219話 武辺者、所領割譲を受ける・1
石造りの応接室は秋の半ばというのに随分と冷え込んでいた。掃除もあまり行き届いていないのか壁に下がる鉄兜の紋章は少し色あせて傾いているしほころびも見える。お茶うけとして出されたケーキが無駄に立派なせいか、殊更重苦しい空気を醸していた。そんな中、王宮から派遣されたクラレンス・ロブルが手にした勅書を朗々と読み上げた。
「勅命によりケトプロン“子爵”が持つテイデ山北部山稜およびツクモ湾の漁村一帯をキュリクス辺境伯ヴァルトア・ヴィンターガルテン卿に割譲す──」
“子爵”という単語が響くたびに男の頬がぴくりと動き、口元の筋肉が微かに引きつり、感情を抑えきれない様子だった。しかし、かつて伯爵の座にあったこの男は勅書を聞いてる間も焦点の定まらぬ目でぼんやりと何かを見つめていた。勅書の内容もまるで興味を抱くこともなく、遠くの景色でも眺めているようだった。ようやくクラレンスが勅書を読み終え、それを折り目に併せて丁寧に畳むとテーブルの上に置いた。それを見て男はようやく、唸るように声を上げた。
「まこと、陛下のご裁断には逆らえませぬ。もっとも……この程度の処分で済んだのですから何も申し上げませぬが」
そう言い終えるとこの男、何故か口の端を吊り上げてふふと笑みを浮かべた。先ほどまでぼんやりとしていたこの男の名は、キュリクスより北、プロピレン地区を有する“子爵”のピクリス・ケトプロンだ。蒼晶宗内で発生した信者大量殺人事件に関与したとして、所領の一部と伯爵位の没収、そして改めて子爵位を与える──いわば降爵処分となった男である。ピクリスから没収された地は、蒼晶宗事件解決の手柄としてヴァルトアに与えられる事となり、今はその所領引き渡しの調印式が行われている。
クラレンスは次に机上に三枚の書類、ピクリスが割譲する「山林区域」「漁村区域」「附属財産」についての目録を並べた。クラレンス伯の隣に座る見届人のドンバス侯爵ことリュリティス・ホーリクスが冷えたお茶を啜りながらそれらに目を通しだした。するとピクリスが急にニヤニヤしたかと思えばテーブル天面を指先で軽く叩きながらこう言った。
「テイデ北の山地には木こりが約三十戸、ツクモ湾の漁村は確か約百二十戸だったかな……? 本当にチンケな土地ですので、どうぞご笑納くださいな」
あまりにもふてぶてしい口ぶりや態度にクラレンスはふと眉を顰めるが、ドンバスはそんな事おくびにも出すことなく所領目録をヴァルトアに手渡した。しかしヴァルトアは目を通すことなく目録を静かにテーブルの上に置くとふぅと一息ついてから口を開いた。
「人が住んでいるなら、それで十分です」
「ふん、お優しい事を。──だがテイデ山稜もツクモ湾も冬になれば雪で閉ざされます。そんな地を貰っても嬉しくも無いでしょうに」
ふてぶてしいを通り越して不貞腐れたかのような態度だけでなく、所領引き渡し調印の場を打ち壊しかねない発言である。ついにクラレンスが立ち上がると怒声を上げた。
「貴様、いい加減言葉と態度を慎め! いま貴様は子爵の身だし、目の前にいるのは儂を含めて伯爵位と侯爵位を与る者たちなんだぞ!」
「──チッ」
ピクリス卿は左頬を引きつらせながら小さく舌打ちすると、指先でかつかつと天面を強く叩く。少し前まで、目の前に座る男を『平民上がりの武辺者』としてバカにしていたが、今では奴が伯爵に叙せられ自分は子爵に降格だ。土地の割譲について思う事が全くないと言えば嘘にはなるし、生産性がなく開発も困難な土地を押し付けることが出来て心底清々としてると思い込むようにはしているが、それよりも自分の爵位が目の前の男よりも下なのがとにかく気に入らないのだ。ピクリスから垣間見えるものは苛立ちや腹立たしさではなく、面目を潰され自尊心を傷つけられた子供のようである。
