235話 武辺者の娘たち、ヴィオシュラに戻る・3
秋の午後。
ヴィオシュラ女学院の講義室からは女学生たちの賑やかな声、教授の声がこぼれているその横で、従者控え室は相変わらずであった。主人の自慢話ばかりを撒き散らす若い従者、片や大口開けていびきをかいてる中年従者、控室ではあるのだが人前で平気な顔してメイクを直す従者や、だらしなく股を広げて座る従者まで居る始末。中には静かに読書や編み物をして待機している従者もいれば、漏れ聞こえる声を必死にメモする従者もいるにはいる。しかし女学院という性質上、従者は女性だけで男性が居ない。そのためどうしても緩み切った空気感が漂っている。セーニャは従者控室について『女を煮詰めたようなところです』とオリゴに報告書をあげている。それを読んだオリゴやユリカ、クラーレたちは「あぁ」と声を漏らしたという。
ミニヨたちが授業を受けている間、三人の従者──セーニャ、リーディア、シュラウディア──はいつものように編み物をして過ごしていた。誰とも関わらず、静かに授業が終わるのを待っている。
窓の外では秋の陽が紅葉に当たってきらきら輝きながら舞っていた。狭い控室なのにかなりのがなり声でしゃべり散らかす従者らには気を止めず、三人は手許のニットと編み図だけを凝視して、かぎ針をくにくにと動かしていた。三人にとってこの時間は平和そのものであった。
「私たちってこうしていつもカーディガンを編んでますけど……差し上げられる殿方でもいらしたら、きっと張り合いが出るんでしょうね」
ぽつりと漏らしたリーディアの言葉にセーニャの指先がぴたりと止めた。目尻と針の先が微かに震える。
「そりゃ、まあ……うーん、そうなんじゃない?」
努めて平静を装いながらもセーニャは淡々と答えた。だが彼女の声はわずかに上ずっていた。
──トマファ──
セーニャだけでなく、彼女の隣でかぎ針を動かしていたシュラウディアにも同じ彼の名が頭に浮かんでしまった。ヴァルトアの忠臣である彼はセーニャでも同僚の文官クラーレでもなく、シュラウディアの姉ハルセリアを選んだのだ。ようやくセーニャの“地雷”を踏み抜いた事に気付いたのか、リーディアは少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべ、そして「ごめん」と言いかけようとしたときだった。
「そ、それならお互いに編んだカーディガンを交換しませんか?」
空気を読んだシュラウディアが軽く微笑み、場の空気を変えようと一つ提案してみた。──シュラウディアにとってセーニャは掛け替えのない親友だと思っている。セーニャの想い人がキュリクスの若き文官長であることは知ってたし、自分の姉には長年想い続けていた殿方が居ることも知っていた。だが、その二人が同一人物だったとは全く思ってもみなかったし想像だにしていなかった。そして領主ヴァルトアに命じられる形ではあったものの、自分やセーニャらの眼の前でトマファが姉に求婚するのを見せられるとも夢に思ってもいなかったのだった。──あの瞬間、セーニャがどれほど胸を痛めたかを思うと、シュラウディアは今でも胸が締め付けられるような思いになってしまう。ようやく実った姉の恋については心から喜びたい──けれど同時に親友の心痛を思えば素直に祝福できなかった。シュラウディアの中では喜びと罪悪感が今も複雑に絡まり合っていた。せめて自分にできることは、セーニャが少しでも笑顔を取り戻せるよう手を差し伸べることしかないなと思っての提案だった。
「あらまぁ、素敵な話!」
それを聞いたリーディアがぱっと顔を輝かせたかと思うと、次の瞬間には手元の籠をガサゴソと漁り出した。毛糸玉をいくつか取り出しては、真剣な顔で色を見比べている。「──それなら、セーニャに似合う色を選ばなきゃ!」
「え、私のですか?」
「当然でしょ? 決まってるじゃない!」
セーニャとシュラウディアが互いに顔を見合わせた。まだ“誰が誰のを編むか”なんて何も話し合ってもないのに、リーディアは毛糸玉をセーニャの首元に押し当てて吟味を始めている。そして呑気に鼻歌を歌うその姿は、まるで思いついたら即行動の天然少女そのものであった。
「こ、こういうのって……じゃんけんとかで決めるとか」
「え、セーニャなら若紫色のカーディガンとか良くない?」
「……まぁ、その──いいのかな?」
勢い駆って張り切るリーディアを見て、セーニャとシュラウディアは顔を見合わせて吹き出した。暖かく、少し呆れたかのような笑いが狭い控室にふわりと広がったのだった。
「え、なに笑ってんの?」
「笑ってないよぉ」「リーディアらしいねって思って」
*
そしてある夜。
