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33話 武辺者、島嶼への派兵を許可する・2

 アルカ島上陸後すぐに、ウタリは斥候の数名を島全体の調査へと送り出した。

 午前中をかけて地形や遺構の有無を確認させる一方、残された隊員たちは西側の岩場にて拠点の構築に取りかからせた。斥候隊や工兵隊は岩の隙間に杭を打ち込んだり資材箱を積み上げて風除けを設置。持ち込んだ幕舎も順に展開していった。衛生班は応急処置所の設営を進め、昼食の準備にも余念がない。


 やがて、調査を終えた斥候たちが戻ってくる。

 集めた情報は地形図にまとめられ、報告を受けたウタリは兵科を模した駒を並べながらひとつの決断を下す。ウタリは拠点の中央に設置された資材箱の上に立ち、手にした軍略手帳を開いたまま隊員たち全員を集めて静かに告げた。


「斥候隊の報告によると島の北部に何らかの施設跡があるとのことだ。――これより全員を五つの班に分ける」


 ざわめく隊員たちを見回し、間を置かずに続けた。


「――中央正門から侵入する中央班には、私、クラーレ、パウラ、ジュリア、それに先ほど名前を挙げた斥候四名が加わる。それまで休憩とするから、各員装備と体調を確認しておけ。十五時ちょうどに作戦行動を開始する。よって爾後の行動に移れ」


「「移ります!」」


 そう言ってウタリは資材箱から降りると幕舎の一角にどっかり腰を下ろす。水を一口飲むと地形図に駒を並べ直しながら、黙々と脳内シミュレーションを続けた。


 一方その頃、斥候隊の天幕のひとつ。

 中からは、元気いっぱいの声が遠慮なく外に漏れ響いていた。天幕の壁際には整えられた装備が並び、簡素な机の上には持ち込まれたお菓子や簡易行動表が雑然と置かれている。緊張感があるのかないのか判然としない空間の中でひときわ明るい声だけが空気の重さを打ち消すように響いていた。


「私たち正面班になりましたね! 大丈夫です、おばけなんか出ても私がパウラ先輩を守ってあげますからっ!」


 ジュリアが勢いよく胸を張り、ぱちんと指を鳴らしてみせる。軽口の裏には、どこか自分自身の緊張をほぐそうとする気配もにじんでいた。それを見たパウラは小さく息を吐くと無言のままジュリアの帽子のずれを直す。丁寧ながらどこか呆れたような手つきだった。


「――ありがと。あなたも気をつけて」


 短く低いその声にジュリアは一瞬目を瞬かせたあと小さく頷いた。その目には照れくさそうな色が浮かんでいた。



 だが。さらに別の天幕では斥候の二人が声のボリュームも気にせず遠慮のない悪口を好き勝手に言い合っていた。


「……てか、あたし中央班なんだけど。()()()()()まで混じってんのよ? 絶対足引っ張られるって」

「パウラ伍長はまだいいけどさ、問題はあのちびっこギャルと……クラーレって見る限り鈍くさそうな文官? どうせ足手まといになるんじゃね?」

「ならさぁ、あいつらどっかに捨ててく?」 

「まじウケるなそれ!」


 軍隊では悪口の一つや二つなんて日常茶飯事だ。だがそれを人が聞かれる場所で言うのは無用心がすぎた。無遠慮な声は、ちょうど天幕の外を巡回していたウタリの耳にも届いてしまう。


 ウタリはその天幕にひょいと顔を突き出すと、 「準備はできてんのか?――不満があるなら先に言っとけ。命はひとつしかねぇんだぞ」と言った。


 ウタリのその鋭い目線に寝転がっていた二人は即座に姿勢を正す。今の今まで周りに気にせず大声で文句を言っていたとは思えない程の沈黙に、ウタリは内心で苦笑しつつ巡回を続ける。しかしウタリが天幕を去ったあと二人は小声で言い合った。


