222話 武辺者、所領割譲を受ける・4
薄霧に包まれたブナ林の登山道をアニリィは村長ペドロとその妻アレナに伴われて進んでいた。湿った落ち葉が靴底で潰れる音と落葉して枯れたブナの葉の香りが辺りを漂っている。相変わらずアレナの眼差しは鋭く、右手にはさび付いた包丁が握りしめられている。
「アレナさん、右手に持ってる物騒なもんは仕舞って貰えませんかねぇ?」
アニリィが両手を挙げながら笑って聞くが彼女の右手に力が籠るのが見える。どうやら彼女はアニリィの願いを聞き入れる気は一切無いらしい。
「じゃあペドロさん、私の大剣を預かって貰えません? そろそろ両手を挙げながら歩くのも辛いんで」
アニリィはそう言うと腰から下げていた大剣をペドロに預ける事にした。そうでもしなければアレナはいつ襲い掛かってくるか判らなかったからだ。
「……大剣を預けてしまった事で、森の奥で儂に斬られるとは思わんのかね?」
「ぶっちゃけ怖いっすよ? でも、剣を抜いて本気で斬りかかってくるなら──応戦なんかしません。救難信号を飛ばしながら逃げるだけです」
そう言いながらもアニリィは警戒心は見せず言ってのけた。しかしペドロは軽口で応えるアニリィに恐怖心を感じ取ったのか、黙って頷くと留め具を外して彼女の大剣を受け取った。それを見てアレナはようやく右手に握りしめる包丁を鞘に仕舞ったのだった。
アニリィはホッとした表情を見せると両手を静かに下ろした。実はアニリィの大剣には細工がなされており、手順が判らないと鞘から剣が抜けないようになっている。もし仮にペドロが大剣を抜こうとしたなら救難信号を飛ばしながら逃げればいいし、最悪は隠し持ってる短剣で応戦すればいいだけである。アニリィにとっては大事な剣だが、他人に渡ってもただのデコイにしかならないから気軽に預けたのだった。
修験者の登山道から外れた獣道を三十分ほど進むと岩壁に囲まれたカルデラ状の凹地を望む場所に出た。その中は雪を逃がすために尖らせた急こう配の三角屋根がおよそ五十軒、肩を寄せ合うように立っている。こんなところに隠れ住んでるなんて見つけるのはなかなかに困難だろう。カルデラに小さくまとまった集落を見下ろすとアニリィはふぅとため息を付いた。
「あれが“ワイスの隠れ里”か……」
「ここは領主が統治してるって意識が無いから、くれぐれも無礼だけは働かないでくれよ?」
「もちろん判ってる」
岩壁の上から唯一の下り道を降りていくと、テイデ山から吹きつける冷たい風は岩壁に遮られ中にくることはなく、むしろ仄かに温かかった。そしてガタゴトとにぎやかな音が聞こえ、隠れ里の活気が伝わってきたのだった。
ペドロ夫妻に案内されたのは凹地の西側に建つ一軒の木造屋敷だった。外壁には表面を焼いた針葉樹が貼りつけられているし、茅や麦藁を敷き詰めた鋭角の屋根が印象的だった。どの家にも大きな煙突は付いていないのは、囲炉裏や作業場の熱で降り積もった屋根雪を溶かして落ちやすくするためだとペドロが教えてくれた。
外壁から見える主柱には花と蔦を模した彫刻が彫り込まれ、金装飾がされていた。その意匠を見てヴェッサの森アンティム家の者の二の腕に彫られている入れ墨と同じであった。岩壁により風が遮られている凹地のせいか湿った空気が漂っている。
アニリィたちは玄関でブーツを脱ぎ、廊下を進むと足音が木板に吸い込まれていく。ペドロが軽く咳払いをして扉を開くと、奥の応接間にひとりの女エルフが静かにソファへ座っていた。白磁のような肌に陽の光をきらりと映したような金髪が肩に流れている。瞳は澄んだ青色で、その眼差しから懐かしさと静かな警戒が交じり合っていた。その肌や髪、目の色までアニリィそっくりである。アニリィを見つめていた女は口元がほころばせると、静かに口を開いた。
「……あんた、ポルフォの末娘でしょ?」
「やっぱ父ちゃんのこと、知ってるんだ」
「知ってるも何も私たち従姉弟同士だもの。──まぁ、あの子が三歳のときにここに嫁に来たんだけどね」
そのエルフはハイネと名乗り、旧姓はマルカリャンだという。それを聞いた瞬間、アニリィは驚いた表情を見せた。マルカリャンと言うのはアニリィの祖母イリシアの旧姓であり、シュヴァルの森のエルフ族の家名の一つである。父ポルフォと従姉弟同士であればアニリィとは遠縁だ、髪や肌の色まで似ているのも頷けるだろう。
ハイネは五十年ほど前、この地に嫁いでからもアニリィの祖父や父ポルフォ、それに実家のマルカリャン家とはこまめに時節の挨拶の手紙を書いているという。しかしアニリィにとってそんな話は聞いたことは無かったのだが。
「そう言えばアニリィ、イリシア叔母ちゃんは“お休み”に入ったんだよね?」
