30話 武辺者、検地の指示をする・1
秋が深くなってきた地方都市キュリクス。
風が吹くたびに僅かに色づき始めた葉がカサカサと音を立て、夏の賑やかさが過ぎ去った後の静けさの中で、やけに耳に残る。
西町の立ち飲み酒場・酔虎亭。
その一角で酒と晩飯を兼ねて腰を落ち着ける三人組がいた。
俺――オキサミル・ロア。測量屋あがりの物理教師。
テンフィ・スレイツ。代数と解析学と妻をこよなく愛する堅物の数学教師。
そして、彼の妻でメイドのマイリス・スレイツ。
──なんで俺は若夫婦の晩酌に付き合ってるのだろうか。
俺は空になった杯を指先でくるくる回しながら、向かいで楽しく話すふたりをぼんやり眺めていた。酒が飲めないテンフィはお茶をすするたびに目を細め、ひとりごとのように「複利計算において分割回数を無限に増やしていくと」とか呟いて何か計算して幸せそうにうなずいている。
対してマイリスはというと──「旦那様って本当に計算が好きよねぇ」とうっとりしながらそれを眺めている。ちなみにマイリスはテンフィが何をしているかはよく判っていないらしい。まぁ俺もよく判っていない。とにかくこの夫婦は見ていて飽きない。
「よぉ女将、こっちにエールくれぇ」
「あ、私もお願いしますぅ! そして麦茶も」
小柄な女将がウィンクをしながら「あいよー」と言いながら通り過ぎていく。
「そういえばオッキさん。――セーニャさんがヴィオシュラへの赴任で抜けたじゃないですか。おかげさまで忙しくて隊の子たちがふらっふらなんですよ」
マイリスは酒杯をぐいと傾けて、突然勢いよく話しだした。明らかにテンションが上がってきている。普段はきりっとした表情で仕事をこなし、無駄話もしないマイリスだ。しかし酒を飲むと明るく饒舌になるのだ。
「そんでね、夜勤明けなのに日勤もがんばりますって子がね、領主様にお出しする朝ごはんをもそもそと食べ出しちゃいまして! あぁ人間って寝不足になるとそんな失敗をするんだぁって逆に感動しましたよ」
「そんな失敗する奴おらんやろぉ」と、俺は苦笑しながら呟いた。
「じゃあオッキさん、代わりに夜勤やってみます? 意外と面白いんですよ〜?」
「無理無理無理! 夜哨しててもまず不審者が見えねぇよ!」
歳のせいか夜目が利かなくなってきているし、徹夜なんてもう身体が受け付けないからなぁ。酔っ払い同士の会話だ。話の内容が取っ散らかる。
「そんな事言って、休みの前日は夜通しで飲んでるの知ってますよぉ?」
そう言って笑い飛ばすマイリスの横で、テンフィは湯呑を飲みながら計算の手は止めない。
「ところでオッキさんの物理学の初授業はどうでした?」
「んー、まぁフツーだな。ただ、エラールの中等学校で貴族の御子息様にやる事を考えたら気が楽だよ」
「そうなんですねぇ。――旦那様はどうでした?」
「んー、初授業かい?」
ようやく計算する手を止めたテンフィは、しっかり握りしめていた湯呑に入っているお茶を飲む。
「驚いたのは、キュリクスの生徒たちは質問の質が高いんですよ……“どうして1+1は2なんですか?”と訊かれましてね。思わずペアノの公理の説明からしましたが、初等学生には早すぎたかな――?」
