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26話 武辺者の娘、夢に向かって踏み出す

 窓の外には秋の風。キュリクスの館に黄金色の葉が風にたなびく。


 ミニヨ――私は自室の机に肘をつきながら、分厚い書物のページをそっとめくっていた。表紙には銀文字で『錬金術概論2・物質の成分と構造』と記されている。古びた紙とインクの嗅ぎなれた香りが私の鼻腔をくすぐる。


 その本のページの隅には私が記した書き込みがある。これを書いたころは理解が出来なかったのか、走り書きには苛立ちが読み取れ、思わず口元がほころんだ。この計算が判らなくて腹立たしさから書き殴ったんだっけ。


 けれどそれも束の間、机の端に積まれた『もうひとつのもの』が目に入った瞬間、表情を曇らせてしまう。


 エラールの礼節学校──王都から届いた、煌びやかな入学案内と手続書類の束。まるで『貴族の子女はこう在るべきだ』と押しつけるかのようなものが、今にも私の錬金術書を押し潰しそうに積まれている。


「はぁ……」


 深いため息が漏れたその時、部屋の扉がノックがされる。ただ、返事もせず扉は開く。


「その本、まだ読まれていたんですね。お嬢様」


 冷ややかな、それでいてどこか優しさをにじませる声。メイド長のオリゴが、お茶を乗せたワゴンを横に静かに立っていた。私は慌てて本を伏せるように閉じる。だがオリゴは微笑すら浮かべず、ミニヨの傍らにお茶を置くと静かに言った。


「夢を追い続ける事は素敵です。でしたなら早く踏み出さないと」


 その言葉に私はほんの一瞬だけ、礼節学校の本に視線を落とした。

 夢か、それとも義務か。私はどちらに踏み出すべきなのだろう。


「そういえば、お父様は私の手紙を読まれたかしら?」


 私はオリゴにそう問いかけたが、返答はおおよそ予想がついている。でも、もしかしたら――という期待を込めて、私はオリゴを見上げる。


「ええ、読まれていましたよ。かなり丁寧に、じっくりと」

「そう、――だったんだ」


 ミニヨは軽くまぶたを伏せた。安堵と不安と入り混じった感情が私の胸を撫でる。一か月ほど前に父――ヴァルトアの書類に挟みこんでおいて欲しいとオリゴに頼んだ手紙。そこには一言だけ私の本心を記した。


「お嬢様の想いは伝わっておりますよ。ただ――それを『叶える』ことと『理解する』ことは必ずしも同じではありません」


 オリゴの声は穏やかで、しかし芯が通っていた。


「理解してくれるだけでも、十分よ」


 私はわざと明るく笑って振舞ってみせたが、オリゴはなにも返さなかった。代わりに伏せられた本にそっと視線を落とす。その重たい空気を振り払うよう私は立ち上がる。


「――お母様に、ちょっと話してくる。いつもお茶、ありがとうね!」

「御意。――ユリカ様なら中庭かと」

「わかったわ、いつもありがとうね」


 そう言って私は部屋を出た。

 


 中庭に響く、ユリカ――母が振るう青銅の長槍の風切り音。母は執務の合間を見ては長槍の型を確認するかのようにぶんぶんと振り回している。それは元々この家は父と母が武芸で名を上げた証であり、兄たちが武官として王宮で活躍していることも象徴するようだった。


 けれど、その血は私には濃く流れなかったらしい。幼い頃にオリゴから言われた

『人間向き不向きはあります』

という言葉は優しかったけれど、幼い私には残酷な現実だった。武芸の才がないと悟ったあの日から、私の心には別の夢が広がっていた。

 それは世界の理を解き明かし、新たな何かを生み出す錬金術の世界だった。誰にも言えずに胸の奥で温めてきた私の大切な夢、今日こそは母に打ち明けようと決意していた。


「あら、ミニヨ。あなたも素振り?」

「そうじゃなくて。あの、ちょっと、相談があるの」

「――ふぅん」


 母は手にした長槍を所在なさげに物干し台に立てかけた。いつも鍛錬で使っていた長槍、実はただの物干し竿だったの? きっと鍛えられた母の日常に武具と日用品の区別などないのかもしれない。そんなことに一瞬気を取られながら「進学のことで」と私は言った。すると、母の表情がわずかに動く。しかし私は自分の思いを一つ一つ母にぶつける。


 エラールの礼節学校。

 貴族の子女として当然のように進むべき道だし、父も良縁を見つけて家門の強化に繋がることを望んでいる。私もその期待に応えたい気持ちがないわけではないが、自分の心に嘘をつくのが辛くなってきたのだ。

