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34話 武辺者、島嶼への派兵を許可する・3

 朝の光が傾き始め、領主館の執務室には沈痛な空気が漂っていた。

 ヴァルトアの執務机の上には数通の報告書が置かれている。それらの内容を細やかな手つきで書かれた文官トマファが無表情のまま読み上げていた。その隣にはマイリスが静かに控える。普段はメイド長のオリゴが付き従う場面だが、今日も訓練期間中につき代役として副長のマイリスが任務に就いている。


「島内の構造物調査は困難を極め、その中でも出現したスケルトンには物理攻撃が殆ど効きません。対策を必要と判断として撤退。派兵した隊員に軽傷者が7名。死者、重傷者は無しです」


 トマファは抑揚のない声で報告を読み上げていった。その言葉の一つ一つをヴァルトアは黙って聞き取る。しかし彼の眉間には次第に深い皺が刻まれていく。報告をすべて聞き終えたとき、ヴァルトアは低く深い溜息をつき、静かに口を開いた。


「そのスケルトンってのはもののけの類か? それとも魔物か? あるいは――人魔大戦の生き残りなのか?」


 ヴァルトアの静かな問いにトマファは小さく首を振った。


「クラーレ殿の証言ではスケルトンが一体どういうものでどういうカラクリで動いているか、どうして襲い掛かってきたかなどについては残念ながら判然としないとのことです。何かを盗んできたからとか何かを壊したからとかのスイッチが働いたという訳でもない。――ですので想像や伝承に基づく推測は容易ですが真実かどうかは別の話でしょう。ですが、判断には現実的な根拠が必要です」


 ヴァルトアはしばし報告書に再び目を落として黙考した後、静かにトマファを見やる。


「だが、これは一大事だぞ。原因も理由も今のところ調べる手立ても無い。闇雲に調査をすれば貴重な兵を失うかもしない。しかも我が領内で起きてる事案となれば王宮にも報告しておくべきではないか?  俺が思うに、正直、これは我々の手に余る問題だ。場合によっては王国軍の出動も考慮すべきかもしれん」

「ですが卿、それは避けた方が賢明ですよ」

 

 トマファは落ち着いた口調で応える。


「下手に騒げば王宮は必要以上の部隊を送り込んできます。そして成果だけを掻っ攫い、事後の処理や出兵経費の負担を我々に押し付けてくるでしょう。そのうえ評判の芳しくない王国軍を領内に迎えればそれだけで治安の悪化を招きかねません。最終的な判断は卿にお任せしますが、私は反対の立場を取らせていただきます」


 ヴァルトアは執務机に置かれている、木製の紅茶カップをじっと見つめていた。どれだけ見つめようが答えなんか出てくるはずもない。しかしその視線の先には、淡々と事情を説明していたトマファの不安そうな表情が静かに揺れている。


「だがさ、これを放っておいたら――」

「私に一つ提案がございます、ヴァルトア様」


 ヴァルトアの横で佇んでいたマイリスが一歩進み出ながら、静かで落ち着いた声を出す。表情はあくまで穏やかだが、その瞳にはどこか確信を持ったものが宿っている。


「怪奇に見えるものの多くには何らかの『カラクリ』が潜んでいると思います。奇術師なんて、タネがなければただの器用な手先の詐欺師でしょう。ですから専門知識を持つ方がその怪奇を見れば、構造や理屈を解明してくれるはずです。ですから、まずはその道に通じた方――あのテルメ殿の意見を仰いでみてはいかがでしょうか」


 その提案を受けヴァルトアは軽く顎に手を添えながらうなずいた。目には思案の色が浮かび、そして口調には少し安心が滲む。


「そうだな。西の森の洞窟での働きだったりクラーレの農業研究だったりと錬金術師のテルメ殿は大活躍だしな。研究材料の一つとなれば、あのギルドの良いシノギになるやもしれんしな」