テンフィよ、どうしてお前の頭はそこまで堅い! 初めて算術に触れる子にそんな説明してたら、2、3年後には虚数について説明してそうだぞ。一個のりんごと一個のりんごって説明すればいいだけじゃないか。
「ねぇ旦那様、ピクルスおひとつどぉ?」
「ありがとうございます、マイリスさん」
この夫婦のやり取りはいつもぴたりと息が合っていて、見ている俺は思わず肩をすくめる。
──あいつら、世界を完全に共有してんなあ。
まぁ俺も若い頃は嫁ッコとこんな感じだったんだろうが。あの時は、一緒にいる時間は永遠に終わらない世界だと思ってたんだ。
俺は皿に盛られた若豆の塩ゆでをつまんで口に放り込んだ。
そんな折──
「副長ーっ! テンさーん! オッキーさーん!!」
店の扉が勢いよく開くと少女がひとり駆け込んできた。
プリスカ・ティグレ。メイド隊の新人にして無遠慮な突撃が十八番の“ご機嫌な猫メイド”だ。
「あら不良猫さん、実家のお手伝いサボってどこ遊び歩いてたの?」
「マイリス副長聞いてくださいよぉ! 今、広場でやってる劇団の舞台がすごいんです! ――奴隷の少女が愛した人は、自国を滅ぼした将軍で、少女は王女様で、自分のお父さんを引きずって凱旋なんです!」
「は?」「ねぇそれハッピーエンド?」「はぁ、あの舞台ですね」
どうやらプリスカは街の広場でやってた舞台を、仕事終わりに職場の同僚たちと観劇してきたらしい。よくチケット取れたなぁ、と思うくらいには話題の劇だ。そのプリスカが見た演劇の原作小説は昔読んだことがあるが、あれはの感想はただただ悲劇だな。
街でよく見るフライヤーを見れば、マイリスはきっとハッピーエンドで終わると思ってるだろうが、あれは登場人物の三人に救いが無さすぎる。
「え、みんな。舞台の話、もっと訊きたいですか? それだったらぁ~、みなさんのジョッキ、少し、軽いっぽい?」
テーブル代わりの樽を見てくすくすといたずらっぽく笑うプリスカは、その場でくるりと一回転すると笑顔で俺達に聞いてきた。
「――ご注文をお伺いします♡」
このプリスカと言う少女は相当にしたたかだ。
話も上手いだけでない、周りを惹き付ける魅力まで持っている。
マイリスは口車に乗って思わず注文していた。かくいう俺もエールを一杯もらう。
「そう言えばなんですが、領主様が──、明日のお昼休みでもいいから、三人とも来てほしいって!」
ウィンクしながらそう言うと、あちこち注文を聞いてから厨房へ引っ込んでいった。
「何の用かしら?」
マイリスがワインが入ったカップを飲み切ると、静かに樽に置く。
「きっと、親から数学の問題が難しいってクレームが来たんだよ。――さっきの話に戻るけどさぁ、テンフィが数学手習者にペアノの公理と加法公理なんか説明したから親御さんがひっくり返ったんだよ」
と、俺が言うとテンフィは『え、必要な事ですよー?』とぼそりと言う。
「……でもさ、お叱りの呼び出しなら、朝一番に来いって言うはずだから、たぶん、きっと、たいした事じゃないわよ。さ、飲も飲も♪」
そう言ってマイリスは空になったカップを掲げて、「プリスカちゃん、お酒まだぁ!」と声を張る。
まぁマイリスの言うことには間違いはないな。
「はいはーい、呑兵衛たちはちょっと待っててねぇ!」
と、奥からプリスカの声が聞こえた。
で、樽の上にエールが4杯も来た。そういえば女将に頼んでた事を忘れてた!
