233話 武辺者の娘たち、ヴィオシュラに戻る・1
赤茶けた煉瓦塀の上や街路樹を秋風がヴィオロンのため息のようにさらさらと撫でていった。そのせいで落葉が風に舞いながら秋陽を受けてきらりと光り、石畳の校門へと吸い込まれていく。ヴィオシュラ女学院──センヴェリア大陸の貴族令嬢や才媛たちが集うこの学び舎にミニヨやエルゼリア、そしてラヴィーナは二年目の朝を迎えていた。
楽しかった夏の長期休暇を終えてこの地に帰ってきてから数日が経った。三人は久しぶりに制服に袖を通した瞬間、懐かしさと恋しさ、キュリクスでの楽しかった時間が去来して胸を満たし、不思議と心の高鳴りが止まらなかったという。そしていつものようにラヴィーナの屋敷近くの公園で待ち合わせをしてから主従併せて六人で校門の前を過ぎる。セーニャ以外の五人は去年よりも少し長く伸びた髪を風に揺らし、ミニヨたちは門柱に刻まれた七芒星を象った校章を見上げた。
「今年こそ首席を目指すわよ」
ミニヨは小声ながら勢いよく言い放った。それはまるで自分を叱咤し、去年の悔しさを吹き飛ばすための宣言のようであった。一年四期制のこの学院でミニヨは一年次の中間試験や期末試験では何度か首席を勝ち取っており、順当に点数を積み上げていた。けれど学年末試験では焦りと勉強疲れから凡ミスを繰り返し、あと一歩のところで首席を逃し次席で収まってしまったのである。
あの時の胸に残った悔しさが今の彼女を突き動かしている。新しい学年、新しい自分、もう迷わない、立ち止まらない。今年こそ学部長から首席の証となる金時計を受け取るその瞬間まで、ただまっすぐに走り抜けたい——それが今のミニヨの思いだった。
「二年次から専門科目がぐっと増えるし難しくなるのよね……ちゃんとついていけるかしら」
ミニヨの横に立ち、少し不安げに言ったのは一年次では首席だったエルゼリアだった。そんな彼女の声にはかすかに震えていた。意外な話だがミニヨやラヴィーナからの彼女の評価は『卒がない』である、大勝ちはしないが大きなミスもしない、中間・期末試験での首席も実は一回っきりだった。しかしそんな彼女だが試験が終われば結果を見るまで常に心配事を口にする性分である。そのため学年が一つ上がった彼女は今でも長いまつげを伏せ、赤いリボンタイをいじるその指先は落ち着かない。せわしなく動くその指をミニヨたちは視線を落とすと、胸ポケットに七芒星を模した校章が光っていた。学部長から渡された金時計を留めておくスナップである。──一年次は首席。だがそれが二年次に進級したからと言っていつまでも続く保証などどこにもない。専門課程が増える二年次では“天才”と呼ばれるような学生たちが台頭していくだろうし、そんな才女も徐々に埋もれていくかもしれない。そして成績が落ちて進級できなくなるかもと考え込んでしまうぐらいに心配性だった。しかも彼女は国費留学生のため、成績低下はビルビディア王国からの支援打ち切りにも直結するため気が抜けないのである。エルゼリアは息を整えてわずかに微笑んだ。けれどその微笑みの奥には不安と決意が相変わらず見え隠れしていた。
「なるようにしかならないわよ!」
二人の間に分け入り、肩を抱いて軽やかに笑ったのはルツェル公国の王女ラヴィーナだった。風に翻る秋コートの裾がひらりと舞い、斜めに差し込む北方の陽光を受けて亜麻色の髪が強く黄色く輝いた。そして彼女の笑顔はいつも周囲の空気を軽くする。
彼女の一年次の成績は四席だった。上位ではあったのだが彼女にとってそんなことは些事でしかなく、「みんなで楽しく学べたらいいじゃない」とけらけら笑いながら言い切った。小さな失敗にも動じないし、泣き言を言っても五分後にはもう笑っている。そんな前向きさと明るさがミニヨとエルゼリアには少し羨ましくもあった。
けれどその明るさの奥には遠く異国から来た留学生としての孤独も、ほんの少し滲ませている。——それでも彼女はにへらっと笑う。何事も楽しんで受け止めたい——そう決めているように。
三人の制服から赤いリボンタイが揺れる。ここヴィオシュラ女学院には制服規定があり、一年次のリボンは緑だが二年次になると深紅へと変わる。ちなみに三年次には紺碧になり、四年次以降の高等研究科は濃紺となる。
校門を過ぎると真新しい制服に身を包んだ新入生たちが緑のリボンタイを揺らしながら学年掲示板の前で右往左往していた。掲示板を覗き込み、従者や友人と思わしき少女たちと小声で確認し合い、手に持つ書類に視線を落とす。緊張と好奇心が入り混じったざわめきが、近くの音楽学校から聞こえるヴィオロンの愁風とともに広がっている。
