39話 武辺者、政策を決定する
普段は近隣の農家や仲買人、そして行商人が熱い商談を交わすキュリクス中央市場。
この日は主神への豊穣祭の初日。市場の周りには屋台が軒を連ね、軽快な音楽と笑い声が響いていた。リュートとバンドネオンが演奏を始めると、ツィンクが陽気な旋律を歌い出す。それを聴いて街一番の踊り自慢が輪の中心に躍り出ると、そしたら一人、また一人と踊りに興じ、どんどんと踊りの輪が広がってゆく。それを見て皆が陽気に飲んで笑う。香ばしい肉の焼ける音に焦げた蜂蜜の香り、そして売り子の威勢のいい声。祭りの空気は目に見えぬ熱気となって路地裏にまで満ちていた。
カラフルな布を張った屋台では、揚げ菓子や炙り魚、焼き栗、ぶどう酒が山積みになり、子供たちの笑い声に混じって大人たちの商談が飛び交っていた。祭りでありながら商売の場でもある。それを領主館の面々はお忍びで様子を伺っていた。商店主然とした平服に山高帽を被ったヴァルトアと、その従者として丁寧に仕立てられた服のトマファ、そしてメイド服を着せられたクラーレとオリゴがこっそりと祭り騒ぎを見つめていたのだ。
しかし、熱気や人いきれで疲れたのか、クラーレはその喧騒を道端の稲わらに腰を下ろして遠巻きに見つめていた。
「見てくださいヴァルトア様、警吏から聞いたんですが、今年は屋台が倍も出てるそうで! こりゃ警備は大変ですね!」
飾緒を付けた礼服に儀礼用制帽、長剣を腰から下げたアニリィが串焼きを片手に上機嫌でやってきた。外見はカッチリとした上級将校そのものだが、その様子はどう見ても『祭りを満喫するコスプレイヤー』だった。着ているものの威厳と、本人の脱力した様子の落差が激しすぎて、威圧感はまるでない。
ちなみに本来なら訓練隊で懲罰を受けているはずの身だったが、警備の人手不足のため“酒を飲まない”ことを条件に一時復帰中。飲まなければ、そこそこ頼れる武官なのだ。
「警備主任はお前だろ? なに呑気なこと言ってるんだ。――くれぐれも業務中は呑むなよ?」
「へいへーい、善処しまーす」
「善処じゃなくて、マジだ!」
ヴァルトアは豪快に笑いながら、アニリィの頭を大きな手でがしっと掴むと、もう片方の手でその頭頂部を容赦なくアイアンクローでグリグリと締め上げた。
「あがががが! の、脳みそ漏れるです!」
「アニリィの頭なんて酒と酒と、あと酒のことしか詰まってないでしょ?」
平服姿でつば広の帽子をかぶっていたオリゴは静かに声を出す。黒のロングスカートに控えめな飾りのついた上着、そして髪をまとめた飾り気のないリボン。似合ってはいた。似合ってはいたが、なぜか祭りの浮かれた空気の中でその佇まいだけは異物のように浮いていた。きっと変装のつもりだったのだろうが、内に秘めた冷気と眼差しの鋭さがあまりに鋭く、まるで「見るな」と周りに命じているようだった。
「はやく警備に戻れ! こっちはお忍びで来てるんだぞ」
だが、ここまでアニリィが派手に暴れていればお忍びなんて話が通るはずがなかった。
「領主様だー!」「こっちの串、焼きたてですよ!」
周囲の民衆はとっくに気がついてたらしく、誰かが声を挙げるとまるで旧知の顔を見るように笑顔で迎え入れてくる。誰も畏れることなく、憚ることもなく、むしろ酒やつまみ片手に「どうぞ一杯やってください」と差し出される始末だ。中には、「この前の用水路の工事のおかげで今年は水害被害がありませんでした、今年もこの通りですゃ」と、大事そうに育てた芋の煮っころがしを渡す老女の姿もあった。
お忍び視察は失敗だった。しかし民衆らはこの地を治める領主に畏怖は覚えず感謝を伝える始末であった。
一方、道端の藁山に腰を下ろしたメイド服姿のクラーレはノートを取りながら静かにひとりごちる。