* * *
翌日。
朝靄が晴れ、秋の光が差し込む執務室。
机の上には、羊皮紙に描かれた地図が三枚。きっと同じところを描写しているのだろうその地図の境界線が、どれも微妙にズレていた。
キュリクスの領主様は三枚の地図を前に腕を組んでいた。眉間には深い皺。怒っているというよりも、どうにもならない難題を前にしたときのいつもの悩み顔だった。地図を見つめつつゆっくりと頭を掻く。
「昼休みに呼び出して済まないな。――実は派遣した徴税官から、ここらへんの土地はどこの村の帰属なのかについて問い合わせがあった。そこで君たちの力を借りたい」
静かに呟くその声に、室内の空気が引き締まる。
執務机を挟んで立つのは、テンフィと俺――オキサミル。
数学者と測量士、理論と実地、それぞれの専門を持つ二人だ。
その傍らには、メイド服に身を包み、書類を抱えた副隊長マイリス。
そして資料を膝の上に乗せている車椅子の文官長トマファ。
俺達は静かに領主殿の言葉に耳を傾けていた。
「そのカルバ村からの訴えはこうだ、『かつて祖父の代では、あの小川の向こうまで村の畑だった』と。だがここ数年は徴税記録では川を挟んだ隣村へ徴税されていたし、前の領主はこっちの村に課税されていたという。地図も三通りでどれも違う。これでは徴税争いになりそうだと」
「それでしたら村の正確な境界を新たに引き直すべきかと愚考します」
テンフィが一歩進み、やや緊張した面持ちで答える。
「この地図の基準点と等高線による面積計測で公平な地図を作れます。理論上は誰にも異論のない形で――」
「なぁテンフィ先生。現地の土地は歩いてみたか?」
領主殿がぼそりと口を挟んだため、テンフィは言葉を詰まらせる。
「今後、あちこちの村を回って検地をしなきゃいけないとは思うんだ。しかし急ぎ検地の必要性があるのは、まずはこの村だ」
領主殿は一つため息をつくと一つ伸びをする。
「正しく検地してどの土地がどの村に課税するかを村長立ち会いの上でやってほしい。そして村の境界をきっちり引いた上で報告が欲しい。――トマファ、それでいいか?」
横に控えていた文官トマファが膝の上の資料を開く。
「えぇ。かつて境界未決問題についてエラール南部で類似判例がありました。大審院判決で、“土地の帰属は検地と生活実態、公的記録とを擦り合わせた上で再調整して領主が公に発表した上で王宮に遅滞なく申告する”とありますね」
「――ふむ。つまり正しい検地は必須なんだな?」
「はい。有能な測量士と、現地の声を拾える人間がいれば、です」
「てかなんで公に発表なんだ?」
「一方に肩入れしたと思われないよう、“どう決めたか”をきちんと示せってことかと」
その言葉に領主殿は静かにうなずき、ゆっくりと立ち上がった。俺たちの顔を順に見る。
「テンフィとオッキ先生──済まないが検地を頼めるか。君たちの力問題解決のきっかけとなる事を私は信じているぞ」
俺達は静かにうなずいた。
「あとマイリス。君のような農村出身者がいると地元の人らにいらぬ緊張を与えずに済むと考えるから同行を頼む。場合によっては二人の護衛も頼むぞ」
「御意にござります――命に代えましても」
「馬鹿者、そのような事、軽々しく言うもんじゃない。――まぁ、そのような事態ともなりゃアニリィを差し向けるさ」
マイリスのキッと引き締まった返事に、領主様は少し口元を緩めて応えた。そのやり取りを見て執務室の張りつめていた空気がわずかにほどけた気がした。
「では、出発は明朝に。必要な資材と人員は今日中に手配しておこう。トマファ、書類は君に任せる。オリゴ、もしメイドが足りないならカミラーもいることだし、夜哨を減らしても構わんぞ」
「はい、心得ております」
「御意」
領主様の声には背中を預ける者の確かな信頼が込められていた。
夜風が冷たい。
今夜も酔虎亭で一杯飲んでた俺は、明日に向けて一人壮行会を開いていた。まぁ夕飯代わりに一杯飲みに来たってところなんだがな。
