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223話 武辺者、所領割譲を受ける・5

 丘を越えようとする潮風が鞍上の二人の髪を揺らし、頬を撫でる。ユリカとエルザは細い尾根道を下り、入江が幾重にも噛み合うツクモ湾を見下ろしていた。穏やかな波間には仕掛け網の浮標が点々と散り、浜には網干しと海藻干しがまだら模様を描いている。


 統一戦争時は「女傑姉妹」と囃された二人だった。今でこそ領主夫人と武官長夫人という立場だが、戦場では仲良く馬を並べて幾つもの前線を踏み越えてきた仲だ。腰から下げる長剣の鞘には歴戦の傷がいくつも刻まれており、それだけでも彼女らは只者ではないと威圧感を出していた。


「それにしてもこれじゃ大漁でも荷馬が先に息切れしちゃうわね」


 丘から漁村への坂道を静かに下ると、むわっと潮の香りが強くなり風も強くなってきた。エルザは舞い上がる潮風で髪の毛を抑えると肩をすくめて言った。北街道からツクモ湾へは丘一つ越えなければたどり着けず、しかも湾への道は馬車一台が通れる程度の幅の道しか整備されていない。ただ、坂はなだらかになるよう右へ左へとつづら折りにはなっている。


「領地を預かったら道路整備から考えなきゃいけないなんて、まるで戦場と一緒よね」


 ユリカはため息をつき「補給路の維持みたいね」と続けた。


「ユリちゃんって当時、補給のこととか考えてたんだ」


 エルザはユリカに並ぶよう馬を進める。退役したとはいえ彼女の騎乗技術はヴァルトア麾下でも指折りだ、ユリカに付かず離れずの位置に居て、笑いながら言った。


「エル、私だってそれぐらい考えて槍働きしてたつもりよ?」


「一回の補給で矢弾や兵糧がどれぐらい届き、あと何日保つかなとか?」


「うんにゃ、エルが今夜の酒を持ってきてくれるかなぁって」


 そう言ってユリカが右手で杯を傾ける仕草をすると、二人は顔を見合わせてぷっと吹きだした。当時のユリカは前線に立たせると機を見るに敏と単騎で突出していく女指揮官であった。そうなればヴァルトア軍の兵站を構築していたジェルスは頭を抱えてため息を付き、ユリカの救援として糧食担当のエルザを出していたという。


 そして前線で孤立していたユリカの元へエルザはやってくるが、突出し孤立してる兵がいれば敵兵にとっては良い的だ。しかし強襲されても二人はそのたび敵軍を蹴散らし、むしろ前線を押し広げていったという。そのためいつしか「女傑姉妹」と呼ばれるようになったのだとか。──だが二人には血縁はない、ユリカは北方出身の孤児だし、エルザはビルビディア出身の料理人の娘だ。


「私はもう戦場には立てないんだから、過度な期待はしないでよね?」


 エルザは左膝をさするとユリカは「あぁ判った」と小さく応えた。その統一戦争終盤に流れ矢がエルザの左膝に刺さってしまう。それ以降杖が無ければ歩く事すら困難な身体になってしまったので、それからはヴァルトア軍の糧食隊専属隊長となり、部下がきちんと育ってきた事を見届けて予備役になったという。


 今回ユリカたちの派遣目的は割譲されたツクモ湾岸全般の漁獲高調査と漁撈民の人心掌握である。ユリカの肩ベルトからぶら下がる革のポーチには、調査命令書と火酒が入ったスキットルがカタコトと楽しそうな音を立てていた。


 海から吹き上がってくる風からは湿っぽい潮の香りがするし海鳴りが山に返って響いている。二人は手綱を扱くとツクモ湾で一番大きな漁村であるムカワへとゆっくり駆け下りていくのだった。