 マイリスの話を静かに聞いていたトマファも、わずかに口元を緩めると柔らかい調子で同意する。


「知的好奇心の塊ですからね、テルメさんは。きっと興味を持ってくれると思います」


「では彼女のご都合に合わせてギルドへ伺いましょうか? “私が”アポイントのお手紙をお書きします」


 マイリスの申し出に、ヴァルトアは軽く頷いた。


「そうだな。娘の件でも世話になったし――すまんが連絡の手配をお願いできるか」


 空になったカップの底に、朝陽の柔らかな光がそっと差し込んでいた。



     ★ ★ ★



 夜の帳が下り始めるころ。

 クラーレは文官執務室の隅で一人、分厚い資料を前に眉間に皺を寄せていた。自らが提出した報告書の領主記入欄にヴァルトア直筆の一文が添えられていたのだ。


「スケルトン対策をトマファと共に頼む」


 命令ではなく『頼む』と書かれたその文面にクラーレは主君の温情を感じていた。『探せ』でも『解決せよ』でもない。だが、そのやさしさがかえって重くのしかかる。報告書の文面は何度も読み返した。過去の戦術記録にも目を通した。だがスケルトン対策として有効な手立ては浮かんでこない。


(こうなったらアニリィっちに頼んで爆破魔法をぶち込んでやろうかしら)


 それではスケルトン討伐ではなく、ただの破壊活動だ。軽率で安易な考えが浮かんでは消える。頭を抱えてどうしようと悩む。悩んでも答えなんか出てこない。それをずっと続けていた。


「――おーいクラーレっち。お前なあ、そんな顔で机に貼りついてたら老け込むぞ」


 不意にかけられた声にクラーレは顔を上げる。執務室の扉のところに軍服姿ではなく楽な格好のウタリが腕を組んで立っていた。


「――あ、ウタリさん」

「ちょっと外に出よう。飯と酒にでもつき合え」

「え、いや、私いま――」

「考えごとするなら飯と酒のある場所の方がマシだろ? それにそろそろお代の火酒を頼むわよ」


 ウタリのにやりと笑いながらのあまりにも自然な物言いに、クラーレは返す言葉を無くす。そしてそのまま、気づけば西区の酔虎亭――いつもの店の扉をくぐっていた。



     *  *  *



「あっ、ウタリ様! お疲れ様です!」

 店に入るとすでに奥の卓ではパウラとジュリアが杯を傾けていた。

 ジュリアはすでに軽く酔っているのか、声がひときわ大きく身振りも表情もどこか陽気すぎる。アルカ島で絶望に打ちひしがれていた表情とはまるで違っていた。だがウタリの姿に気づいた瞬間、ふたりはピシッと背筋を伸ばし、揃って綺麗に敬礼をする。


 最近、女兵たちはウタリの顔を見ると妙に態度を改めるようになったという。どうやら隊内では『ウタリの恐ろしい武勇伝』が妙な速度で広まっているらしく、完全に女兵にとっての畏怖の対象になってしまったそうだ。その事情を知るウタリはというと、目を逸らしてそっと溜息をひとつ。 ──私、そんな怖くないもん――と、どこか寂しげな笑みを浮かべているが。


「そっちのクラーレ様も、お疲れっす!」

「あはは、二人もこの前はお疲れ様」


 陽気さが変わらないジュリアに声を掛けられたクラーレだったが、少しだけ目尻を和らげて笑みを返すだけだ。その笑顔の奥には疲労の色が濃くにじんでおり、ジュリアは首を傾げながらじっと彼女を見つめた。


「クラーレ様、ほんとに大丈夫っすか?」


 その素直な問いにクラーレは苦笑いを浮かべて「平気よ」と小さく返したが、その声にもどこか張りがない。


「ひとまずお前ら。女将から混んでると言われたんだが相席は構わんか? 嫌なら別の店に行くが」

「いえいえ! ご馳走してくれるならいくらでも!」


 ちゃっかりしているジュリアの機転で四人は卓を囲む事に。質感が良い木の器に注がれるエールの泡が麦の香りを立ちのぼらせる。ウタリが豪快に乾杯を促し、ジュリアが笑顔で応え、クラーレも渋々ながら杯を取った。パウラは普段と変わらず静かに杯を傾ける。


「――いただきます」


 クラーレがエールを口に含んだ瞬間、思ったよりもまろやかに感じた。だが喉元を通る瞬間に熱い酒精が広がり、彼女の肩が一瞬びくりと震える。その熱は今まで張り詰めていた神経のひとつずつをほどいていくかのようであり、じんわりと全身に染みわたっていった。