この学院には“入学式”という華やかなものもレセプションや説明会も存在しない。校門をくぐった瞬間にまず目に入る学年掲示板が彼女たちにとっての最初の試練だ。そこに貼り出された要項を読み取り、自ら判断して学生課へ向かわねばならない。不親切だと文句を言えば『ここは初等学校ではないのですよ? それとも文字が読めないの?』とつっけんどんに返されるのがオチである。だがちょうど一年前──ミニヨたちもまたあの場所で同じように迷い、右も左も分からずに地図を広げていたのだった。
「去年は私たちがあの緑のリボンを締めてたのよね」
エルゼリアが一年次用の掲示板の前で従者と共に右往左往している新入生を見て言った。ミニヨたちは顔を見合わせ、少し懐かしそうに微笑む。
「履修届とか初年度のゼミ選択とかもう大パニックになるのよね」
「そして一か月後にはダナス教授のケーキ課題でしょ? 意外と一回生って試されるのよね」
レシピ本探しに出遅れたミニヨとエルゼリアはセーニャとリーディアと共に泣きそうになりながらヴィオシュラの街をさまよったのも懐かしく感じてしまう。しかし自分で選んだ道だから諦めたくないし逃げ出したくもない、その一心だった。
「私が手助けに行きましょうか?」
ミニヨの後ろに控えるセーニャが今にも泣き出しそうな顔の新入生たちを見て見かね、小声で尋ねた。その目はやさしさに満ちていたがミニヨは首を小さく横に振った。言葉の端に少しだけ緊張がにじむ。
「こんな時に声を掛けられても、怪しいサークルの勧誘かと警戒されるだけよ。それに……」
ミニヨは一呼吸おいて、学生掲示板横に置かれている銘板を見下した。「──この女学院は『友と磨き、努力し、信念をもって花となれ』って校訓よ。誰かに導かれて咲く花じゃなく、自分で光を探してこそなの」
毅然とそう言いながらも胸の奥では小さく痛みが走っていた。──去年の自分だって誰かの助けがなければ立ち上がれなかったのだ。エルゼリアやラヴィーナたちに手を差し伸べてもらった温もりを今も忘れていない。しかしセーニャは主の沈黙の意味を悟ったように、そっと一歩下がる。
「──と、ケーキのレシピが無いって泣いてたミニヨでした」
エルゼリアがミニヨの肩にしがみついていじわるっぽく言った。
「あの時は私たちはまだ友達じゃなかったから知らなかったけど……それならもっと早くから声を掛けておけば良かったわ!」
ラヴィーナが笑みを浮かべながら悔しそうに漏らしたのだった。
*
校舎のポプラ並木を抜けると、二年次用の学年掲示板に人だかりができていた。『専門課目選択一覧』の張り紙に群がる同級生たちの声が秋風へと溶け込んでゆく。一年次は専門科目は基礎理論錬金学や錬金生成学など数コマ程度、殆どが基礎教養科目ばかりだったが、二年次となると専門性を究めるために四つの選択科目のうち一つを選ばなければならない。その選択科目の概要が書かれているようだ。
「物理錬金学、錬金化学、応用理論錬金学……どれも名前からして難しそう」
エルゼリアが掲示板の張り紙を見て言った。
「ねぇ、錬金哲学ってのもあるわよ。響きだけは格好いいわよね」
ミニヨは掲示を見つめながら小さく息を呑んだ。ちなみに錬金哲学とは物質の組成変化を追究する化学や物理学、人間の内面的な成熟を探る宗教学や心理学が交差する、極めて学際的な学問である。ただ名前や響きはかっこいいのだが概要や説明書きを読んでもチンプンカンプンである。
「私は……何を選べばいいのか分からないや」
エルゼリアは指先で唇を押さえた。視線の先には四つの専門科目についての概要が書かれており、それを読んで彼女は迷いを滲ませていた。彼女はキュリクスで見た魔導洗濯装置の開発現場に立ち、あの精緻な仕組みに胸を打たれていつか自分も開発に携わりたい——そんな思いが芽生えていた。しかしどの科目がその道につながるのか決断がつかない。指先が小刻みに動き、彼女は唇を押さえたまま小さく息をつく。
その隣でミニヨも掲示板を見つめていた、彼女は錬金化学にするか応用理論にするかと悩んでいた。どちらも興味はあるがどうしても心が定まらない。──でも、エルゼリアたちと一緒に学べたらそれはそれでもいいのかな、と、そんな淡い思いが胸の奥で繰り返す。
ラヴィーナはといえば少し離れた場所で「錬金哲学」の概要を熱心に読んでいた。その難解な文字列に眉を寄せつつもどこか「哲学」という文字に惹かれているようだった。けれどふと顔を上げると、二人を見てにっこり笑って言った。
「じゃあさ、みんなで“応用理論錬金学”を選ばない?」
あっけらかんとした口調にミニヨとエルゼリアは顔を見合わせた。ラヴィーナは一年次の基礎教養科目の『哲学概論』に心を寄せていたのを知っていたから、ひょっとしたら錬金哲学を選ぶかなと思っていたのだ。だからこそ二人は驚きと嬉しさが入り混じって彼女を見た。
「……いいわね」「うん、それがいいと思う」
二人の声が重なると三人の表情から笑みがこぼれたのだった。この時についてラヴィーナは後にこう語っている。
「三人でバラバラの選択科目を取ったら、きっと放課後や休みの日に会う事が無くなる気がしたから」
と。