『な、なにあんたブルッてんの?』

『あんたもだろ――?』

『た、アタシはただの武者震いだし!』


 後にこの二人はあちこちの隊員にこう吹聴して回ったという―― 「ウタリ様を怒らせるとね、アニリィ様がキレたときより怖かった!」と。それを聞いた隊員らは「あのウタリ様を怒らせるって何やらかしたのよ」と応えたそうだが、やがてその噂は尾ひれをつけて広がり、「睨まれたら石化する」「殺気で人が倒れる」といった話へ変化し、隊員内ではウタリの姿を見ると背筋を伸ばす兵が急増したという。

 さらには「睨まれると寿命が縮む」「婚期が遅れる」とまで言われるようになり、特に女兵士の間では『姿勢を正す・返事を張り上げる・笑顔が凍る』が“ウタリ三原則”とまで語られる始末だったそうだ。


 その当の本人。ウタリはその噂を耳にした日、布団に潜るとぽつりと呟いたという。

「……そんな怖い顔、してたか? わたし……」

 そして誰にも見られていないのを確認して、そっと枕を抱きしめたのだった。



 * * *



 午後三時過ぎ。

 ウタリは拠点から三班を引き連れて、斥候たちの報告にあった“謎の施設跡地――監獄跡”の前に到着した。


 全員の視界に飛び込んできたのは、今にも崩れ落ちそうな門柱と、半ば朽ち果てた門扉だった。

 かつては重厚な造りだったと見えるそれらも時の経過には抗えなかったのだろう。その威容もいまや見る影もない。門の周囲には自然に呑まれつつある朽ちた壁がめぐらされており、苔と蔦が這う様はまるで『かつて人の手で造られたもの』という事実すら忘れ去られているかのようだった。


 ウタリは黙って足を止めた。喉の奥がひりつき吐き出す息がひどく重い。ここがただの廃墟ではないことを、肌が、汗が告げていた。見えない何かが門の奥に沈黙のまま潜んでいる。一歩踏み出す前に、彼女はゆっくりと周囲を見渡す。門柱、その奥の影、そして何より音のない静寂。軽く顎を引き、小さく一度だけ頷く。それは指揮官としての覚悟の証だった。



「総員、今から作戦行動だ。左翼班は裏の獣道から、右翼班は外塀沿いに回り込んで監獄跡に入ってくれ。異常があったら信号灯で知らせろ。無理すんな、命が最優先だぞ」


「了解。では予定ルート通りに進みます!」


 左右翼班の班長らが敬礼し、それぞれ探索へと向かっていく。


「じゃあ私ら中央班はここ周辺を探索したあとに監獄跡に入る――お前ら、鉄ッ鉢(テッパチ)の顎紐だけはしっかり締めておけ。お前らも私も嫁入り前だ、頭部負傷の名誉除隊となっても頭パァなら嫁の行き手が無くなっぞ」

「「「了解ッ!」」」


 崩れ落ちた門の隙間から中央班の面々が一人ずつ、まるで息を潜めるかのように中へと踏み入っていく。視線は落ち着かず周囲を泳ぎ、足元には探索棒を慎重に突き立てながら瓦礫の隙間や湿った石床を確かめるように進む。誰も声を発さない。空気を揺らせば何かが目覚めてしまう――そんな錯覚すら漂っていた。


 クラーレはうっすらと生えた雑草の向きや壁面のひび割れを丹念に観察しながら、震える手でメモを取っていた。筆記の手元がわずかに揺れてもそれでも彼女の手は止まらない。記録という名の拠り所を頼りに彼女は未知の広場を歩み続けていた。



 恐る恐る、しかし確実に、中央班は監獄跡の静寂に飲み込まれていった。



 しかしそんな緊張感もどこ吹く風。クラーレのすぐ近くでジュリアが周囲をきょろきょろと見回していた。顔には緊張の色は薄くむしろ興味混じりの表情すら浮かんでいる。


「ふぅー……なんか変な空気ですねぇ。クラーレ様、緊張してます?」


 声の調子は明るく、軽口を叩くことで場の雰囲気を柔らげようとしているのか、それとも単に怖さを打ち消そうとしているのか。


「あなたが落ち着いているのは、良いことですけど……ね」

「ひどーいっ!」

「声、響く。静かに」


 パウラが目を細めてたしなめると、ジュリアは一瞬だけきょとんとし、小声で「はい……」としゅんとする。肩をすくめながらも完全には緊張しきれていない様子が残っていた。


 それを遠巻きに見ていた斥候の二人が、ひそひそと肩を寄せ合う。

「――さすが()()()()だ。なんか場違い感すごくない?」

「ってかあのクラーレって文官の子も、まじで付いてくるんだ――へぇ」

 どこか冷めた視線でささやき合いながらも、二人の手元は知らず知らず探索棒を強く握っていた。そんな彼女たちにウタリはちらりと一瞥を送る。言葉はない。ただその視線だけで全てを見抜いているという圧を放つ。