「ここらへんって、この時期のエールに火酒を少し入れるんですよ!」


 ジュリアがキュリクスの秋酒なんですよと説明をする。急に冷えてくるこの時期はさっぱりとしたエールに火酒を入れて身体を少し温めようというこの地方独特の習慣らしい。不意打ちされた酒精のせいで胸の奥や腹の底が温かくなり、彼女はようやく落ち着いた息をつく。ぐいっと一杯目を飲み干した。


「――クラーレ様って意外と飲める口なんですね?」とジュリアがにやにやしながら覗き込む。

「ふふっ、ちょっとだけよ? 任務明けの一杯だけ……のはずが、気づけば何杯もってこともあるけど」


「あぁ、クラーレっちは意外と酒が好きでな。私と同じヴァイラ隊にいた頃にな、こいつ一晩にどれだけ飲むんだって周りが心配したこともあったんだぞ」


 ウタリが肩をすくめて笑い、新たに酒を追加で注文する。その仕草に店の女将が「了解っす」と明るく返して駆けていった。


「やめてよ。私を呑兵衛みたいに言わないでってば」

「いやいや、完全に呑兵衛の域ですよ? 見てくださいよこのペース。もう三杯目ですって!」とジュリアが手で数を示しながら笑う。卓上には笑い声が広がり、湯気の立つ器とともに、暖かな空気がそこにあった。


「気づいたらジョッキが出されてたのよ。喉が渇いてるのか、つい……」

「つい飲んじゃうってのが、もう呑兵衛の発言ですよ?」


 ジュリアの声には茶化しながらもどこか安心したような響きがあり、クラーレもそれに釣られるように小さく笑う。そんなジュリアの軽口の応酬に、久しぶりに笑ってるよねとクラーレも思うようになる。


「はいはーい、芋煮と肉串盛りのおかわりー」


「おやおや、そろってるじゃん! 飲んでるねぇ、アルカ島派兵隊の女たち!」


「ちょっとプリスカ、今日なんで猫耳メイドなのよ」


「ん? これ付けてるとね、売上ちょっと伸びるんだよね~。なんか常連の目がキラッとするの」


「うわ、そういう現金な理由!? ……ちょっと貸しなさいよ、それ」


「いーけど、その代わり『ご主人様♡』って言って料理出してね?」


「冗談じゃないわよ! 恥ずかし死するわ!」


「やってしまえばチップ弾んでくれるかもよ?」


 二人のやり取りは息がぴったりで、軽口と笑いがテンポよく交わされていく。訓練隊時代に同じ釜の飯を食った相棒同士。肩の力が抜けたそのやりとりはまるで休憩時間の女学生のような気安さと心地よさを漂わせていた。ちなみに訓練隊当時は一切喋らなかったらしいが。


「ところでアルカ島での撤退戦の話聞いたよ? スケルトン? おばけ? なにそれ、超ヤバない?」


 あまりに唐突な話題に、四人の手がぴたりと止まった。


「だったらさー、教会行って“聖水”もらってくればいいんじゃない? 邪を払うっていうし」


 さらに沈黙が続く。


「――聖水?」


 パウラが眉をひそめ、ジュリアは興味深そうに身を乗り出した。そしてジュリアがどこか誇らしげに胸を張って言う。


「月信教には確かに聖水ありますよ。儀式用ですけど!」


 対してパウラは、腕を組み、やや呆れたような顔で低くぼやく。

「非科学的――あてになるかな?」


 そのやりとりに、ウタリが口元に笑みを浮かべながら肩をすくめて言った。

「いや、でもさ。効けば儲けもん、効かなくても話のネタにはなるだろ――偽薬でも、効くときゃ効くもんさ!」


 クラーレは杯を口に運びながら、どこか苦笑を浮かべつつぽつりと呟いた。

「私さ、北部ヴェルフェシスの出身だからあちらって精霊信仰なのよ。だから主神がひと柱だけとか教会へ礼拝とかってピンとこないのよね」


 その隣で、パウラが淡々とした口調で続ける。

「私、半年、礼拝行ってない。主神って人なの?」



 少し肩を竦めながらウタリが笑うように言った。

「私は十年くらい前が最後かもな、礼拝。軍務中はそうそう行けないし」


 そんな三人のやりとりを聞いていたジュリアが、パッと明るい笑顔で身を乗り出す。

「礼拝は主神との対話です! すごく大事なんですよー? じゃあ明日、私が案内しますねっ!」


 元気よく手を挙げるジュリアの声に、思わずクラーレとパウラが顔を見合わせ、ふっと笑みを漏らした。こうして翌日の「教会訪問」が決まり、四人の表情にも少しずつ明るさが戻っていた。


