032話 武辺者、島嶼への派兵を許可する
クラーレがモバラ港を訪れたのは、本当にたまたまだった。
城郭都市キュリクスの東にある、海に面した小さな漁村――モバラ。
徴税資料の確認のために代官のもとを訪ねたクラーレは、その帰りがけにふと思い立って漁港まで足を運んでみた。鬱蒼とした針葉樹林に囲まれた迷宮都市ヴィルフェシスで生まれ育ったクラーレにとって海は縁遠い風景だ。きらめく水面、潮の匂い、そして絶え間なく打ち寄せる波。どれも新鮮でどこか非現実のように彼女に映る。
漁港は、出港や水揚げの時間でもなければ静かなものだ。
船を整備する男たち、海藻を干し広げる老婆、捨てた雑魚を啄むカモメの群れ――。そんな穏やかな風景に紛れてクラーレは港の端に立ち、ぼんやりと潮風に吹かれていた。
――そのときだった。水平線の向こうに小さな島影が目に留まる。
『あれも領地なんじゃない?』
そう呟くと肩から提げていたバッグに入れた徴税資料を思わず開く。先ほどの代官から預かった資料にはあの島についての記述は一切ない。調査を終えたばかりのクラーレにとって遠くに見える島は見過ごせない『空白』だった。
「すみません、ちょっとお尋ねしても?」
クラーレは近くで漁具を干す老夫婦に声をかけた。老婆が目を細めると指差した先を見つめる。
「あれかい? 人魔大戦のころの遺物って話だよ。刑務所だったとか」
その老婆の横で網具を直す老夫はぼそりと言う。
「領主様の命令でずっと昔から立ち入り禁止らしいな。詳しくは領主館で聞くといい」
口ぶりは穏やかだが老夫婦は当たり前の事のように言い放つ。領主命令が出ているなら何かしらの理由があるはずだと思い、漁港近くの網元たちを訪ね回ることにした。網元――漁網や船を所有し経営する立場にある者なら、もう少しまともな情報が聞けるかもしれないからだ。
「あの島か? 嵐に遭っても上陸するな、近づくなって親父から言われたな」
「季節になると海鳥が営巣してるらしいな。島が白っぽく見えるぞ」
語る者はいても聞く内容はいつも曖昧だった。島に上陸したという当事者はおらず、似たような伝聞ばかりが返ってくる。諦めきれずに港で船を整備していた若い漁師にも尋ねてみた。
「近くに行っても魚が取れないんだ、だから行く用は無いかな」
「夜になると、青白い光が見えるんだよ!」
「幽霊が出るらしいな、肝試しか?」
話はどんどん逸脱して眉唾な怪談めいた噂も耳に入ってくる。クラーレはメモを取りながら軽くため息をついた。
港での聞き込みを終えたクラーレはまっすぐ領主館へ戻る事に。「お疲れ様ー」と言いながら資料を片手に文官執務室に入ると、机に齧りついて帳簿の検算を続けるトマファに訊いてみた。
「トマファ君。徴税記録にない島の件で少しお時間をいただけますか?」
トマファは書類から視線を上げると、クラーレの顔を見た途端に軽くうなずいた。そしてモバラで聞いた島についての話をトマファに訊かせる。
「モバラに行ってたって事はアルカ島の事ですかね? ――一応は参考資料がございます」
彼は机の引き出しから領地の地図台帳を取り出すと「ここですね」と言いながら軽く指を置く。
「そもそも前任領主からの引継帳にもアルカ島に関する記述がないんです。測量や検地の記録もなく、王宮に照会をかけたところ『そのような島は認識していない』という返答でした。――つまりあの島は“無主地”である可能性があるんです」
無主地――どの国家も主権を行使していない土地。
確かにモバラの東方にはいずれ大陸があるのだろうが、このあたりまで進出してきたという報告は聞かない。とすれば他国に先んじて主権を明示し有効な占有の実績を残しておいた方が得策だろう。仮にあの島に他国の旗が立つような事態になれば――王宮から何を言われるか考えたくもない。
「また、モバラの漁民が『領主様の許可が必要だ』と口を揃えている以上、現地ではヴァルトア卿に主権が及んでいると認識しているのでしょう。であれば卿の許可を得たうえで正式な調査として踏み込むのが妥当です。ただ、卿のことですからきっと『武官の同行』も求められると思います――僕たち文官が勝手に上陸するわけにはいきませんからね」
トマファの話を聞いてクラーレは思わずため息をついた。