 しかし言葉に詰まりながらも思いを話すが、ユリカは伸びをしながら朗らかに告げた。


「貴族はね、貴族らしくしてるのが一番楽なのよ?」


 その言葉が私の内側に深く突き刺さった。そして身体中の血液が逆流するような衝撃が走る。


「楽って、なによ!」


 思わず声を荒げていた。しかし母は涼しい顔をして応える。


「そのままの意味よ」

「ちょっとそれって、夢を見ないで、言われた通りに振る舞って、“楽”に生きろって。言ってることが判らない!」

「そういう意味じゃなくて……」


 母は静かに、言葉を吐き出した。しかし私はそれ以上の言葉を交わすことなく、その場を離れた。しかし母のその言葉が私の内側に深く突き刺さった。


「楽って……なによ」


 初めて自分の言葉で夢を語ろうとしていたのに。




 書斎に柔らかな灯が灯る頃。私は重厚な木扉をそっとノックした。


「お父様――少し、お時間をいただけますか?」

「ん? ああ、入りなさい」


 父――ヴァルトアはペンを置き、帳簿を閉じて私に目を向ける。私は父の執務机の前に出て、手を握りしめたまま立った。


「あの、私――エラールには行きません」


 数秒の沈黙。父の目が静かに細められた。


「それはつまり――礼節学校へは行かない、ということか?」

「はい」


 言葉に力を込めた。胸の高まりが止まらないし、奥がぎゅっと締めつけられる。父は長く息を吐き、椅子の背にもたれた。


「理由は?」

「あの……」


 私は、少し間を置いてから意を決したように父を見上げた。その時の父の表情はいつもの優しさはなく、武人然の厳しい表情を浮かべてた。その瞳には、強い輝きが宿っていた。


「錬金術師になりたいとずっと思っていました」


 父上の目をまっすぐ見つめる私の声は少し震えていた。ずっと胸にしまってきた、誰にも言えなかった思い。それを今、初めて言葉にする緊張が喉の奥を締め付けているみたいだった。


「お母様は、私たちは貴族だから貴族らしく生きたほうがって言うけど」


 私は視線を少し伏せた。さっきまでの勇気をも失って声も小さくなっていく。貴族の娘としての務め。皆が私に期待していること。それが、私の小さな胸に重くのしかかってくる。


「でも、私には、どうしても、違うんです」


 もう一度、父を見た。私の顔には、きっと不安の色が滲んでいるだろう。私の夢をきっと父は理解してくれない。そう思うと言葉を選ぶ私の声はますます弱くなる。


「貴族の娘として生きることより、私ららしく生きてゆきたくて……」


 最後に、私はほとんど囁くような声で言った。それでも、この気持ちだけは伝えたかった。


「そんな気がするんです」


 まだ、はっきりとした言葉にはできなかったけど、私の心の叫び。この気持ちを父上に少しでも分かってほしかった。しかし父は眉根を寄せる。


「お前が言う『私らしさ』で、将来、食っていく気か?」

「食べていけるかは判りません。でも、挑戦しなければ何も得られないです。――錬金術は、生き方なんです。私にとって」

「立派なことを言うようになったな」


 父はそう言いながらも、視線を逸らして窓の外を見た。しばらく口をつぐんでいたが、やがて、ぽつりと口を開く。


「ナーベルもブリスケも己の道を自分で決めた。俺はそれを静かに応援してきた。だが、お前は――」

「娘だから、ですか?」


 父の視線が戻る。


「違う。……心配なんだ」

「心配なんて――誰だってされるものじゃないですか」

「そうだ。だが、お前がいう錬金術師の世界は険しい道だ。まずは専門学校へ入学して国家錬金術師の資格を取らなきゃいけない」

「存じ上げております」

「来月から新学期だ、ミニヨ。そのような学校の入学申込みなんて盛夏にはもう済んでるはずなんだぞ? 言い出すのが遅くないか?」


 父のその言葉は、まるで冷たい水を頭から浴びせられたようだった。私はそれを聞いた瞬間、身体中の血液がさぁっと引く感じがした。夢を語った時のあの微かな希望の光が一瞬にして消え失せた。


 * * *


 その夜、私は自室の窓から屋敷を抜けだして領主館の裏口へこっそりと回る。ちょうど夜哨警らの目を搔い潜れる時間帯、外套を羽織って領主館を抜け出した。夜風に揺れる髪。街灯に照らされた石畳を踏みしめて東区の錬金術ギルドへと向かう。

 外見はギルドに見えない古臭い小屋のポーチライトがぼんやりと灯る。私はそっと扉を開けた。 


「いらっしゃいませ――ん、ミニヨちゃん? こんな時間にどうしたの?」


 声をかけたのは、受付カウンターでノートを広げていたテルメだった。


「ごめんなさい、急に……でも、どうしても話したくて」


 ミニヨは深く頭を下げた。


「今日の夜勤が私じゃなかったらどうするつもりよ」


 テルメはそう言うと、そこに座って、と椅子を勧める。そしてテーブルに置いてある専用のティーセットに水を入れた。


「錬金術ギルドって昼から深夜までの営業らしいですけど、どうしてこんな夜遅くにやってるんですか?」

「テルメちゃんったら相変わらず手厳しい事を訊くのね。まあ、錬金術師なんか暇を持て余した……いや、『常識』に囚われない変わり者が多いのは否定しないわ。それも『まだ見ぬ現実』に夢を追い求める人ってのは、不思議と夜の方が捗るものなのよ。だって、静かで誰にも邪魔されない時間だもの」


 テルメは湧いたお湯をティープレスに淹れる。ガラス器の中で茶葉がゆらゆらと浮き沈みする。――『常識』に囚われない変わり者って、それもう社会不適合者って事ですよね。


「それにミニヨちゃん。このギルドには、昼間は色々と『都合の悪い』人たちも来るの。だから夜も開けてるってわけ。深く詮索しない方があなたのためよ?」


 テルメは笑いながら言う。昼間が都合悪いってどういうことだろう? やはり月の力を借りて実験してるんかな?