 その異様な殺気を放つウタリに気付き、斥候の一人がわずかに肩をすくめ、もう一人が気まずそうに視線をそらす。それでもウタリは何も言わずただ前を向いて歩き出した。



 やがて監獄前に隊列が並ぶと、ウタリは真顔になって言った。


「――いいか、ここから先は訓練でも演習でもない。『何が出るか分からん』未確認地帯だと思ってくれ」


 クラーレも頷きながら言葉を足す。


「交戦の可能性は低いとはいえ、危険区域です。油断せずに」


 ウタリは少しだけ笑って肩をすくめる。 「ま、机上より現場は勉強になるさ」


 その気軽そうな言葉を合図に、中央班は慎重に、朽ちた監獄跡へと足を踏み入れた。




 * * *




 廃墟の奥、中庭へと足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 外の風も差し込んでいた光も、扉の内側でぴたりと途絶えたようだった。靴音と呼吸音だけが空間に響く中、誰もが無言のまま探索棒を片手に、慎重な足取りで進んでいく――まるで何かを起こさないようにと恐る恐る歩を運ぶように。


 かつて監獄として使われていたこの建物は、中央棟を囲むように複数の棟が連なっていた。そのひとつ、処刑台のある中庭へとウタリ班の八名が慎重に向かっていく。


「うわ……すごい。ここってほんとに牢屋だったんですね」


 ジュリアがぽつりと呟く。

 朽ちた石壁には無数のひびが走り、煤けた手形のような汚れが所々に残っていた。黒ずんだ板は苔むし、足を踏み入れると軋む音が響く。中庭の中央に残る絞首台には縄の痕が今もくっきりと刻まれていた。誰もいないはずのその場で風もないのに絞首台がかすかに軋んでいた。まるで何かがまだそこにぶら下がっているかのように。


「――意外と崩れていない構造が多いですね」


 クラーレが壁面を観察しながら言う。「海に囲まれた島なら、塩害でこれほど残らないはず。――風が通っていないから、劣化が遅いのかもしれません」


 パウラは探索棒で石床を静かに叩く。


「――この下、空洞になってる」


 彼女は指を立ててウタリに合図を送った。


「全員周囲、警戒。特に足元には気をつけろ。あの時の洞窟と同じだ。支えを失えば一気に落ちるぞ」


 ウタリが低い声で告げると、空気がさらに張り詰めた。


「パウラ、もう少し空洞の範囲を確認してくれ。ジュリアはあまり奥へ行くな」

「はいっ……了解です」


 しばし、探索棒が地面を突く音と息を呑むような静寂だけが訪れた。しかしその静けさを破るように、乾いた“カリ……カリ……”という音が別棟とを繋ぐ暗い廊下の奥から微かに響いた。まるで誰かが、爪で石を引っ掻いているような、不快な擦過音。


「……今、聞こえましたか? カリ、カリって」


 斥候の一人が囁くように言う。


「床の下――違う! 廊下の奥の――もっと奥から!」

「えっ、風の音じゃないんですか?」


 ジュリアが、少し強張った声で尋ねる。クラーレは立ち止まると眉を寄せたまま耳を澄ました。


「違う。ここ一体に風が吹きこまないのに音がするのはおかしい。これは――固いものが擦れてる音。人工物か、それとも――」


 ウタリが無言で片手を挙げた。その瞬間、空気が凍りつく。

 全員が足を止めて呼吸すら控える。静寂の中に緊張がみしりと軋みながら沈んでゆく。


「動物の類ならいいんだが」


 低く漏らしたウタリの声が、場の張り詰めた空気にかすかに響く。


「この島に、動物の痕跡は見つかっていません」


 クラーレが静かに続ける。淡々とした口調の奥に、ほんのわずかな震えが混じっていた。


「全員、静かに」


 ウタリの声が今度は鋭く短く、あたりに響く。誰かがつばを飲む音すらやけに大きく石壁に反響した。緊張が頂点に達してゆく。その中でジュリアの肩にそっと手を添えたパウラが、かすかに囁いた。