「やっぱり。思っている以上に面倒くさいんですね」
「先占の法理は国際慣習法ですからね。国家間の長年の実践とそれに対する国際社会の一般的な認識や法的確信の積み重ねによって形成されてきたものですから――面倒くさいんです」
「ですが、私やトマファ君も知ってしまった以上は調査が必要ですよね」
「えぇ。――大丈夫ですよ。僕は調査には行けませんから、書類のお手伝いは頑張りますよ」
そう言ってくれるだけクラーレの心は少し軽くなった。
計画書を記して無主地の発見報告と調査に関する許可を得るため、武官長スルホンの執務室へ二人で向かった。執務室の扉をノックすると短く「開いてるぞ」と返ってくる。クラーレが扉を開けると室内ではスルホンと作務師ノール爺がのんびりとチェスを指していた。
「おう、クラーレ嬢にトマファ殿、どうした。――アニリィがまた何かやらかしたか?」
「いえ、今回はまだ大丈夫です。それより実地調査と、場合によっては派兵の許可もいただきたく」
「ほう、調査とな?」
スルホンがトマファから計画書を受け取った。ノール爺も身を乗り出して覗き込む。
「モバラ沖のアルカ島が徴税記録に載っていなくて、確認を──」
「アルカ島?」
スルホンが身を乗り出す。「あれ、アルカ島って……なんか聞いたことがあるんだよな」
「はい。モバラ村から沖に繰り出した先にある、古い監獄島みたいです」
計画書を読みながら、スルホンは口髭をくるくるといじっていた。だが計画書を読み進めるうちにふいに眉が跳ね上がる。
「おい、トマファ殿。これって、アルトリウスの反乱の首謀者が放り込まれた――人魔大戦記に出てくる、あのアルカ島のことじゃねぇか!?」
次の瞬間だった。スルホンが突然に椅子ごと身体を仰け反らせたためにチェス盤が宙を舞う。
「ああっ! こらスルホン、おめぇ負けそうだからってズルいぞ!」
ノール爺が笑いながら、頭をすこんと叩く。しかしスルホンの顔はどんどんと青くなる。
「てかお前ら、人魔大戦記くらい読んでるだろ? あのアルカ島のくだりよ! 白いやつがさ、夜中に、音もなく――やつらは来る、きっと来るんだよ!」
スルホンは両腕で自分の肩を抱きながら、身震いしている。
「お前の見た目なら、おばけも妖怪も裸足で逃げ出すわい!」
ノール爺はぷちぷち文句を言いながら駒を拾う。──もう、話が進まない! クラーレとトマファは無言で一礼して静かに扉を閉じた。
そして廊下に出てからクラーレがぼそっと漏らした。
「ねぇトマファ君。――スルホン様って、地味に面倒くさい人だよね」
「クラーレさん、スルホン様は一応は上司ですよ。『面倒くさい』て言いすぎです。――事実なんですが」
二人でため息をつき、アニリィの執務室を素通りする。ちなみに彼女は訓練隊へ懲罰降格中だ。
その隣の軍略武官ウタリの部屋へと向った。彼女はキュリクスで開かれる新設の学校に教師として招かれた人材だったが、軍略知識と指揮経験を買われて現在はアニリィと同格の武官として軍務にも携わっている。
トマファが扉をノックすると、内側からは気の抜けた声が返ってきた。
「どーぞー」
気安い返事が聞こえたためにクラーレがおずおずと扉を開ける。中ではウタリは軍略書を広げたまま、椅子の背にもたれて足を机に投げ出していた。小さくあくびをしながらちらりと二人を見やる。
「よう、クラーレっちにトマファ君。デートか? それともスルホンのお守りでもして疲れたか?」
「いえ、今回は実地調査の相談です。モバラ沖のアルカ島について」
「――ふぅん? なんか面白そうな匂いがするじゃん」
ウタリの目がわずかに光りぐっと身を起こす。机に投げだしていた足を下ろすと、トマファから計画書をひったくるように受け取った。ぺらり、ぺらりと計画書をめくる音だけが部屋に響く。
「てかこれ、マジで面白そうじゃん。ヴァルトア様の許可が出るのなら、私が小隊の指揮を執るぞ」
「えっ、そんな事を即決しちゃっていいんですか?」
「何があるかわかんねぇ未確認区域だろ? それに平坦な島っぽいし、この前の洞窟探査に比べて安全性は高そうだし、冒険者もアニリィっちの邪魔も入らない。いつもキュリクス西の森で訓練ばっかりやっても飽きるだろうから、若手の小隊にはお誂え向きの実地訓練場所じゃねぇか?」