「あれ、オッキさん今日は一人なんだー」
プリスカはジョッキに入ったエールを置くと小銭を回収していく。
「あぁ。聞いてると思うが、明日から出張だからな」
「聞きましたよー、ケンチ? って奴ですよね。私、頭よくないからそんな仕事できるってソンケーですよ!」
「慣れりゃ誰でも出来るさ。次の検地には連れてってやろうか?」
「良いんですかー? じゃあ今度は随行員に推薦してくださいねー!」
そう言って手をプリスカはひらひらと手を振ると別の客のところへ行った。
「あぁ、任せとけ」
そうつぶやいた俺の声が、やけに耳に残った。
任せとけって言ったが、今回の仕事は上手くいくのだろうか──思わずロケットペンダントを取り出す。小さな銀の楕円、中にある肖像画はもう色あせ始めていた。
「――何とかなるさ、ユナもそう思うだろ」
ロケットを上衣の中に入れ戻すと、俺はプリスカが置いていったジョッキを傾ける。夜が深まる。ぐいっと一気に飲み干すと足を鳴らして店を出た。
なんとか、なるさ。
* * *
カルバ村への道は、しょっぱなから足元が悪かった。
山の尾根を背にして広がるその村は、この間の長雨のせいかところどころ地面がぬかるんでおり、泥水に沈んだままの轍が続く。案の定馬が水たまりを避けるように右へ左へと踊り歩くため、馬に跨る俺はため息をつく。
こりゃまた、気の利いた歓迎だな……。
今日は積み荷が多いためにテンフィとマイリスは二輪馬車に乗って貰っている。ちなみに俺はひとり騎乗、あいつらのラブラブに当てられたら仕事にならんからな。
後ろを振り返るとテンフィが馬車の上から地面を見下ろしているところだった。テンフィは青い顔をしながら、馬車がぐらりと揺れるたびに表情がゆがむ。
「テンフィ先生。お前、えらい青い顔――いや、イケメンになってるな」
「え、あ、いや、馬車が揺れまして――ちょっと、気持ち悪く」
テンフィが青い顔をして頭をふらつかせていると、隣のマイリスが苦笑しながら彼の肩を抱き寄せた。
「はいはい。旦那様は馬車酔いしますもんね」
……あー、熱いね。やっぱ俺は馬で正解だったわ。
そんな様子を茂みの奥から何人かの村人が遠巻きに見ていた。大人、子ども、農作業帰りの若い衆――。その誰もが「役人か」と言いたげな目でこっちを見ていた。
「検地隊だってさ……」
「税の見直しとか言って誰かの土地を削るんだろ?」
まるで噂話のように、ぼそぼそと声が漏れる。彼らの雰囲気は湿っぽくて重い。招かれざる客なのは判る。きっと数字の羅列で納得するような気配はは無く、俺達を目の敵のようにしているのは十分わかった。
村の集会所は、元は高床式の食糧庫だったらしい。木造の大屋根が目を引くその建物は、今では村人たちの話し合いの場として使われている。
「儂が村長のガンゾだ」
村人に村長を呼んでもらうと、集会所の入口にがっかりとした肩幅の白髪混じりの男が現れた。
腰には作業用の鉈をぶら下げており、見た目は村長というより現役の農民だ。
「お前さんらが領主館から来た測量隊か」
テンフィが一歩前に出て名乗った。
「はい、テンフィ・スレイツと申します。領主様より境界線調査の命を受け――」
「そういうのはええ、お役所の口調ってぇのはもう腹いっぱいなんでな」
村長の声は低く、ぬかるみに沈むようだった。俺はテンフィの隣に立ち、黙ってそのやり取りを見守った。
「この先の段々畑、もともとはうちの村のもんだった。というか、川の中心のこっち側がこっちの村ってのが儂らの爺様らの世代から言われてたんだ」
「しかし、現在の徴税記録上では、その区域は隣村の――」
「だからお役所の都合だって言ってんだよ、先生」
村長がテンフィの言葉を遮る。その場の空気がほんの少しざわついた。後ろの村人たちがささやき始める。
「むしろ俺んとこ、去年まで税が来なかったのに今年は来たぞ」
