232話 武辺者と、反射炉建造の話・4
ハルセリアが先導してキュリクスの街中を闊歩するマロッシたちの馬車が反射炉建設予定地の前で止まった。そこには冬の日の陽射しを浴びてヴァルトアとユリカを筆頭にずらりと並んだ出迎えの面々が待っていた。トマファ、テンフィ、オキサミルら文官や技師や職人たち、そして白エプロンのメイド三人が整然と隊列を組んでいた。あちこちにいくつもはためくキュリクス軍旗が、これはただ事ではない式典であることを物語っていた。馬上のハルセリアは軽やかに下馬し、ヴァルトアたちの前へ歩み寄ると静かに膝をついた。
「ヴァルトア伯。ルツェル公国よりマロッシ師とそのご家族が只今到着いたしました」
今朝、宿を出る前にミルドラスに先触れを出してはいたのだが、まさかこんな派手な事になってるとは思っても居なかった。馬車の御者台から慌てて降りたマロッシは思わず目を瞬かせる。並ぶ人々や軍旗の威容を前に、ただの歓迎ではないと感じ取った。
「……領主様直々とは、こりゃまた恐れ入りますな」
マロッシがまるでうわ言のように独りごちた時に、ヴァルトアがゆっくりとマロッシの前に歩み出た。そして歓迎の意を示すように静かに右手を差し出した。
「マロッシ師、そしてご家族の皆様。──遠路はるばる、キュリクスへようこそ。皆様のご来着を、我々は心より歓迎する」
ヴァルトアの朗々とした声が響くと、後ろに立つ文官や職人たちは一斉に深く頭を垂れた。それを見てマロッシは呆気に取られていたが、領主直々の握手を求められては拒絶するわけにはいかない。慌てて革手袋を外した途端、長年の鍛冶仕事で煤と油が染み込み、指先や爪の間まで黒ずんだ汚れた掌が晒された。
『──こんな汚れた手で伯爵位の貴族様の手を取るなんて、失礼過ぎる』
彼は反射的にその手を引っ込めるべきか、どうすべきかと戸惑い、一瞬動きを止めてしまった。しかしヴァルトアは顔色一つ変えることなく、そのマロッシの汚れた掌をしっかりと握りしめた。
「いやいや、これは誇るべき“仕事人の手”だ。──何も恥じることはないぞ」
マロッシは、その汚れた手を見ても顔色を変えずに力強く握り返すヴァルトアの手から、婿の手紙で聞いていた誠実な熱意と真心を確かに感じ取った。目の前のこの中年領主は、「反射炉造り」を興味や名声のためではなく、キュリクスの未来と学問の発展こそが地方を支える礎だと本気で信じている――その確信が、握られた掌の熱と共に伝わってきたのだ。その瞬間、マロッシの瞳には、ほんの刹那、少年のような輝きが宿った。
マロッシとヴァルトアのやり取りの横でユリカは、マロッシの隣に立つエリナに向き直るとためらいもなく笑顔で右手を差し出した。
「ミルドラス君から聞いたけれど、エリナ殿も職人だと伺ってるわ。──あなたに敬意を。よろしければ今度、ご一緒にお茶会はいかがかしら? それとも……酒場のほうが?」
エリナは「酒場」という言葉を聞いて思わず笑みを漏らし、ユリカの右手を取った。エリナの指先や手の甲には古い火傷の跡がぽつぽつと見え、一方ユリカの手の甲には、斬り合いでできたであろう刀傷がいくつも見える。互いの手から様々な労苦がにじみ出ていた。
「あら、ドワーフの女を飲みに誘うなんて命知らずですわよ?」
「別にあなたを酔い潰そうとは思ってないわ?──だけどね、私は必ず負ける勝負なら誘わない主義なんでね」
二人は少しだけ強く握り合うと同時に、ふふっと笑い合った。つまりこの二人の壮絶なバトルが飲み屋で開かれるということだ。
後方で両親の様子を眺めていたグランツが、隣に立つ義弟ミルドラスへと小声で耳打ちした。
「──ぽっと出の辺境伯と聞いてたから、どれだけお高く留まった貴族様かと思ってたら、なんか面白い領主様じゃないか」
ミルドラスは視線をそらし、頬を赤くしながら小さく頷いた。