「ミニヨちゃんは来月からどうするの?」

「――その件で相談したくて」


 今日、私は両親にずっと夢見ていた錬金術師になりたいと打ち明けた。けれど私が言い出したのがあまりにも遅すぎたせいで、専門学校の入学手続きは既に終わってしまっていたらしい。これからどうしたらいいのか分からず、私はテルメさんにそのことを話した。


「あの――テルメさん。確か、錬金術師ってギルドで実務経験を積めば国家試験を受ける資格が得られるんですよね?」


 私はわずかな希望にすがるような眼差しでテルメを見つめた。


「んー、まあ、制度としてはね。出来ることは出来るわよ」


 テルメは腕を組み、ギルドの古びた壁を見渡しながら答えた。


「だけど、ほら、ミニヨちゃんもウチのギルド見れば判るでしょ? 壁は剥がれかけてるし、床はギシギシ言うし、台風来たらどこか雨漏りするし。――いつ潰れてもおかしくないような貧乏ギルドに、見習いとはいえ、人を雇う余裕なんてどこにもないのよ」


 テルメは自嘲気味に肩をすくめる。そして香りがギルド内を包んだころにカップにお茶を注ぐ。


「私だって、一応は国家錬金術師の上級資格を持ってるのに、ここでは夜勤手当貰ってないわ。きっとね、私よりも領主館メイド隊の方がよっぽど良いお給料をもらってるんじゃない?」


 テルメの言葉は、優しさを滲ませながらも、現実の厳しさを突きつけるものだった。ちなみにギルドの受付嬢とお給料は変わらないという。


「テルメさん。錬金術って、そんなに大事ですか?」

「ん、大事だよ。給料は安いって愚痴ってるけど、私にとっては生きることそのものだから」

「それって……錬金術が、何かを救ってくれるってことですか?」


 テルメは、ふっと笑った。


「違うよ。錬金術はね、救いを与える魔法じゃない。『まだ見ぬ現実』に、手を伸ばし真理を明かす学問だよ」

「まだ見ぬ、現実……」


 ミニヨの目がわずかに見開かれる。胸の内に、小さな灯がともる。


「……私、本当に錬金術をやりたいんです。学びたい、研究したい。――もっと、自分の手で『何か』を変えていきたい」


 テルメは頷いた。


「だけどね、錬金術師なんて夢と希望が詰まった職業じゃないよ? 失敗を積み重ね、そして組み合わせてゆく学問なんだから。――ちなみにそこの書架に詰まってるのはすべてギルド員の失敗記録よ」


 テルメが指さした先には見慣れた書架がある。昼間は錬金術師というより浮浪者然とした人が立ち読みしている書架だ。私は目を通したことが無い。


「失敗って。そんな恥ずかしい記録をどうして公開するんですか?」

「失敗が恥ずかしいと思うのは錬金術師の中には無いよ。失敗も結果として捉えるからね。――だけど、自分がやってる事なんて、きっと誰かが先に研究して失敗してるのよ。その失敗記録を見て、何が失敗だったのか、どういう経緯が失敗につながったのか、そもそも研究として破綻してないかを確認するために公開しているのよ。――それが、さっき言った失敗を積み重ねる学問ってことね」


 テルメさんはすっと立ち上がると、その書架から古びた紙束を取り出すと私の前に置いた。


「これ、うちの前のギルマスがずっと研究してた魔導エンジンを使った加熱スクロールに関する失敗記録よ。今じゃ馬車旅で当たり前に持っていく便利道具なのに、開発ではこれだけの失敗記録があるのよ」


 テルメさんが見せてくれた紙束には、魔素が暴走した記録が事細かに丁寧な文字で書かれていた。この紙束の記録者は真摯に研究に取り組んでいたのかがよく判る。暴走の原因を冷静に分析し、考え、記録していた。


「ちなみに魔導エンジンの完成をさせたのはエラールの天才魔導錬金術師の青年よ。これだけ失敗記録を積み上げていた元ギルマスより効率よく、安全な方法をあっさり開発したんだから――凡人には夢も希望もない仕事なのかもしんないわね」


 そういってテルメさんは肩をすくめるとため息を付いた。


「その元ギルマスさんは?」

「今はクラーレさんが進めている魔導エンジンを組み込んだ農具開発をやってるわ。これもまた失敗続きらしくて、そろそろ書架を新調しないといけないかも?――それでもやってみたい? 婚期は遅れるわよ?」


 そういってテルメさんはいたずらっぽく笑う。結婚は……まだ考えてないよ。私は小さく息を吸い、窓から夜空を見上げた。星がひとつ瞬いていた。


 テルメさんがこれ貸してあげる、と言われ預かった本は、

『錬金術失敗事例 実験を安全に行うために』

だった。ちょっと読んでみたけど、まるでコントのような失敗事例でもすごく真面目に分析された書籍だった。テルメさん曰く、ここに出てくる失敗は誰しも犯すかもしれないから予習しておきなさい、とのこと。