「隣村の奴らが賄賂渡してずるしてっだよ!」
まるで“怒っていい空気”が波のように広がっていくのが分かった。
これは数字で切って貼って済むような話じゃねぇな。こいつらは自分の土地が誰かに“勝手に線引きされた”ことに腹を立ててる。これは理屈じゃ通らない場だってことが判る。川が変わった? 地形が動いた? 記録と現実が食い違ってる? そんなもんどうだっていい。徴税が変わるのなら土地の所有権も変わる、こいつらにとっちゃ全部“生活の話”だ。テンフィ、お前の言うことは間違っちゃいねぇ。だがこういうときは――“測ってみりゃわかる”って言ってやる方が、ずっと信じてもらえるってもんだ。
俺はテンフィとガンゾーの話を聞きながら、ちらりと段々畑の方へ目を向けた。
ガンゾーの言葉に嘘はなさそうだ――だが、気になる点もある。川の近くにある古びた石垣に土の跡がすうっと走っている。その傾斜は妙に滑らかでどうにも“新しい”。一部だけ、石の組み方も色も違って見えた。苔のつき方がまるで別物だ。
(……崩れたか、流れたか、手が入った跡だな)
俺は馬を降りるとゆっくり歩き出す。ガンゾーたちの視線が刺さってるのは分かってるが、まずは足と掌で確かめる。その石垣にそっと手を当てる、やはり何か感触が違うな。手直ししたであろう石垣は色味だけでなく触感も変わる。
そして川筋の脇にしゃがみ込むと泥を指先で捻る、こっちは粘土質だな。しかしそのすぐ横の、段々畑のあたりは乾いた砂っぽさがある、これはおそらくシルト。何かがおかしい、こんな距離で土質がこんなにがらりと変わるはずがない。
ふと顔を上げると、川のさらに上流の山肌が目に入る。剥き出しの赤茶けた土が露出している。あれが崩れる程の雨が降れば、そうなるか。
「なあ、ガンゾさんよ。――三年か五年ほど前、この川、溢れたろ?」
背後がざわつく、村人が顔を見合わせた。
「お前、なんで」
「あの奥にある山が地滑りして露出してる。あの乾燥具合なら三から五年ってとこだろ。あと、その地すべりしてる方向と今の川の曲がり方が気に食わねぇ。他にも河原の石が不自然だし、畑の土ッ気も変わってる。――たぶん、大雨で川が溢れたな」
それを聞いたガンゾーは無言で一つ頷くと煙草を取り出して火をつけた。俺に一本寄越してきたが俺は首を振って断った。そしてガンゾはしばらく煙をくゆらせてからぼそりと呟いた。
「四年前の秋だったな。ひでぇ雨だった。おめぇさんの言う通り川の中洲がごっそり持ってかれるぐらいの増水でな――わしらは何日か集会所に避難した」
「だろうな。石垣も直した跡があるしその洪水についた跡も未だ残ってる。――とりま、村全部の検地をやらせてくれないか? そっから先は領主様がお決めになる。ただ、今の領主様はそんな悪い奴じゃねぇから、もし年貢を取り過ぎてたなら返還してくれっかもよ」
「――そうか」
俺は一度しゃがみ、足元の土をつまむ。クラーレのような農業専門家ではないが、良い土なんだろう。そして手の泥を払いながらテンフィを見た。あいつは眉をひそめて黙ってる。記録にない事実が現地で出てきたせいか、どうにも落ち着かないらしい。
「先生よ、マジで測らんとちょっとやべぇな。記憶と地図の線だけで年貢を決めッとマジで一揆が起きるぞ」
俺はにやりと笑ってそう言うと、ガンゾーも少しだけ口の端を緩めた。
「――おめぇさん、学者か?」
「“観察”が趣味のただの呑兵衛さ。――測量と調査が真理を導く、俺の流儀だ」
★ ★ ★
オッキさんが立ち上がり、泥を払って旦那様を向いたとき――村人たちの間に漂っていた敵意が、少しだけ“困惑”に変わったように見えた。
(よし、今なら入れる)
私は旦那様の横から離れて皆さまの前に立ち、深く一礼した。
「皆さま、お集まりいただきありがとうございます。領主館のメイド、マイリス・スレイツと申します」
スカートの裾を摘んでカーテシーをすると村の皆の視線が私に集まった。