「怖い?」


 一瞬、ジュリアの体がびくりと揺れる。――怖い。足が震えてる。さっきからずっと喉が詰まったみたいで呼吸もしづらい。でも顔には出したくなかった。パウラ先輩にも、皆んなにも。自分が『守られる側』のままでいたくなかった。ジュリアは唇をきゅっと結ぶと目をぱっと見開き、無理にでも明るい声を張った。


「――だ、大丈夫です! 子ども扱いしないでください!」


 その声は少し上ずっていたが、確かに凛としていた。怖さを押し隠すような強がりだったが、それは彼女なりの抵抗であり決意でだった。その言葉を聞いてパウラは何も言わずに小さくうなずいた。ジュリアの声だけが、沈黙に包まれた中庭の空気をわずかに震わせていた。



 * * *



 実は正面隊の八人が中庭へ出た瞬間から空気ががらりと変わっていた。

 崩れかけた石壁と苔むした床。昼なのに光は差し込まず、風が通るはずの開口部からもどこかよどんだ空気が張り詰めていた。息をするたび肺に重く染みつく古い黴と鉄の匂いが意識に残る。


「何かいる」


 パウラが低く呟いた。

 その声にクラーレは壁際へと歩み寄ると手袋越しに石をなぞる。肌にまとわりつく湿気と指先に伝わる微かな震え、――まるで地の底で何かが蠢いているかのようだった。


「全員、構えろ」


 ウタリが一言、短く指示する。

 その瞬間――

 カツン。中庭の奥、崩れた門の向こうから何かが石を踏む音。

 カツン、カツン。


 音は一定の間隔で近づいてきた。やがて朽ちた柱の影から『異形』が現れる。

 白く、細い。

 皮膚も肉もない、乾いた骨。――かろうじて人型の形を保った白骨体が歩いていた。


「立ってる! 白い――骨、です!」


 若い斥候のひとりが叫び、慌てて短剣を抜いた。


「斬る!」 と別の斥候が走り込み、勢いよく剣を振るう。刃がスケルトンの肩口を断ち切り、骨の山が崩れて乾いた音を立てて地に落ちる。


 だが――


 カタカタカタ……。

 倒れたはずの骨がひとつ、またひとつと不自然に揺れ動き始める。まるで透明な手が導くかのように節と節を噛み合わせた。骨盤を軸に胴が立ち上がり、手足が軋みながら接続されていく。その動きはどこか機械的でしかし否応なく『命』のような意志を帯びていた。


「ちょっ――おい、復活したぞ!? 骨が勝手に組み直されて――」


 骸骨はゆっくりと人の姿を取り戻し何事もなかったかのように再び立ち上がる。



「うそっ!? なんで立ち上がるんですか!?」


 ジュリアが叫び、半歩下がる。その前に、すっとパウラが立ち塞がる。


「破壊しても止まらない個体。――魔術的な再構成? でも術者の気配が――見えない!」


 クラーレが震える手で手帳を取り出すも、記録する余裕すら与えられない。


「奥から来る。こっちもにも廊下からも――!」

 もうひとりの斥候が叫ぶ。

 その指差す先、崩れた窓の奥――闇の中から、白い何かが蠢いた。


 最初は一体だけだった。

 だが、間もなくその背後から、さらにもう一体。そしてまた一体。崩れた窓の隙間からまるで湧き出すように白骨体が現れ始めた。気づけば五、六体――さらに増えている。

 音もなく一定の間隔で、カタリ、カタリと石を踏む音だけが重なる。


 斥候たちの動きが乱れ始めた。誰かが足を滑らせ、誰かが悲鳴をあげ、背中合わせに退こうとして互いにぶつかる。白骨体は黙ったまま数を増やすとじわりじわりと包囲の輪を狭めてくる。