 なお領主館に戻ったら夜哨をしていたメイドのプリスカにバレて叱られた。テルメさんから手土産で貰ったシュークリームを渡して口止めした。




 翌日。

 晴れた朝だったけど心は重かった。昨日の領主館抜け出しはプリスカが黙っていてくれたみたいでオリゴからは何も言われなかった。その代わり机の上に木箱を静かに置いて出て行った。


 その木箱の中身はエラールの礼節学校の制服一式。黒ウールの平織生地に銀の縁取りがされた上着、そしてチェックのプリーツスカート。そして付け慣れない襟元のリボンタイ。肌触りは悪くない、縫製も上質だ。でも、その箱を開けてから手の震えが止まらなかった。


(私は……これを着て、“貴族の娘”を演じなきゃいけないの?)


 錬金術師になりたい。薬の知識を学び、誰かを助けられる人間になりたい。その気持ちは確かにある。でもそれは、父や母が望む「貴族令嬢」とは違う姿だ。

 箱の蓋を閉じようとして、ふと、自分の指先に小さな火傷の痕があるのに気づいた。先週、試作した溶液がはじけた時のもの。痛かったけど、笑っていた記憶がある。その火傷痕を見てオリゴからすごく叱られたけど。


 (でもこの痕の方が……ずっと、私らしい)



 眠そうな顔のプリスカに導かれて食堂へ向かう。シュークリームがすごく美味しかったらしく、どこで買い食いしてたのって訊かれたから錬金術師ギルドだよと応えると、「あれ、本当に食べ物ですよね?」と嫌そうな顔をされた。


 食堂に入る前、アニリィとすれ違う。武官の儀礼用長剣を腰から下げ、私の顔を見ると笑顔全開で両手をぶんぶん振り回していた。


「よぉミニヨ様ぁ、聞いて聞いて! 私、出勤停止がやっと明けたのよ!」

「――何よ、朝からうるさいわね」


 刺のある声に、アニリィは一瞬だけまばたきをした。が、すぐに肩をすくめて笑う。


「ごめーんごめん。いやぁ、これで薬草食って生きる必要なくなってすげぇ嬉しくて、誰かに話さずにいられなくて!」

「それが言いたいこと?」

「そうそう。それと――錬金術師だっけ? ミニヨ様には似合うんじゃない?」


 ミニヨは一瞬、黙った。そして、低くつぶやく。


「……そんなの、あなたには関係ないじゃない」

「へえ?」

「あなたみたいに夢とか将来とかの悩みがなく、後先考えずに生きてる人が羨ましく感じるわ」


 口にした瞬間、怒りとも悲しみともつかない感情が喉に詰まった。けれどアニリィは表情を変えなかった。ただ、ゆっくりと窓辺に歩き、陽の光を浴びながら、何気ない調子で言った。


「夢って、時々ウザいよね」

「……ウザい?」

「うん。逃げても追いかけてくるし、捕まえようとすると逃げるし」


 それは意外なほど静かな声だった。


「私ね、よく『人生諦めた女』みたいに言われるの。酒ばっかり飲んで、自由気ままに生きて――でも、本当はずっと追いかけてるのよ、自分の『やりたいこと』。まだ始まってもいないけどね」


 ミニヨは口をつぐんだ。


「だからさ。ミニヨ様も、今逃げたらきっと後でまた追いかけることになるよ。それなら……最初から飛び込んでみたら?」

「……飛び込んで、溺れたら?」

「そのときは、あン時のように私が助けてやるよ!」


 いたずらっぽい笑顔。だけど、そこにはどこか大人びた本気の光があった。



     ★ ★ ★




 朝食後。

 俺はオリゴに頼んでミニヨを呼ぶ。しばらくして扉がノックされたので顔を上げた。


「お父様、お呼びですか」


 ミニヨはカーテシ―をしてから、真正面に立つ。その眼差しは真っすぐで、何かを飲み込んだ後のように澄んでいた。


「あぁ、進学の件でな」

「お父様。――あの、私、領主軍に入隊します。エラールの礼節学校には行きません」

「はぁ?」


 まるで時間が止まったかのように感じた。自分の間抜けな声が、自分の喉から出たことにすら気づかなかった。突然の告白に俺の思考は完全に停止した。領主軍? ミニヨが? あれ、錬金術師は? 一体何を考えているんだ? あの、おしとやかで、武芸には不向きでどちらかといえば内向的な俺の娘が、剣や鎧に身を包み、泥まみれになって練兵所を駆けるのか? 想像もできない。俺は何が何だか理解が出来なかった。


「……それ、どういう意味だ?」


 俺はようやく言葉を吐き出した。ミニヨから出た言葉の意味を、脳が処理しきれていなかったのだ。


「もう来月の入学に間に合わないのですから、領主軍に入って三年奉公します。年季が明けたら学費無料の権利が得られると聞きました。そこから錬金術師を目指します。自分の手で、まだ誰も見たことのないものを作りたい。学びたいのです。――ですから、お父様。どうか私を領主軍に入隊させてください」


