237話 武辺者、豊穣祭のあとしまつ・3
「……レオダム爺さんが長弓に興味持ってたって、本当?」
監吏当番だったネリスが、昼食配布の見回り報告の際にぽろっと漏らした一言をアニリィが聞き逃すはずがなかった。彼女は面白そうに目を輝かせると白い歯を見せてニヤリと笑った。
「よーし、それなら午後の運動時間にロングボウでも触らせてみるか?」
「ですがアニリィ様……うちのじいちゃんですよ?」
「うんうん。──だけどさぁ、レオダム爺さんから研究を差し引いたら、……ただただ理屈っぽいメンヘラ爺さんじゃん」
「それ、全然褒めてないですよ」
ネリスがジト目で言うとアニリィは「まぁまぁ」と言って苦笑いを浮かべる。
「ほらほら、偉い人が『人間は挑戦を止めた時、老いるもんだ』って言ってたし、今は領主館に留置されてるんだから、私たちの目が届くうちは問題無いっしょ」
「だけど、うちのじいちゃんってしょっちゅう爆発させてるんですよ?」
「長弓見て爆発させたら、そりゃもう芸術だよ! 岡本◯郎先生だよ!」
「もう、何言ってるんすか?」
あっけからんとした調子のアニリィと心配そうな顔のネリスが昼過ぎの拘置所へと乗り込んできたのであった。
「やぁ爺さん、運動の時間だよ」
「……おぉなんだ。今日はアニリィのお嬢も監視役か」
昼食を終えてしばらく経ったせいなのか、レオダムは窓際で半眼になりながらうとうとしながら論文を読んでいた。アニリィとレオダムは仕事で何かと接点があるせいか随分と気安いようである。しかし彼の独房にやってきたアニリィが持つあるものを見た途端、まぶたがわずかに上がった。──アニリィ私物の長弓だ。木目が細かく詰まった竹材や黄櫨に透明な樹脂剤が幾重にも塗り込まれて磨き上げられたせいか、艷やかさは一級品。そしてその長弓の存在感は牢の薄暗がりの中でもやけに際立っていた。
「アニリィ様、留置所への武器持込みはやっぱまずいですって!」
「てか、爺さんは別に罪を犯してここにぶち込まれてるわけじゃないんだからノーカンノーカン! 別に刃物を渡すわけじゃないんだし大丈夫っしょ」
「問題あるから言ってるんですよ!」
二人のやり取りにレオダムは小さく笑みを浮かべていた。娯楽も面会も無い、この狭い半地下では彼女らの騒がしさすら心地いいのだ。他の留置者も何だ何だと顔を覗かせる。
「……で、儂に弓を引けと?」
「そういうこと!」とアニリィは胸を張る、そこには革製の胸当てが付けられていた。「──ネリちんから聞いたよ。興味あるんだって?」
「暇すぎて、つい外の訓練を眺めてしもうた。それだけじゃ」
「言い訳はいいの。はい、せっかくの運動時間だから射手練兵所へ行って射てみれば良いって」
そう言ってレオダムは独房から出ると、階段を上がっていつもの中庭ではなく練兵所へと入っていった。他の窓からは留置されてる者たちが面白そうな顔をして覗き見る。
「これ私物だけど、弓の強さは長弓隊のロングボウと変わらないはずだよ」
差し出されたロングボウは想像以上に軽かった。長さは人の背丈より長く、触り心地は手のひらにしっとりと馴染むようである。弦は植物繊維に樹脂を塗って補強してあるが、一部に麻が巻き付けてあった。
「……ほう。これが長弓か」
レオダムは年寄の割には背が高いのだが、その背丈よりもまだ長く、室内で使うなら上端が天井に当たってしまうだろう。レオダムはまじまじと弓を見ると握りの位置を確かめる。観察だけでなんとか理解しようとする癖は、牢に閉じ込められていても健在であった。そこへ矢筒から矢を一本引き抜くとアニリィは笑う。
「じゃ、一発撃ってみよっか!」
「ほ、本気で申しておるのか……?」
「男は度胸! 何でも試してみるのさ、きっといい気持ちだぜ。ほら、遠慮しないで引いてみてよ。──そうそう、足は肩幅で」
アニリィが空手で弓を引く動作を見せると、レオダムは言われた通りに右手に矢を持ち見様見真似で構えてみたが、弓を引く段階で早速つまずいた。
「…………むん」
弦が、びくともしない。長弓隊の若者たちは軽々と引いてたが、レオダムがどれだけ引こうとも一向に引ける気配が無かったのだ。
「……お嬢。これ、引けるんか?」
アニリィは笑いながら、レオダムの背後に回り、彼の手にそっと触れた。
「!」
「ほら、ちょっとお邪魔するよ? 弓ってのはね、腕で引くんじゃなくて、こうやって背中で引くもんよ」
次の瞬間、弦がぐっと引かれた。弓が弦がぎしりと軋むのがレオダムの左手にも伝わってくる。そして腕が、肩が、背中が、今まで眠っていた筋肉たちが目を覚ますようでもあった。
「ぬおおおおおっ……!?」
思わず変な声が漏れたかと思えば右手を放してしまい、矢が明後日の方向へと飛んで行った。それを見てレオダムは腰が抜けたのか、その場でへたりと座り込んでしまった。思わずネリスが駆け寄る。
「長弓って一度引けちゃったら、あとは射法に併せて弓引きまくりだよ!」
「……お嬢は相変わらず馬鹿力でなんとかしようとするんじゃのう」
「なんとかなるんだよ」
アニリィは相変わらず得意げである。ネリスは隅で、心配そうに、しかしおかしそうに見ていた。だがレオダムは──別のところに意識を奪われていた。
(……これほどの張力。弓のしなり、エネルギーの蓄積と射出……)
弦が引けた“その感触”から脳回路に火花を走らせていたのだ。
「……ふむ。やはり、理に沿っておる……っ」
「理?」とアニリィが首をかしげる。
「エネルギーの流れじゃよ。弓というのは、しなって、戻って、その反発を矢に伝える。じゃが──」
レオダムは弦の根元を指先でつつく。
「なぜ、ここの経路を変えん? 力というものは方向を変えてやれば軽くなる。てこの応用で……いや、滑車も使えるんじゃ?」
「……でた」ネリスの顔が引きつる。「じいちゃんの“スイッチ”入っちゃったよ……」
「……お嬢。もし可能なら──壊れて捨てる予定の弓は残っておらんか?」
「やっぱ何か作る気でしょ!!」
ネリスの叫び声が、練兵所にこだましたのだった。