あまりのノリの良さにクラーレとトマファは思わず顔を見合わせた。先ほどのスルホンとの対応との差が激しすぎる。というか、そもそも派兵に関して判断が軽すぎる。どんどん話が進んでいくのはありがたいが、クラーレには一つだけ――どうしても気になる点があった。彼女は手帳を閉じて小さく咳払いをする。
「――あの、ウタリさん。一応、『幽霊』が出るかもしれないって話がありまして」
申し訳なさそうに切り出したクラーレだったが、ウタリは地形図の上に兵科記号を模した駒を並べると陣地配置を考えるのに夢中になっていた。よほど楽しいのか顔を上げることもなく楽しげに答える。
「え、出るの? いいねぇ。斥候たちがぴえんって泣きながら逃げる姿、そそるわ〜」
「あなたのドS嗜好の話ではありません!」
クラーレはため息をついた。『この人、ほんと変わらないなぁ』――思わずそんな心の声が漏れそうになる。
「ま、軍隊での幽霊話なんてどこにでもありふれた話だろ。クラーレが居た北部ヴァイラ隊だって夜哨に立ってたら雪女が紛れ込んでたって騒動は知ってるだろうに」
「ま、まぁ。――あれはウタリさんが気が緩んでる私たちを脅かすためのいたずらでしょ?」
「んなわけあるか! 私は知らんよ?」
いかにも訳知り顔でにやつくウタリだったが、陣形配置に満足したのか一つの駒をぽんと地形図に置いて言った。その駒の意味は文官だ。
「で、クラーレっちも来るんだろ?」
「私、ですか?」
「文官の現地判断があれば指揮や伝達が格段にやりやすいし――何よりお前、元軍属だろ?」
「――はぁ。まあ、あなたの指揮下にいましたけど」
「よし決まり、40人編成の一個小隊で行こう。この計画書と作戦行動の草案は私がヴァルトア様に提出しておくよ」
ウタリはそう言うと再び陣形配置を考えるためか駒を全て横に除けると再び並べ始める。彼女の頭の中で戦術を練り始めているのだろう。二人は一礼すると静かに執務室を出て行った。
後日。
クラーレ、トマファ、ウタリの三人はヴァルトアに呼び出されたため、連れ立って領主執務室を訪れた。ヴァルトアはお茶をすすりながらウタリが提出した軍事作戦計画書を眺めており、メイドのマイリスが静かに脇に控えていた。ちなみに、メイド長のオリゴは定期的に行われる軍事教練に出ているため、今日と明日はマイリスが執務担当を務めているらしい。
「おう、呼びたてて悪かったな。この計画書について質問させてくれ――小隊を編成し、アルカ島での拠点構築訓練および島周辺の調査をする件なんだが」
ヴァルトアは湯呑をそっと机に置くと、三人を見やる。
ウタリが一歩前に出て、手帳を開いた。
「はい。どの点についてでしょうか?」
作戦行動の目的と先占の意義、訓練との兼ね合いについてはヴァルトアもすぐに理解を示した。その後は安全性や費用、人員規模について慎重かつ実務的なやり取りが続く。
三人が一通り説明を終えたところで、ヴァルトアがぽつりと漏らす。
「――ところでさ、幽霊とおばけの違いって何だ?」
唐突な一言に三人が顔を見合わせる。
そして、最初に口を開いたのはトマファだった。
「――幽体かアストラル体かの違い、らしいです」
「そ、そうなの、か――?」
ヴァルトアは遠い目をして、静かに茶をすすった。
「美人は幽霊で、それ以外がおばけ――って、昔、ばあちゃんが言ってましたよ?」
ウタリが口元をゆがめて言うと、ヴァルトアはやや間を置いて呟いた。
「じゃあ、のっぺらぼうはどっちだ?」
しばしの沈黙の後、ヴァルトアは印章を手に取り、ウタリに向かって頷いた。
「よし、小隊を率いて行ってきなさい。ただし、慎重にな」
「了解ですヴァルトア卿。提出済みの作業手順書に従い、拠点構築ののち安全を確認しつつ段階的に調査を行います」
「トマファ、領主館での記録整理と報告の精査、任せたぞ」
「承知しました」
「クラーレ……あまり危ないところには近づくなよ?」
「わかってます。ウタリさんが暴走しないように、見張っておきますから」
「……それは確かに。よし、お前らに任せた」
執務室を後にする三人の背に、ヴァルトアは手を振りながらもう一度だけ釘を刺した。
「くれぐれも、幽霊を連れ帰ってくるなよー!」
「まさか〜」と笑うウタリ。