 ミニヨの言葉は、一つ一つが俺の胸に突き刺さる。間に合わないから来年まで待つのでなく。いったん軍属として奉公してから進学する、夢を諦めずに。そんな遠回りな手段を選ぼうというのか。


 俺は思わずオリゴを見た。

 幼少の頃からミニヨの教育係を務め、誰よりも彼女の成長を見守ってきたオリゴならば、この突飛な申し出に何か言うべきことがあるだろうと思ったからだ。しかし、オリゴは困ったような表情で小さく首を横に振っただけだった。


「お前、本気か?」


 絞り出すような俺の問いに、ミニヨは揺るぎない瞳で私を見返した。


「――はい、本気です」


 その強い眼差しに、俺は何も言えなかった。この小さな娘の中にこれほどの決意が秘められていたとは想像もしていなかった。


「入隊すればメリーナ姉さんなら、お前を俺やユリカの娘とは見なさない。むしろそこら街娘と同じ、いや、それ以上の過酷な訓練を課してくるぞ?」

「――構いません。それでも私は自分の道を進みます。貴族の娘としての務めは幼い頃から教え込まれてきましたし、十分に理解しています。それでも自分を殺してまで決められた道に従うつもりはありません。」


 だが、ミニヨの声は揺るぎない決意に満ちていた。そう言い切ると一度だけ深々と頭を下げた。その小さな身体に言葉では表せないほどの強い覚悟が宿っているように見えた。


「父上と母上にこの世に生んでいただいた恩は決して忘れません、心から感謝しています。でも私の心はもう引き返す気はないのです。――ですから」


 ミニヨは静かに顔を上げ、懐に隠し持っていた短剣を手に取った。オリゴが彼女の意図を察して飛びかかろうとした瞬間、私は無言で手を上げて彼女を制する。ミニヨの揺るぎない瞳を見つめ俺は重々しく頷いた。

 そしてミニヨは長い髪の先をしっかり掴むと、迷いなくナイフを滑らせた。黄金色の髪の束が音もなく床に散った。それはまるで過去との決別を象徴しているようだった。


 散らばった髪を見下ろし、ミニヨは再び俺に向き直った。その声は低く、しかしその奥には不屈の意志が宿っていた。


「入隊の許可を、お願いします。」


 短く切り落とされたミニヨの横顔にはもはや一片の迷いも感じられなかった。


「わかった。もういい。」


 俺は、自分を落ち着かせるかのように低く静かに言った。ミニヨの揺るぎない決意を前にもはや反対する気は残っていなかった。俺はゆっくりと立ち上がると執務机の引き出しに手を伸ばす。奥から取り出したのは丁寧に革紐で縛られ赤い封蝋がなされたスクロールだった。その表面にはミニヨの名前が宛名書きされていた。


「ミニヨ。お前宛の親展だ、読むといい。」


 俺はスクロールをオリゴに手渡した。彼女はいつもの恭しい態度でそれを受け取り、ミニヨに差し出した。そして「刃物は没収します」とオリゴは小さな声で彼女に告げる。ミニヨは抵抗することなく短剣をオリゴに差し出した。そしてミニヨは赤い革紐を慎重に解くと薄黄ばんだ羊皮紙を広げた。


「クラレンス伯が色々と口利きをしてくれた。あちらでの入寮手配も済んでいる。明後日にはここを発てるように準備しなさい」


 届いたスクロールはヴィオシュラ女学院の入学許可証だった。

 それを見てミニヨは信じられないものを見るかのように目を大きく見開いたが、俺の短い説明を聞いて今度は目を潤ませる。先ほどまでの強い決意は一瞬影を潜め、代わりに深い驚愕が彼女の顔を覆っていた。こんな事になるとは夢にも思っていなかったのだろう。ミニヨの手の中で羊皮紙がわずかに震えた。そして驚きとどこか安堵にも似た表情が宿り始めていた。しかし、すぐにミニヨは唇を固く結び、再び決意の表情を取り戻した。



「父上……クラレンス伯に、感謝を伝えてください。そして、この機会を無駄にはしません」



 その声は静かだったが、内に秘めた熱は隠しようもなくまるで彼女の全身から溢れ出しているようだった。オリゴもそっと目を伏せる。普段は感情を表に出さない彼女だがこの時ばかりは別らしい。俺もまた娘の成長を認めざるを得ない思いで胸が締め付けられた。


「お前の覚悟が定まったと確認できたなら渡そうと思ってな。だが約束してくれ。苦しいとき、逃げ出したくなったとき、いつでも帰ってこい。――お前の家は、ここだ」


 涙をこらえながら、ミニヨは頷いた。


「……ありがとう、お父様」



     ★ ★ ★



 自室に戻る途中、私は廊下の突き当たりで母とすれ違った。


「行ってきます、母様」


 そう言って頭を下げようとすると、母はひとつため息をついた後、私の肩に手を置いた。


「普通ってね、楽なのよ。悩まないし、波風も立たない」

「……うん」

「でもさ、あんたもお父様や私の娘を13年もやってたら判るでしょ? あんたはどっかで爆発しちゃう」


 ミニヨは思わず吹き出しそうになる。


「退却はまだ負けじゃない、進路変更なんだから!」


 母は少しだけ寂しそうに、それでも笑って私の背を軽く押した。


「困ったときは帰ってくること。あんたが退却を選択しても、大本営は静かに受け入れるだけよ」



 自室に戻った私はベッドに飛び込むと、父から渡された入学許可証を何度も見返した。赤い封蝋が押されたその羊皮紙には、思いがけない道が記されていた。まだ信じられない気持ちと、これから始まる新しい生活への期待が、胸の中でそっと交錯していた。



