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218話 武辺者と、訪問者戦争・番外編

 練兵場から見える西の空は茜色から瑠璃色へとグラデーションを描き、冷たい風が頬を打つ。夕鐘の音が鳴るたびに吹き込む風がひときわ冷えてくるようだ。訓練隊を率いる隊長メリーナが今日の課業終了を告げると、皆は足取り重く営舎へと帰ってゆく。中には早く風呂に入りたい、夕飯にありつきたいと一心に駆けてゆく者もいる。地獄の訓練を終えたトリスはというと、ふらふらとした足取りで営舎へと戻っていった。


「トリスちゃん、一緒に行こう!」


 ドタバタと泥を跳ねさせながら駆け寄ってきたのはトリスの相棒リクだ、背丈はトリスより僅かに低いが声は大きく、笑顔は太陽のように明るい子だ。


「あ、待って……足がもつれて……」


「待たない待たない! 止まったら寒さで死にそうなんだから!」


 そんな大げさなことを言いながらリクはトリスの腕を引き、勢いそのままに走り出した。訓練であれだけ走り込んだのに、彼女はまだ走り足りてないのかとトリスは思ってしまった。しかしトリスの腕をつかむ彼女の手の温かさに、少しだけふふと笑ってしまった。


「リクちゃんってどうしてそんなに元気なの……?」


「ん? 今から営舎に戻ってする事なんて夕飯食べて風呂入って、あとは寝るだけだよ? ──それに五年も働けば結婚持参金になるぐらいの退職金が貰えるんだよ? 何事もポジティブに考えないと辛いだけじゃない?」


「……あなたってポジティブというか天真爛漫ね」


「故郷を守り、ご飯も寝るとこも、それに退職金まで保証付き! そう考えたらいい職場じゃない? きっとみんなもそう考えてると思うんだ! トリスちゃんもそうでしょ?」


「ま、まぁ、そう、……かも?」


「じゃあ明日のためにしっかり食べようじゃないか、相棒!」


 リクはキュリクス出身の庶民の子で、トリスが公爵令嬢であることは聞かされていない。しかし、少し大人びて見えるトリスを相棒として組まされたのも何かの縁だと感じており、リクは疲れてふらつく彼女を引きずるかのように引っ張り、営舎へと走っていくのだった。



 営舎の奥には腹ペコな隊員や文官たちが利用する専用食堂がある。その日のメニューは食堂前に張り出されており、今日は芋と麦の粥に腸詰と赤茄子の香辛料スープ、そしてライ麦パンとチーズと書かれていた。ここへやってきたばかりの新兵たちは、『麦粥とパンと主食が2つもあるぞ』と驚くが、これも訓練でヘトヘトになってる隊員の為の配慮というのがよくわかる。今日も湯気立ちこめる食堂で糧食隊隊長シーラが大声で叫んでいた。


「ほら、トリちゃんもリクちゃんと小柄なんだからちゃんと食べなっしー!」


 独特の語尾でしゃべるシーラは二人の皿には山盛りの粥とスープがどんどんと盛ってゆく。ちょっと待ってとトリスは止めるが彼女はそんなこと一切気にしてない。更にもうひと掬い盛り付けるとニヤリと笑う。


「おわかりもあるから、しっかり食べなっし!」


「ねぇシーラ隊長、もう二人分盛り付けてあるでしょ? こんなに食べられないって」


「食べるのも寝るのも訓練! そんなひょろひょろした身体でメリーナ隊長の訓練受けたら倒れちゃうよ!」


 どの新兵たちも大量に盛り付けられた皿を見てはトリスと同じ感想を漏らすだろう。だけどシーラはそんな苦情は一切気にせず、どの隊員にも食べさせまくろうとどんどん盛っていくのだ。それは「しっかり食べて明日への英気を養ってほしい」という母心からなのか、それとも「人に腹いっぱい食べさせたい」という田舎のおばあちゃん的発想なのかは判らない。ちなみに出される食事はどれも温かくて美味しいものばかりなので、山盛りの食事をお腹に収めるため頑張って戦っている新兵は多いに違いない。なお古参兵たちは慣れたもんで、ぽんぽんと口の中に食事を放り込んでゆく。