「屋台や民衆が集まるほど通行路の警備費も跳ね上がるわね、出店税で賄えるかしら」
「クラーレ殿、こういう時は糖分摂取をすると計算効率が向上すると、錬金術師のレオダムさんの論文でありましたよ。――良かったら一緒に食べませんか?」
そこへトマファが車椅子で静かに近づき、紙包みのチーズパンを差し出した。クラーレは一瞬表情を緩める、そしてふいに心にノイズが走るのを感じた。けれど、すぐに咳払いをして気持ちを一旦整える。こんなところで取り乱してどうするの、そう言いながらも昨晩のプリスカとトマファのデートをふと思い出す。
「――そうですよね、一緒に頂きましょう。おいしそうですね」
「えぇ――あと、その服、似合ってますよ?」
その言葉にクラーレの胸はどきりと跳ねた。淡々とした口調にまるで他意はなく、それがかえって強く刺さったようだ。ちょうどその時、広場の太鼓がドン、と響く。胸の鼓動と重なったようなその音にクラーレは一瞬だけ息を呑んだ。どうやら中央のステージでは聖心教の尼僧が現れると主神礼賛歌が行われていた。
*
その日の夜。領主館の会議室。
長方形のオーク卓に灯火が揺れ、祭囃子の余韻が遠く聞こえている。
「近年まれに見る麦の豊作にヴェッサの森の木製食器の販売促進、そして整備したやぐら宿が思いのほかの大盛況。領民たちの努力にまずは感謝したい! ――で、この収入についてどうするかについて君たちの考えを聞かせて欲しい」
ヴァルトアの朗々とした開幕宣言に、一同が息を呑む。
会議室には文官のトマファとクラーレ、財務と統治実務を担う二人の中心人物。その向かいには、武官長スルホンが警備で不在のため、ヴァルトアの妻でありながら現場経験豊富なユリカ。領主館の実務運営を一手に引き受けるメイド長オリゴが控えていた。見た目こそ多様だが、それぞれがキュリクスの行政を支える柱である。
その開幕宣言に応えるように、トマファが表を広げる。
「税引き後の秋期収入は三万五千ラリ。短期的に可処分所得を増やす減税には即効性がありますが、まずは所得階層別の影響を整理する必要があります」
数字と論理を整然と並べながら、トマファは冷静に指を動かす。視線は端正でぶれがない。
「減税より優先すべきは井戸と下水の補修と、道路と城壁の修繕です。インフラ投資は地域経済の底上げとなりますし、冬場の農民たちの稼ぎ扶持にもなりますから長期的な乗数効果が見込めます」
「減税によって庶民の手元に残る銭が増えれば、それはそのまま台所の安心に繋がります。安心があれば、人は買い物をし、働き手は酒場で一杯やる気にもなるでしょう。結果として商いも回り、その減税した分は消費財に対する税で回収できるはずです。机上の計算よりまずは暮らしの火を消さないことが大切です」
トマファのインフラ投資案に対してクラーレがきっぱりと返す。彼女は『現場』の感覚から物を語り、数字の裏にある暮らしを重視する事を主張した。トマファは少しだけ表情を動かし、穏やかに反論する。
「ただ、持続的な経済成長を支えるにはまずは公共インフラの整備が欠かせません。井戸や道路への投資は雇用を生み、将来的な流通効率を高めます。短期の消費よりも中長期の生産性向上こそが地域の底上げをもたらすと僕は考えます」
抑揚はないが理路整然とした応答だった。クラーレとは方向性が異なるがどちらも民を想っての主張だろう。二人の意見はすれ違いながらもどちらも本気だ。その場の空気が静かに熱を帯び始める。
アニリィは椅子を傾けて脚を組み、「うーん、どっちも堅い話だよね。庶民に酒代と餅代をばら撒けば、明日から倍働くと思いますよ?」と笑いながら言った。礼服姿で帽子を小脇に抱えた彼女はいつの間にか会議室に紛れ込んでいたのだ。
「――お前はまず、持ち場の警備に戻れ」
ヴァルトアの一言で、アニリィはオリゴに引っ張られて退室した。