 コンコン、と控えめなノックの音が静かな部屋に響いた。扉がゆっくりと開き、私のもとへ歩み出たのはオリゴだった。彼女の物静かな佇まいはいつもと変わらない。オリゴは無言でベッドに腰掛ける。小さい頃はよくベッドに並んで座っていろんな話をしたよね。


「お嬢様が誰からの指示でもなく『自分の足で立った』のは初めてのことですね」


 オリゴのハスキーな声はまるで囁くようだった。その言葉の重み、そして穏やかな眼差しは私の心の奥を見透かしているかのようだった。


「これから進まれる道はどのようなものであれ決して平坦ではありません。苦労や困難が何度もお嬢様の前に立ちはだかると思います」


 オリゴは、温かく、確信に満ちた眼差しで私を見つめる。


「それでも私は信じています。お嬢様ならどんな困難も乗り越えることができると」


 ほんのわずかに微笑みを浮かべたオリゴは深々と頭を下げる。その仕草には長年の忠誠と個人的な温かい想いが込められているように感じられた。


「どうか気をつけて旅立ってください。――そしていつまでも堂々と『ご自身の愛する自分』を貫いてください」


 オリゴの最後の言葉は私の胸に温かく染み渡った。それは形式的な挨拶というより、長年見守ってきた侍女から届いた心からのエールのように響いた。


 * * *


 昼前のキュリクスだったが秋の気配が色濃くなっていた。澄んだ空気の中にほんのりと金木犀の香りが漂い、馬車の準備を進める音が静かに屋敷の前庭に響いている。

 私はエラールの制服姿でなくドレスでもない。旅装束に身を包んで屋敷の玄関前に立っていた。肩には革製の小さなリュックとトランク。そしてその中には錬金術の本が一冊丁寧にしまわれている。


 玄関に出ると、父ヴァルトアと母ユリカが正面に並び、少し離れてトマファとクラーレが控えていた。二人とも文官服姿で、いつも以上に背筋が伸びている。


 その脇にはメイド隊の面々――オリゴを筆頭に、マイリス、パルチミンらが整列しているし、プリスカが領主軍のメイド隊旗まで掲げていた。それに今日は非番のはずのメイドまで駆けつけており、私は思わず胸が熱くなる。


 玄関脇の石段には、武官長スルホンとエルザ夫妻の姿も見える。スルホンはいつも通り仏頂面だが、今日はなぜか目を潤ませる。エルザはいつものぽわぽわ笑顔で、両手には領主軍の糧食隊旗(フォークを持つ乙女)を持っていた。なぜ?


 その後ろには、マイリスの夫で数学教師のテンフィと、クラーレの旧上官でもある軍服姿のウタリの姿も。しまいにはいくつもの小隊が隊旗を持って集合したため、街の人まで集まってきた。おかげで領主館前はいつしかどんどんと人が集まり、ちょっとした式典のような様相になっている。


 私は思わず口元を緩めてしまった。


「なんだか、すごい大げさじゃない?」

「当たり前だろ」と父が笑う。「娘の旅立ちだ、これくらいで済んでありがたいと思え」


 そして父が一歩前に出て、厚い封筒を私に差し出した。


「あのスケベ伯――いや、クラレンス伯からの手紙だ。向こうへ着いたら返事を書きなさい」


 私はそれを受け取ると、深く一礼した。


「ありがとうございます、お父様」

「ただし、つらくなったら――いつでも帰ってこい」

「帰ってきた時は、一緒に狩りにでも行こうっか」と弓を引く仕草をする母。

「またみんなで女子トークしようね」とクラーレ。

「それなら俺も混ぜてくれよ」と誰かが言う。

 皆が笑った。


 そして、御者が静かに馬車の扉を開けた。

 私は一歩、乗り込みながら振り返る。背後から声がかかった。


「おーい、ミニヨ様ぁ! よかった、まだ出発してなかった」

 アニリィだった。いつものように腰に剣を下げ、いつものように元気に手を振る。



「アニリィ。この間は、ちょっと……ひどいことを言っちゃった」


 私はアニリィに向き直る。少しだけ視線を落としながらそれでも真正面から頭を下げた。


「アニリィのこと、人生を諦めた人みたいって。……本当は、そんなふうに思ってない。ごめんなさい」


 アニリィは、ぱちくりと目を瞬き、それから大げさに頭をかいた。


「はっはっは! いいよ別に、気にしてないから! 私の人生は、今までもこれからも『お楽しみ』なんだから」


 その口調はいつも通りなのに私にはなぜか心を揺さぶり、少しだけ涙腺に響いた。アニリィはひょいと私の肩を抱き寄せて、にやりと笑う。


「でもさ、旅立つ前に言っとく。――『すべて思い通りにいくとは思わない』ってマインドは大事だから! 私はいつも、この世の中思い通りにいかないもんだと思ってるから! ミニヨ様も良かったら参考にして」