王宮からの立会人としてこの場に座るドンバスがテーブルに置かれた三枚の書類を無言で差し出した、その指先の動きひとつで「とっとと署名せよ」と言わんばかりである。
ピクリスとクラレンス、そしてドンバスとは古くからの顔なじみであり、共に統一戦争を戦い抜いた戦友同士と言っても過言ではない。しかしクラレンスは眼の前に座るピクリスを表情一つ変えずに黙って見つめていた。
「……あの宗教団体に踊らされたってだけで、ここまで処分を重くする必要はあるのか?」
蒼晶宗が信者をオーク化させる人体実験を行っていた事実についてはあえて言及せず、ヴァルトアは『信者の大量殺人事件があった』と王宮に報告書を提出した。しばらくして王宮から事件の詳細を調べるため派遣されたのが、ヴァルトアとは古くから縁があるクラレンスとドンバスであった。二人には人体実験やオーク化といった事件内容を詳しく話しただけでなく、ピクリスが関わっている証拠もきちんと提出した。しかし二人が作成した王宮への詳細な報告にはオークの事は一切匂わせず、三人だけの秘密とした。というのも生きた人間を無理やりオークに改造してたなんて報告書に書いたとしても誰も素直に信じるとは思えないし、内容が内容だけに善意で救貧活動をしている宗教団体すべての信頼を破壊しかねないのだ。つまり真実の究明よりも治安維持を優先した結果である。だがピクリスからすれば自領の民が被害者になった訳ではないし自領で起きた事件でも無いのだから、どうしてここまでの処分を受けなきゃいけないのだって気持ちの方が強い。
それを聞いてドンバスが口を開いた。
「お前にとって被害者は他領の人間かもしれんが、王国民を手に掛けた事実には変わらんのだぞ。──てか斬首刑となっても文句が言えない事件だったんだ。領地没収の上降爵で済ませるよう報告書を書いたこちらに感謝してほしいもんだな」
ドンバスことリュリティス・ホーリクスとは、まるで岩のような大男である。歴戦の傷がいくつも刻まれた厳つい顔には深い皺が走ったかと思えば、その眼光は刃よりも鋭く光った。ギョロリとピクリスを見据えたその瞬間、室内の空気が一段冷えたようであった。無言の圧力──彼を怒らせればただでは済まないということを付き合いが長いピクリスは骨の髄まで知っている。彼は観念したかのように肩を落とし、ハァとわざとらしくため息をついてから渋々羽根ペンを取った。インク壺にペン先を浸す手がわずかに震えているようにも見え、羊皮紙を引っ掻く音だけがやけに大きく響く。やがて署名を終えると、ピクリスは領地引き渡し文書に自らの璽印を押し、ゆっくりと顔を上げた。そこには怒りでも屈辱でもなく──諦めと毒をないまぜにしたような笑みを浮かべ、そしてかすれた声でこう吐き捨てた。
「ヴァルトア辺境伯殿、どうかご健勝を。──せいぜい私の元・所領を富ませてみなさいな」
それを聞いてヴァルトアはわずかに口角を上げた。
「ま、やれるだけやってみますよ」
ピクリスは目の前に座る男に対して興味が削がれたのか、それとも小馬鹿にされたと思ったか、鼻を鳴らすと立ち上がるや否や黙礼してずかずかと応接室を出ていった。扉が閉じた瞬間、部屋の空気がようやく緩むとクラレンスがふぅと長いため息を付いてから
「いやはや、……あの男、昔からプライドだけは一級品だよな」