「俺はアニリィの意見ではないが現金給付には慎重だ。確かに即効性はあるが単発の刺激で終わることが多い。使い切れば終わりだ。継続的な雇用や生産力を生む仕組みとは違う。そこを見誤ってはならん」
そのヴァルトアの意見を聞いて、ユリカが苦笑を浮かべながら言葉を続ける。
「民衆ってね、本当に鋭いのよ。増税に切り替えれば『まずお前たちが節制しろよ』って声が飛んでくるし、減税すれば『不足分は将来どう穴埋めする気だ』って詰められる。――ま、当然よね。私たちが見られてるって、忘れちゃいけないわ」
ユリカの言葉を聞いて皆の背筋がピンと伸びた。蝋燭の灯りが揺れる。会議室には緊張の空気が満ちていった。そしてお互いの意見をどんどんとぶつけ合う中、会議室は次第に熱気を帯びてくる。
「減税は即座に可処分所得を増やし、消費を促します。低所得層の購買力が高まれば、地場産業にも好影響が出ます」と、クラーレはきっぱりと主張すると、
「ですが、インフラは一度の投資で持続的な生活環境を整備できます。可処分所得が一時的に増えても、道や井戸が使えなければ無意味です。数字が示すのはその継続性です」と、トマファは冷静な語調で切り返す。その奥には譲らぬ信念が滲んでいた。
トマファは常々、「安易に減税すれば金は市場でなくタンスの中に停留する」と訴えていたのだ。その考えを知っていたからこそクラーレはまず、民衆目線に立ち返るべきだと訴える。
「トマファ君、数字だけで民の明日が測れるとでも?!」
「数字と経済論は未来の鑑です。消費の波ばかりを追えば、財政構造そのものが脆くなります。未来を見通せない鑑なら、最初から曇ってるんです」
会議室の扉がすうっと静かに開き、場の熱気を断ち切るように涼やかな風が吹き込む。オリゴがワゴンを押して入室した。銀の水差しと蜂蜜菓子の皿が扉の向こうから差し込む廊下の灯りのせいで微かに反射する。
「議論に熱があるのは結構。でも“熱くなる”のは違います」
彼女の声は静かでありながら、一瞬で場を鎮める力を持っていた。
「五分だけ舌を甘やかましょう。議論にも甘辛い幅が出ますわ」
ヴァルトアはほっとしたようにうなずいた。「ありがたい。肝に銘じよう」
トマファは頭を下げつつ頭を掻いた。「自分も言い過ぎました」
クラーレも頬を撫でながら、「……お騒がせしました」と小さく頭を下げる。
会議の終盤。外では夜通し行われた祭りが一段落したのだろう。空には魔導花火がぽつりぽつりと咲いていた。
「今日はこの歳入をどう活かすかで意見を打ち合わせられただけでも前進だ」
ヴァルトアはゆっくりと立ち上がった。
「もうじき夜が明ける、今日はここまでにしよう。予算の続きは明日で構わん――今は頭を休めろ。よい政策には冷静な判断が要るはずだ。二人とも少し気晴らししてくるといい」
「わたしもそう思います。ねぇあなた、二人でお祭り見に行きましょ?」
ユリカが微笑む。「――オリゴ、警備は不要よ」
「御意にございます」
クラーレは帳簿を抱えながらトマファに向き直る。
「トマファ君……それなら少し気晴らしに。私たちも、お祭り、少しだけ見に行きませんか?」
トマファはわずかに目を見開き、それから頷いた。
「ええ、良いですよ――ですが少しだけ仮眠させてください」
「そうね。――官舎まで押していくわよ」
「いつもありがとう」
トマファの車椅子を押すために後ろに回り込んだクラーレはトマファの袖がふれ、わずかな静電気が走った。クラーレは小声で「ありがとう」と呟き、会議室を後にした。窓の外では小さな花火が夜空に咲き、揺れる光が二人の横顔を照らした。
*
翌朝。
クラーレはトマファの車椅子を押していた。収穫祭二日目でも祭りの熱狂は冷めきらない。