「私が初等学校を卒業する前だから随分と前の話だけど……まぁね」
当時からおてんばな性格だったアニリィを唯一理解してくれたのは祖母イリシアと兄カリンだけだった。そのイリシアが亡くなってもう十年以上は経つが、アニリィは今もその時の事はふと思い出してしまう。だが人間族が“終わり”と呼ぶものもエルフにとっては魂の帰郷であり“休息”と解釈している。エルフ独特の死生観についてはヴェッサのエルフたちと同じく、死を休息と穏やかな再生と捉えているようだ。
「せっかくマルカリャン家の流れを汲む者同士、一杯やらんか? 嫌いじゃないんだろ?」
ハイネがそう言うとキャビネットからアンフォラ瓶を取り出して栓を開けた。すると応接間には花のようなハーブのような香りがふんわりと広がる。
「キュリクスの酒を持ってきた甲斐がありましたね、叔母上」
アニリィはリュックから酒瓶を一つ取り出すと、それを見てハイネはにやりと笑うのだった。
*
アニリィとは遠縁に当たるハイネも酒好きらしい。ハイネはアンフォラ瓶から蜂蜜酒をコップに注ぐとアニリィに手渡し、アニリィも火酒を注いでハイネに手渡した。そして自然と乾杯すると互いにぐっと一口で飲み込んだ。
「やっぱ火酒って旨いねぇ」
ハイネがしみじみと言うと、アニリィと共に付いてきたペドロたちにも火酒を振舞った。二人とも夕べ飲んだものより美味しいと口々に感想を述べる。
「これ、我が家の文官長トマファ殿の蒸留所サーグリッド・フォレアルですもの」
「うむ、気に入った。今度来た時はひと瓶を白銅貨これぐらいで買い取りたいものよ」
ハイネは指を折ってにこやかに指し示すとアニリィは小さく首を横に振った。
「叔母様、この酒はそんな値段じゃ買えませんよ」
「じゃあこれぐらい出そう、それなら文句はあるまい!」
「でしたなら、その蒸留所が持ってるルート営業マンを寄らすよう手配しましょうか?」
「何じゃ、ペドロたちからこの地が馬車でやってこれるって話も聞いてたのか」
ハイネがそう言った瞬間、ペドロたちの表情は強張り、アニリィはにやりと笑った。
「いや、初耳です。ですが村に入った時、馬の嘶きが聞こえたんで街道と繋がってるよなぁってのは想像付いてましたが」
ワイスの村は岩壁に囲まれたカルデラの凹地だというのに馬の鳴き声が聞こえてたり、家の軒先に大八車が置いてあったりと違和感があったのだ。しかも木こりの村よりも人口は多いのだから麦や塩、酒などの生活必需品を担ぎ上げる場所は絶対に必要だし、いろんな産業があるのは物音から察してたのであえて鎌をかけたのだ。
ここで初めて、ペドロたちがアニリィをここへ連れてきた理由を話した。ペドロの息子ポワルが詐欺罪で逮捕された事、家宅捜索の令状を持ってきてる事、そしてインチキ宝飾について捜査中だという事を素直に話して聞かせたのだ。
ハイネは杯を置くと深く息を吐いた。そしてテーブルの下から小さな木箱を取り出すと長煙管を取り出して刻み煙草を詰めて火をつけた。ふぅと白い煙を二つほど吐き出すと煙管を灰皿にカンと叩きつける。
「それまでバレちまったのか──じゃあ司法取引に応じて欲しい。こちらは製造現場や秘密は全部素直に話すから、ポワルは軽い処分にしておくれ。──あの子は私の甥っ子なんだよ」
「司法取引? 本来ならポワル殿の弁護士や領主ヴァルトア伯と相談の上で決めなきゃいけないんだけど……叔母様の頼みだ、なんとかしてみるよ」
「ありがとね。てかイリシア叔母ちゃんからフリフリのスカートを履かされリボン付けられてた鼻たれ小僧にこんなでっかい娘が出来てたなんてな」
「──その話、あまり聞きたくない情報なんだけど」
ハイネは再び長煙管に刻み煙草を詰めると再び火をつけ、この村について詳しく話してくれた。ワイス村は「隠れ里」というよりアクセサリー加工だけでなく養蚕製糸や紬織、紙漉き──それぞれの工房が凹地の東西南北に固まって協調し、成果に応じて報酬を分け合うひとつの“分業共同体”だという。しかもアクセサリー加工ならデザインを担当する家、金属加工や貴石加工を主にする家、メッキや研磨加工をする家と言った完全分業制だという。ちなみにアクセサリー部門で中心となるのがこのハイネの家で、販売やデザインの嗜好を汲み取って経営を執り仕切ってるという。なお元々はハイネの夫がしていたが、数年前に"休息"に入ったため今はハイネが当主として執り仕切ってるという。
「だから私は村長というより“アクセサリー部門長”といったほうが判りやすいかもしれない」
「じゃあこのワイス村を統括してる人は?」
「居ない居ない。ただ、製糸や紬織、紙漉きにも部門長が居てね、それらは私の旦那の弟たちの一家が取り仕切ってるんだ」