だがクラーレとトマファは顔を見合わせるとそっと小さくため息をついた。
★ ★ ★
灰色の岩肌がごつごつと連なる海岸に、二隻の上陸艇が静かに接岸した。
船底が岩をかすめる鈍い音と帆布が風に揺れるばさばさという音だけが島の静けさに吸い込まれていく。
「ふぁ~あ……よし、全員、準備はいいかー」
ウタリは艇の先頭に立つと一つ大き目なあくびをしてから声を挙げる。彼女は首をゆっくりと左右に回し、肩をぐるりと回すと、すっかり見慣れた軍略手帳を片手に持ち直した。声の調子は飄々として軽くて場違いなほどリラックスしていた。だが兵たちは黙ってうなずき静かに命令を待つ。
ウタリの横に座るクラーレがやや呆れたように小声でつぶやく。
「……ちょっと、指揮官がだらしなくないですか?」
聞きとがめたのか、ウタリは聳え立つ岩壁を見上げたままぼそりと返す。
「悪ぃな……船に弱いんだよ、昔っから」
その一言に周囲からくすりと笑いが漏れる。
「陸に上がれば問題ねぇ。まず斥候隊と工兵隊は上陸地点の構築。衛生兵とクラーレは完成まで待機だ。――上陸行動、開始!」
斥候の一人が、そっと艇を岩壁に寄せた。張り出した岩の割れ目にハーケンを打ち込むと最初の足場を設ける。金属が石に喰い込む硬い音が波の合間に乾いた音を響かせる。先頭の隊員が身をよじって岩壁をよじ登る。背中に風を受けながら灰色の断崖を這い上がるとようやく頂部に手をかけた。思わず兵たちから感嘆が漏れる。
慎重に垂らされた縄梯子を伝って他の斥候たちが一人また一人と身をよじらせて登っていく。打ち込まれるアンカーの音が先ほど緩んだ緊張の糸を静かに張り直していった。
斥候隊全員の登攀を確認した工兵たちが垂らされた縄梯子の足元に向かって、用意した浮桟橋を連結する作業が始まった。船と岩壁を繋ぐ即席の橋は波間に揺れながらも確かに上陸の足場を築きつつあった。やがて縄梯子と組みつけられた浮桟橋に艇が慎重に横づけされる。兵士たちは一人ずつ順番に荷を背負い縄梯子へと足をかけていった。
ウタリも続くが途中でふと足を止める。岩肌に打ち寄せる波が縄梯子の下端をかすかに濡らし島を囲う断崖がぬめりを帯びて鈍く光っていた。
――こりゃ、上陸できねぇって言われるわけだ。
思わず心の中で呟く。こうして斥候隊と工兵隊が手を尽くしてようやく這い上がれるような島だ。普通の船乗りなら最初から近づこうともしない。最初の斥候が登攀を終えてから小隊全員が荷を背負い、揺れる梯子を慎重に登り切るまでにほぼ一時間。ひとつ踏み外せば滑落――そんな緊張が静かに兵たちの背中を押していた。
「よし、各隊は点呼。済んだら拠点づくりに取りかかってくれ、もしケガ人が居たら衛生班に即申告。――今夜はここを拠点とする」
ウタリは持ち込んだ床几に腰を下ろすと、事前調査で海から粗く測量して書き上げた地形図を広げて兵科を模した駒を並べる。
「それにしても、ここまで荒涼としてると異様だな」
視線を上げたウタリはぐるりと島の周囲を見回す。どこまでも続く灰色の岩肌。生き物の気配は乏しく、波音すらどこかに吸い込まれるように籠もっていた。まるで、この島そのものが“外のもの”を拒んでいるかのようだ――。
クラーレは「少し様子を見てきます」とウタリに一言だけ伝えると、拠点からやや離れた岩場へ足を運んだ。足元のぐらつく岩塊を確認しながら風下へと回り込む。そこで彼女は立ち止まるとそっと鼻をひくつかせた。
――潮の匂い。それに混じって乾いたような鉄のような、土とも違う何か。どこかで嗅いだことがある、そんな記憶の端を突つく嫌なにおい。視線を落とせば靴の下の岩肌がかすかに鈍く光を返していた。
「これは前に研究所にあった標本で嗅いだ――におい?」
それでも風は落ち着きを忘れた子犬のように、まるで島の上をぐるぐる回っているようだった。肌にまとわりつく湿気も重たく、どこか息苦しい。
「とりあえず記録はしておこう。風向きとこのにおい――サンプルも取っておこうかな」
そう呟いた彼女の声は、波音に紛れて誰の耳にも届かなかった。そしてこの時、誰ひとりとして――この島の奥底に、何が眠っているかなど誰ひとりとして知る者は居なかった。