「おいっ、後ろからも……! 囲まれて――」

「わああっ、来るっ来るっ来るぅぅうっ!」


 恐怖と混乱が中庭を満たしかけた――そのとき。


「落ち着け!」


 その声は裂くように鋭く、だが低く確かな響きを持っていた。


「全員正門へ向かって後退だ! 斜めに抜けろ、直線は塞がれるぞ!  私が殿(しんがり)を取る!」

「ジュリアの後ろにパウラ、頼む! クラーレはパウラを補佐!  転ぶな、叫ぶな、深呼吸して走れ! 誰も置き去りにすんなよ!」


 冷静かつ明瞭な指示が飛ぶ。まるで彼女たちに軸が通ったかのように退却を始めた。


 ジュリアは息を呑みながらも、後ずさりしそうになる足をぐっと踏みとどめる。

(ここで逃げたら、ほんとに『足手まとい』になっちゃう!)

 怖い。けれどさっきの軽口をただの冗談にしたくなかった。


 ジュリアは短剣を抜いた、そのあとにパウラがすぐに彼女の背を守る。クラーレは一度だけウタリを見やりると小さくうなずいた。ウタリは最後にもう一度、白骨体たちを睨み据える。


「――撤退準備できたな、ならば全員撤退だ!」


 その声を背に、斥候班は中庭を駆け抜けた。


「ちょ、やっぱ無理無理無理! スケスケ立ってるし足音してくるし怖いですぅぅうう!!」


 さっきの気合いもここまでだった。白骨体と目が合ってしまったジュリアは完全にパニックに陥り、尻もちをついて後ずさった。手足をばたつかせ、顔を引きつらせながら後ろへ倒れてしまう。


「黙れ。舌を噛むぞ」


 パウラが即座に駆け寄り、無駄のない動きでジュリアの腰を支える。


「いやああああっ! 降ろしてぇぇぇ! こんなの絶対夢ですぅぅぅ!」

「まだ持ち上げてない」


 静かに呟くパウラがジュリアの身体をひょいと抱え上げた。驚くほど安定した動きだった。


「パウラっち、ジュリアちゃんを抱えて走って! 私があなたたちを護衛する!」


 クラーレが息を呑みつつも前へ出る。震える手で短剣を抜くと、迫る白骨体に正面から向き合った。

 その刹那――


「遊んでんじゃねえよ、ガキ共がァッ!」


 ウタリの怒声とともに白骨体の頭部が真横に吹き飛んだ。

 背後から放たれた鋭い飛び蹴りが乾いた音とともに骸骨を崩してそのまま壁際に叩きつけた。


「お前らとっとと撤退しろ! お代は酔虎亭で火酒一本だぞッ!」


 スカートの裾をひるがえしてウタリが三人の背に立つ。彼女は覚悟を決めた。悲鳴と怒号、乾いた骨の音が入り乱れる中、斥候班は再び走り出した。崩れかけた門を目指す。ジュリアを抱えたパウラを先頭に、クラーレがその背を守るように追い、ウタリが殿(しんがり)として短剣で襲い掛かるスケルトンに斬りつけた。


 崩れかけた門をようやくすり抜けると、クラーレが一度だけ振り返った。スケルトンたちはまだまだこちらににじり寄ってくる。


「これは絶対に――調べないと」



 * * * 



 陽がどっぷりと暮れた頃、バラバラになっていた斥候たちが岩場の拠点へと次々に戻ってきた。どの班も足取りは重く、誰もが荒く息を吐き、血と泥にまみれだ。


「あの班も戻ってきたけど。全員、無事じゃないよな?」


 衛生兵のひとりが顔を引きつらせて呟く。工兵の一人が慌てて叫ぶ。


「敵襲だ! 衛生班、下がれ! 防衛準備を急げ!」


 慌ただしく走り寄ってくる兵士たちの間を、クラーレがふらつきながら一歩踏み出す。ボロ布のように乱れた制服を直す間もなく、彼女は手帳を取り出して震える手で書き始める。


