023話 武辺者、どうも借金は苦手
いつものように陽射しの差し込む執務室。俺は昼過ぎの報告書を読みあげようとしたところで手を止めた。
「この予算。――想定よりも重いよな」
そう呟いた俺の前に、当家の若き文官トマファが一枚の書類をそっと差し出したのだった。なお俺の向かいにいる彼は神妙な顔を浮かべている。
「卿、少々お時間を頂けますでしょうか。――財務に関して『異なる視点からのご提案』を致したいのですが」
ほう、トマファの『異なる視点』かぁ。
「聞こう」
俺が椅子にもたれかかると、トマファは深く頷き畏まった声で語り始めた。横にいるクラーレも神妙な顔をする。
「現在、当領キュリクスは健全な黒字経営が出来ております。これはひとえに、卿の堅実なご判断と住民の勤勉さの賜物でございます」
「うむ。――君たち優秀な文官のたゆまぬ努力のおかげでもあろう」
ふとトマファやクラーレの表情が緩んだ気がした。しかしトマファはそこで少し間を置いた。そして、意を決したように言う。
「――しかしながら。現体制のままでは、“現状維持”のままでいく恐れがございます」
俺の眉がぴくりと動く。
「どういう意味だ?」
「例えるならば、当家の決算書類が初年度も翌年度もそのまた数年あとでも変わらないって事です。つまり『生き延びる』ことには強いでしょうが『跳躍する』力には少々物足りないって事です」
ほう、なかなか鋭い指摘じゃないか。トマファはよほど気合が入っているらしい。
「うむ、続けろ」
「はい。実は、ここ一週間ほど、数名の有力商家より融資の提案がありました。もちろん、過去の領主と違い、我々には今のところ信用があります。――だからこそ『借りてほしい』という話が来たのです」
「借金、か」
思わず低く唸る。かつて王宮にいた頃、慢性的な資金不足のせいでノクシィ一派がエラールの大店へ債権を押し付けていたのを思い出す。その金利は現在も王宮を苦しめているだろう。その結果が国営企業や王室研究所などの資金提供を渋っては有能な人材が流出している事の証左であろう。
「俺は借金には慎重でありたいと思っている。足枷になるからな」
「承知しております、卿。ですが――今こそ、信用を信用で回す時期かと。資金は『使って増やす』ものでございます。現状維持は形を変えた衰退ですよ」
――こいつ、たまにすごいこと言うよな。
「僕からの融資に関する使途提案としては、『施設投資』に限った限定的なものでございます。たとえば新しい学校の建設やインフラの再整備です。いずれも長期的に領民の利益につながる分野だと思います。――それに施設投資の一部は、前任領主が残した借金返済と引き換えに、商人側の優先権を『薄める交渉』も可能かと」
「――前任領主の借金を、こっちで精算するだと?」
「はい。皮肉ですが現状の信用力ならば可能です。今なら『過去の負債』さえも、味方にできます」
俺は深く息を吐いた。
「だがな、借金というのはどうも――」
「では卿、融資と考えましょう。ミクロ経済の視点では、『今の資本で限界があるときは、限界効用を最大化する手段として、外部資源を一時的に借用すること』とされます。つまり、今、融資を受けて設備投資すれば、――将来の税収、雇用、経済循環すべてが好転するはずです。そのための起爆剤です」
「――言葉遊びだ。あと、借りた金は返さねばならん。民の税でな」
「いいえ。今回の返済原資は、“ここで育てる産業”です。アニリィ殿の爆破で発見されたミスリル鉱の販売益だけでなく、その鉱物残滓を使って新たに開く染色工房。他にも金属加工所、それに人々の往来には欠かせない旅籠と商店街の整備。別に商家と職人から徴収する使用料と流通税、他にも人頭税でも充分に賄えます」
トマファが深呼吸してゆっくりと話を続ける。俺とクラーレは唾を飲む。
「投資とは、“信頼の先払い”です。……我々が商家から信用を得て借金することは、“この領地に価値がある”と証明することと同義なのです」