「私たちが来たのは、正しい村の形を調べに来ただけです。別に税金を巻き上げに来た訳ではありません。隣村とどう境界線を引けばみんなが納得できるか。それを一緒に探したいんです」
私はしゃがんで、たまたま近くにいた小さな子の目線に合わせて笑う。
「昔、どこに何があったか。誰の畑だったかとか――子ども時代にの記憶も教えてもらえると嬉しいです。みなさんのお話、少しだけ聞かせてもらえませんか?」
年配の女性が「そりゃ構わねぇけど」と小さくつぶやく。ガンゾーさんはそれを咎めるでもなく、ただ静かに煙草の灰を落とした。
(まだ完全に心を許してはくれないけど、“聞く姿勢のある人間”だとは思ってもらえたかな)
「――そうか」
ガンゾは吸い殻を腰に下げた煙草袋に放り込むと、村人に向こうの納屋を案内してやれと言い背を向けた。ガンゾに続いて村人たちもぞろぞろと自宅へ戻ってゆく。
それを私たちはぼんやりと眺めていた。隣に立った旦那様がそっと口を開く。
「マイリスさんすごいね。――僕、ああいう話し方はできません」
「だからこそヴァルトア様は私も寄越したんだと思いますよ、旦那様」
そう囁くと旦那様はふっと笑った。
ガンゾさんに言われた村人から「測量隊の方はこちらでお寛ぎ下さい」と案内されたところは、丘の縁に建つ古びた納屋だった。壁板はところどころ歪み、干し藁の匂いが残っていて、扉の建付けはあまり良くない。けれど風通しは良いし、そこまで汚くもないので一晩ぐらいの仮宿なら充分だろう。
「――少し路盤が傾いてますが雨漏りもしてなさそうですし、ある程度整備すれば“仮の寝所”として充分使えるシロモノですね」
「旦那様、せっかくお借りする場所なのですから乱暴にしたらダメです、村の方が見ておられますよ」
私はそっと肘で促す。案内してくれた村人はこちらのやり取りをじっと見ていた。私は頭を下げる。
「なんか不足はないか、村長に伝えておくよ」
低く言ったその言葉に、どこか試すような響きがあった。私は一歩前に出て礼を取る。
「ありがとうございます。私は野営訓練を受けておりますので地べたでも眠れますが――夫のテンフィやオキサミルはそういった環境に慣れておりません。よろしければ簡単な寝具だけでも貸していただければ幸いです」
私は静かに頭を下げた。
「おめぇさん、メイドだろ? まるで軍人じゃねぇか」
「ええ、戦力ですよ?」
それを聞いた村人は「そか、わかった」とだけ呟くと背を向けて出て行った。
夕暮れどき。納屋の奥に古い竈があったので持参してきた鍋にて湯を沸かす。
料理メイドのステアリンから預かった包みを開けると、下味のついた根菜と刻み干し、そして調味料が入った小瓶が丁寧に包まれていた。すぐに煮炊きができるよう工夫しておいてくれたのだろう。包みの中身をすべて入れると、あたりに良い香りが広がってゆく。
私は料理が少し苦手。結婚したら自然に上手くなるなんて話もあるけれど、――ステアリンみたいに専門で学んだ人には到底敵わないな。彼女はこの前、ガチョウレースで官憲に二度も注意されたって話を聞いたけれど……料理に関しては本当に天才だと思うな。
ふと耳を澄ますとオッキさんの声が裏の馬小屋から聞こえてきた。馬に飼葉をやりながら名前を呼んで話しかけている。すっかり懐かれている様子が想像できてなんとも微笑ましい。
旦那様は囲炉裏のそばで膝にノートを広げて測量計画の見直し中。この人はほんとうに真面目すぎるくらいで……それが好き。でもこんなに几帳面で論理一辺倒な人がどうして私なんかと結婚する気になったのか――正直、今でも不思議に感じちゃう。だけど真剣な顔をした彼を見ると、それだけで報われた気持ちになる。
静かな時間だった。
そこへガンゾーさんが寝具を積んだ大八車を引いて納屋を訪ねてきた、手には酒瓶を持って。
「あ、ガンゾさん」
私は前掛けで手を拭きながら入口に向かう。
