244話 武辺者と、滑車弓騒動・2
ふたりが夢中でルツェル・スープを掬って口に運んでいると隣のテーブルに二人連れの男が腰を下ろす。一人はどこかうだつの上がらなさそうなやせっぽちの中年男だった。ぼさぼさの髪にヨレたシャツ、角がすり減った大き目の革鞄を小脇に抱えている。もう一人はフケの落ちた肩口を気にする気もないといった風情のくたびれたスーツ姿の男だった。
「──で、今後の裁判日程と対策がこちらです。質問は?」
「んー……それより先生よ。俺、留置中に“ちょっとした発明”しちゃってな──これが当たれば先生への謝礼を弾みたいんだよ」
「あ、はぁ」
スーツ男──どうやらスーツ左胸のフラワーホールに金バッジを付けてるから弁護士のようである──が面倒くさそうに尋ねると、ヨレシャツの男──クーグラは待ってましたとばかりに革鞄を開けるとスケッチブックを広げた。その言葉を聞いて、たまたまなのか偶然なのか判らないがカウンターの向こうの女将とアンドラがちらりと二人に視線を向けた。
クーグラは届いた朝食を貪るように食べ、弁護士はテーブルにスケッチブックを広げてぱらぱらとめくっていた。その瞬間、エリナとナタリヤの手──ではなくスプーンの動きがぴたりと止まる。
「……母さん」
「あぁ、見た」
そこには見慣れない奇妙な弓が描かれていた。両端に丸い滑車のようなものが付き、弦は何本にも折り返され、中央には握りの部分と一体化した重心を整えるための小さな棒が伸びている。木炭棒で描いたのだろうが、まるでそのシーンを切り取ってきたかのように写実的であった。作っている老公の表情も手付きも丁寧描かれているし、構造は妙に具体的である。
「……え? なんで弓に滑車がついてるんです?」
「いい質問だ先生! こうすることでな──えーと、なんて理屈だったかな……?」
クーグラが声を上げた瞬間、エリナたちの中で何かがカチリと音を立てた。
「うっわ、何そのデコった弓!?」
「めっちゃ面白そうじゃんこれ!」
エリナたちは椅子から半分身を乗り出すようにして、隣のテーブルを覗き込んだ。「──それ、ちょっと見せておくれ」
突然声をかけられたクーグラだが二人を見て胡乱な表情を浮かべた。彼にとってドワーフ族の者を見るのは初めてだったらしく、二人を見ても『初等学校に通っているであろう小娘』にしか見えなかったのだ。『女は14歳から25歳まで』と決めてるクーグラにとって彼女たちは取るに足らないつまらないものにしか見えなかった。
「なんだよ小娘ども、今忙しいんだ、あっち行けシッシッ!」
「誰が小娘よオッサン! これでも“エリナ”って名前持ってるし、たぶんあんたと同年代よ!」
その後、エリナたちがドワーフ族だと判るとクーグラが弓の制作を依頼し極端に低い予算を提示した。エリナが激怒してこれを拒否し、熾烈な価格交渉の末、クーグラは折れてエリナの要求を受け入れるや弁護士に制作契約書の準備を依頼した。弁護士が鞄から羊皮紙とペンを取り出すとその場で契約書が作られていく。弁護士は契約の立ち合いで必ず必要となるし、フォーマットは決まっているようなものなので、すらすらと書かれていった。
滑車弓試作品:一張
報酬:成功報酬としてエラール大銀貨五枚を振込む事
秘密保持義務及び存続期間
支払い不履行時は、資産を差押さえる権利を有する事
「それならドワーフ族の流儀に従った契約方式で締結してよね!」
そこで出したエリナの提案は『前金を支払われた時点で契約成立』というものだった。
「こういう製造依頼ってね、資材をかき集めるだけでも金がかかるのよ」
「まぁ……それは判る。俺だって絵描きの端くれだ、画材が無きゃ絵は描けんからな」
「じゃあ弁護士さん、『前金として一エラール・タリを支払った時点で契約成立』って条項を付け足してもらえます?」
