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37話 武辺者、島嶼への派兵を許可する・6

 キュリクス西区にある錬金術ギルドの書庫兼会議室。


 儂――レオダム・ド・セルマーは会議机に肘をつき、フリードを睨んでいた。


「お前なあ、ギルド本部に提出するレポートの書き出しが『アルカ島には特筆すべき事象は見られず、草がやや生い茂っていました』って、小学生の遠足レポートかよ!」


 対面に座るフリードは肩をすくめて反論する。


「ンなもん真面目に書いたら大惨事になるんだよ、レオダム先輩! 自立行動型のスケルトンがワラワラ出てきました、そのアルゴリズムは解析すれば再現できるかもしれません。こんなこと書いたら中央の連中が大喜びするじゃないですか!」


「だからって“草が生えてた”で済ませるな! 儂の孫娘でもまともな作文書けるぞ!」


 自宅で研究を続けていた時にフリードからギルドに呼びつけられ、しかも書庫と言うよりガラクタ倉庫みたいな場所に連れ込まれたかと思えばとんでもない発見をしてしまったと聞かされた。ついでに歴戦のギルド長様ならこんな報告書、ちょちょいのチョイでしょと言われドラフトを見た結果がこれである。まさに草生える。


 ――昔からフリードは作文能力が壊滅的だったもんな。


「先輩、逆に考えましょうよ! 序文が壊滅的につまらなかったら、本文は読まない! これで危険回避、ヨシ!」


「ヨシ! じゃねぇよ! それで解決するなら儂なんか呼ぶな!」


 まさに茶番だ。茶番だが、世の中そんなもんだ。


 研究論文は中身じゃない、ツカミだとオーベンが教えてくれたのを思い出す。どれだけ有効な内容を書いても序文がつまらなかったら評価はされない。そのためには序文に命を懸けるのが執筆魂ってやつだ。――まぁ、儂がよく書いた論文は『失敗しました、爆発しました』ってのばかりだったがな。


 机の端では年若い娘が議事録用の紙にペンを走らせていた。儂のかわいい孫娘より年上かな? 眼鏡がよく似あう小柄な女だ。顔を上げず、淡々と儂らの発言を書き取っている。


「いっそのこと、専門用語で塗り固めますか? 『その全島は、あたかも太古の神話に語られる終末の地のごとき様相を呈し、緑葉樹の繁茂も稀薄、枯燥とした寂寞の感が辺りを支配していた』とか、『その監獄の痕跡と目されるるものは、悠久の時を超えて風化した、いにしえの漁撈を生業とする民が用いた番小屋の根幹部分に過ぎず、往時の面影を偲ばせるにはあまりにも脆弱な遺構であった』とか、それっぽく序文を書き上げるんですよ」


 作文能力は壊滅的な癖に、小難しい言い回しは得意だったよな、フリードよ。『枯燥とした寂寞の感』なんて儂の人生で一度も使ったことないぞ? 孫娘のせいで『草萌ゆる、ぴえん』と使ったら『じじい、ボケた?』と冷静に突っ込まれたときは泣きたくなったわ。


「ところで書記のお嬢、君はどう思うかね?」


 フリードと話をしていても埒が明かん。儂は書記の娘、テルメに訊く。


「それでしたら『光学式反響素子の環境地場への過敏干渉について』って文章も差し込みましょう」


 眼鏡のレンズを光らせてテルメは言う。――お前もソッチ側の人間だったか。


「お、テルメ。お前もこっち側に染まってきたな。よし、魔導震盪現象による定期変調の不確定出現、ってのも書こう!」


「はい、“湿潤気候特有のノイズ干渉”も入れましょう」


 何言ってるんだお前ら。儂はそろそろ帰ろうかな。要らんだろ、儂。


「レオダム先輩もドラフト見て考えてください!」


 無茶ぶりは辞めてくれ。それよりも儂はクラーレ嬢から魔導エンジンの効率化についての論文をまとめたいんだがな。とはいえ何も言わなかったら帰してくれなさそう。えぇいままよ!