と吐き捨てた。ピクリスは統一戦争で功績を上げ伯爵に叙されたが、元々は地方で活躍していた男爵の武人である。庶民を見下すのは当然だし、同格や上位の者ですら下に見るや否や鼻でせせら笑う癖がある。おかげで今も昔も貴族周辺の評判は芳しくなく、伯爵を与る身でありながらも寄木の下級貴族がほとんどいないという。隣領子爵のフルヴァン家とはかろうじて付き合いがあるが、あくまでも外交儀礼上の形式的な関係に過ぎないし、フルヴァン家も尊大な振舞を続けるピクリスを好意的には思っていない。そのためフルヴァン家は嫡子の結婚に際しても縁談を進めようとするピクリスを冷淡に突っぱねたかと思えば、反対隣の在郷貴族ポルフィリ家から嫁を取っている。
「貴族なんて“王宮の寄合”みたいな社会でよくもまぁあんな生きづらい選択をしてるよなぁ……南部のニール伯爵家しかり」
おしゃべりな部類ではないドンバスの口からニール家の話が突然転がり出てきたため、ヴァルトアは飲んでたお茶を吹きだしてしまった。懐からハンカチを取り出すと慌ててテーブルを拭き始めた。
「す、すんませんクラレンス伯、ドンバス侯。──この前、ニール家から礼儀見習いだと言ってツェンダ嬢一行がやってきましてね」
「あぁ聞いてる聞いてる、エラール王宮でもお笑い種になってたわよ。しかもツェンダ嬢ったらあちこちのお茶会で『ヴィンターガルテン家の礼儀は敬礼と行進から始まるのよ』って吹聴して回ってたみたいだけど、それを聞かされた余所の令嬢たちは『武闘メイドしか居ない家で何の礼儀を学びに行ったのかしら』って陰口叩いてたわ」
クラレンスが笑いながら既に冷え切っているお茶を啜った。古くから諜報を司る家柄でもあるロブル伯家はあちこちのお茶会や舞踏会に一族の者を派遣しては情報をかき集めているらしく、ニール家の伯爵令嬢がヴァルトアの元へやってきたって情報はしっかりと把握してた。むしろそのような話に興味を示さないであろうドンバスですら知ってるのだから、エラールでは有名な話なのだろう。
ヴィンターガルテン家のメイドは全員軍属でガーターに刃物を隠し持ってるような者しかいないというのは一部の令嬢たちからは常識だ。その話の元凶もクラレンス伯夫人が開いたお茶会に一匹のキラービーが闖入し、ユリカのお供としてやってきた若い頃のオリゴがナイフひと投げで討伐したからである。その話は勝手に一人歩きするし、どれだけ誘ってもヴィンターガルテン家の者は貴族の集まりにはなかなかやってこない。元々が武辺者の家柄なのでいい加減な噂が立ってしまうのは仕方がないだろうが、それを事実と把握してる派閥もあれば話半分だと思ってる派閥もあるだろう。ツェンダ嬢はきっと後者の人間だ。
事実、ヴィンターガルテン家のメイドは全員が軍属だし、メイド長オリゴを筆頭に好戦的なものばかりが揃ってる。メイドの尻を触った“だけ”で“何故か”頬を引っ叩かれたと文句を言い出す客人は後を絶たない。もちろんその報告を聞いては、その家の主や夫人に『セクハラはダメです』とヴァルトア自らが一つ一つ苦情を認めているのは有名な話である。ちなみに余談だが、クラレンスは数年前、当時独身だったマイリスの尻を撫で回して本気で斬られそうになったことがある。
ヴァルトアはハンカチでテーブルを拭き終えると、ようやく引き渡しの目録を手に取った。地図にはテイデ山稜の木こりの集落と、ツクモ湾沿いの小さな漁村がいくつか描かれている。ピクリスがこの土地をどこまで把握しているかは不明だが。
「……ま、ヴァルちゃん。この割譲地、まともに使えると思わないほうがいいわよ?」
クラレンスはそう言うとヴァルトアは「承知」と小声で応えた。
「どうせ貴殿の事だ、何かこの地を富める方法でも考えてるんだろ?」
ドンバスがそう言うとヴァルトアは苦笑しながら首をかしげるのであった。