「メイド殿。すまんが何か。酒の当てを出してもらえんか」
私は馬小屋にいるオッキさんに声を掛けると慌てて準備した。
「わしの若い頃にゃ、村の境で揉めるなんざ考えもしなかったな。まぁ川が氾濫しない前提で線引きされてたからこうなったんだろうがな」
そうガンゾさんが言うと瓶を片手にオッキさんに差し出した。
「礼じゃねぇ。わしが来たかっただけだ」
そう吐き捨てるとオッキさんが注がれた盃を一口飲む。
「ふん、それだったら――せっかくの酒だ。楽しく飲もうや」
隣の旦那様が、少し困ったように手を振った。
「すみません、僕、下戸でして。香りだけで酔っちゃいそうで」
私はそれを見越して湯呑を彼の前に差し出した。
「はい、旦那様。ちゃんと淹れてありますから」
旦那様は照れくさそうに礼を言うと、ひとくち啜る。
「前々から徴税官には言ってたんだ。一度、境界線について調査しに来てくれって。まぁキュリクスの文官共はこんな田舎になんか興味が無いんだろうがな」
「おいおいガンゾさん、楽しい酒はどこいったよ」
「うっせぇ、愚痴らせろ!」
「感情の補正項は、想定以上に複雑ですね」
ぽつりと漏らした旦那様のその言葉に、皆が苦笑した。
「なぁ文官先生よ。人間のココロが計算出来たらどんだけ楽か――いや、めんどう臭いか。そこらへんはファジーに考えたほうが良いぞ」
「お、ガンゾさん、いいこと言うじゃねえか、ほら飲め!」
「うっせぇ、ほっとけオッサン!」
「もう、難しく考えすぎよ旦那様」
私がそう言うと旦那様はふっと笑って、湯呑をもう一度口に運んだ。薪がぱちりと音を立て、火の粉が夜気に吸い込まれていく。酒と、煙と、静かなやり取りのあと、少しだけ安堵の匂いがした。
納屋の外では虫が大合唱を絶え間なく続けていた。そして夜更け過ぎになるとオッキさんが先にうつらうつらし始めたので、ガンゾさんはその頃に帰って行った。
私たちは藁布団を広げ、簡易寝台に横になった。
旦那様は、ぼんやりと天井を眺めていた。月明かりに浮かぶその横顔は、やはりどこか冴えない。きっと今日の“数字にならない話”が、まだ頭の中で渦巻いているのだろうか。
「――眠れないの?」
私が囁くと、旦那様は小さくうなずいた。
「うん、今日のことでね。まだ整理がつかなくて。ほら、オッキ先生の川の地形や土壌の話とか、どれも記録には載っていませんでしたから」
――やっぱり、考えすぎ。
私は寝返りを打って彼の方へ向く。藁の擦れる音が微かに響いた。
「旦那様。今日、何人に“よろしくお願いします”って言われたか覚えてる?」
「え? ええと、二人?」
「三人よ。おばあさんと、この納屋に案内してくれた人と、ガンゾーさん。ちゃんと聞いてた?」
「ううん――」
旦那様は、気まずそうに笑った。
「――すみません、記録してなかったです。でも、なんだか、数字に残らないものって逆にどう評価したらいいかわからなくて」
私はそっと彼の手を取った。少し冷たい指先を両手で包む。
「それでいいの。そこは評価じゃなくて感じるものよ。みんな、旦那様の“ちゃんと向き合ってくれている姿勢”を見て、安心したんだと思うよ」
「そういうものですか」
「そういうものです」
そう答えると旦那様はしばらく黙っていた。やがて小さく呟いた。
「やっぱり、マイリスがいないと僕はだめですね」
「はい、正解」
私はくすりと笑って、もう片方の手を彼の胸の上に置いた。
「明日はもっと、いろんな人と話すことになると思うけど――あなたらしく丁寧にいればきっと大丈夫。私が隣にいるしオッキさんもいますから」
テンフィはゆっくりと目を閉じた。ようやく呼吸が深くなる。
夜風が軒先を撫でていく。私はその音を聞きながらそっと彼の指を握り直した。
――どんなに簡単な数式より、“誰かと一緒に眠る安心”の方がずっと答えが簡単なのかもしれない。
と、そのとき。
「うるせぇぞバカップル、出張先でイチャコラすんな! オリゴさんに言い付けるぞ!」