「そこらへんがまた、キュリクスらしいですよね」
職人たちの列には揃いの黒ドレスに白いピナフォアを纏った女性が三人が直立不動で並んでいる。領主夫妻が客人に会うため外出しているため、護衛を兼ねて付き添っているメイド隊の面々だ。そのうちの一人、プリスカが隣で憮然とした表情で立つロゼットの肘をそっとつついた。
「ねぇロゼット。やっぱドワーフ族ってすごくない? ほら、女性ですら腕の筋肉がもうバッチバチじゃん」
「シッ、失礼なこと言わない!」
ロゼットがプリスカの脇腹を肘で軽く突きながら小声で窘めた。
そもそもドワーフ族は種族的に小柄で、どれほど成長しても小児ほどの身長にしかならないという。その一方で男女ともに全身の筋肉がよく発達するらしく、筋骨隆々とした体つきをしている。エリナやオロの二の腕は女性のそれとは思えぬほど逞しく力強いため、プリスカはそのように表現したのだ。
なおドワーフ族の男性は体毛が濃くなる傾向が強いが、グランツは珍しい例外で腕も頬もつるりと滑らかだった。そのため年齢のわりにはあどけない少年のような印象を与えるのである。
「あとさぁ、マロッシさん一家と並ぶと『乙女技官』って線の細さがいっそう女の子みたいじゃない?──うーん、今すぐにもお化粧してみたくなっちゃうわ」
「ごほッ!」
最近になって化粧に目覚めたプリスカの耳打ちにロゼットは思わず吹き出してしまった。しかし客人を前に決して笑い声をあげないよう、ロゼットは咳払いという形でうまく誤魔化したのだった。ちなみに『乙女技官』とはメイドたちがミルドラスに付けたあだ名だ。背格好も見た目も髪型もまるでかわいらしい少女のようなので、彼のことを裏でそう呼んでいるのだ。実際に何人かがメイド服や女性文官服を片手にお化粧させて欲しいとお願いしたところ、彼は顔を真赤にして「ぴゅーっ」と逃げていったという。なお余談だが、ミルドラスがもうそろそろ三十歳になるということは意外と知られていない。見た目はどう見てもローティーンだが、実は立派なオッサンである。
メイド副長マイリスが静かにささやいた。
「炉の精霊は昔から『嫉妬深い処女神』って言われてるの。炉の開発に携わるミルドラス様が下手に可愛く着飾ってたら精霊様が機嫌を損ねるわよ」
その一言で緊張は再び静けさに変わり、その場には穏やかな余韻だけが残ったのだった。
*
ヴァルトアたちはマロッシたちへの挨拶を終えると、メイドたちと共に箱馬車に乗って領主館へと帰っていった。なお式典中にこっそりおしゃべりしていたプリスカとロゼットは、罰として「走って戻って来なさい」とマイリスに命じられたため、涙目になりながら走って帰って行く羽目になったのだが。
そしてオキサミルやトマファたちがマロッシらの前にやってきた。オキサミルの腰ベルトに収まる工具類が彼が動くたびにかちゃかちゃと乾いた音を立てる。
「測量も地ならしも終わってる。あとは大まかな炉の位置を決めるだけだが、マロッシ師の構想としてどこらへんに反射炉を建てようかってプランは決まってるか?」
「──うむ」
オキサミルからの問いかけにマロッシは小さく応え、肩掛けバッグから一枚の羊皮紙を取り出した。それはミルドラスが送ってきた情報やデザイン、構造計算書を元に彼なりに最良の改善プランをまとめた炉のデザイン図だった。空へと突き出す二つの長い煙突、燃料を燃やす釜、そしてその熱を集める丸形の二重構造炉。それらを見ていると、マロッシの構想は思っている以上に巨大な建造物であることがわかる。マロッシは整地された地面をゆっくりと歩きながら、手を動かしながらイメージを固めていた。きっと彼は反射炉で溶け出た鉄をその後にどう加工するかの動線までをも考えているのだろう。
