36話 武辺者、島嶼への派兵を許可する・5
晩秋の朝。
キュリクスは白い川霧に包まれていた。街の屋根も、遠くの丘も、まだ夜を引きずるように煙っている。
ヴァルトア・ヴィンターガルテンは、珍しく朝の一番鐘よりも早くに領主館の執務室に姿を見せていた。前日にやり残した仕事を片付けるためだ。誰にも告げずに出てきたため、日勤のメイドたちはまだ誰一人出勤していない。執務室に入る前にすれ違ったメイドも夜勤交番の子だった。
机の上には分厚い報告書が数通積まれている。しかし早く出仕した彼だが、まだ一通も手を伸ばしていない。窓辺に立って薄明の中をただぼんやりと眺めていた。靄の向こうに微かに聞こえるのは、まだ始動していない街の鼓動。――夜の残り香を含んだ風が、まだまだ冷たく重い。それはただの冷気ではなかった。
執務室には時計の音だけが規則正しく響いていた。重々しい振り子の打つその音が妙に大きく感じられる。静けさが張り詰めているのか、それとも自身の感覚が過敏になっているのか。
そこへノックもなく扉が静かに開く。入ってきたのは早朝ながら相変わらずに完璧に整った制服姿のメイド長のオリゴだった。彼女のその口元はわずかに固い。
「おはようございます。こんな早朝にですが西区の錬金術ギルドから面会の要請がありました。了承いただければ一刻もすれば伺いますと先触れが。――いかがなさいます?」
声色にはどこか張り詰めた気配があった。普段なら一拍おいて軽口でも添える彼女がそれをしない。
「あぁ、分かった」
ヴァルトアは短く返事をすると机に目をやった。だが報告書を手に取ることはしなかった。
「カミラー。朝早くに済まんが、くれぐれも間者を入れないでくれ」
窓際の梁に根を張るアルラウネのカミラーがふわりと葉を揺らす。
「わかったわ。抜かりなく」
柔らかい声だったがその奥にある警戒心は確かなものだった。
ヴァルトアは一度だけ深く息をついた。
* * *
同じ頃の錬金術ギルド研究室。
テルメは静かな研究室の中で湯を沸かしていた。作業机の上にはアルカ島から回収したスケルトンの魔導回路の写しや分解された命令構文のコピーが並ぶ。沸くまで記録管にそれらが正しく入っているかの最終確認をしていた。
今朝は――静かすぎた。魔導波形測定器が立てるのノイズ音がいつもより大きく感じた。
テルメはカップにお茶を注いで一口すする。香りを愉しんでから無意識に引き出しを開けた。入っていたのは手帳より一回り大きい布張りのノート。亡き親友――カンナのものだ。表紙の角がすこしほつれ、手垢のあとが残るそのノートをそっと指でなぞる。ふと表紙が微かに浮き上がるように揺れてページが開く。風はない。彼女は開かれたページを見て眉をひそめる。
「――やはりこのアルゴリズム。まるであの回路が生きてるみたい」
そうつぶやきながら、彼女はノートをそっと閉じると引き出しを閉めた。歴史は繰り返すのかと想像すると背筋が冷えた。
* * *
重い扉が音もなく開くと、プリスカに導かれて錬金術ギルド支部長フリード・アステンとテルメが執務室へと入ってきた。彼女はいつもの猫のような気配ではなく、どこか空気を読んだ控えめな所作で二人を案内したあと、軽く一礼して無言のまま扉を閉めた。
フリードはよれた外套の裾を引きずり、まるで霧の中からそのまま歩いてきたような風貌だった。まるで浮浪者そのものの姿を見たオリゴが、ごくわずかに眉をひそめる。反射的に身構えた。ヴァルトアが右手で制する。
「領主殿、こんな時間に押しかけて申し訳ない。だが、これは――儂だけでは判断しきれない案件なんでね」
挨拶もそこそこに、フリードとテルメはソファに腰掛けた。つば広帽子を脱ぐと足元に置く。先ほどから抱きかかえていた鞄の留め具を外すと中から銀の記録管を慎重に取り出し、それを机の上に置いた。その記録管の中には魔導回路の写しと関連ノート、そして錬金術ギルドでまとめたアルカ島での調査報告書が入っている。
ヴァルトアはソファの背に身を預け、じっとフリードを見つめる。トマファには無理を言って早く出てきてもらった。クラーレにも声を掛けたが、きっと朝風呂に出かけてたのだろう、留守だった。
「やはり例の『骨』の件か、なにか判ったんだな?」
「そうだ。あれはただの『異変』だなんてもんじゃない。構造そのものに『振動に反動し、命令を解釈する魔導構文』が組まれていた」