「廃墟内部にて未確認の敵性存在――白骨体。複数、自立・再構成・継続的攻撃――」


 インクが滲み、手が震えて文字が踊る。それでもクラーレは書こうとした。記録しなければ恐怖に飲まれてしまいそうだった。


 そのとき――「来てるぞ! 骨が、廃墟の方から、こっちへ……ッ!!」


 拠点の外から、見張りの絶叫が飛び込んできた。


「やばいやばいやばいって! 来る、来てる、こっち見てるって!!」


 叫びながら後退する斥候隊、ついに武器を持ち出す衛生兵、あちこちで叫びと足音が錯綜した。


「全員土のうの裏に入れ! 壁を盾にしろ!」


 拠点に残った者たちの咄嗟の判断で作った土のうが『防衛線』へと化していた。その防衛線の陰でジュリアは膝を抱えていた。肩が小刻みに震えている。唇を強く噛みしめたまま、かすれた声が漏れる。


「怖い。あれ、私のこと、見てた! 絶対に私を、選んで、追ってきてた!」


 目元には涙の痕がにじみ、視線は地面に縫い留められたままだった。恐怖に囚われて抜け出せずにいた。そのジュリアの隣でパウラは静かに座っていた。無言のままジュリアの右手を握っている。自分の手もわずかに震えていた。それを悟られまいと、自身の右拳を強く握りしめて膝の上に置く。


「パウラ先輩」


 ジュリアが縋るように顔を上げる。


「あれ、本当に倒せるやつなんですか?」


 その問いかけに、パウラは一瞬だけ目を伏せた。パウラの脳裏にも焼きついているのは、崩れても再生して何度も立ち上がってきた骨の群れ――あれは常識が通じる相手じゃなかった。けれど。


(私まで怖がってたらこの子はもう二度と立てなくなる)


 唇を噛み、小さく息を吐くとパウラはそっとジュリアの隣に身を寄せて肩越しに視線を向けた。

 そして静かに――けれど確かな声で呟く。


「大丈夫。私が、いる」


 それを聞いてジュリアの呼吸がひとつ、ゆっくりと整っていく。



 クラーレは、震える手で再びペンを持ち上げた。指先が冷たくなっててうまく力が入らない。それでも記録しなければと自分に言い聞かせる。もう一度、インク壺にペン先を差し――だがその手が止まった。


 ぽとり。

 インクがページの端に黒い染みを作る。狙った場所に線を引くことさえできなかった。

 クラーレも怖かったのだ。


 「どうしよう。筆が、書けない」

 かすれた声で呟いたとき、目の奥がじんと熱くなった。冷静さを保てなかった自分への怒りと悔しさと、なにより――今も止まらない恐怖。


(どうして。記録するだけなのに)