「人骨の挙動に関しては、戦陣における兵卒の徒然なる戯言、あるいは事実誤認に基づく虚誕として看過された蓋然性が極めて高いと推察される――これで満足か?」


 あぁはよ帰りたい。なんか今度の連休は孫娘が儂の家に泊まりに来るらしい。あいつが実家に帰っても儂の娘が小うるさい事を言って口喧嘩に発展して儂ン家に飛び込んでくるだろうからな。掃除もしないと『じじい、掃除ぐらいしねぇと虫湧くぞ』とか言うんだろうな。でもなぁ、クラーレ嬢から「お願いします、レオダム博士♡」と言われてるからなぁ。――あぁクラーレ嬢のふくよかなおっぱい揉みてぇ! いかんいかん、あの世でリーネスにガン詰めされちまう!


「さすがレオダム先輩! やっぱり論文執筆数は王国一の天才錬金術!」


「私の目標です、流石ですレオダム元ギルド長!」


 なに? 何でそこまでヨイショするの? すごく気分良くなっちゃうよ? 一週間誰とも喋らずに生きるのもザラだから、そんな安いヨイショでも乗っちゃうよ?


「その頭蓋骨後頭部に認められる特異な紋様は、悠遠なる歳月の中で進行した古代石灰化作用による、自然が生み出した不可思議な風蝕痕跡であると解釈するのが妥当であると考えられる――これならスケルトンの頭蓋骨に書かれていた魔導回路も誤魔化せよう」


「よし先輩、この調子でちゃっちゃと書いちゃいましょう!」


「レオダム元ギルド長! 流石です!」




 そうして錬金術ギルドに監禁されること二日。


 仕上がった『報告書』は丁寧に箱詰めされると中央ギルドへ送りだした。結局儂がひとりで書き上げた。最後にフリードが満足げに呟いた。


「報告とは、嘘を嘘で塗りたくって信頼を守る作業だよ」


「お前が言うな」


 だが、アルカ島でのスケルトン騒動は儂の魔導エンジンに転用は出来るだろう。今から家に帰って少し研究をしてみることにした。


=武辺者、島嶼への派兵を許可する・了=




(とある新任女兵士、ネリスの日記)


入隊2か月と8日目


 一泊二日の夜哨実戦訓練。

 場所はキュリクス西の森に設置された、薄汚れた簡易天幕の中。


 メリーナ小隊長は「ボクとちょっとしたピクニックだよ〜♪」なんて言ってたけど、完全に詐欺だと思ってる。だってこっちは荷物を抱えて森を抜け、湿った天幕に放り込まれたんだから。


 まあ、ピクニック気分って言われたせいで少しわくわくしている自分がいる。

 他の訓練兵たちも寝そべったり、お菓子を食べたり、足を投げ出して駄弁ったりと、思い思いにくつろいでいた。

 私は隅っこで戦闘教本を読んでた。相変わらず誰とも喋らずボッチで過ごす。てかみんな、訓練中なんだから緊張感持とうよ。そう思っているのは私だけか。


 しかし視線の先、天幕の対角線上。

 クイラも何かを黙々と読んでた。あいつ、普段から無口だけど、こうしてると余計に気配が薄い。入隊して二ヶ月。私は、クイラの声をちゃんと聞いたことがない。“ん”とか“ああ”とか、そんな曖昧な返事ばかり。それでも、実技訓練では常にトップの成績を出してる。だからこそちょっと気にしてた。なんで喋らないんだろうって。


 そして、事件は起きた。

 天幕にメリーナ小隊長がひょっこり顔を出す。

 駄弁っていたみんなは一斉に表情を強張らせる。


「よッ、みんな、くつろいでる?」


 笑顔がなおのこと怖い。

 しかしこのあと、とんでもない事を叫んだ。





「状態ぉ〜、ガス♪」





 にっこり笑顔でそう言った瞬間、天幕のふたをびっちり止められた。そして床には棒状の魔導装置がチカチカ光った次の瞬間、煙のような何かが一気に噴き出した。




 催涙ガスだ!