 ムカワはちょうど朝の漁を終えたばかりのようであった。年老いた漁師たちが地べたに座りながら網のほつれを直し、若い女は漁網を物干しに吊している。そして労働歌を歌いながら若者は漁具の片付けをしていた。内湾のせいか打ち寄せる波も静かで穏やかであった。


 ユリカとエルザは漁師たちの邪魔にならぬよう馬上で漁師たちをぼんやりと眺めていると、馬に乗った若い男二人が砂煙をあげて近づいてきた。そして男たちはユリカたちの周りをぐるぐると廻り、粘っこい視線を送るや否や口の端を上げてこう言った。


「なんだ、遠乗りにやってきたどこかの御令嬢らかと思えば……ただの年増じゃねえか」


 猿顔の小柄な男が下卑た顔でそう言うと、ユリカたちにじわりじわりと近づいてきた。その後ろに着いてきた馬面の男が続ける。


「惜しいなあ、もう少しぴちぴちの若い御令嬢だったならその上にガバッ──」


 馬面の男が言い終わるや否や、ユリカはひょいと腕を伸ばした。次の瞬間、男の肩を掴んだかと思えばそのまま地面に叩き落とした。


 そしてユリカが手を伸ばす一瞬を見てエルザが愛馬をけしかけ、猿顔が跨る馬の横っ腹を蹴りつけた。突然のことに驚いた猿顔の馬はその場で棒立ちになり、猿顔の男は背中から地面に叩きつけられたのだった。


 浜は突然のことで一瞬で静まり返った。網を干してた若い女や小舟を洗ってた若者たちの視線がユリカたちに引き寄せられる。


「失礼。馬もまともに乗りこなせない小僧が誰の上にガバッと乗っかりたいって?」


 ユリカは白い歯を見せながら、地面に転がる馬面男の鼻先へ乗馬用の短鞭を突きつけた。陽の光が黒い革鞭に反射してきらきらと光っていた。しかし笑顔を浮かべるユリカの目つきは戦場に居た頃と同じで冷淡だった。


 エルザはというと鞘に収まったままの大剣を地面に転がる猿顔の男に突きつけていた。そして口角をにぃと引きながら笑い、静かに言った。


「この村にジョハンナってのがいるはずよ。案内なさい」


 エルザはいつもころころと笑うような女性だ、しかしこの時ばかりは笑顔は柔らかいがユリカ同様目が一切笑っていなかった。地面に転がされた猿顔男は舐められてたまるかと腰に手をやろうとしたその瞬間、エルザは馬から飛び降りると大剣の鞘を足元に投げ捨てた。


 小柄な猿顔男の身長ほどある大剣が抜かれ、禍々しいまでに黒く波打って見える刀身がぎらりと光る。そしてその剣先を猿顔の鼻先にピタリと付けた。


「レディを年増と呼ぶなんて、どういう躾を受けてきたのかしら……ねぇ?」


 それは剣呑などという生易しいものではなかった。いつでも斬るぞと言わんばかりの殺気に二人は息を呑み、必死に頷くことしかできなかった。


「わ、わかった。着いてこい」


 馬面はそう言うと二人は慌てて馬に飛び乗った。あまりの恐怖だったのか、馬面は鐙に足をかけるのもやっとの状態だったし、猿顔に至っては股間がほんのり濡れていた。


 エルザは足元に投げ捨てた鞘を拾うと静かに剣を収めた。


「昔からエルってブチギレると怖いわよね。傍目で見てブルッたもん」


「……そぉ?」


 腰から大剣をぶら下げてから振り返ったエルザはいつもの笑顔に戻っていたのだった。



 導かれた先はツクモ湾を見下ろす高台に建つ大きな屋敷だった。真っ白な漆喰で塗り固められた壁は

陽光を反射したせいでさらに白く見え、鉛板で葺いた屋根は白く光る壁のせいか鈍色ではなく黒く映る。広葉樹の太い柱材が縦横に立ち、潮と陽に焼けた木肌が力強く見えた。そしてまるで城門のような分厚い門扉には貝殻と魚骨を模した意匠が打ち出されており、屋敷と言うよりまるで要塞か砦である。しかも門前には槍を手にした男たちが二人も並び立ち、漁夫の装いではあるが正規兵のような緊張感を漂わせていた。