「この辺りだな。加工場や鍛冶場がそちらなら、反射炉を含む製錬所はここら辺が良いだろう。……それにしてもここの地盤、ずいぶんみっちりと締まっているようだ。一体どうやって整地した?」
「んあ? 向こうに置いてある魔導整地車で転圧作業を二度行っているし、地盤が緩いところは岩盤層にまでアンカーを打ち込んで魔導ランマーでぎっちぎちに締め固めたさ」
オキサミルが指差した先には、前輪がロール状の鉄輪となっている大型の荷馬車のようなものが置かれていた。これこそが鋤込車に続いて開発された『魔導整地車』である。車両重量を極限まで重くし、同時に接地面積を大きく設計された石輪の自重を利用して地面を押し固める締固め機械だ。搭載された魔導エンジンはいくつものギア機構を経てその車輪に継続的な回転力と重量と衝撃を加えて、効率的かつ均一な地盤転圧を実現している。
他にも取っ手が付いた筒状の『魔導ランマー』と呼ばれる魔道具が置かれている。これは魔導エンジンが生み出すエネルギーを高速かつ強力な上下運動の振動に変換している。これにより地面を垂直方向から集中的に叩き締め、特にアンカーを入れるほど地盤の緩い部分や狭い範囲を深部まで高密度に固めるのだ。
これら魔導エンジンを応用した土木機械は理論が確立された頃から開発が進められ、一年以上を経てようやく試験導入されるようになった魔道具だ。これにより街道整備や大規模な道路舗装の作業時間が大幅に短縮され、仕上がりだけでなく耐久性も向上した。その結果、工兵隊や土木ギルドからは「作業の迅速化と質の向上」に貢献する画期的な技術として、非常に好評である。ただし、いくつか労災事故が報告されているため『改善の余地あり』とされており、勝手な使用は禁止されている。
その後、マロッシやオロが掛矢のような木槌で地面を叩き、あらかたの地盤の確認を終えるとマロッシは静かに膝をついて両手で地面を撫でた。彼は目を閉じ、しばし沈黙の祈りを捧げるように動きを止めた。
「……せっかくだ。火と竈の精霊にご挨拶をしておこう」
マロッシが静かに告げると、エリナは慌てるように肩掛けから酒瓶と杯を取り出した。マロッシは腰袋から白い布を取り出し、慎重に地面へと広げる。エリナはその上に杯と酒瓶を据えた。風で白布が微かになびき、冬の陽光を受けてきらきらと光る。それはまるで小さな祭壇のようであった。エリナに続いてグランツやオロ、オキサミルたちも膝をつき、頭を垂れる。マロッシは杯に酒を注いで両手で高く掲げて一礼した。その姿に倣い家族も静かに礼を取る。周囲で見ていた職工たちも次第に膝を折り始め、空気が徐々に張り詰めていった。まるで大地そのものがそうさせているようでもあった。
風が一瞬止み、街のざわめきさえ遠のく。神聖な沈黙が辺りを包み込み、そこに立つすべての者が息を潜めてこの瞬間を見守っていた。
マロッシは、腹の底から響くような重々しい声で聖句を紡いだ。
「主神に寄り添う火と竈の精霊たちよ。人の知恵をもって築くこの炉は主神の大いなる祝福だけでは成就し難いだろう。火と竈の精霊たちよ。窯の内に安らぎを、燃ゆる炎には清き力を与え給え。そして我らの安全を主神の御手に委ね、ただひたすらに進まん。──然り」
杯の酒が地へと注がれると、土はまるで飲み干すように静かに地面へと吸い込まれていった。マロッシは祈るように掌で土を押さえ、短く目を閉じる。
「では──この地に新しい炉を造り上げましょう」
膝をついた文官や職人たちは、急に神妙な気持ちになったせいか、マロッシが頭をあげたとたんに空を仰ぎ見た。一部の月信教徒は額と胸と肩を右腕で触れながら「主神と月と精霊の御名に感謝」と聖句を紡ぎ、聖心教徒は胸元に両手を組み「主神と心の御名に」と感謝の言葉を捧げる。ちょうど雲の切れ間から一条の光が差し込み、建設予定地一帯を明るく祝福するように照らしたのだった。