街路を進むが二人の間にはどこかぎこちない空気が漂っていた。夕べ交わした議論――内容も、言い方も、まだどちらの胸にもわだかまりとして残っていた。
『これは祭り見学じゃなく“視察”だもん、街のみんなの生の声を聞かないと』
自分にそう言い聞かせながらもクラーレの気持ちは重かった。
そこへクラーレの気持ちをかき乱すものが甘い匂いを漂わせながら飛び込んできた。プリスカだった。かわいらしい私服姿で菓子箱を両手に持ち、笑顔で跳ねるようだった。
「トマファ様〜、おはようございます! 一昨日のお礼に甘味持ってきました〜!」
その声は通り全体に響き渡り、周囲の目も気にする様子はなかった。横からすっと抱きついて頬付けすると、当然のようにトマファの背当たりについてる車椅子のハンドルに手を添えた。
「え、ちょっとプリスカさん?」
「クラーレちゃん、わたし、こう見えて力持ちなんですよ! ね、二人で行きませんか?」
クラーレは一歩引いて見守りつつ、内心ざわつく気持ちを抑えていた。
(なんなの本当にこの子、まったく。気持ち隠す気ゼロじゃない……)
それでも結局、三人で祭りを見て回ることになった。
クラーレが車椅子の右手を押し、プリスカが左手からぴったり寄り添うという、不自然な三角形のように歩いた。トマファはそれに何の違和感も覚えていない様子で、淡々と屋台の数や人の流れを記録していた。
クラーレはというと、内心では“仕事中”と必死に自分に言い聞かせながらも、どこか落ち着かない。
プリスカはというと、もう完全に“お祭りデート”の気分で、屋台の菓子や玩具を次々と差し出しては、「これ、トマファ様に似合いますよ!」「あ、クラーレちゃんにもどうぞっ!」と無邪気に笑っている。混ざる香り、人の声、太鼓の音。クラーレの耳には、プリスカの声だけが妙に大きく響いた。
三人で祭りを冷やかしていた時、祭り会場の臨時詰所前にて。
「あらー、トマファ君、両手に花とは羨ましい! ボクも混ぜてよ!」
「お祭りは楽しんでるかしら?」
当直と書かれた腕章をしたいつもの軍服姿のメリーナと、普段のメイド服ではなく腕章に軍服に袖を通したオリゴが詰所前で立っていた。なおメリーナは靴ベラを肩に担いでいるし、オリゴはダガーを腰から下げていた。時折、メリーナはお祭りを愉しむ子どもたちから「スポブラの姉ちゃんや!」と声を掛けられていた。オリゴの目がクラーレの表情をひと目見ただけで何かを察したように細められる。
「ところでクラーレ殿、ちょっと手を貸してほしいわ」
「――はい、なにを?」
「ちょっと、資材の棚が合わないから付け合わせを手伝ってほしいのよ。ほら、メリーナは3より大きい数は数えられないからあなたが頼りなのよ」
「もぉー、9までは数えられるんだぞー!」
そう言ってメリーナは自分の肩に靴ベラをぽんぽんと叩いていた。
「はいはい。――プリスカとトマファ殿はしばらく待ってなさい。ちょっとクラーレ殿を借りるわ」
「あ、はい」
オリゴに気圧されるように答えたクラーレは、そのまま彼女らと共に倉庫へと連れ出された。
「子ども相手に焼き餅を焼くなんて、あなたらしくないわね」
オリゴの声は静かだが容赦がない。メリーナはにやにやと肩で笑いながら「にゃーん、恋の季節だねぇ」と口を挟んでくる。クラーレは何も言えずただ頬を赤らめてうつむくしかなかった。
「遠くから見ててもぷんぷんな顔してたわよ。どう見てもお祭りを愉しんでるって表情じゃないわ」
「で、ですが、その」
「なんか悩んでるのでしょ? 言いたいことがあったら私の顔を見ずにいいなさい」
そう言うとオリゴはすっと背を向けた。それを見てメリーナは両目を手で隠す。クラーレも背を向けると静かに答えた。
「私、前にセーニャとトマファ君をくっつけようとしましたけど、今更ながらそれ、やめようかと思いまして」
「ようやく自分の心を測り始めたようね」