 すごく心が熱くなる言葉だった。私は力強く頷く。


「うん。行ってくる、アニリィ」

「うん。しっかり鍛えてこいよ! 帰ってきたら一緒に飲もうぜ」

「――それだけは遠慮していい?」


 思わず言ってしまった私のひと言に、場の空気が一瞬止まり、そして――


「ははははっ!」

「それは賢明ね!」

「領主館が倒産しちあう!」

「飲んだら最後だぞ、酔いどれ女勇者!」


 皆が一斉に笑い出す。旅立ちの寂しさよりも、笑顔があふれる温かい見送りだった。



『行ってきます――私、好きな自分になってきます!』

 初秋の風にスカートが揺れた。




     ★ ★ ★




 で、ミニヨに入学許可証を渡した直後の話。


「――で、誰をミニヨの随行につけるかだが」


 執務室の空気が、ぴんと張る。

 緊急評定として集まってもらったのは、武官長スルホン、メイド長オリゴ、そして文官のトマファ、目の前の顔ぶれは頼れる側近たちだ。だが話題が話題だけに誰も軽々しく口を開かない。

 しかし、その沈黙を破ったオリゴが名乗りを上げる。


「本来であれば、私が参りますべきですが――」

「却下だ」


 俺が即答した。彼女は驚いた顔をするが、そこは譲る気はない。


「屋敷の業務を誰が回す。君が抜けたら領内統治どころじゃなくなるぞ」


 スルホンも口を開いた。

「ヴァルトア様の御意見、ご尤もでございます。――オリゴ殿が随行したら王宮が『武闘メイドを送り込んだ』と警戒します」


 トマファが頷く。

「メイドというより戦力扱いになります。外交的にもまずいかと」


 オリゴは頷きつつ、「では、マイリスは?」と名前を挙げたが、即座に自ら否定した。

「――ですが、夫を残して単身赴任になりますね、それは酷です」

「じゃあ夫婦で?」

「貧乏子爵家が二人も送る必要がありません」

とオリゴがぴしゃりと言う。――そうだけど、そんな言い方ないだろ。



 次にスルホンが口を開いた。

「ならば、いっそのこと俺が――」


 その言葉の尻を遮るように、トマファがすかさず割って入った。

「――ご容赦ください。武官の随行は外交上あまりにも刺激が過ぎます。ましてや、他国の都市に男性武官を同行させるのは相手国だけでなく周辺国からも軍事的意図と誤解されかねません」


 スルホンは眉をひそめた。「警戒されるほどの者ではないと思うがな」

 しかし、トマファは静かに首を振った。

「それは我々の認識です。ですが、相手がそう受け取るかは別の話です。外交とは“どう思われるか”の連続ですから」

 場が静まる。スルホンがふっと苦笑する。

「……むぅ、確かに“威圧感”という意味では俺は、否応なく存在してしまうな」

「あと、申し訳ありませんが……」

 オリゴはやや言いにくそうに付け加えた。

「スルホン様は特に、“鋼鉄の猪(アイアン・ボア)”として有名でしたので」

「――それは過去の話だ」

 スルホンがむすっとした表情でそっぽを向くのを、オリゴが涼しい顔で茶を差し出してなだめる。




 スルホンが候補を挙げる。

「――じゃ、ステアリン嬢は?」


 一瞬で場が静まり返った。俺は眉をひそめながら呟くように言う。

「あいつ、またやらかすぞ」


 誰も反論しない、ただただ重い沈黙が流れた。それはもはや『賛同』以外の何物でもなかった。候補に挙げたトマファも気まずそうな顔をする。


 つい先日のことだ。キュリクス名物のギャンブル、《ガチョウ競争》でステアリンが熱くなりすぎた。彼女が熱烈に応援していたのは人気薄のゼッケン4番、その名も『キンタ号』だった。