今、ミニヨたち主人組は課題や中間試験対策に追われており、従者組は隣の控室で静かにカーディガンを編んで過ごしていた。テラス部屋からはペンを走らせる音と、ラヴィーナの「もうまぢダメ」という弱音がよく聞こえてくる。
ヴィオシュラ中心街から少し離れたラヴィーナの屋敷は、ルツェル王宮所有の歴とした離宮である。中央の中庭を囲むように部屋が並んでおり、ミニヨたちがお茶会を開いたり勉強会を開くテラス部屋と従者控室は壁一枚隔てて隣り合っている。だがその構造には独特な仕掛けがある。
綺麗に磨き上げられた大理石の床、古の月信教神殿の柱頭を模した装飾が施された付け柱、聖典の一場面を模した彫刻画や宗教画が描かれた白塗りの厚い壁、庭を見渡せるガラス張りの窓、そして丸く小高い天井。このテラス部屋は、音の反響を緻密に計算して設計された特別な部屋である。一見すると清潔感があって豪奢な部屋だからお茶会や小さな会を催すにはうってつけな部屋なのだが、壁や天井が微細な音を反響するよう作られており、耳打ちほどの小声でさえも隣室の聴聞室では内容が聞き取ることができるようになっているのだ。そして今は『従者控室』として使われているこの聴聞室は、そのテラス部屋でお茶会や食事会、はたまた招待された貴族らの控室として使われた際には、秘密の会話の内容を速記師が記録するための“隠し部屋”だったのだ。今はその便利な構造を利用してセーニャたち従者の控室として使っており、テラス部屋から声を掛ければすぐに駆けつけられるようなっている。
一方で従者控室側の壁は防音性の高い緩衝構造になっており、余程大声で話さない限りは主人たちの部屋には届かないようになっている。つまり“主の声は従者に届き、従者の音は主に届かない”設計である。この構造はかつてルツェル王家に連なる若き王子や王女たちが勉学のためにヴィオシュラへ遊学していた時代の配慮と名残である。多くの従者や召使いを抱えて生活する彼らが落ち着いて学べるよう、または学友を通じての諜報活動のために設計されたものだという。
その控室では魔導ランプの灯が揺れ、すっかり温くなってしまったハーブティーの香りが部屋に残っている。夕方までは晴れてた空も徐々に雲が出て、いつしか窓には粉雪が吹き付けていた。そんなときにシュラウディアがふと針を置いた。先ほどから三人は黙々と延々とかぎ針を動かしていたから目も肩も疲れたのだろう。何度か肩や背中をぐねぐねと動かし、ぱきぱきと関節を鳴らしてから彼女は何となく口を開く。
「ねぇセーニャ、リーディア……。護身術って教えていただけません?」
シュラウディアの突然の発言にセーニャもリーディアも怪訝な表情を浮かべながら顔を上げた。「あっ、ごめんね」と前置きしたうえでセーニャは話を続けた。
「──ほら、私って文官だから護身なんて学生時代の基礎教養でやった剣術程度しか覚えがないし、この腰の剣だって抜いたことすらないんですもの」
今は何もないが、普段のシュラウディアは腰から両手剣を下げている。ヴィオシュラでは“過去の事故事例”があったせいか、学生が正当な理由なく木剣含む刀剣やナイフ類を持ち歩いていたら厳しく罰すると定められている。しかし従者については主人の護衛業務も請け負っているため、官憲に届けさえすれば所持や携帯は認められている。その代わり正当な理由なく公共の場で抜剣すれば刑事罰の対象になるし、もし仮に抜剣してしまったなら官憲を現場に呼ぶだけでなく遅滞なく報告書を提出しなければならないと定められている。ただヴィオシュラ自体は学生街のためシェーリング公国内では比較的治安は良く、長剣をぶら下げている従者もそんなに多くはない。──現にリーディアは腰から鞘付きの三日月刀に似た短剣を下げているし、セーニャに至っては手ぶらのふりしてガーターに短剣を、ポケットにナックルダスターを隠し持っている。
「構いませんが……一つだけ言っておきますよ? 護身の基本は“危険に巻き込まれないこと”だと思いますよ」
セーニャの声は編みかけのものをテーブルの上に置くと穏やかに言った。彼女も夢中になって編み物をしてたせいか肩がぱんぱんに張ってしまったようで、何度か肩甲骨あたりをくりぐりと回す。
「護身術を学んだからって、屈強な男たちをちぎって投げたり、ましてや物理的にぶっ飛ばしたりって無理ですよ?」
リーディアはセーニャの言葉を補足するように言うと笑った。「──護身術と言っても逃げるための手段ならいくらか……。ただ、生兵法は大怪我のもとですよ?」
「でも、ラヴィーナ様をお守りするなら一つか二つは覚えておきたいなぁって思って」
シュラウディアは真剣な眼差しで言い切った。彼女のその瞳に強い決意を感じ取ったセーニャはゆっくりと立ち上がる。
「じゃあそこまで言うなら簡単な護身術ってのを見せますね。──リーディア、私の胸ぐらを掴んでみて」
「了解」