 阿鼻叫喚。

 みんな一斉に立ち上がって、面体を探し、叫び、咳き込み、よろけた。


 私は冷静だった。

 訓練と分かってたし、面体の位置も確認していた。

 だから手早く装着して呼吸を安定させると天幕の中を確認した。


 ――クイラ!


 面体を手にしながら、ゴムバンドを絡ませて、ぐちゃぐちゃになっていた。

 息が荒い。焦ってる。目が泳いでる。バタバタと手足を動かしている。


 私は一言も発さずに立ち上がると、自分の面体を外してクイラの顔に押し当てて装着してやった。

 彼女の手から奪うようにして、絡まり合う面体のバンドを解き、自分の顔に押し当てた。

 目が合った。


 クイラは何も言わず、私を見つめていた。


 私は右手の親指を立てて、サインを送った。


『大丈夫か』


 クイラは目を見開いたまま、何も言わなかった。


 ――天幕のふたが開いたおかげで皆んなほうほうの体で這い出した。



 テントの外に出た時、笑顔のメリーナ小隊長が腰に手を当てて待っていた。


「今日の担当、点呼ぉ~!」


 喉がひりついて、目もまだ痛かった。みんなも目も顔も鼻も真っ赤にしていた。


「全員、顔真っ赤です!」

「あれぇ? みんなピクニックなのにどうして顔真っ赤なの? まさか、気を抜いてた?」

「……」


 だれも返事は出来なかった。

 確かにピクニックと言ってたけど、休暇とは言ってなかった。

 何人かは文句言いたげだったが。


「じゃ夜哨訓練に入るから! 爾後の行動に移れ」

「「移ります」」



 夜哨。決まったルートを決まった時間に静かに歩く。


 クイラが私の隣でぽつりと言った。


 「――さっきはありがと」


 私は思わず目を見張った。

 そのあとすぐに目をそらして、いつものように口を閉ざした。


 「――別に」


 その後もクイラの返事は、“ん”とか“ああ”だった。

 でも。たった一言だけで、私たちは少しだけ近づいた気がした。


 言葉なんてなくても、通じる瞬間はある。


 そんな夜だった。




入隊2か月と10日目


 夜哨訓練のあと、二日間の休暇に入った。

 今回は外泊届を出した。


 実家には帰らなかった。理由は単純で、あの家に帰ってもどうせ「そんなに鍛えてどうするの」とか、「女の子なんだからもう少しおしとやかに」とか、そういう『普通の価値観』を押し付けてくるのが目に見えていたからだ。人の話なんか聞いちゃいない、自分の思いこそがすべてと思ってる両親の顔を見てもうんざりしちゃう。休暇で疲れに行く気は無い。


 なので宿泊届には祖父の家と書いた。――べ、別に祖父と仲が良いわけじゃない。ただ静かなんだ、あの家は。


 爆発音さえ除けば。


 祖父――レオダム・ド・セルマー。元・錬金術ギルド長。現在は定年延長をしてまでギルドで働いており、バイトながらも研究員として魔導エンジンの開発を続けている。たまに何かを爆発させているけど。


 今日も玄関を開けた瞬間、鼻に焦げた硫黄の匂いが漂っていた。また派手にやらかしてるなぁと思い、祖父の書斎に顔を出す。


「帰ったのか」と言われて、「帰った」とだけ返す。それで充分。元気かどうかなんて見たら判る。その程度の気安さが心地よい。


 だが祖父は書斎で夜通し実験をしてたのだろうか。ぼさぼさ頭に拍車がかかっているし、夕飯食べたっきりになってる皿もテーブルに放っつけたままだった。


「じいちゃん、朝飯食った?」


「いや、まだだ。ネリスは?」


「少し食べたい。――適当に用意するから実験続けてな」


 台所に置いてあったものを簡単に調理し、皿に乗せて朝食に出した。黒パンの横に切り込みを入れてチーズと赤茄子を挟んだものを皿の上に、夕べの残りのスープに細かく刻んだ干し肉とチャービルを加えたものはマグカップに。まずはまずは祖母の小さな遺影にお供えして一拝してから祖父の机の上に置いた。実験中の片手間でも食べられるように工夫して出したつもり。そして出されたものを黙って食べるのが祖父と私のスタイル。