フリードの言葉に執務室の空気がひとつ変わる。ここでフリードの隣に腰掛けるテルメが身を乗り出すと、テルメは記録管から数枚の図表を抜き出し、机の上に広げた。彼女の表情は落ち着いていたが声にはわずかに緊張感を滲ませていた。だがそれは怯えや不安ではない。明確な危機認識に基づいた緊張――真剣そのものだった。
「まずスケルトンには視覚はありません。ですが連中らは兵たちに向かってきたのは、私たち人間が出す音に反応し、制御装置からの命令をある程度解釈して行動する自動律動アルゴリズムがここに刻まれていました」
一拍置いて、彼女は取り出した魔導回路図の一か所を指先で叩く。
「この部分は自己修復アルゴリズムです、つまり物理攻撃がほとんど効かないのはこのためでした。そして、どのアルゴリズムにも命令停止の条件がまったく記述されていませんでした」
一気に言い終えると同時に、彼女は視線をあげて部屋の全員を正面から見据えた。その瞳には怯みも誇張もなかった。
「命令停止の条件がないという事は兵器ですらありません。動き出せば何をするか判らない代物です」
短い沈黙。誰も軽々しく言葉を継がない。
フリードが部屋の全員を一瞥すると小さく一つ咳払いをした。喉の奥に溜まった空気を吐き出すように、慎重に言葉を探すような間だった。
「――伝承にある、“コッペリウス”をご存じか?」」
ヴァルトアとオリゴは互いに顔を見合わせた。二人を見てトマファが口を開いた。
「――人魔大戦記に出てくる、辻芸人ですよね?」
「えぇ。擾乱の巻に出てくるあの魔導人形使いです、本編には一切関わりませんが」
フリードがそう応えると次はオリゴが静かに応じる。
「おとぎ話のような存在のはず。ひょっとして、その辻芸人の技術が?」
「儂はそう感じた。――現在でも錬金術師や魔導師がコッペリウスの魔導人形を実現できないかと研究している者もいる、もちろん成功事例は無いがね。ただ、人魔大戦記の時代とサンプルとして回収した白骨体の死亡推定年はおおよそ一致している。そして現に奴さんは動いてた。――現在ですら実現していない物理法則が、おとぎ話と現実とリンクしている事こそが違和感だと思わんかね?」
彼はふと視線を上げ、反応をうかがうかのように室内を見渡した。その瞳には、長年研究と向き合ってきた者にしか宿らない警戒と疲労があった。
「回収した白骨体には『処理された痕跡』があった。あの骨には誰かが確実に加工を施している。自然な風化ではあんなにきれいになるわけがない」
フリードはそう言うと記録管から紙片を取り出し、机の上にそっと置く。そこには回収されたスケルトンの大腿骨のスケッチが描かれていた。
「仮に肉体を腐敗させる、酸や塩基で溶かすなどをしてもこんなきれいな形にはならん。大腿骨のこの部分、大転子ならともかく小転子は血肉と共に溶けるだろう。しかし回収された奴さんの大腿骨にはこんな骨片も残っている。つまり肉体に刃を入れて丁寧に切り取っていったんだろう」
あまりにも生々しい発言にヴァルトアもトマファも顔をしかめる。オリゴだけはわずかに表情を曇らせる程度の反応を見せた。
「別棟に製造工場があった。命令構文が途中まで記録してある奴さんもあったし、全身のアルゴリズムとデータの送受信構造の記録ノートまで見つかった。ここまでをただの看守や囚人では無理だ」
その一言には疑いようのない確信を滲ませる。フリードの声には怒りも恐れもなかった。ただ学者として真実に行き付いた結果を述べているのだろう。彼は少しだけ目を伏せてから、静かに言った。
「私の推測だが――アルカ島の監獄長こそが、『コッペリウスのモデル』ではないか、と思っている」
言葉の重さが、空気の層を深くした。
つまり、絶海孤島の監獄で囚人を使った人体実験をし、未だに成功者の居ない自律人形を成功させた男がいた。トマファが車椅子の肘掛けをぎゅっと握り、声を上ずらせる。
「つまりアルカ島のスケルトンって国を揺るがす案件ですよね!?」
テルメは掛けていた眼鏡を指で押し上げると静かに応える。
「魔導研究の一分野に自律型人形研究があります。きっと国家級の研究者でなくても喉から手が出るほどの技術です」
フリードも長く伸びた顎鬚を撫でながら静かに頷く。