「……俺は、金で買った信用や未来なんて信じられん。だが――お前が“未来を数字で証明できる”というなら、信じてみる価値はあるな。――だが、いずれ必要になる道かもしれん」
静かに立ち上がり、窓の外――街の方角を見やる。
そこには、俺の守るべき人々の暮らしがある。
「トマファ、借りるだけで終わらせるなよ。『完済できる未来』を、先に見せてくれ」
「――必ず。全力で、お支えします」
* * *
その日の午後、領主館の小さな応接間に、エルザとオリゴに集まってもらった。
私は白磁のティーカップを手に、慎重に息を吹きかける。実は私、すごい猫舌なので熱々のお茶にはこれでもかと息を吹きかける癖がある。よくオリゴに叱られるのだけど苦手なものは仕方がない。お茶会ではそんな下品な真似は出来ないため、実は完全に冷めるまで殆ど口にしない。なお、ソーサーにお茶を入れて飲むのは犬みたいで嫌い。
エルザは家で焼いてきたお菓子をテーブルに並べながら無邪気な笑みを浮かべていた。
かの統一戦争時にはヴァルトアの兵に対して食事を一手に担っていた女傑だ。しかし今は専業主婦。それでも料理自体は好きなようで、このように私が集合を掛けると彼女は何か焼き菓子を持ってきてくれる。私はバタークッキーが好きで、オリゴはナッツパンが好きらしい。
オリゴはメイド服のまま、すました顔で壁際に控えている――が、よく見ると手には分厚い資料の束を抱えていた。相変わらず彼女の情報収集能力には脱帽する。ソファに座ればいいのに、まず壁際に控えるのは癖だと思っている。
「で、結局どうするの? トマファ君が持ってきた商家からの融資の件。ヴァルちゃんから相談されたから集合してもらったけどさぁ」
まず私が最初に口火を切った。カップを持つと再びふぅふぅ息を吹きかける。疲れたので少しだけため息が出た。
「私もヴァルちゃんと同じでさ、正直、借金なんて好きじゃない。でも――トマファ君たちの言い分も理解できるのよね」
「信用を得るためには、こちらから信用するしかない……か」
エルザがぼそりと呟く。
その言葉に、オリゴがすっと一歩、前に出た。
「融資の申し出をしてきた商家の台所事情などを改めて調べてみました」
淡々とした声と共に、机に一冊の資料を置く。
表紙には『主要商家動向・女主人別分析・過去5年の財務諸表』と書かれていた。
「オリゴ。あなた、相変わらず仕事が早いわね」
「メイド業務の一環です。というよりトマファ殿やクラーレ殿が日々まとめている報告書をお借りしてきただけですので私の成果ではありません」
きっぱりと言い切るオリゴに私はエルザと顔を見合わせ、ふふっと笑った。
「じゃあ……作戦会議、始めましょうか」
私は立ち上がり、応接間の壁に貼り出された地図――キュリクス中心街の商家配置図――に視線を向ける。
「目標はただ一つ。
――どの商家とどんな距離を取るべきか、ちゃんと“戦略的に”決めましょう。この前のお茶会でもどんな御夫人方がバックボーンを支えているか分ったでしょうし」
応接間に、かすかな緊張感が走る。
私はオリゴが持参した資料をぱらぱらとめくりながら、ひときわ分厚いファイルを手に取った。
「まずは、イリナ夫人――金茶屋」
キュリクス商工ギルド会長の妻だ。オリゴがすっと説明を挟む。
「香水、茶葉、陶器などの輸入雑貨を扱う大商家。“上品な暮らし”を売りにしており、エラールの貴族社会や大店とは細いパイプがいくつか確認できてます。現在の商会主には強い野心があるみたいで、業務拡大へと方々に顔を売り歩いているっているところです」
「なるほど。見栄っ張りだけど、外聞は何より気にするタイプね」
ユリカがそうまとめると、エルザがクスクスと笑った。
「つまり、イリナ夫人のメンツさえ潰さなきゃ、大きな無理はしてこないってことね」
ユリカはこくりと頷き、メモに「金茶屋→虚栄心を尊重すべし」と書き込んだ。
「ユリカ様。あと気になったのは、あのギルド、イリナ夫人の派閥とフラウ夫人の派閥がございます。表向きは別にいがみ合っているって訳ではありませんが、片方の派閥に肩入れすると不満や反発が出るかと思います」