 クラーレは半分呆れたように、それでもどこか諦めに似た微笑みを浮かべて杯を傾ける。

 パウラは腕を組んだまま「まぁ……悪くないかもな」と低く呟き、ウタリはそれを聞いてニヤリと笑った。ジュリアはひとりテンションが上がり、「あ、じゃあ明日はちゃんとした服着てきてくださいね!」と場を仕切り始めていた。


 笑い声と湯気が立ち上る酔虎亭の片隅で、四人はエールの泡に心を預けるように穏やかな夜を過ごしていった。



     ★ ★ ★




 朝の陽が高くなりはじめた頃。

 クラーレたち四人はキュリクス東区の月信教教会の前に立っていた。

 重厚な石造りの建物は静謐で、澄んだ空気のなかにいつも時を告げる鐘の余韻がかすかに残っているようだった。教会の冷たい石畳に足を踏み入れたとたん、クラーレは身を縮める。


「なんか、空気が重いよね」


 クラーレは聖水の効力についても、宗教というもの自体についても、彼女はどこか半信半疑だった。信じたい気持ちはあるが、理屈で説明できないことには踏み込めない——そんな慎重さが、無意識に足を重くしていた。しかし彼女自身が抱えているスケルトンも理屈で説明できない事態だが。


 それに応じたのはパウラ。腕を組んだままぼそりと呟いた。

「苦手な場所。静かすぎて落ち着かない」

 もともと宗教を信じない性質で、主神の存在や教義といったものには一切心を寄せていない。理屈よりも現場の確かさを重んじる彼女にとってこうした神聖な場所は肌に合わなかった。ちなみにこの大陸で信者が多い月信教や聖心教が語る「主神」はどの宗教も一緒だったりするのだが。


 対してジュリアだけは、幼い頃から毎週礼拝に通い、安息日学校にも真面目に出席していた面影をそのままに、慣れた足取りで先へ進む。

「大丈夫ですよ、ここは優しい神父さんがいるんです」

 そして前々から宗教を信じない先輩のパウラに主神の愛について伝わればいいなとも思っているので、実は内心ウキウキだ。ある意味では『パウラ先輩と礼拝デート』なんて(よこしま)な気持ちすら抱いており、信仰の話題で距離が縮まることをほんの少し期待していた。


 ウタリはというと肩をすくめて「話の種にはなるな」とだけ言った。

 宗教というものに対しては一歩引いた姿勢を崩さず、信仰よりも現場の現実を信じる質である彼女にとって、こうした場所は『観察対象』にすぎなかった。どこか茶化すような口ぶりのまま気楽な様子で後に続いた。