今までぐうぐう寝ていたはずのオッキさんが、突然怒鳴り声をあげる。私も旦那様もびくっとして顔を見合わせる。特に『オリゴ隊長』の名前を訊いた瞬間、本当にどきりとしてしまった。
「ま、まだ何もしてませんけど……!?」
「まだってなんだよ、先生よぉ! 会話の糖度が高ぇんだよ!」
どうやら相当に酔いが回っているらしく寝言なのか本気なのか判断がつかない。
「ちゃんと大事にしねぇと――」
私は溜め息をついて、毛布を引き上げた。
「明日も早いからもう寝ましょうね、オッキさん」
「うるせぇ、寝る――んごぉ」
オッキさんはロケットペンダントを握りしめたまま、音を立てて寝返りを打ち、また豪快にいびきをかき始めた。
私は隣の旦那様と目を合わせると、小さく吹き出してしまった。
朝、霧深いせいか空気がひんやりと澄んでいた。
山奥のこの村は、この時期だけ幻想的な川霧に包まれるらしい。
納屋の前ではオッキさんが寝癖を撫でながら荷馬の様子を見に行き、テンフィさんは竈の残り火を熾して湯を沸かしていた。私は手早く洗顔を済ませたあと荷物の整理をし、それから掃除に取りかかっていた。そのときだった。どこからともなく甲高い声が響いてくる。
「なぁ、やっぱり頭にへんなの乗せてるだろ、あぁいうのを“めいど”っていうだよ!」
「ホントに“きぞく様のめいど”なのかなぁ?」
「すげぇ! 剣とか持ってるのかな? 魔法も使えるとか!?」
納屋の脇の坂道から小さな子どもたちが三人、こちらを覗き込んでいた。――“頭にへんなの”、って、このヘッドドレスのことかしら?
「こらこら、あんたたち何してるの!」
年上らしき女の子が一人、少し離れたところで声をかけていたが、それは完全に無視されていた。しかし彼らと目があったため、隠れていた子ども達は私の前にやってきた。
「うちのおじいが、村に来てるめいどさんは“戦うめいど”ってゆってたよ!」
「ねぇ、お姉ちゃんって戦えるの!? 悪い奴がきたら倒すの!?」
「嘘つけぇ! こんなお人形さんがそんなことできるわけねぇだろ! “もえもえきゅん”ってするんだぞ!」
……もえもえきゅん、って何?
どうやらこの子たち、メイドというものにとんでもない幻想を抱いているのかな?
私は手にしていた箒をハンドロールでくるくる回しながらその場でくるりと一回転して構えて見せた。
「ふふ、戦うよりも掃除の方が得意なんだけど――まぁ、敵が来たらちゃんと“お掃除”もしますよ」
「かっけぇ……!」
いつの間にか来ていた年上の女の子が目をキラキラさせて素直な感想を漏らしていた。三人の感嘆の声も上がって、思わず私も頬が緩む。
持っていた箒はちょうど訓練時に使う短槍とほぼ同じ長さ。月一の実戦教練でメリーナ小隊長と乱取りをしていることを思い出す。
そこへテンフィさんがひょっこりと顔を出し、苦笑しながら口を開いた。
「うちの妻、ナイフ投げも得意だよ。物理的な精度でいえば、ほぼ中心に刺さる確率が──あ、うん、百発百中だよ」
「うそ!? ほんとに!?」
子どもたちは一気に私を囲み、目を輝かせながら質問攻めにしてくる。
……こういう時、答え方次第で“信用”が生まれる、小さな信頼の積み重ね。
私はしゃがんで、子どもたちの目線に合わせて微笑んだ。
「ねぇ、みんな。そこの川のこととか教えて? 教えてくれたら――とっておきの技、見せてあげる」
最初に来た小さな男の子がおずおずと口を開いた。
「あのね、川で採れる魚がね? 変わったって!」
その言葉にテンフィさんはすぐさまメモを取り始めた。
プリスカが広場で見た演劇はきっとアイーダです。
――あの歌劇、救いがないんだよなぁ。
ブクマ、評価はモチベーション維持向上につながります。
現時点でも構いませんので、ページ下部の☆☆☆☆☆から評価して頂けると嬉しいです!
お好きな★を入れてください。
よろしくお願いします。