オリゴが柔らかく言う。メリーナが両手を合わせて頷いた。
「うんうん若いね! 命短し恋せよ乙女だよ!」
「ありがとうございます、でもあの人。仕事しか見てないんですよ」
クラーレの声には、拗ねた色が混じる。トマファは雑談してても仕事の事ばかり考えている生真面目な人。だけどそこに少しずつ惹かれて行ったのかもしれない。
「仕事が一番楽しい時期なのもあるけど、彼の場合は――」
オリゴは意味深なまま、言葉を切った。
「てか、今日はオフなんだから祭りを愉しみなさい。あんなご機嫌猫なんか気にせずに素直になりなさいな」
「そーだよー? クラーレちゃんもトマファ君と同じ真面目すぎるぞー」
二人からそう言われて少しだけ、ほんの少しだけ心が楽になった気がした。
*
翌日の政策会議。
クラーレは資料を皆に配ると、新たな政策を提案した。
「黒字の年に限定した“貯蓄型減税”案です。――これは、昨日お祭りを見て回った時に、街の方の声を聞いて思いつきました」
言葉の端にわずかに熱がこもっていた。三人での気まずくも温かい視察の最中、素直な感情と数字の隙間に落ちた何かが、この案へと結びついていた。だが、トマファは難色を示す。「それでは投資の一貫性を損ないます。民は一度減った税を“当然”と錯覚しますよ」と。
「それでも、今夜食べられるかを考えるのが庶政です。感情を無視しては支援になりませんよ!」
「だからこそ、感情ではなく数字で判断すべきです」
またしても空気が張り詰める。
短い休憩時間。ユリカがクラーレの横に立ち、茶を差し出した。
「恋ってのはね、理屈を捨ててからが本番よ」
「恋じゃありません!」
そう即答したクラーレの頬は、微かに赤い。
「はいはい、減税と一緒。やるかどうかじゃなくて、気づくかどうかの段階なのよ」
次にクラーレが提案したのは、「段階的減税+農業支援基金」という折衷案だった。
「現状の黒字を活かしつつ、未来の不作にも備える。両方のバランスをとる形です」
トマファが続けて、具体的な財源と支出配分の整合性を丁寧に説明した。予備費の取り扱いや基金の運用計画なども明示され、数字の裏付けが加わるごとに議場の空気が徐々に落ち着いていく。ヴァルトアは腕を組みユリカも穏やかにうなずく。ひとまず議論は収束の兆しを見せ始めていた。
その時だった。
「メイド隊より報告でーす!」
勢いよく扉が開き、プリスカが両手を振って乱入してきた。皆が何事かと血気立つ。
「わたし、お祭り前にトマファ様に告白しましたー! でもフラれましたー! そのために3日間の失恋休暇に入りまーす!」
会議室の時間が止まったかのようだった。
オリゴがすぐ後ろから追ってきて、眉を吊り上げる。
「バカかお前、大事な会議中でしょ!」
クラーレは反射的に顔をしかめた。心に蘇るのは、あのお祭りの時の“甘味を持って近づいた姿”。あの時にはもう告白して、そして――速攻でフラれていたってことなんだ。それでも、何のおくびも出さずに一緒に回っていたあの無邪気な笑顔。屋台の菓子を差し出してはしゃいでいた姿。胸がざわつく。だけど、フラれたと聞いた瞬間に、胸を撫で下ろしてしまった自分がいた。——その事実に気づいて、クラーレは軽く目を閉じる。
*
その夜。文官館の自室。
クラーレは帳簿の前で手を止めたまま、ランプの灯りに照らされた数式を見つめていた。
「――なんで私、こんなに悩んでるんだろう」
帳簿の隅には、“これは恋ではない”と書かれた鉛筆の文字が、消し跡として薄く残っていた。
今日の会議はプリスカの乱入によって緊張感が切れてしまったせいか明日へ持ち越された。明日こそ、あのトマファを唸らせるような案を出さないと——そう思ったクラーレは、まだ明かりの灯る文官執務室で一人、経済論と政治論の本を開いていた。傍らには算盤と先ほど書きかけた提案メモの束。鉛筆をくるくると転がしながら、街の熱気や太鼓の音を思い出しては数字と民意のバランスを探ろうとしていた。