     *  *  *


 礼拝堂の奥の蝋燭の灯りに照らされた重厚な木の扉が静かに開き、神父が現れた。

 白銀の縁取りが施された祭服をまとった男は、柔和な笑みをたたえながらもどこか事務的な雰囲気をまとっていた。


「ようこそ、月信教の御前へ。主神へのご相談とのことでしたね?」


 ジュリアが一歩前に出て跪くと礼儀正しく頭を下げた。

「実は、アルカ島で『不死者』のような存在に遭遇しまして――その、骨が動いていたんです」


 ジュリアの突然の告解に聴罪をした神父は一瞬まばたきをし、やや困ったように眉を寄せた。

「骨が――動いたんですか?」


 クラーレが補足するように口を挟む。

「はい。私たち全員、それを見たんです。集団で現れて、拠点を襲ってきました。実際の目撃者も多数います」


 神父はしばし沈黙し、それから口を開いた。


「人は主神の意志によって土より生まれ、そして土へ還る存在です。御霊は天に召されて骨だけがこの世に残ります。が、骨が動くなどというのは、信仰的にはあり得ません」


「でも実際に起きたんです」


 クラーレの反論はやや語気が強かった。

 神父は目を伏せ、小さく息をついて言った。


「おそらく、それは幻影か、混乱による錯覚でしょう。信仰は、混乱を招くことを望みません」


 沈黙。 ――ウタリが口の端をゆるめ、どこか皮肉げな笑みを浮かべながら、ぽつりと漏らす。

「――ただの否定か。信じない側が語れば『冒涜』で、信じる側が語れば『錯覚』。便利なもんだな、信仰ってやつは」



「では聖水は、――聖水はないんでしょうか?」


 問いかけたのはクラーレだった。神父は少し戸惑いを見せると困ったように苦笑する。


「聖水、ございます。ですが、あれは……いわば儀式の()()のようなものでして。信徒の心を落ち着けるための象徴です」


 その神父の言葉を聞いてジュリアの表情が見る間に凍りついた。目の奥で何かが崩れるような気配が走る。

「えっ、演出!?」

 声はかすれ、まるで胸の奥を針でつつかれたかのようだった。子どもの頃から信じてきたもの、その拠り所が突然『演出』と片づけられた現実に、思考が追いつかない。目の前の空間が少しずつ揺らぐように感じ、足元がきしむような不安に飲まれていく。


「はい。たとえば洗礼の際に使われる“聖水”も、実際にはオリーブオイルを一滴落としたぬるま湯です。主神の祝福を形にするための——」

「でも、それじゃあ――じゃあ、私は」


 ジュリアの声が震える。何か言おうとして、言葉にならず、唇をかみしめたままうつむいた。神父はそんなジュリアに気づいたように、申し訳なさそうに付け加える。


「このご質問は、実のところよくあるのです。中には、聖水に特別な力を期待される方もいらっしゃる――でも、我々はあくまで象徴としてお渡ししております」

「なるほど。そういう()()、ってことか」


 ウタリは口元に乾いた笑みを浮かべ、ほんのわずかに首を傾けながら言った。どこか突き放すような声色で、皮肉というより諦観に近い響きを含んでいた。


「便利だよな、立場って。疑問を問えば『主神を試すな』って返されるし、信じて傷ついても『信心が足りん、期待するな』と切られるってか」



 教会を後にする頃、空は曇り始めていた。

 クラーレは肩をすくめ、小さく呟いた。


「……なんだか、宗教って逆にこわいわ……」


 パウラは腕を組んだまま、吐き捨てるように言う。 「やっぱ宗教って苦手」

 沈んだ表情のジュリアが、ぼそりと口を開いた。 「もう一つの……教会、行ってみますか……?」その声は弱々しかったが、まだ前へ進もうとする力を帯びていた。



     *  *  *




 次にクラーレたち四人はキュリクス西区の聖心教教会を訪れていた。

 この西区は工房が軒を連ねる職人街だ。先ほど足を運んだ東区の月信教の荘厳な建物とは対照的に、聖心教教会は拍子抜けするほど庶民的だった。木製の門扉は半分開きっぱなしで、その外には洗濯物が干され、花壇の隅では猫が気持ちよさそうに丸くなっている。教会前とは思えぬ生活感にクラーレが思わず口を開いた。


「ここ、本当に教会? ――まるで集落の寄合所みたい」


 その言葉にジュリアが気まずそうに肩をすくめる。 「ちゃんと正規の宗派ですから、一応」

 ウタリは門柱にもたれて腕を組み、周囲を見回してからぼそりと呟いた。 「いや、これはこれで信者のリアルってやつだな。生活感と信仰は矛盾しない――はずだぜ?」

 パウラは何も言わず、眉間に皺を寄せて猫を見つめていた。




「おーい、そこのお客さーん、何してんスか? 礼拝っスか? それとも免罪符でも買いに来た?」


 けだるげな声とともに、門の内側から箒を持った若い女性が現れた。

 ゆるい袖のトゥニカ(ローブ)に、白のウィンプル(頭巾)と黒のベールを着用した、いかにもな恰好の尼僧だ。しかしどう見ても違和感しかない。ローブは着崩しているし、乱暴に箒を振り回して掃除している様はどう見ても『僧』というより昨日のプリスカのような『コスプレ姉ちゃん』だった。――いや、プリスカの本業はメイドなのだが。


 一瞬、四人の間に妙な間が流れる。


 ウタリは目を細めて「――なにこのギャル」とぼそりと呟き、パウラは「尼僧?」と眉をひそめる。クラーレは目をぱちぱちと瞬かせながら、「あれ、宗教の人ですよね?」と確認するように呟いた。ジュリアだけが半ば放心したまま「風俗店じゃないよね、ここ」と空を見上げて聖句を唱えていた。