この村の基礎を築いたのはハイネの義父ピュルガだという。百年以上も前だが彼は森に出入りする炭焼きに頼み、たまたま手に入れた人間世界の本を読んで『このまま炭焼きだけではヴェッサは衰退してしまう、リスク分散・多角経営に切り替えるべき』と主張した男だったという。そしてヴェッサの森での古いやり方に反発して出ていき、ワイスの村を拓いた男でもある。
「ちなみに四半期ごとの目標生産や目標売上に達しなかったら“特別”報酬が削られるんだよね」
ハイネの説明によれば報酬は「麦や酒」の現物と銅貨で支払われ、成果を上げた者には「酒樽」が贈られ予算未達であれば削られるという。しかも休暇が適度にあり、特別報酬も約束されてると生産性は上がるし、市場にマッチしたものを生産しなければ買い叩かれると義父ピュルガは生前その部分は熱く語ってたそうだ。
「で、アニリィが聞きたいのはメッキの話でしょ。あれって秘密の技術があるのよね」
実際、メッキ加工には前処理から主工程、後処理まで幾段もの工程がある。「脱脂」「酸洗い」「電解洗浄」などひとつでも手順を誤ればメッキは乗らないし、すぐに剥がれてしまう。工程管理の精度が品質とコストを左右し、わずかなミスが致命的な損失に繋がることも珍しくないという。さらに使用する薬液も劇薬だったり猛毒だったりとそのまま廃棄することは許されないし、処理を誤れば人体にも森にも害をなす。
「じゃあついてきな、メッキの秘密を教えてあげる」
ハイネの家の地下は洞窟となっていた。そこへ下りたハイネとアニリィは魔導灯を頼りに奥へと進むと小さな泉と祭壇が置かれていた。
「うちの金加工はこの泉のおかげなのよ」
ハイネは祭壇に赤ワインを供えると、ポケットから取り出した赤銅色の指輪を放り投げた。すると水面がほんのり光を放つと白いキトーン姿の精霊が現れ、眠たげな声で呟いた。
「ハイネちゃんおはよ、今日も?」
その精霊は、かつて月詠の泉に現れたヴォナティと同じぐらいの大きさだった。きらきらと燐光を撒き散らした精霊はどう見ても眠そうである。
「いつもの頼むわ」
「はいはい──あなたが落としたのは銀の指輪? それとも金の指輪?」
「銅の指輪よ」
「素直な人ね。じゃあ金の指輪をあげるわ」
やがて光が消え、祭壇に置かれた三方に金色の指輪がことりと音を立てて現れた。
「──とまぁ、落としたものを金や銀に変えちゃう精霊の泉を旦那が発掘しちゃってねぇ」
ただ、この精霊は非常に気まぐれらしく気が乗らなかったらメッキも甘くなるらしい。実際ポワルの摘発は偶然で、クラーレが市場で見かけた指輪のメッキが薄く下地が浮き出ていたのを彼女が見とがめたのだ。そして手に触れた瞬間、自身の首から下げてる純金の装飾とはまるで違う、妙に硬質で乾いた“偽物の感触”を感じたから逮捕となったという。なお銀白色のメッキにしたい場合は白ワインを捧げるのだとか。
それを聞いてアニリィの胸に微かなざわめきが走った。
「ねぇ、私も試してみていい?」
「まぁ、いいわよ? てかあなた、指輪なんか持ってるの?」
訝しげに聞くハイネを横目にアニリィは祭壇に赤ワインを供えるとポケットから何かを取り出して泉へ放った。すると燐光を撒き散らしながら精霊がぼわんと現れた。
「え、またなの? ……てか、彼女は誰?」
「親戚のアニリィ。ちょっと試してみたいんだって」
聖霊は余程眠いのかご機嫌斜めで表情は曇っていた。しかし捧げられたワインを一口飲むとふぅとため息を付く。そしてやっつけ仕事かというぐらいにぶっきらぼうに言い出した。
「あぁーはいはい。──あなたが落としたのは銀の玉、銀玉? それとも……金のた……た、た──」
その瞬間、精霊は顔を真っ赤にすると口をパクパクし始めた。目はひん剥き、ハイネを睨む。しかしハイネはアニリィが何を放り込んだか判らないためぽかんとしている。しかしアニリィはにへらと笑うとこう言った。
「えっ、聖霊様、全然聞こえないんですけど?」
「金のた……た……ま──っ! ……もぉ最悪、セクハラやめてくんない!?」
金色になった球をアニリィに投げつけると、光ごと霧散したのだった。
「お前、最低だな……!」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてねぇよ!!」
精霊は腹を立てたのかどれほど祈ってもしばらく姿を見せなかったという。アニリィの手元には黄金色に輝く玉だけが残り、ハイネに言ってネックレスにしてもらったのだという。
「これが本当の金たm──」
「言わせるかァ!」
なおアニリィが金属球を持ってたのはスリングショット用である。蛇でも野鳥でも平気で焼いて食べるアニリィだが大の虫嫌いのため、カサカサと現われた時は遠慮なく撃つためだそうだ。




