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38話 武辺者のねこメイド、撃沈

第二版です。

(初版は諸般の事情により削除しました)

 渡り廊下の夕焼けが領主館の屋根を黄金色に染める。

 仕事を終えたクラーレ・サルヴィリナ――私は着替えを手にして足早に銭湯へ向かっていた。今日はどこへ行こうかな、ちょっと遠くまで足を延ばそうかな。だがふと足が止まる、中庭で談笑する二人の姿が目に入ったからだ。


 トマファ君と、猫のように気まぐれで陽気なメイド、プリスカだった。


「私も仕事上がりなんです。ね、ちょっと散歩しません? 車椅子、押しますよ!」


 彼女が屈託なくそう言い、堅物の文官長が珍しく表情を和らげて頷くのを見たとき、私はなぜか温泉のことを忘れていた。ただの好奇心。いたずら心。それだけのはずだった。

 そうして私はそっと距離を取りながら二人のあとを追った。


 *


 街路は収穫祭を控えているせいか不思議な高揚感に包まれていた。私は雑貨屋の陰でトマファ君が算盤を弾いてプリスカに使い方を教えているのを見た。彼女が顔を寄せて「わあっ」と笑う。その距離が、まるで頬がくっつきあうほど近くて、息を呑んでしまった。


 雑貨屋では二人でハンカチの色を選んでいた時も、あまりの密着感に私がドキドキしていた。そして休息がてら甘味屋でシューケーキを食べ合いながらプリスカが訊く。


「トマファ様って……クリル村のご出身ですよね? じゃあ通名(とおりな)をお持ちなんですよね?」


 通名。——クリル村での独特の習慣で、親しい間柄なら男同士で呼び合うこともあるが、男女間では特別な意味を持つらしい。夫婦だけが許される、深く結ばれた者同士の呼び名だ。


「じゃあ、二人っきりの時はそのお名前でお呼びしても――いいですか?」


 彼の顔が真っ赤になった。私の頬も知らぬ間に熱を持っていた。そして胸がざわついた。ふつふつと湧き上がるものが、今、私の中にあった。



 月明かりの帰り道。石畳に映る影がふたつ、そして私。


「セーニャに彼をくっつけようと勧めたのも、きっと彼女がフラれ、私が安心するためだったのかもしれない」


 私はずるい女だ。人の恋に口を出しておきながら自分の気持ちは見て見ぬふりをしている。だけどこの心のざわめきは恋じゃない、そう言い聞かせても心はもう否定を拒んでいた。



 *



 翌日。

 領主館三階のフロアに響いたのは、バンッという乱暴に開く扉の音だった。




「メイド長! トマファ様に告ったらフラれました!」


 メイド長の執務室にプリスカがずかずか入ってくると封筒を突き出した。


「失恋休暇をください! 三日で立ち直ります、絶対!」


 執務机で事務仕事をしていたオリゴは溜息をついて引き出しを開けた。


「二年前、マイリスが出した以来ね……はい、正式書式。あと、昨夜割った食器の報告書もここで書いていきなさい」


 プリスカが敬礼して駆け寄ると、執務机の横のサイドテーブルにてペンを走らせた。しょんぼり垂れたフリルエプロンのリボンが、猫のしっぽのように床を撫でていた。フラれたからってだらしない恰好しないのと言いながらオリゴは椅子から立ち上がるときちんと結んであげる。そして再び椅子に腰掛けると足を組み、カップを持った。