 ここまで案内してくれた男たちはこのまま取り次いでくれるのかと思ったが、そのまま馬を駆ると慌ててどこかへと走り去って行った。ユリカたちを見て門前の男たちは槍を構える。


「私はツクモ湾岸一帯の新たな領主——ヴァルトア・ヴィンターガルテンの代行、ユリカ・ヴィンターガルテン、そして友人のエルザだ」


 ユリカは鞍上から声を張り名乗りを上げた。そしてエルザは馬から静かに降りるとリュックから火酒の瓶と硬いチーズを取り出し、頭より高く掲げる。


「統一戦争時代の旧友、ジョハンナに会いに来た。取次を頼む。これは荒くれ者どもへのささやかな手土産だ」


 門の上にある除き窓から身なりの整った若者が顔を出し、ユリカの名乗りに応じた。


「承知した! 今すぐ取次ぐゆえ、馬と大剣は門兵に預けられて待たれよ。酒は——まだそちらで持っていてくれ」


 ユリカは下馬することなく、エルザは自身とユリカの馬銜を掴んで静かに待った。二頭の馬はふんすんと鼻を鳴らし、前蹄で地面を軽く掻いている。海からそこそこ離れているが潮騒は聞こえてくるし潮風が彼女たちの髪を揺らしていた。


 門兵の一人は通用門から中に入ると人参を数本持ってきた。恐る恐る馬たちの口許へと差し出すと、馬たちは嬉しそうに鼻を鳴らして食べはじめた。その様子を見てもう一人の門兵もほっとしたように微笑む。一言二言話してみたら、この地の漁師で門番は当番制だという。


 しばらく待たされたのち、黒鉄の正扉が金属音を軋ませながらゆっくりと開いた。そして現れたのは髪を後ろで束ねた若者で、恭しく跪くと静かに告げた。


「お待たせいたしました、お客人。ジョハンナ様がお会いになられます。それとうちの若い者が無礼を働いたと報告を受けております──強く指導しておきます」


「気にしないで、若気の至りは嫌いじゃないわ」


「でも、セクハラはだーめ」


 ユリカとエルザが笑い合う気軽さに、案内役の若者は苦笑を浮かべた。


 門番に大剣やナイフ、そして馬を預けると二人は中に通された。玄関で軍靴を脱ぎ、板廊下を抜けて奥へと進んでいく。屋敷内は磨き抜かれた床と窓ガラス、そして仄かに沈香や白檀の香りが漂っていた。壁には歴代当主とその妻の肖像画が飾られており、この地を牛耳ってきた一族であることがよくわかる。


 廊下の突き当りに扉があり、若者が静かに開くと髪の短い女が部屋の奥に見えた。鋭い灰色の瞳に小麦色に焼けた肌、薄着のせいか引き締まった身体がよく判る。板間の部屋には座布団が敷かれており、そこにこの屋敷の主ジョハンナ・グレイスがどかりと座っていた。


「聞いたよ、うちの若いのを躾けてくれたんだって?」


 かすれたようなしゃがれ声のジョハンナが右手で座れと合図しながら言うとユリカとエルザは静かに座わった。エルザは左膝が悪いので座布団には座らず片膝付いてジョハンナを見やった。案内役の若者は部屋の隅で正座する。


「ええ。レディに対する礼儀を、ね」


 ユリカはにこやかに答えると、ジョハンナの供回りの少女が出してくれたお茶を静かに飲んだ。


「——で、何しに来た」


「旧友に会うのに理由が要る?」


「……ふん」


 ジョハンナはほんの少しだけ鼻で笑う。そのやり取りを見てエルザはふと口角を上げたのだった。

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