 祖父の家にいつも置いてあるチーズはちょっと……いや、けっこう好き。




 キュリクスでは『リネシア・キュリジア』というチーズをあちこちで見かけるが、祖父の家にいつも買い置きされているあの味が、私は特に好き。どこで買っているのかは聞いていないけれど、どの店のものよりも美味しいと思ってる。


 祖父の挨拶も終わったし、シンクに溜め込まれていた皿も洗った。溜め込んで異臭を放っていた衣類も洗濯してやった。これで正直、宿泊届を出してまで祖父の家に来た理由は果たせたと思う。


 ぼんやり本を読むには天気が良すぎるのでランニングに出かけることにした。領主軍に入るまで運動なんか全然好きじゃなかったのに、いまじゃクタクタにならないと寝付けないし身体がなんか変な感じになる。休暇中に少し身体を鈍らせるのも癪なので。


 城壁内周を周回する道路なら警ら隊がときどき巡察している程度の通りなので、人通りも少なく歩行者の邪魔にもならないだろう。隊舎から持ってきた訓練用衣に着替えると書斎に顔を出す。


「じいちゃん、ランニングしてくるけど、お昼どうする?」


「儂は要らん、ほれ」


 祖父は相変わらず机に齧りつきながら小銭が入った革袋を投げ渡す。これで食ってこいという意味だ。重さからして銅貨がぎっしりと詰まっているのだろう。私はそれをテーブルにそっと置く。


「じいちゃん。もう俸禄貰ってるから大丈夫。むしろ私がなんかご馳走してあげる」


「生意気言いおって」


 そう言って「気をつけて行け」と漏らすと再び机に齧りつく。祖父は私をまだ子どもだと思ってるのだろうか。まぁ両親も祖父も大柄なのに私だけ背格好がちんちくりんだからそう映るのかもしれないが。もう大人のつもりなんだけどな。でもお互いにとってちょうどいい距離感。


 城壁内周を何周目かを走っているとき、見知った元同級生たちとすれ違った。向こうは気付かなかったろうが、綺麗な服を着て網籠を片手に日傘をさして楽しくしゃべりながら歩いていた。彼女らは礼節学校へ進学したはず。方や綺麗な服を着て花嫁修業、方や訓練服に身を包んで泥にまみれて領主に奉仕。私はどちらを選択すればよかったのだろう。今は分からない。分からないけど、今はそこそこ楽しんでる。


ひとしきり内周を走っていると「お先に」と声をかけられ2人組の女兵が追い抜いていった。2人は手信号でおしゃべりしながらかなりの速度で駆けてゆく。――ちょ、待って! 私の全速力に近い速度で手信号で歓談しながら走り続けるってどういう体力!? 悔しくなったので私は彼女らに食らいつくかのように駆けた。速度を上げた。そして足がもつれた。


「あんた、大丈夫」


メリーナ小隊長の訓練のおかげかな、綺麗に転げ回ったので痛いところは無い。しかし目の前には先程追い抜いていった女兵が私を見下ろしていた。後ろ姿で気付かなかったけど、片方は小柄なギャル女兵で片方は長身で華麗な女兵だった。ギャル女兵のピアスがキラキラ陽に反射して気になるが。


「てかあんた、その所属章見ると訓練隊でしょ? 休暇中だったら休暇腕章つけなさい」


ギャル女兵が左腕を差しながら笑顔でいう。そういえば忘れてた。休暇中の兵士が訓練服で過ごす時は、休暇中を示す腕章かバンダナを巻かなきゃダメだったんだ。しかもそんなの失念してたから何も持ってきていない。


「無いなら、私の貸してあげる」


 ギャル女兵はウエストポーチからピンクの花柄のバンダナを取り出すと私の左腕に巻きつけた。ふわりと花の香りがした。ギャル女兵の後ろに立つ華麗な女兵が手信号を送る。ギャル女兵が私の二の腕を引き上げながら訊いた。