「てか、どんな口説き文句で玉砕したの?」


 顔をわずかに赤らめながら、プリスカは机に身を乗り出した。


「私……トマファ様に、――って言ったんです」


 その瞬間、オリゴはお茶を盛大に吹き出した。カップが机を叩き、書類にしぶきが飛ぶ。普段は表情ひとつ崩さぬ彼女が、瞳を見開いて絶句した。


「バカかお前! 本当にそれを口にしたの!? 少しは恥じらいを覚えなさい!!」


 *


 オリゴは渡された書類に承認印を押すと、プリスカは元気に出て行った。あの子なら東区のスイーツでも食べに行ったらすぐに心の傷が癒えそうよね、と思った。

「さて……クラーレ。あなたの“長い夜”は、いつ明けるのかしらね




     ★ ★ ★




 夜のキュリクス西区。静まり返った舗石の街路を、コツ、コツ、と乾いた音がゆっくりと刻んでいく。それは靴音ではなかった。皮も肉も通さぬ、骨と石が触れ合う音。音の主はひとり。いや、ひとつというべきかもしれない。


 黒い影を落としながら歩くその姿は、骨ばかりで構成された人型の何か――スケルトンだった。アルカ島でのスケルトン暴走事件のあと、錬金術ギルドに保管されていた“標本”だったはずの存在は、深夜、何らかの愉快な事故によって動き出したようだ。


 声はない。目もない。だが歩く。明確な自我はないだろうが、収穫祭直前の異様な雰囲気が彼の違和感を薄めているのかもしれない。そして彼は街の掲示板の前で立ち止まると首を傾げた。掲示板には各種税金の納付期限、来週の市場情報、王国民年金に関する注意事項の掲示が並ぶが、とある文字に彼の指先がかすかに震えた。


 “年金”――かつて彼はその制度にかかわる端末の一つとして働く、しがない小役人だった。同僚の讒言で政治犯とされ、アルカ島に送られ、自身の年金受給申請も完了しないまま、命を失った。


 記憶も名前も、全てが失われた。


 けれど“何か大事な手続きを忘れている”という感覚だけが骨身に染みついていた。血肉は無いが。


 彼に目的が出来た。掲示物の発行元である年金事務所を探さなければ。


 そしてスケルトンはまた、街の中を歩き出した。


 *


 翌朝のランバー整骨院。

 キュリクス東区一番と誉れ高い柔整師が居る医院だ。そこの院長ランバー・ガスティンは、開院準備に向けて表を掃こうと玄関に出たところ、奇妙な来客に気がついた。


 入り口の前に立っていたのは、まさしく“骨”だった。

 それはただ立ち尽くしていた。


「――おまえ、模型か?」


 返事はない。

 しかし首をコクンと動かしてみせる、頷いた。


「動くのか。歩いてここまで来たのか?」


 骨はまた、コクン。


「喋れるか?」


 コクコク……と首をゆっくり左右に振った。


 ランバーは数秒黙ってから、ふっと笑った。


「朝から骨の神様がやって来るとはな」


 コクコク――再び首を左右に振る。

 ランバーは接骨院の玄関引き戸を開けた。


「――入れ。お前に仕事をやる」


 *


 スケルトンはそれ以来、接骨院の“ホネ先生”として受付の隅に立つようになった。

 柔整師の実技指導にも使えると、地域の施術士見習いたちにも重宝されている。

 彼はもちろん無言だ。だが、来る患者たちに時折、静かに手を振る仕草を見せる。

「こんにちはー! ホネ先生ー!」と笑顔で駆けてくる子どもに、ぎこちなくも手を振り返す姿も見せるとか。

 その不器用が、ホネ先生の優しさだと評判になってるらしい。

 彼の首から下げられた木札にはこう書かれていた。


『名:ドクター・ホネ/職:骨格模型/報酬:カルシウム菓子1日1個』

『勤務中につき触らないでね』


 *


 ある夕暮れ。

 診療の合間、院長がふとホネ先生の足元を見ると、そこに一枚の紙があった。


 王国民年金支給申請書。


 どこから持ってきたのか。誰が持ってきたのか。そしてなぜ彼はそれを見つめているのか。


 骨には語る口がない。

 その前に、彼に『ねんきん定期便』が届いているのか? 『消えた年金』となっていないのか?

 それは誰も判らない。


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