「中央ギルドに報告すれば研究班が派遣されるだろう。だが、彼らは間違いなく“再現”を始める。そして――またあの事故が繰り返されるだろうな」
「私の親友が犯した禁忌の実験、そして術式事故を繰り返さないための御判断をお願いします」
テルメがソファから降りると床に伏して深々と頭を下げた。
その瞬間、一同の視線がヴァルトアに向いた。
沈黙の波が執務室を満たしていた。そんな中、最初に口火を切ったのはトマファだった。彼は車椅子の肘掛けに手を置いたまま、理知的な声音で、けれど目の奥には鋭い光を宿して問いかけた。
「卿、まずは王宮への報告は如何致します?」
それは形式上の確認だった。すぐにフリードが口を挟む。
「――私の立場ならば、ギルド本部を通じて『遅滞なく』報告を上げるべき案件です」
そして少し口元を歪めるように続けた。
「ですが中央の連中なら、そんな話を耳にしたらきっと『再現したい』でしょうな。成功事例の無いインチキ技術が実現可能性を見出したとなれば」
ヴァルトアはソファにもたれると手元に置かれた記録管を一瞥する。深いため息を付くと執務室の空気が限界まで張り詰める。
「――こんなもん報告できるわけなかろう。テルメ殿の昔話を聞いてたら、なおの事だ」
その声は低く、静かだった。反論の余地を許さない確かな響きを持っていた。
オリゴは一瞬だけ目を伏せ、何かを飲み込んだように黙した。トマファはそうですよねと言いたげに思わず口元をわずかに緩め、皮肉めいた口調で応じた。
「御意にございます。連中らには慎重であるべきです」
オリゴが続ける。声は凍るように静かで、言葉の端に氷刃を忍ばせていた。
「ですがいずれ誰かが掘り返すかもしれません。――その発掘者に良心があることを祈らざるをえません」
テルメは何も言わなかった。ただ、手元のノートが微かに揺れた。 彼女はその揺れに気づきながら、ゆっくりと視線を伏せ、静かに呟いた。
「――ご英断感謝致します」
重い空気が再び落ちてくる。だがそれは先程とは違っていた。すでに『決断された空気』だった。
その場を締めくくるように、フリードが帽子の庇を軽く押さえ、テルメと共に立ち上がった。
「では、私はこれで――。厄災はヴァルトア様の一存でパンドラの箱に封じられました」
扉へと向かいながら、振り返らずに言葉を続ける。
「ですが、そちらのメイド様の言葉ではありませんが、また開けられた時、あなた様のような賢明な領主様がこの地をお治めいただければと思う限りです」
フリードは深々と頭を下げると音もなく、扉が閉まった。
* * *
音もなく扉が閉まると執務室には再び沈黙が降りた。
誰も何も言わなかった。声を出す者も、動く者もいない。
ただ一度だけ、室内の隅でアルラウネのカミラーが葉をゆるやかに揺らした。霧に濡れた朝露がぽたりと落ちる音が、やけに大きく響く。
だがそれもやがて、止まった。
箱は、確かに閉じられた――そう実感させる、完璧な静けさだった。
★ ★ ★
夕刻前、テルメは研究棟の重い扉を押し、静かに研究室へ戻ってきた。
普段通りの空気。行き交う研究員の足音、書類の束、魔力計器の微かな音。だがその中で、彼女一人だけが、別の時間を歩いてきたような気がしていた。
「お疲れさまです」と挨拶する若い研究員の声に頷き返す。
彼は棚の上に置かれた『魔素反響装置』の調律をしていた。音叉のような形状の装置で、周囲の魔素変化に対する共鳴性を測定する道具である。
何気なく触れた装置が、一瞬だけ異音を立てた。耳障りではないが、確かに通常の周波と異なる、低い“うなり”のような音。だが、彼は気づかない。
「今朝は川霧がひどかったもんな、湿気でも噛んだか?」
一人ごちると軽く肩をすくめながら装置を棚に戻す。
テルメはその様子を黙って見ていた。そのまま歩を進め、いつもの机へと戻る。椅子を引き、引き出しを開けた。そこにある布張りのノート。――カンナのもの。指が触れた瞬間、ページの端がふわりと浮き上がり、ぬるく熱を持った感触が指先を包んだ。彼女は一つ溜息をつくと引き出しをそっと閉じた。
「あの事故の二の舞は絶対に起こさせないよ」
決心じみたことを漏らすと、テルメは机に鍵を掛けると研究室を後にした。
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