ナタリヤも頷いて言うと弁護士はさらさらと書き加え、署名欄を二つ、三つほど作る。契約書としては必要充分な文言が並ぶ。
「じゃここに署名と拇印を。私は証人として署名しておきます」
エリナとナタリヤは女の子特有の丸まった文字で自分たちの名を書き、クーグラは妙に大仰なサインを殴り書きして拇印を押す。
「前金はあとで払うからよ、ちょっと待っててくれや。そのかわり制作準備はぼちぼち進めててくれよ? 盗作されたり、誰かが先を越されたら敵わんからな」
クーグラがへらへら笑いながら言うと弁護士は眉をひそめた。それを聞いてエリナは肩をすくめる。
「ま、いいさ。前金を持って来たときからが“契約成立”だからね」
*
長屋の作業場に戻るとエリナは契約書を作業台の上にぽんと置き、その横にスケッチブックから写した滑車弓の図を広げた。
「……ねぇ母さん」
「何だい」
「前金、まだ貰ってませんよね」
「うん」
「それなのに、使用する材料をリストアップしてあちこち探してるのは、なんなんでしょう?」
エリナは木箱からばね鋼材を取り出しながらにやりと笑った。
「いいかいナタリヤ。ドワーフの職人ってのは“面白そうだ”と思ったら、もう半分は出来たようなもんなのさ」
「……理屈になってませんよ」
「てか、あの胡散臭いクーグラとかって男、『制作準備はぼちぼち進めててくれよ?』って言ってたんだよ。前金を貰った時にドーンと渡してやったらきっと喜んで追加報酬もくれるかもしんないじゃん」
「だけどあの男、本当に胡散臭過ぎて好きになれないんですよ」
「私たち職人は、いろんな顧客を見るからね。てかナタリヤは宝飾関係だから、もっとヤベェ奴は見てきたんじゃない?」
「まぁ、そうだけどさぁ」
なんかひっかる部分があるんだよなぁとか言いながらもナタリヤも自然と動いていた。滑車になりそうな"の"の字円盤のサイズを測り、弦が掛かる溝の深さを検討する。
「ここ、軸受けはどうする? 弦の荷重がかかりますから適当なものは作れないよ」
「このデッサンを元に滑車部は金属加工ギルドのモグラット師にお願いして作ってもらおう。あの人、多少無理な注文でも簡単なイラストでもぱぱっと形作っちゃうから」
その後二人は金属加工ギルドへ行き、モグラットが旋盤を使ってあっという間に滑車部を削りだしで作り、軸受けも丁寧に圧入してくれた。費用は白銅貨二枚とかなりの格安だったのでお礼に今度酒をご馳走するよと言ったところ「楽しみにしとくぜ」と笑顔を見せたという。
そして今日一日の作業で台の上には“イラストに酷似した弓”が出来上がっていた。弓の強烈な撓りに耐えられるよう荷重がかかる場所にはばね鋼を使い、握りの形も竹材でそれらしく整えられている。弓用の弦はどこを回っても手に入らなかったので動物の腸に金属線を巻きつけた弦楽器用のワウンド弦を使う事にしたし、ラチェット式ペグはエリナの工具を溶接改造して取り付けた。
「……我ながら、いい出来じゃないかい?」
「前金前にここまでやるのはどうかとも思いましたけど……楽しかったので、まぁいいでしょう」
エリナが汗を拭いながら言うとナタリヤも満足げに頷いた。「──だけど母さん、大変な事を思い出しました」
「何よ?」
「──作業に夢中になって、夕飯の準備が何一つやってません!」
「あ」
ちょうどその時、夕鐘がカランコロンと鳴り始めていた。既に日が傾きキュリクスの街が夕餉の支度の匂いに包まれ始めていたのだった。
*
ミルドラスはふらふらとした足取りで路地を歩いていた。今日は領主館と反射炉建設地とギルドとの往復、そしてどこへ行っても算術表や熱効率計算式とにらめっこ、そして口下手なくせに何度も折衝をしたせいでへとへと、目も肩もカチカチである。
「……ただいま戻りました……」
長屋の扉を開けた次の瞬間、彼の目に飛び込んできたのは──作業台の上に鎮座する、見覚えのありすぎる“滑車のついた弓”だった。