オリゴが静かに告げる。なるほど、フラウ夫人が話のイニシアチブを握ろうとしていたのはその件かな。こんな小さな街の商工ギルドなのに小さな派閥争いがあるのか。まぁ女が三人そろうと派閥が出来るって格言があるぐらいだし。
「次、サーシャ夫人。“麦の月”」
エルザが顔をほころばせる。この前のお茶会以来二人で会ったりしているとオリゴから聞いた。それなら私も誘ってよと言ったら今度飲みに行くって話になった。ちょっと楽しみ。
「ここは安心ね。領民相手の定食屋だし、何より……」
「彼女自身、働く人間の感覚を忘れていないし、派閥に所属していない」
私がそう言うとオリゴも静かに同意する。
「融資の見返りは求めるでしょうが、それは自己拡張のためというより、“地域のため”が強いかと。ですから協力関係を築きやすいでしょう。ただ、財産状況を示す帳簿がちょっと」
オリゴが示した貸借対照表を見るがさっぱり判らない。エルザに至っては文字の読み書きが出来ないので頸を傾げるばかり。
「ここは負債が殆どありません。材料の仕入は現金払いですし、銀行からの借入もありません。そして売上はニコニコ現金払い。損益計算書を見ると営業利益率が良いのですが、いかんせん規模が小さいんです。融資を申し出てくれましたが、当家の経営に影響する額面を用意できるとは思ってません」
「――つまり?」
「融資額も雀の涙です。追加融資をお願いしたら店が吹き飛びます」
あぁなるほど。だけどエルザは「せっかくの申し出ですから、ちょっとだけ融資してもらお?」と言うので私は頷き、「麦の月→最優先で友好維持」とメモを加える。
「――さて、問題はここね」
ユリカがページをめくった先、ナディン夫人の名前の上で指が止まった。
「装飾と宝飾品の『ミストラル』の妻。もとは地方の魔法学科出身。雷撃魔法を得意とし、気位が高い。現在、自家ブランドの宝石魔導具の販路拡大を画策中。なお店主の弟さんはキュリクスの街で名を馳せる鑑定師です」
オリゴが冷静に報告する、確かフラウ夫人と仲が良かったはず。
「要するに、魔法使いのプライドを拗らせた成金、よね」
「はい。ナディン夫人の実家が相当太いというのもあるのでしょうが、キュリクスで二番目に勢いのある商家です。そして……もし領主館に“自家ブランド”を採用させれば、一気に箔をつけられる、と目論んでいます」
ユリカは深く頷き、メモに大きく二重線を引いた。
「ミストラル→過剰な要求に注意。安易な迎合禁止」
ばさりと資料を置き、ユリカは立ち上がった。
「ちなみに一番勢いのある商家って?」と私はオリゴに訊く。
「元酪農家だったあのパーラーです。なお、アニリィからの報告を受けて、あの商会へは警戒レベルを引き上げております」
あぁ、絵にかいたかのような成金のトコね。
前に製薬ギルドのアルディ君と食事をした時は素敵なレストランが出来たなぁと思ってたんだけど、そのあと付き合いを増やす毎にあの成金の話し方や態度が鼻に付くようになった。極めつけはアニリィが報告した「パウラ隊員を一晩置いていけ」発言。事の真意を確認する気すら失せたため、当家はひそかに警戒の態度を示している。
なお融資の申し出は無い。あったとしても丁重にお断りするだろうが。
「……戦場と同じね。
味方に引き込む相手に警戒すべき相手。そして、時に斬り捨てなきゃいけない相手」
エルザがにっと笑った。
「さて、我ら婦人連隊。戦の準備はできてるわよ?」
オリゴも、静かに一礼する。
「必要なら、いつでも“情報支援弾幕”も」
紅茶の香る小さな応接室で、女たちの密やかな軍議は続いていた。
私たちの目標はただひとつ――領地キュリクスの未来を守り抜くこと。
★ ★ ★
昼下がりの陽光が静かに差し込む領主館の応接室。
だが、テーブルを挟んだ空気は、刺すように張り詰めていた。