 そのコスプレ姉ちゃん――尼僧の髪は明るい茶色に染められ、ピアスを揺らしていた。何し来たと訊くのでここへ来るまでの事情をクラーレが話す。それをちゃちゃ入れつつ聞いた尼僧は

「スケルトンっすか? え、ガチ無理〜! あたしそゆの秒で逃げるタイプなんで〜☆」

と、信仰らしきものをまったく感じさせないテンションで笑う。


 クラーレが眉をひそめる。 「でも、実際に目の前で動いて、こっちを襲ってきたんです。水で反応もしました」


 ギャル尼僧は箒を肩に担ぎ、「へえ〜↓」と気のない返事をして首をかしげた。

「じゃあ〜、あれっすね、湿気と気圧じゃね? あるある〜、ガチで。徹夜のクラブ明けとかさ、メンタルとか自律神経とか乱れてっから、なんか見えたっぽくなることあるっしょ〜?」

「てかワンチャン、誰かキマってた説あるっスよ!? え、ヤバない? ツーホー?」


 その言葉にクラーレが戸惑いながらも反論を試みる。

「……いや、でも、軍だからって違法薬物を使う事は法に触れますし、幻覚というには……」


 しかし、理屈を並べるほどに虚しさが増していく。まともに答える気のない相手に対して理路整然と話す自分がまるで滑稽に思えてきたからだ。証明も証言も信心のカケラも感じないような尼僧の前では冗談にしか聞こえない。まっすぐ投げかけたはずの言葉が、オウム返しのように帰ってくるほうがましなのかもしれない。言葉を続けるうちにクラーレの表情に苦い迷いが滲んだ。


「……なんなんだろう、あれ……」


 隣のパウラは一歩引いて壁に寄りかかり、無言でやりとりを眺めていた。その目だけが、まったく笑っていなかった。



「ところでさ、聖水とかって、あります?」


 クラーレが最後の望みをかけるように問いかけると、ギャル尼僧はけろっと笑った。


「あ〜、ウチそゆの扱ってないっスね〜。マジで〜。欲しけりゃ、あっちの店――月信教っスか? 行ってみたらどすか〜? オリーブオイル入りのぬるま湯でも『聖水』って出してくれるっスよ☆」

「んで、売れたら売れたで『あぁ~! 聖水の音ォ〜!!』とか言いながら、あいつらの耳元ではカランッ☆て小銭の音鳴るンすよ。マジ草萌ゆる〜」


 その軽さに、一同の表情が固まる。


 が、彼女はさらに追い打ちをかけた。

「てか、そんなに聖水欲しいンなら、娼婦にお願いすれば出してくれるっしょ? 一番搾り、ってね☆」

 親指を立ててウインクしながら決め顔で笑うギャル尼僧。


 空気が凍った。

 クラーレは完全に理解を放棄した顔で視線を宙に泳がせ、ウタリは眉間を揉みながら「……だめだこりゃ」と呟き、パウラは意味が分かったのか顔を真っ赤にして顔を手で覆っていた。

 ジュリアだけが、何も言えずにその場に立ち尽くしていた。もはやいつ泣き出してもおかしくない表情であった。


 その様子を見たギャル尼僧が、ふとジュリアに目を留めてにやっと笑う。


「てかさ、あんた超ギャルじゃん!? メイクもキマってるし、ビジュ良しセンス良し!マジで推せる〜!」

「どお? ウチと一緒に“尼ギャル”極めて、天下とっちゃわない? ワンチャン狙えるっしょ☆」


 ジュリアは一瞬ぽかんとし、それから顔を赤くして「お、お断りしますっ!」と叫ぶ。

 するとギャル尼僧はニヤリと笑いながら、爆弾のようにひとことを放つ。


「えー? でも処女っしょ? なら全然いけるっしょ、尼!」


 一同、言葉を失った。

 ジュリアは顔を真っ赤にして、肩を震わせながら一歩踏み出し、叫んだ。


「ふっ、ふざけんなっつーの!! なんでそんなの知ってるんですかっ!!」


     *  *  *


 能天気に「また来てねぇ~☆」と元気に言う尼僧の声を背中で聞いた。さらに「ウチ、マジで推してるから! 尼ドル目指してんの☆ 応援よろぉ~!」と手を振る声が響き渡り、四人は無言で足を速めて聖心教教会から離れた。