「…………っ!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥でひっかかる。
「おかえりミルちゃん。ちょうどいいところに帰ってきたね。見てごらん、今日のおもしろ――」
「お、おおお、お義母様! な、なななな、な……何を作ってるんですかっ!?」
ようやく出てきた声は裏返っていた。
「こ、これ……レオダム師が留置所で作ってた滑車弓と、同じ構造じゃないですか……!」
エリナとナタリヤは顔を見合わせた。ミルドラスは青ざめた顔で弓に近づき、震える指で滑車の部分を指さした。
「こ、この位置、この角度、この……弦の張り方……! これ、禁止武器ですよ!? それに無許可の武器製造はダメですよってお触れが出てたじゃないですか!」
エリナは眉をひそめた。
「武器製造がダメ? ファドゥーツでは工業系ギルド員なら申請要らずでしょ?」
「こ、っこここ、ここはキュリクスですよ!」
ミルドラスはもはや半泣きだ。「──こ、これは領主館に持って行きます! 直ちに、です!」
珍しくミルドラスが声を荒げた。エリナとナタリヤがたじろぐが、ミルドラスはそんな事を無視して作業台から滑車弓をそっと、なるべく弦に触れないよう爆発物でも抱えるかのように持ち上げた。
「ちょ、ちょっとミルさん?」
「お義母さんとナタリヤさんは、ここで待っていてください……! 僕、説明、頑張ります……!」
必死の形相でそう言うと、彼は弓を抱えたまま長屋を飛び出していった。戸口に立ち尽くしたエリナとナタリヤはしばらく呆然とその背中を見送っていたが、やがて同時にため息をついた。
「……そんなにヤバかったのかい?」
「……みたいです、ねぇ?」
*
夕闇が降りかかる街路をミルドラスは弓を抱えて全力で駆けていた。
(どうしよう、滑車弓の情報が洩れてる……!)
額から汗が吹き出し足はもつれそうになるし、喉はカラカラを通り越してひりついている。今日は仕事でクタクタになったのでゆっくり風呂に入ってからエールを飲んで寝よう、そう思って歩いて来た道を今は大きな弓を持って駆けている。情報が洩れてるならすぐに文官長トマファ殿に知らせて対処しなきゃ、頭の中がてんやわんやであった。
その途中、角を曲がったところで──
「そこのお嬢さん、ちょっと待ちなさい」
鋭い女の声が飛んだ。ミルドラスがぎくりと立ち止まると、街角の詰所から女性警備兵が二人、槍を持って歩み出てくる。もちろんミルドラスは中年男だ、自分の事ではないと気にも留めず駆けていたが、女兵二人はすぐに前へ回り込んでいた。
「ねぇお嬢さん、それ……弓だよね?」
「詳しい話、ちょっとお話を聞かせてくれない?」
警備兵の二人はじろりとミルドラスの腕の中の弓を見た。立ち止まったミルドラスは口をぱくぱくさせたが、声が出てこない。家族以外とはほとんど喋れない、相手が女性であればなおの事、ミルドラスの悪い癖がこんな時に限って顔を出す。
「え、あの、その……」
蚊の鳴くような声は夕暮れの喧噪にあっさりと飲み込まれた。
「色々とお話を伺いたいから、詰所まで行こうっか」
「じゃあまずはじめに、あなたには黙秘権があるわ、だけど黙秘すれば不利益な推認の可能性となり得るわよ──」
少女然とした女性警備兵の一人がポケットからメモ帳を取り出すと、身柄拘束時の決まり文句を言い始めてしまう。ミルドラスが「ち、違……」と言いかけたときにはすでに両脇をやんわりと固められていた。ここで逃げ出したとしても、彼女らは仲間を呼ぶだろうし、こんな弓を抱えて逃げ通せるはずもない。
こうして──
エリナたちが“面白そうだから”と作り始めた一張の弓は、正式な事件として領主館の机の上に載せられることになった。まだ誰も、その先に待つ騒ぎの大きさを知らないままに。