向かいに並ぶのは、輸入雑貨商のヤーコブ、穀物卸売商のオッタヴィオ、そして定食屋のティチノ――三人の商会主。それぞれが得意げな笑みを浮かべつつも、鋭い視線でこちらの出方をうかがっている。
俺は穏やかな微笑をたたえ、ゆっくりと口を開いた。
「本日はお忙しい中、足を運んでいただき感謝する」
「いえいえ、領主様におかれましてはご機嫌麗しゅう」
涼やかな笑みを浮かべたヤーコブが、優雅に一礼する。さすがは婦人会で見たイリナ夫人の旦那だけある。飾り気たっぷりの立ち振る舞いだ。
「さて――我がキュリクス領では、街道整備、市場拡張、新学校建設など、将来を見据えた基盤強化策を推進する所存だ」
台本通り、淀みなく言葉を紡ぐ。トマファが何度もリハーサルしてくれたおかげだ。
その言葉に、ヤーコブは顔色一つ変えず、さらににこやかに応じた。
「なんと! 領主様のご英断、さすがでございますな。実に結構なお話――」
しかし、横からオッタヴィオがずいと身を乗り出してくる。
国際儀礼作法よりも現実的な損得勘定を重んじる性格は、フラウ夫人譲りか。
「だが、大規模事業となれば――資金繰りも楽ではありますまい?」
探るような口調。
そこで、トマファがすかさず割って入った。
「ええ、だからこそ。本日お集まりいただいた皆様に、ご協力を仰ぎたく存じます」
にこやかに応じながらも、一切の油断を見せない。隣で控えるオリゴは無表情に場を見守り、ユリカはふんわりと微笑んでいるが、あれは戦場での顔だ。
麦の月の亭主ティチノは、飄々とした笑みを浮かべながら尋ねる。
「ご協力とは、つまり……?」
トマファは一礼しつつ、分厚い帳簿を開いた。
そこには、建設計画案と、返済プラン――そして利回りの予測データがきっちりと並んでいる。
「――融資して頂けると申し出がありましたから、そのお願いでございます。ただしこちらも無理な条件は申しません。お預かりいただく債券には相応の利子をつけ、市場拡張後の優先出店権などをご用意する方向で検討しております」
簡潔、かつ的確。さすがトマファ、ヴァルトア家の切り札だ。オッタヴィオがそれを聞くと目を細め、ティチノが「へえ」と感心した声を漏らす。
「優先出店権……つまり、将来の市場を押さえるための“先行投資”ってわけですな」
オッタヴィオが鼻を鳴らした。
「ええ、もちろん公証役場を通した正式な契約といたします。ご希望があれば、前領主が踏み倒した借金もこちらが面倒を見ます」
トマファの言葉に、ヤーコブがゆっくりと顎髭をなでた。
「――さて。それでは、お尋ねいたしましょう。どれほどの額を、どのような条件で――我々に求められるのか」
空気が変わった。
探り合いは終わり、ここからが本番だ。
交渉の火蓋は、今――静かに切られた。
「――当商会としては、今回の市場拡張には大いに興味があるな。特に、ロバスティア王国からの輸入香料と、エラール白磁を扱う新館を設けたい」
最初に口火を切ったのは、金茶屋の商会主ヤーコブだった。
俺の横でトマファがすかさず羽ペンを走らせる。無駄な言葉は一切ない。
「具体的には、どの区画をご希望ですか?」
トマファの質問に、ヤーコブは静かに、しかし確信を持って告げた。
「街の中央道沿い、広場に面した――あの角地だ」
(いきなり一等地か……)
そこは、キュリクスを訪れる者が必ず通る要所。俺は心の中で溜息を押し殺すが、表情は崩さない。トマファも、壁際のオリゴも、微動だにしなかった。俺の隣に座るユリカは少しムッとした気がする。
続いて、金穂屋の商会主オッタヴィオが、ガチャリと紅茶を置く音も荒々しく身を乗り出してきた。
「うちは穀物の取扱いがある。市場拡張なら、そこに新たな蔵を置きたい。――それと、関所の通行税を少し下げてくれるなら喜んで資金を出そうじゃねぇか」
(来たな、税優遇の要求……)
声には柔らかさを装っているが、交渉に慣れた商人らしい食い下がり方だ。
俺はやはり微笑みを崩さず、トマファは淡々とメモを取るだけ。
最後に、麦の月の亭主ティチノが、ふわりとした空気をまといながら、ほわっと笑った。