「んでアンタ、何時間走ってンのよ?」


 そう言えば何時間走ってただろう? 確か……と考えているも昼鐘が鳴り響く。


「はぁ? 3時間もぶっ続けで走ってンの? 気合い入りすぎ! パウラ先輩も休めって言ってるからアンタも休憩! ほらほら、先輩兵が飯をオゴッてやるから付いてきなさい! お残し厳禁よ!」


ギャル女兵にそう言われて有無も言わさず西区の市場街、職人街を駆け抜ける。


「ここ、私の同期の実家よ。昼間は安い軽食を出してくれるからお勧めよ」


 そこは祖父行きつけの酒場、酔虎亭だった。祖母に言われて酔い払った祖父を何度か迎えに行ったこともあるし、ここでカードゲームを覚えたっけ。そんな祖母もちょっと前に亡くなり、祖父はそれっきり飲みに出なくなった。私も入隊して練兵場生活になったから酔虎亭へは久しぶりに来たと思う。


「あ、女将。また来たわ! チーズの焼きパン3つちょうだい」


ギャル女兵がは常連なのか、そう言うとこれはまた久しぶりに顔を見た女将がやってきた。小柄でふくよかでかわいらしいのは昔と変わっていなかった。


「あら、ジュリアちゃんいらっしゃい! パウラ伍長、いつもご利用ありがとうね! ――あら、あんた、レオダムさんのお孫さんだよねぇ?」


 え、女将さん覚えてたの!? すごく嬉しい!


「いやぁ、ちっこい子がこんなに立派になっちゃって!しかも軍服もサマになってるし。――きっとリーネスさんが生きてたら喜んだでしょうね!」


 リーネスは祖母の名前。家庭を顧みず研究一筋で走り続けた祖父を黙って支え続けた人。ふとその名を聞いて生前の顔を思い出す。笑顔が素敵なおばあちゃんだった。


「ねぇ女将、この子知ってるの?」


「えぇ! 錬金術師ギルドの元マスターのお孫さんなの」


「へぇー、あんたすげぇ気合い入ったトコのお嬢さんだったんだ」


 実家が貧しくても死に物狂いで勉強して、王宮の奨学金を勝ち取って専科学校まで出た祖父は、努力で這い上がってきた人だと思う。それに比べて私は、夢に辿り着けず遠回り中。ちょっと前まではふてくされながら生きていた。


「レオダムさんって仕事上がりにここに立ち寄ってはギルマスのフリードさんと技術討議に熱くなったりしてたわね。あぁそうそう、せっかくならレオダムさんにチーズ届けてあげて?」


 女将はパタパタと駆け足で厨房に入るとチーズの焼きパンと共に見慣れた包みを私に差し出した。いつも家に置いてあるチーズは、酔虎亭のだったんだ。


「きっとネリスちゃんなら知ってるかもだけど、このチーズね、レオダムさんが実験の失敗作があまりにも美味しかったから、私の母が『リネシア・キュリジア』と名付けたのよね。あ、リネシアはネリスちゃんのおばあちゃん、リーネスさんからね」


 私は情報の氾濫で固まってしまった。ジュリアも目を見開いたまま私を見つめる。


「ウチじゃもう、このチーズ無しじゃやってけない。だから毎日チーズを仕込んだらすこーしだけレオダムさんにお裾分けしてるのよ」


 私は何も言えなかった。祖父なんていつも研究しては何かを爆発させている残念な人だと思っていた。実にならない研究を続けては若い頃の私の母に苦労を掛け続けていた人としか思っていなかった。


「ちなみにリーネスさんの名前を入れ替えると、ネリス、あなたの名前になるのよ? ご両親様から聞いたことない? あなたの名付けはレオダムさんだって」


 それは母から聞いたことはあったけど、祖母の名前から付けられたのは知らなかった。焼きパンに手を伸ばそうとしていたが、思わず引っ込めてしまった。


「せっかくなら熱々のを食べてって? あとレオダムさんに、根を詰め過ぎる前にウチに飲みにおいでと言っといて?」


 そう言うと女将はひらひらと手を振って給仕に戻った。ジュリアというギャル女兵から何度も「気合い入ってンなぁー」と言われた。気合いってなんだよ?