上陸からさらに一時間もすると島西部の岩場には拠点が築かれつつあった。毎日の訓練の成果か工兵隊はてきぱきと濡れた岩盤に杭を打ち込み、帆布の陣幕を張る。斥候隊は周辺の地形確認と測量を進め、衛生班は簡易な救護所を設けていた。
「物資は西寄りに固めろ。風上に設営すると飯が砂まみれになるぞー!」
「支柱、しっかり押さえろ! この岩、意外と砕けやすい!」
誰かの指示の声が飛び交い、誰もが休むことなく動いていた。
そんな中、斥候隊のジュリアはいつになく張り切っていた。
「ペグ、打ち込みました! ではフライシートを掛けま――わわっ!?」
その声と同時に、ジュリアの足がガイロープに引っかかった。勢いよく前のめりにひっくり返り、そのまま完成間近の天幕へ豪快に突っ込んで――ばさり。帆布が大きくはためき、白い砂煙がふわりと舞い上がる。
一瞬の静寂。
周囲で作業していた兵たちの動きが止まり、視線が一斉に集まる。
「きゃーっ!? え、何? 私どこ持ってんの!? 痛たたた……」
ばさりと崩れた帆布の下からもぞもぞとジュリアが這い出してくる。頬や肩には岩肌の細かな粉塵が張りつき、短く束ねた後ろ髪にも白っぽい砂がちらほら付いていた。立ち上がろうとした途端、再びよろけて尻もちをつく。
「……もう、はしゃぎ過ぎ」
吐き捨てるかのような声が頭上から落ちてきた。差し出された手にジュリアは顔を上げると少しだけ眉をひそめたパウラが見える。無言でジュリアの手を引いて立たせると、彼女のフードについた砂埃をぱっぱと払う。その仕草は丁寧というより、あまりにも自然でまるで毎日繰り返されている所作だった。
「――あ、ありがとうございます」
しょんぼり呟くジュリアは目を伏せてぺこりと頭を下げる。その横顔は悔しさの中に気恥ずかしさが混ざったかのような微妙な色を浮かべていた。数人の兵がちらちらと笑いをこらえているのが見えるが誰も声には出さない――出さないがほんの少しだけ空気が緩んだ気がした。
「ついでに、反対側も引っかかってたから直した」
パウラは小さく告げると、ほどけたロープを手早く結び直しに向かう。ジュリアはその背中を目で追い俯きかけた顔を上げる。
「ごめんなさい、パウラ先輩……」
「大丈夫。慌てずゆっくり、訓練通り」
パウラは振り向かずにそう答えると、ロープを引き締める音だけが周囲に小さく響いた。
仮設拠点の設営がひと段落し、岩場の風が陣幕をぱたぱたはためかせていた。クラーレは隊員用の天幕の列から少し離れた高台のような岩に登ると、風下に立ち、そっと鼻をひくつかせた。
「……やっぱり、変ですね」
手帳を開き、風に髪をなびかせながらぽつりと呟いた。足元の岩塊は一見乾いて見えるが微かにしっとりとした感触がある。
「クラーレっち、どうした?」
後ろから声をかけてきたのはウタリだった。湿った風に喉をやられたのか、水筒を片手にぶら下げながら、のそりと岩場を登ってくる。
「この風、ずっと一定じゃないんです。なんというか……島の上で、ぐるぐるとうねっている感じです」
クラーレはそう言いながら、そっと指先を舐めて空に立てる。軽く眉を寄せたその表情には、いつもの穏やかさよりも真剣さが浮かんでいた。
「乱れ方が妙なんですよ。右に振れたと思えばすぐ左。渦巻きに近いのかも」
微かな戸惑いがその声に滲む。風は確かに一定せず、島全体の上を滑るように撫でていく――時折、背中を押されたような感覚すらある。
「なんかこう――雨の前触れみたいな、いやな感じです」
「ふむ」
ウタリは腕を組み、風の中でゆらめく隊の旗に目を向ける。
「まぁ、海の孤島ってやつは気まぐれなもんだ。北方出身のクラーレからしたら風が踊るのを珍しがるのも無理ないさ」
そう言ってはみるものの、その言葉に実感がこもっているかは微妙だった。
「いずれにせよ、記録しておきます」
クラーレは短く言って手帳を開くと風の流れと空気の質感を書き留めていく。その筆先は慎重でどこか焦りにも似た緊張感を帯びていた。そしてウタリはクラーレの小さな背中をしばらく見つめていた。
その間にも陣幕の布がぱたぱたとはためき、岩場の空気が少しずつ重たく感じられていく。――今はまだ何も起きてはいない。
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