「俺は……そうだなぁ。今度、息子が独立するんだ。市場の端っこでいい。誰でも来られる食堂を出させてもらえないか? 朝早くから働く子どもたちが、腹いっぱい食える場所を作りたいんだよ」
俺は思わず、胸を打たれた。
(……善意、か)
ティチノだけは、商売拡大や打算の匂いをまるで漂わせていない。
ただ、街に「生きる力」を根付かせたい――それだけだった。隣のトマファも、小さく、しかし確かな頷きを返した。
「では、条件を整理しましょう」
トマファは静かに羊皮紙を広げ、三者の要望を整理して読み上げた。
トマファが、羊皮紙にまとめた目論見書をヤーコブたち三人に差し出した。
男たちは互いに視線を交わし、無言の探り合いを始める。
腹を読み、出方を窺う――静かなる攻防だ。
だが、その均衡を破ったのは、意外にも麦の月亭主・ティチノだった。
「全部は無理でも、半分なら――俺は、すぐにでも用意できるぞ。困ってる子たちを、待たせたくないからな」
その一言に、ヤーコブとオッタヴィオが一斉に顔をしかめる。
「おいおい、定食屋! そんな金、どこに隠してやがった!」 「そうだ! お前がこの席に座ってること自体、奇跡みてぇなもんだろ!」
二人は口角に泡を浮かべながら叫ぶ。
だがティチノは、のほほんと首を傾げた。
「ん? 駄目か?」
その呑気な反応に、トマファまでもが一瞬きょとんとする。
「……いえ、貸借対照表上では、そんな現金残高は……見当たりませんでしたが」
ティチノはにやりと笑った。
「ああ、店の帳簿だけ見りゃな。――だが、俺とサーシャには“実弾”がある」
俺は思わず眉をひそめた。
「……実弾?」
「――ヴァルトア殿、俺のこと、覚えてねぇですかね」
ティチノは胸元のローブを指差した。
二本の麦がねじれ、三日月に絡みつく――懐かしい紋章だ。
隣に座るユリカが、先に叫んだ。
「思い出した! あんた、金麦傭兵団の団長でしょ!」
「――正解です」
その瞬間、俺も記憶が鮮やかによみがえった。
エムタス侯城攻略戦。ボルゴ河の決戦。
あの戦場で、隣の陣地から香ばしい飯の匂いを漂わせ、兵たちの士気を高めた伝説の傭兵団。
「夫婦でがっぽり稼がせてもらってな。引退してキュリクスに帰ったんですわ。――いやぁ、サーシャと賭けてたんですよ。どのタイミングで俺たちに気づくか、って。……俺の負けだな、あはは」
ティチノは、笑いながら懐から一通の証書を取り出した。
銀行発行の預金証明書。それも、金額はかなりのものだ。
「これが、俺とサーシャの“へそくり”だ。これだけあれば、半分は楽に出せる」
トマファが静かにそれを受け取り、ざっと目を通した後、小さく頷いた。
「――確かに、問題ありません」
(……勝負あったな)
俺は、心の中でそっとガッツポーズを決めた。
商人たちは、得られる利得が減るとわかると焦る。
先に動いた者の言葉こそ、交渉の場では絶対の力を持つ。
ヤーコブとオッタヴィオが、互いに顔を見合わせ、わずかに肩を落とした。
――もはや、抗えない。
俺はトマファ、ユリカ、オリゴと目線を合わせ、小さく頷き合った。
「ご決断、感謝いたします。正式な取引契約は、ノックス殿と公証役場にて整えましょう」
柔らかく、しかし確かな重みをもって俺は言った。
領主館とキュリクス商家――新たな絆と未来への一歩が、今、ここに結ばれた。
交渉がまとまり、応接室にはふっと柔らかい空気が流れた。
金茶屋のヤーコブは、ふう、と小さくため息をつきながらにこやかに立ち上がった。
「領主様。我らもキュリクス繁栄の一助となれるなら、商人冥利に尽きますわ」
口ではそう言いながら、ちらりと目線で"角地の確約"を再確認してきたのはさすがの老獪さだ。
続いて金穂屋のオッタヴィオ。
こめかみの汗を拭きつつ、苦笑交じりに言った。
「ま、ここで意地張って席を蹴るほど馬鹿じゃありませんわ。――恩を売ったつもりで、今後ともよしなに」
多少、苦々しさを隠せていないあたりが人間味にあふれている。