 そういえば――ギャルって二回攻撃だった。

 一つ話せば、二つ三つは返ってくる。こっちが「え?」って戸惑ってる間に、すでに次の話題がブチ込まれている。畳みかけるような口調で、テンポは早口。内容は軽くて雑でズレてて――なのに、なぜか押し切られる。あれはもう、会話じゃなくて連撃だ。


 やがて、ウタリが背中を向けて静かに言った。 「……もういいだろ。得られるもんはなかった」

 パウラも短く「最初から期待してない」と吐き捨てるように言い、無言でついていく。

 クラーレは呆れ混じりにぽつりと呟いた。 「こわいというか……ヤバい」



 ジュリアだけが、立ち去る三人の背を見送りながら、花壇の猫のそばにしゃがみこんだ。


「――主神の教えって信じてたんだけどな……あはは」


 そう呟きながら猫の耳をつまもうとした瞬間、猫がぱしっと前足でジュリアの指をはたいた。


「痛ッ!? な、何、ネコも信じてたのにっ!」


 涙目になりながら猫に訴えるジュリアの姿を残し、一行は聖心教を後にするのだった。




     ★ ★ ★




 領主館の文官執務室。

 マイリスはペンを握ったまま机に向かって硬直していた。机には真新しい便箋が広げられているが足元のゴミ箱はすでに満杯で、入りきらない紙くずが机の上にまで溢れ返っている。


「あの、トマファさん。この場合、意見をぶつけ合うのですから“決闘(デュエル)を申し込む”って表現は、不適切――ですか?」


 ためらいがちな声音でそう告げてきたマイリスに、トマファは半眼で紙を受け取る。そこには癖のある筆致でこのように記されていた:



『貴殿の才知、我ら必要とす。

相まみえて一刻も早く真実を見極めたく、

決闘(デュエル)を申し込む。

明朝までに伺いたし候事故——』



 読み終えた瞬間、トマファの口元がぴくぴくと震え次の瞬間にはこらえきれず吹き出した。


「これじゃ完全に果たし状です。テルメさんが逃げ出しちゃいます!」


 マイリスは頬を染めて目を伏せる。 「だって、失礼にならないよう丁寧に書こうと思った結果なんです」


「相まみえるは文脈によっては『戦場で会おう』って意味になりますからね。あと『真実を見極めたく』なんて、まるで尋問ですよ」


「――あっ」


 自覚した瞬間にがっくり崩れるマイリスの肩。トマファは咳払いをひとつしてから真面目な調子に切り替える。


「では、“協力をお願いしたい”という意思を柔らかく伝えたいならこう書きましょう——」


 二人で文案を練り直し、数度の推敲を経てようやく完成したのは控えめな筆致の招待状だった。



『テルメ様の博識をお借りできれば幸いです。

ご都合のつく折に、静かな席を設けて伺いたいと思いますので

御手すきのお手隙の時間をお教えいただければ——』


 ようやく一息ついたマイリスが、脱力したように呟く。


「最初からこれがすらすらっと書ければよかったー!」


 それに対し、書き直した手紙を整えながらトマファが微笑む。


「でも、最初のは最初ので『当領主館のガチ気迫っぷり』がありましたよ。練兵所にでも張っておけば士気が上がるかもしれませんね」


「私のこんな汚い字の書簡で士気を上げさせないでください! ――じゃ、お礼に一杯ご馳走してあげるから、夫のテンフィと一緒に行きましょう」


「あ、はい。ご馳走になりますね」



 マイリスは文字が書けるようになったのもつい数年前だ。王宮からたまに届く形式ばった文章に慣れさせるために、手紙の書き方を今日も練習している。


「もし“果たし状”の方が届いたらどうなるんでしょうか?」


「僕がテルメさんの立場なら、小旅行に出かけますね」



     ★ ★ ★




 キュリクス東区にある木造の古い建物。

 相変わらずのボロさあふれる錬金術ギルドの調合室には、陽が差し込む窓と分厚い魔導書の背表紙、そして怪しげな薬瓶が整然と並んでいた。室内の隅には古びた作業台といくつかのフラスコ、乾いた薬草の匂いが漂い、長く使われてきた痕跡がそこかしこに刻まれている。その空気のなかに柔らかな足音と共に現れたのは錬金術師テルメだった。淡い藍色のローブをまとい、銀の留め具がきらりと光る。表情は柔和だが眼差しにはいつも冷静さが宿っていた。