セーニャは自身のほんの少しふくよかな胸元を軽く撫でる。リーディアはビルビディア王国軍人で王宮付きの精鋭兵だ、セーニャがどういう動きをするかを一瞬で理解したのだろう。そっと左手を伸ばしてセーニャのメイド服に手を伸ばす。──次の瞬間、セーニャはリーディアの手首を掴み、腰を落とした瞬間にリーディアはあっという間に身体は宙を浮き、床に転がされたかと思えば手首と肘関節は固め、押し倒されていた。
「……まぁ、こんな感じです」
「え、なにがあったか全然見えなかったんですけど!」
セーニャはリーディアが起き上がるのを手伝い、彼女の背中をぽんぽんと払ってあげた。シュラウディアの目にはセーニャの胸元に手が伸びた瞬間にはリーディアは宙を浮いてたのだ、彼女は興奮気味に「すごッ! もう一度見せてくださいまし!」と叫ぶ。
「うーん、同じものを見ても面白くないだろうから──そうだセーニャ、……あの、その、私の後ろから抱きついてきてください」
「了解」
リーディアが微笑みを浮かべながら背中を見せると両手を軽く上げた。セーニャの両腕がリーディアの腋の下を通り、まるで羽交い絞めにするかのように抱え込むような動作をする。そしてその瞬間──少しだけふくよかなセーニャの胸がリーディアの背中にふわりと触れた。そのわずかなぬくもりと柔らかな感触にリーディアの表情が一瞬、ほんの一瞬だけさらに緩んだ。普段はほわほわしてる彼女の頬が微かに赤みを帯びる。しかしセーニャとシュラウディアがその変化に気づく前、リーディアは呼吸を整えると表情を引き締めて動いた。
──だが、その一瞬の心の緩みを隠せるほど彼女は器用ではなかった。
次の瞬間、リーディアはセーニャの左手首を右手で掴み、左腕を巻きつけて身体を左側にすっと倒す。見事な『払い巻き込み』が決まったかと思えば、セーニャの身体はポンと宙を舞っていた。そして勢い余ってセーニャは床に叩きつけられる。べちーんという派手な音を立てて背中をしこたま打ちつけたセーニャは「ぐえ」と妙な声を漏らしたのだった。
「ごめん、勢いよく行き過ぎた」
「……大丈夫、問題ありません」
手を差し伸べたリーディアだったがセーニャは跳ね起きでぽんと立ち上がり、すぐに真面目な顔をシュラウディアに向ける。ただ、相当に背中が痛かったのか目元がプルプルと震え、苦笑いとも困惑とも読み取れる表情を浮かべて痛さを誤魔化しているのが見て取れた。
「じゃあシュラウディア、今度はあなたが暴漢役をやってみて?」
「え、私? どうすれば……?」
「じゃあ──私の胸を掴んでみてください」
セーニャからの唐突な指示にシュラウディアの表情が一瞬で華やいだ。「えっ……そんな……!」と顔を真っ赤にし、何故か照れ笑いを浮かべて指をうにょうにょ動かしながら両手をそっと伸ばす。
「さぁ。遠慮なく私の胸を掴んでみて」
「え、えっと──では、ごめんくださいまし」
突然お礼を述べ、あまりにも締まりのない表情を浮かべたシュラウディアがさらに手を伸ばす。
「ちょっ、掴むってそういう意味じゃ──ッ!」
リーディアが慌ててセーニャの前に割って入ると、シュラウディアの左手を掴んだかと思えば体落とし──ドシン。
「な、なんだかセーニャへの貞操の危機を感じました!」
「だ、だって胸掴めって言われたから! ……いたたた」
「てかシュラウディア、大丈夫なの?」
セーニャが肩を貸し、しこたま腰を打ち付けたシュラウディアは青い顔をしながらよろよろと立ち上がった。しかも先ほどから隣の従者控室からベチンドシンと派手な音が聞こえてたのだからミニヨ達が飛び込んできたのだった。
なお、シュラウディアの腰の痛みが引くのに十日ほどかかったという。
その日のセーニャの業務日誌の末尾には、整った筆跡でこう記されていた。
『本日の任務、性的な不埒者をリーディアが制圧。主人らは無事。今日も平和』
その文面を覗き込んだリーディアとシュラウディアが同時に吹き出したのだった。
「まぁ、間違いないですね」
「ひどーい、性的な不埒者って私の事ー!?」
*
数日後のキュリクス領主館。
トマファは各地から届く報告書に目を通していた。
『性的な不埒者を制圧』の一文で彼の手が止まった、そして血の気がすっと引いていった。
「……ヴィオシュラで何が起きている?」
真顔でつぶやいた彼を見て、クラーレやレニエたち周囲の文官が顔を見合わせたという。
やがてこの一件は笑い話になるのだが、当時、領主館では「ヴィオシュラに治安悪化の懸念あり」として真剣な協議が行われ、護衛増派の可否まで議題に上がったという。だが実際はセーニャの日誌の最後の言葉どおり──その日もヴィオシュラは平和だった。
その後セーニャは、「誤解のない報告書を」とオリゴから釘を刺されたという。