一方、麦の月のティチノは――。
「よっしゃ! サーシャに『賭けに負けた』って土下座して報告してきますわ! ヴァルトア殿、奥方様、それに剛毅な車椅子の文官殿もいつでも飯食いに来てくださいな!」
と、屈託なく笑いながら証拠証券に裏書してから手渡し、早々に帰り支度を始める。――本当にこういう男がいるから、この領地は救われるな。
ヴァルトアは、心の底から感謝した。
そして領主館サイド。
トマファは目立たぬよう、手帳に小さくチェックを入れた。
(目標達成、三分の二の確保完了)
ユリカは隣で、腕を組みながらにやりと笑った。
(これでキュリクスの未来は、またひとつ拓けた)
オリゴは、誰にも気づかれぬよう、静かに手袋の下で拳を握った。
(一歩進めましたね)
――陽光は、西の空を朱に染め始めていた。だが、これから始まるのは「終わり」ではない。新たな建設、新たな商機、新たな挑戦――。キュリクスという領地が、もう一段高く、強くなるための「はじまり」だ。
ヴァルトアはゆっくり立ち上がり、手を広げた。
「――さあ、行こう。仕事はまだまだあるぞ!」
未来への一歩を踏み出すために。
「ヴァルトア卿、そろそろ終業時間ですよ」
トマファの冷静なツッコミに唖然としてしまった。
「あなた。働き足りないのなら、夜間歩哨に入ります?」
ユリカがそう言うので、執務室にしばらく籠ることにした。ひどいやおまえら!
(とある新任女兵士、ネリスの日記)
入隊1か月と10日目
目が覚めてからずっと頭がぼんやりする。
一番鐘が鳴ったので寝具を畳み、着替え、急いで隊舎前に出て日朝点呼を受けるために待つ。しかしなんか地面が揺れている気がする。
「ねぇあんた、何、戦闘服を着崩してるのよ」
声を掛けてきたのはカタラナ訓練生だった。
どうやら戦闘服のボタンが一つづつ掛け違えをしているようだ。
「あ゛、ごめ゛ん゛」
「――ネリス訓練生、あんた、熱あるでしょ!」
カタラナが私の服の裾を引っ張った、ボタンがぽろぽろ外れる仕様だ。そしてカタラナは躊躇なく私の腋下に手を突っ込んだ。ひやっとして気持ちいい。
目が覚めたら知らない天井が見えた。
「あらネリス訓練生、身体の具合はどぉ?」
戦闘服姿の女性兵士が私を覗き込む。左腕にはハートマークの中に三日月の腕章をしている。看護隊の方らしい。
「医官が言うには風邪だって。入隊2か月目って多いのよ、風邪ひきさん。隊規で解熱するまでここで“おねんね”だからゆっくり寝てなさい」
と言う事で私は1日安静となった。
訓練しないと身体が鈍るんだけどなぁ。
「あ、原隊復帰したいって顔してる。だめだよー。一回休み!」
そう言われて風邪薬を飲めと言われてしまった。
私、風邪薬って苦手なのよね。だって苦いじゃん。
「お大事にね。明日ちゃんと治れば、アニリィ様と訓練できるわよ?」
え、お姉さま!? ついに来るの?
「え、知らない? 出勤停止処分が明日、ついに解けるんだって。だからお薬我慢して飲んでおねんねだよー?」
むっちゃ苦い薬飲んで寝ることにした。
――めっちゃ子ども扱いされた気がする。
* * *
「メリーナ小隊長、報告します! ネリス訓練生、感冒です」
「――了解。相棒のクイナ訓練生、ネリス訓練生を看護隊に引き渡しておいで」
「了解」
まるで穀物袋のようにネリスを担ぐクイナ。
「ねぇあんた、大丈夫なの?」
何度もクイナは尋ねたが、熱にうなされているネリスは応えられなかった。
看護隊隊舎に着いたクイナはネリスを引き渡す。
「あの、こいつをお願いします」
「大丈夫よ、心配しないで相棒さん」
看護隊の隊員もネリスを担ぐと隊舎へと連れて行った。
「――あの、ウチの相棒をもう少し大事に扱ってください!」
参考文献
ミクロ経済学(第2版) J.E.スティグリッツ・著
東洋経済新報社
試験対応 新らくらくミクロ経済学入門 茂木喜久雄・著
講談社
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