 その後、3人で城壁の内周をゆっくり走った。2人は胸元に鷹をモチーフにした所属章を着けてたので斥候隊らしい。なるほど、体力がないとやっていけないから、2人も休みの日には自主トレに励んでいたのだろう。ちなみに長身のパウラの声は殆ど聞くことが無かった。ジュリアは「パウラ先輩、口下手っすから」と言ってたが、手信号では雄弁かなりだったと思う。


「またねーネリス訓練生! 気が向いたら斥候隊においでー!」


夕鐘がキュリクスに鳴り響く頃。


ジュリアにそう言われて2人と別れた。一人で走っていると楽しくはない。だけど気の置けない人と走ると楽しいな。


 近所の風呂屋で汗を流してから帰宅した。そして祖父の書斎に入る。今朝に嗅いだ焦げた硫黄臭は随分と薄くなっていた。しかし祖父は研究を続けてるみたいでこちらをちらりとも見ない。


「じいちゃん。酔虎亭の女将からチーズ預かってきた」


「ん? あぁ。作るたびに持ってくるおせっかいな小娘だな。あいつの母親もそうだったが」


「――私、好きなんだけど、リネシア・キュリジア」


「失敗作だぞ」


「どこが? 美味しいじゃん」


 祖父は椅子から立ち上がると軽く身体を伸ばし、本棚から冊子を取り出した。『失敗調合』と書かれている手書きのものにはあちこちにシミがついていた。


「これな。――まだお前の母さんが生まれる前の話だ。風邪を引いたリーネスにヨーグルトを食わせようと作ろうとしたらこれが出来た。儂はショックでな、捨てようと思ったんだがリーネスは旨い旨いと食ってくれたんだ。その話を聞いた酔虎亭の前の女将が『そのレシピ教えておくれよ』とうるさいから、エール一杯で教えてやったんだ。」


 祖父はその冊子を開くと、『リーネスへのヨーグルト』と書かれたページを開く。そこにはイラストと共に錬金釜の温度や果実酢の割合などが事細かに描かれていた。


「あのおせっかい女将、来る客来る客に『あの貧乏錬金術師が風邪ひいたリーネスのためにこんなチーズを作ったんでさぁ!』と言いながら売ってたからこんな名前になっちまった。ぶっちゃけ今もこのチーズを見ると恥ずかしいんだ。失敗作をこんな形で祭り上げられて――」


「いいじゃん、ばあちゃんの愛のカタチなんだから」


 祖父は何も言わなかった。少しだけ照れた表情を浮かべている気がした。


「気合い入ってるンだね、じいちゃん」


「何いってるんだお前?」


 ――祖父の、祖母への思いを知れて良かった。


 二日間の休暇はこれで終わり。


 私は再び軍服に袖を通すと、祖父の書斎へ顔を出す。祖父は相変わらず実験資料をかき集めていて、こっちに目も向けなかった。


「行ってくるよ」


「また来い」


 ――うん、そういう家だ。やっぱりチーズは美味しかった。

ブクマ、評価はモチベーション維持向上につながります。


現時点でも構いませんので、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価して頂けると嬉しいです!


お好きな★を入れてください。



よろしくお願いします。




※『状況、ガス』

中の人の友人(元・陸上自衛官)が同窓会で言ってたネタ。

『状況、ガス』というのは、毒ガスをぶち込まれたって状態らしい。

指示が出ると急いでガスマスクを装着しなければならないとか。

ンで友人は訓練中にてテント内に本当に催涙ガスをぶちかまされたと言ってた。

「催涙ガスってどんな感じ?」と聞いたら「目ン玉と鼻ン中にわさびとコショウを練り込まれた感じ」だとか。


本当にそんな訓練するんだね。

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