 調書によると、ゴール直前、彼女は観客席で全力で叫んでいたという。


「キンタ負けるな! キンタ負けるなーっ!」


 ――この時点ですでに地雷は踏まれていた。

 それを聞いた別の客が「領主館の若いメイドが『キンタマ蹴るな!』と絶叫している!」と警吏に通報。軽犯罪法違反で現行犯逮捕されたのだから、もう救いようがない。


 トマファがぼそりと呟いた。

「名前のチョイスも悪いんですが、あのお嬢の声が良く通るってのがまた災いだったかと思います」

 俺は深く頷いた。


「不起訴にはなったが――入国審査でミニヨが恥かくぞ」




 ひと息ついて、俺はこう言った。


「――えっと、あれ、どうだ? ほら、元気な、あの……ご機嫌な猫メイド!」


 咄嗟に名前が浮かばず、結局、俺が心の中で呼んでるあだ名で呼んでしまった。

 全員が息を呑んだあと、オリゴが深い溜息を吐いた。


「部下の名前が出てこないっておっさんですか――」


 そして皆からすごく睨まれた。あ、ごめんなさい。


「プリスカですよね――あの子、まだ『新米』ですよ? 書類だけでなく国際儀礼(プロトコール)ですら蹴ッ飛ばしかねませんので無理です」


 そうか……まだダメか。最近、足跡の付いた書類は減ったんだがな。



「いっそ、奥方様――ユリカを随行に出してはいかがです?」


 スルホンが真顔で言った瞬間、場が一瞬ざわついた。俺は茶を啜りながら、あっさり首を振った。


「俺が寂しいからやだ」


 ――沈黙。トマファがペンを止め、オリゴはこめかみを押さえた。

 そしてスルホンも、茶を啜る手が止まった。


「子どもかよ」


 オリゴがポツリとつぶやいた。


 この空気、まずい。どうにか巻き返そう、最後の切り札とばかりにと俺は明るく提案してみた。


「――アニリィ(ぼそっ)」


 ――総員、即座に椅子から立ち上がる。


「「「存在が国際問題です!!」」」


 誰よりも大声だったのは、オリゴだった。いや、たまに本気出すな。



 静まり返る会議室の空気を破ったのは、オリゴだった。

 彼女は手元の資料を見ながら、冷静に言い放った。


「――それでしたら、セーニャを推薦いたします。二十代半ば。礼儀作法も完璧、恋人なし。お酒は一滴も飲めませんし、性格は温厚です。戦闘能力も最低限なら備えています」


「最低限……?」

と、俺が眉を上げると、オリゴは淡々と続けた。


「えぇ、投げナイフのコントロールは抜群ですし近接格闘戦も得意です。ただ、ひとつ問題がありまして――臨機応変な行動が苦手です。あと、本人は寡黙なんですが猫を見ると話しかけようとします」


 その場に、ふと空気が緩む。


「ふむ――臨機応変に対応が苦手、か」


 スルホンが繰り返すように言うと、トマファが手元の書類を繰る。


「あの優しいメイドさんですね。ですが、アニリィ様よりかは――その、社会的な安全性という点ではマシですよね」


と、小声でつぶやくトマファに、俺は力強く頷いた。


「よし、それで決まりだ。セーニャでいこう」


 するとオリゴが、珍しく口元を緩めて――にやりと笑った。


「では、セーニャには出発前に彼女の“尻”を叩いておきます――」



 オリゴが咳払いをして訊く。


「――ところで、ヴァルトア様。“アニリィ様”の名前を出したあたり……娘に修羅場でも与えるつもりでした?」


「ちょっとだけ、な」


「「「やめてください」」」


 その声が、妙に息の合った三人だった。






(とある新任女兵士、ネリスの日記)

入隊1か月と25日目


 あのアニリィ姉様が来てから10日が経った。

 日朝点呼が終わってすぐ、モリヤがぴょんと跳ねるように立ち上がって、アニリィ様に駆け寄っていった。


「おはようございますっ、今日もよろしくお願いしますっ!」


 アニリィ様は笑って応えた。モリヤは元気すぎて朝っぱらからもう疲れる。ポリーナも一緒に走っていった。あいつら前よりずっと明るくなった気がする。 この間の短槍訓練で何か掴んだのかもしれない。

 アニリィ様の指導って、やっぱりすごい。――うらやましい。


 クイラはいつも通り無言で横に立っていたけど、最近少しだけ当たりが柔らかくなった気がする。あと、何も言わないけど訓練中にふと私のを見る回数が増えた気がする。それだけでなんだか胸がちょっと苦しくなる。嬉しいのか怖いのかわからない。



 午前の訓練は槍の構えと間合いの確認。

 私は打ち込みの構えが崩れてオーリキュラさんに叱られた。

 でも、今日は少しだけうまくいった気がした。メリーナ小隊長が横を通るとき、「悪くないよ、ネリスちゃん」と言う。ちょっとだけうれしかった。


 それだけで、昼食が少しおいしく感じた。

 シーラ隊長の『たまねぎ肉団子煮』はいつでも最高だけど、今日は特に。

 ただし、盛りすぎなのはどうにかして欲しい。まじ太る。


 午後の訓練中、アニリィ様が急にクイラの槍の動きを止めた。

「うん、今のは『自分を守る』動きだね。そうじゃなくて『まず前に出てネリスちゃんを守る』って動きをしよう。せっかく相棒持ってるんだから、ね!」

 クイラがほんの少しだけうなずく。それだけで私の胸がギュッとした。私は? 私にはそんなふうに言ってもらえる何か、あるのかな?

 そのあとアニリィ様は私の方を見た。

 目が合った、一瞬!

 でも、確かに、目が合った。にこっと笑って、何も言わずに通り過ぎた。

 それだけで、背筋が伸びた。


 あれ、私には何もないの?

 あぁ、私は間違えるのが怖い。だけど『強くなりたい』って思ってる。

 あの人に認められるくらいの、そんな自分になりたい。

 だから、明日も頑張る。


 今日はちょっと疲れた。私、なんか嫉妬してる? 寝よ。

時はいま、GW! 10連休なぅ

執筆頑張るます!

(ちなみにみなさん、誰メインの話、好きです?)



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