「領主様とクラーレ様がアポイント取ってまでのお忍びの御訪問。――ということは“そういう案件”ですか?」


 軽く口元をゆるめつつも、声には微かな警戒が滲んでいた。その部屋の中央、ヴァルトアは静かに頷き、向かい合うクラーレもまた緊張を隠さずにいた。


「実はアルカ島で――スケルトンが出ました」


 クラーレが口を開く。


「夜の拠点にも現れて兵を襲いました。水に反応して動きが鈍りました。反応した液体は兵士が飲んでいた真水でした」


 テルメの目が細められる。そしてクラーレから手渡された報告書に軽く目を通して状況把握に努める。


「呪術か、あるいは自動術式。前者であれば意図的な干渉を伴う術印か封印式、後者であれば何らかの条件反応に従って作動する機構式の可能性が高い。――どちらにせよ解除方法を誤れば再活性や暴走の危険すらありますね」


「だからこそ、あなたの知見を借りたいんです」 と、クラーレは食い気味に言った。「私たちは信仰にも理屈にもすがれない。けどあなたなら何かを見つけてくれるかもしれない」


 テルメはしばし黙考し、目を伏せる。


 クラーレの訴えは、ただの理屈でも報告でもなく、感情がにじむ叫びだった。クラーレとは何度となく共に酔い、くだらない話を肴に酒を飲んだ相手だ。弱さも意地も、きっと誰よりも知っている。


 だが、それでも語らなかった過去があった。テルメはゆっくりと口を開く。


「――私は、かつて新都エラールで『術式事故』に関与しました。そのようにしろって命じられた訳ではありませんが、それ以来、手を出すことは避けてきたんです」


 沈黙。

 ――自分はかつて、術式研究の事故に巻き込まれたことがある。同僚が目の前で大怪我を負い、原因の一端として名指しされた。ギルドからの信用も地に落ちかけた。あの出来事は不運と過信の積み重ねだったのだと今なら理解できる。それ以来、彼女は痛感している。自分の知識は、人を守る力”にも災いの種にもなり得るのだと。


 しかし、そんな過去を持つ自分にも真正面から信頼の眼差しを向けてくる相手がいる。その目は何も言わずとも語っていた——頼っている、信じている、と。それが、かつて酔い明かした夜に「科学ってのは信じたくなるものを疑うところから始まる」と笑っていたクラーレの目だった。その彼女が今は本気の目で頼ってきている。その『信頼』の一言が、逆に足を止めさせていた――だが、まっすぐな視線に応じるように、テルメはふっと苦笑した。


「――わかりました、協力しましょう。科学の眼で見させていただきますね」


 ヴァルトアが静かに息をつき、「感謝する」とだけ短く言った。




 部屋を出る直前にテルメはふと振り返った。


「ちなみに……水だけで邪が払えるなら、酒でも同じことができるはずですよ?」


 クラーレが半眼で聞き返す。 「本気で言ってます?」と言うクラーレにテルメは涼しい顔で続けた。



「だって夏の主神祭の時、村人たちは浴びるように飲んでますよね? あれ、全身清めてるようなもんですよ」


 ヴァルトアが苦笑した。

「その酔いどれどもを後で叩き起こすのは、我々だがな」

 テルメは、ほんの少しだけ口元をほころばせた。

「清めるって、そういうことですよ。ええ、たぶん」

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よろしくお願いします。





なお、月信教も聖心教もフィクションです。

何処かの宗教を模したとかはございませんのでくれぐれも免罪符の購入はレオ10世にお問い合わせください。きっとシスティーナ礼拝堂が建ちますよ。


ところで、どっかの宗派が販売してたのって免罪符なん? 贖罪符なん? 贖宥状なん? 中の人は『免罪符』と習った気がしてたけど、今の教科書は贖宥状なん?

令和書籍の『国史教科書(第七版)』を参考にしたら贖宥状(免罪符)だったんだけど(p185)


――中の人が中学生時代に『贖』って漢字を覚えられる自信は、ねぇな!

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