「どうぞ、お茶が入りましたよ」
珍しいことに、オリゴが文官執務室にまでわざわざお茶を運んできた。普段なら指定して呼ばなければ滅多に来ないメイド長が自らここへ足を運ぶのは何かある時だけだ。銀の急須と湯気の立つ陶器の器が二つ、音もなく卓上へ置かれる。
「――オリゴさん」
クラーレが椅子から立ち上がろうとすると、オリゴは無言で手を伸ばして制し、そのまま横に腰を下ろした。 そしてふとオリゴの手がクラーレの肩を包むように回された。 その仕草は優しく、しかし確かに肩を寄せてくれた。クラーレはこらえていたものが堰を切ったようにふっと重い息をつくと、目に溜まっていた涙がするりと頬を伝った。
「落ち着いてからでいいわ。言いたいことがあるなら、ぜんぶ吐き出しちゃいなさい」
その一言で、張り詰めていた神経がようやく緩む。クラーレは声にならない嗚咽をかみ殺しながら、静かに肩を震わせ続けた。
「私――ずるい女なんです」
ようやくぽつりと、クラーレは漏らす。
「セーニャとトマファ君をくっつけようってずっと思ってました。それが一番丸く収まると――思い込んでいたんです」
「“丸く”ね」
「でも本当は、本心は、何を思ってやっていたかは分かっていて、でもそれを気付かないふりをしていただけでした。――セーニャがトマファ君にフラれたら、それで私は安心できるから、確認したかったから、くっつけようとしてたんです」
オリゴは静かに微笑む。
「ずるさはね、“気づいた”時点で矯正できるわ。本当に厄介なのは、それに気づかない人と、気づけない人よ」
クラーレは黙って湯気の立つ茶を見つめた。その香りは、妙に胸に沁みた。
*
「で、なんて告ったのよ!」
アニリィの問いかけに、囲まれたプリスカは胸を張って宣言した。
「はい、一生お守りしますから酔虎亭の経理をやってくださいって言いました」
「それ告白じゃなく、ガチ目のプロポーズじゃない?」
酔虎亭の一角。そこにはアニリィ、メリーナの姿があり、祭り騒ぎの打ち上げついでの一杯が、いつの間にか『プリスカの残念失恋報告会』のような空気になっていた。
「――やっぱ泣いちゃった?」
メリーナがワインを飲みながら聞くと、プリスカは笑顔のまま頷いた。
「泣きました、三分間だけ! それからここの裏にある焼き菓子屋に走って、十個食べました!」
「それ、ダメージゼロじゃん」
メリーナのツッコミに、アニリィが両手を叩いて笑った。
「よーし、次行ったれ! 世界の半分は男なんだからな!」
「はいっ、私はめげません! 虎のごとく狙った獲物は逃がしません!」
「……こいつ、思いのほか重症かもだぞ、オリゴ」
「あと、いざって時はトマファ様やクラーレちゃんを守れるメイドになりたいです!」
「おぉ、言ったな!」
メリーナががしっと肩を掴む。「それなら仕事上がりに練兵所においで? ボクが徹底的に鍛えてあげるから! 今すぐでも良いよ!」
「にゃッ!」
その賑やかな声を、流した涙の分を補給しに来たクラーレは、一歩だけ引いて足を止めた。笑い声。軽い冗談。明るい失恋。――私は、あんなふうに笑えない。そのまま踵を返し、ひとり店を出た。
*
翌日。政策会議室。
クラーレは張り詰めた調子で議題の数字を読み上げていた。だが、ある箇所の説明をしていた時にふと言葉が喉の奥で止まってしまった。かすかな違和感――あるいは心の揺れだろうか。思考がひと息だけ止まってしまったのだ。そのほんの一瞬の隙間で何を言うべきかが全て飛んでしまった。その沈黙が彼女にとってはやけに長く感じられた。居並ぶヴァルトアたちの視線がクラーレに突き刺さる。
