化粧水の具合を片やメモを見ながら、片やメモを取りながらレードルとスティレットが交錯する。


「こらー! 二人とも真面目に訓練しないとメッだぞ!」

「メリーナちゃんもお化粧水試す?」

「じゃあみんなでバトルロワイヤルにします?」

「あ、それ賛成! じゃあユリカ、行きまーす!」

「えー! それなら私も!」


 靴ベラが、物干し竿が、レードルが、ハンガーが、アメクラが、折り鶴が、激しく飛び交う練兵所。


「私らは一体、何を魅せられてるんだ?」

「さぁ?」


 思わず一人ごちた私にクイラが静かに返事をした




 なお、メタい発言をするなら32話~37話までオリゴ様が留守だったのは、こんな訓練をしていた。

ブクマ、評価はモチベーション維持向上につながります。


現時点でも構いませんので、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価して頂けると嬉しいです!


お好きな★を入れてください。




よろしくお願いします。



※アメクラとは?

「アメリカンクラッカー」の事。別名・カチカチボール

今も売ってるらしい。


※折り鶴とは?

長女の結花ちゃんだろ。いい加減にしなさい!

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