 震えを止めようと強く手を握った、紙がくしゃりと音を立てる。だが思うように身体が言うことをきかない。そのとき後ろから低く静かな声が届いた。


「クラーレっち。今は書かなくていいぞ」


 はっとして顔を上げるとウタリがすぐそばに立っていた、クラーレの目をまっすぐに見ている。


「記録はあとでいくらでもできる。いま必要なのは――深呼吸だぞ」


 言われて初めて息が浅くなっていたことに気づいた。クラーレは喉を鳴らすと無理やり空気を吸い込んだ。二度、三度と深く息を吸い込むと少し落ち着いた気がした。


「すみません、私」

「謝らなくていい。あんな現場は怖くて当然だよ」


 ウタリの声には叱責も苛立ちもない。淡々としていて、それでいて不思議と胸に沁みる響きだった。


「――そういえば、お前。北部ヴァイラ隊で哨戒してた時にも震えてたよな。ほら、オオカミが出た夜」


 クラーレは少し目を見開くとわずかに頬を赤らめた。


「そんなこと、まだ覚えてたんですか? もう十年以上前ですよ?」

「まぁな。――あの夜は特に冷えてたし、お前、毛布に包まって震えて立ち尽くしてたもんな」


 肩を竦めながら、ウタリは腰のポケットからスキットルを取り出す。蓋を開けながら、軽く顎をしゃくる。クラーレは一瞬だけスキットルに視線を向けたが、小さく首を振った。


「文官が酔っぱらってたら記録が取れません」


 その言葉にウタリはほん驚いたような顔をする、しかしふと目元を緩めて笑った。


「真面目かよ」

「ウタリさんもじゃないですか」


 二人の間にようやくいつもの距離感が戻りつつあった。闇の中に漂う緊張はまだ消えない。けれどそれでも――心のどこかが少しだけ温まった気がした。



 ウタリの笑みがすっと消え、指揮官としての顔に戻る。すっと立ち上がると周囲に目を配りながら背を向ける。去り際に一言だけ残す。


「夜明けに撤退する。あんたはそのことを記録を残しておくだけでいい」


 その言葉にクラーレは少しだけ目を見開いた。言外に彼女を『役目を果たす者』として信頼されていると、そう告げられたようだった。ウタリの背が闇に紛れていくのを見送ってからクラーレはそっと息を吐いた。胸の奥に張りついていた緊張がほんの少しだけほどけていく。


 まだ、怖い。けれどその手にはペンがある。自分にできることはここにある。クラーレは手帳を開くとページの隅に残ったインクの染みを指で避けながら筆を走らせた。


「スケルトン複数確認。自律行動し再構成もする。拠点攻撃を受けて撤退命令」

 声に出して確認しながら書き進める。たどたどしいが文字は確かに刻まれていく。恐怖に打ち勝ったわけではない。けれどそれでもクラーレは書く。これは彼女の武器であり彼女の戦いなのだ。


 拠点のその中央――ウタリが、全員で防衛する姿を見渡すと静かに息を吸い込んだ。


「――夜中にあの岩壁を降りて撤退は危険すぎる。だから夜が明けるまでここで持ちこたえるぞ」


 その声は、混乱の中でもまっすぐに届いた。


「震えててもいい。泣いてもいい。けどな、私はお前らを絶対に生きて返す!」


 その言葉を聞いて拠点がようやく一つの『命令』としてまとまり始めた。衛生兵が手を動かし、工兵と斥候が壁を確認し、誰かが息を吸い直す。ウタリは静かに短剣の鞘を握りしめたまま、闇の方角を睨み続けていた。夜明けまでは、まだまだ遠い。



 * * *



 どこかで夜が緩み始めた気配があった。

 潮の香りがわずかに和らぎ、地平の向こうに淡い気配が差し込む。気づいたのは、スケルトンの群れだった。ひとつ、またひとつ。スケルトンたちが足を止め、ゆっくりと首を巡らせた。


「あいつらの動きが止まった?」


 スケルトンたちは奇妙に統一された動きで岩陰の奥へと退いていく。静かに拠点から離れていくその様に、誰もが一瞬言葉を失った。空の東の端が、夜の黒からじわじわと瑠璃色へと染まり始めていた。


 そして――スケルトンの群れがまるで潮が引くように、静かに後退し始めていた。一体また一体。闇の奥から現れたスケルトンは、今度は無言のまま監獄跡の方角へと向かっていく。足音も声もない。風のない空間をすり抜けるようにして。生者たちは防壁の陰からそれを見送り、ただ、息を呑んでいた。


 そして、陽が昇る。太陽の輪郭が、岩の縁からゆっくりと浮かび上がる。淡く、けれど確かに夜を終えつつあった。ウタリは腰のスキットルを取り出し、一口だけ喉に流し込む。顔をしかめながら短く命じた。


「――全員撤収準備。交代で仮眠を取れ。最終撤退は日が高くなってから」


 その声に緊張でこわばっていた兵たちが少しずつ動き出す。戦いの夜はようやく終わった。

 クラーレは手帳に、最後の一行を丁寧に書き加える。


《第一回アルカ島調査、終了。

 白骨体との初接触、および拠点防衛に成功。詳細は別紙に記載》


 筆を置き、静かに手帳を閉じた。風が少しだけ暖かさを含むようになってきた。徐々に空の色は朝の色に変わり、あちこちで誰かが座り込み深く息をついていた。クラーレは顔を上げて、遠くに消えていった骨の影をもう一度だけ見つめた。

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