その空白を隣に座るトマファがすぐに補った。
「――以上の分配案に基づき、翌期の予算枠を調整すれば、農村・都市部双方に適切な還元が可能です、とクラーレ殿の考えです。ですよね?」
トマファはクラーレの言いたい事を把握した上で数字も順序立てて話した事でヴァルトアやユリカの表情が明るくなる。クラーレは小さく頭を下げ、言葉少なに礼を述べた。だが、視線は交わさなかった。
会議は粛々と進み、様々な意見が積み重ねられた上で最終判断はヴァルトアに託された。
「ここまでよく揉めてくれた。今日こそ“キュリクス統治”の小さな第一歩だ」
ヴァルトアの満足した表情と閉会宣言にて政策方針が定まった。
会議後の執務室。クラーレが書類整理をしていた手を、ふと止めた。
「トマファ君。あなたの読みは、正しかったです」
トマファがふと顔を上げる。クラーレは続けた。
「私は、“感情だけで動いた政策”の怖さを、少しだけ理解できた気がします」
「それでも、あなたがいなければこの案は実現しませんでした」
短い沈黙ののち、トマファが柔らかく笑った。
「あなたの助言がなければ、ここまでは来られなかった。あと算盤ありがとう」
クラーレはなにも言わず、黙って机の端に置いてあった算盤を差し出した。それを彼が受け取ろうとしたそのとき、指先がふれた。ぱち、と静電気の音。
「……すみません。乾燥してるので」
クラーレが小さく笑い、視線を外す。
目が合いそうだけど合わせられない。けれど、その距離は昨日より確かに近かった。
*
その日の夕刻。領主執務室。
ヴァルトアが会議記録を閉じながらぼそりと呟いた。
「トマファとクラーレ……歳も近いし、わしが仲人やってもいいかな」
オリゴは控えめに笑った。
「それはまた、色んな過程をぶっ飛ばす政策ですね」
★ ★ ★
「では次のステージは、聖心教の尼僧による主神礼賛歌です」
指を天に突き上げて激しくシャウトしながら、あの黒ギャル尼僧がステージに上がってきた。
「ふぉぉぉおおおおおお!! 主神よ真心のままにぃィィィイイイイ!!」
すると突然、まばゆいばかりのスポットライトが褐色の肌の尼僧を照らす。
「KO-KO-ROは」「常に上向いてけぇ!」ステージにはもう一人の白ギャル尼僧が叫んだ。
詰め掛けたオーディエンスは尼僧のステージに期待値が上がってゆく。
今年も伝説のリリックが駆け抜ける。ストリート生まれ修道院育ち。本物の福音歌が聴けるのだ。
トゥニカにウィンプル姿のギャル尼僧二人が目で合図を送る。
ギャンギャンなるリュートとバンドネオンが響く。さぁショータイムだ。
♪あぁ 心と共に主神よ
汝が声 この胸に宿れば
悩みも迷いも 雲貫いて
「みんなも祈ってこ! HO! YEAR!」
祈るは今 我らの鼓動
揺れろ 揺れろ この魂!
オーディエンスのバイブスはぶちあがりだ!
手指でハートマークを形作ってハイ! ハイ! と合いの手を打つ。
「ありがとー! ありがとー! ありがとうは主神と共に助け合いぃ~♪」
\アンコール♪/
\アンコール♪/
「ありがとー! 私たちは聖心教で尼僧をやってる、黒でーす」
「私は白じゃぁぁぁああああ! Fxxk!」
\黒ちゃーんこっち向いて―♪/
\もっと熱いバイブス倍プッシュ♪/
「ではアンコールにお答えして、“なのはな体操”!」
\わぁー♪/
\まずは背伸びの運動ぉー♪/
お祭りは無事に進行していったらしい。
ブクマ、評価はモチベーション維持向上につながります。
現時点でも構いませんので、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価して頂けると嬉しいです!
お好きな★を入れてください。
よろしくお願いします。
※なのはな体操
千葉県民のナショナリズムの源流となる体操