 混雑する食堂の隅、窓際に二つ並んで空いてた席があった。リクとトリスはトレーを持ちながらそこへ近づくと、席の向かいで食事中だった文官服の少女が顔を上げた。


「向かい、よろしいですか?」


「あ、はい……どうぞ」


 顔を上げた少女は、大量に盛られた食事に目を白黒させながらも必死に食べるところであった。リクの声かけにも笑顔で「良いですよ」と応じてたし、二つ空いた席はもうここしかなかったため、リクとトリスはその少女と相席することにしたようだ。


 食事中もリクは楽しそうに喋り続けていた。彼女は今日の訓練は楽しかったとか、「他の新兵たちには負けられないよね」といったポジティブな言葉ばかりが出てくる。それを聞いてトリスはうんうんと頷いて応えていた。ツェンダと連んでいた頃はというと、彼女から吐き出される言葉はネガティブなものか自慢話ばかりだったので辟易としていたが、それとは真逆なことばかりを言うリクをトリスは心から慕わしく思えていたのだ。


「あなたも文官さんなら、仕事大変でしょ?」


 リクがスプーンを止めて向かいに座る文官服の少女をじっと見つめると、少女は「実は……」と口を開いた。彼女は実はまだ作務師見習いであること、文官服なのは代書の仕事が時々入るためこの服を貸与されたと応えたのだ。その話を聞いてリクはピンと来たのか身を乗り出した。


「え、ってことはあなたがあの“合格者”のゾエさん?」


「……え、あ、はい」


 ゾエは少しだけ苦笑いを浮かべていた。何となくだが目の前の彼女は褒め慣れてないのだろうとトリスの目に映ったので、この話はここまでにしようと思ったのかリクの袖を軽く引いた。


「へぇ、どうして受かったの? どれだけ頑張った?」


「リク!」とトリスが思わず小声で制したが、リクはあれこれと訊こうとする。ゾエはしばらく逡巡したのち、顔を真赤にすると静かに答えた。


「きっと、──私にチャンスをくれたんです」


 トリスがスプーンを静かに置くとゾエの顔をまっすぐ見て言った。


「じゃあゾエさん、そのチャンス大事にしないとですね」


「ありがとうございます、トリスさん」


 食堂のざわめきが遠のくように感じた。そして三人のあいだに目に見えない線が結ばれた瞬間だった。



 たまに長居する者もいるが、基本は食事が終わった者からトレーを抱えて配膳室へと食器を返しにいく。ゾエがなんとか完食し終え、配膳室へと立ち上がった三人の前にトレーを抱えた小柄な女性がやってきた。


 サンティナ・ラール、手には山盛りの夕飯が乗ったトレーを持っているので今から夕飯なのだろう。声は穏やかでよく通り、笑顔で「ゆっくりやれば出来るよ」と優しく言ってくれるリーダー訓練中の指導官補助員だ。


「サンティナ兵長、お疲れ様です!」


「お疲れ様です」


 リクとトリスは背筋を張り右手で敬礼をすると、それを見てゾエも慌てて敬礼した。サンティナは目線や手首の角度を細かくチェックし、小声で「ヨシ」と言うとようやく三人は右手を降ろした。


「今から夕飯ですか?」


「えぇ。メイド隊に長く居たせいで身体が完全に鈍っちゃってるから、今の今までメリーナ隊長からの“特別訓練”を受けてたのよ」


 リクに訊かれたサンティナは苦笑いを浮かべながら首をぐりぐりと動かした。


「あなた達、明日も訓練があるのだからお風呂で身体をゆっくりほぐしてから寝なさいね」


 サンティナは優しく言うと三人の横を通り過ぎてゆく。リクとトリスは背筋を伸ばし一斉に敬礼した。サンティナは空いてる席に座り、手を組んで聖句を唱えてからもぐもぐと食事を始めたのだった。しばらくしてゾエが小声で尋ねる。


「……あの方、どちら様なんですか?」


「メイド隊所属のサンティナ兵長、優しいけど怒ると地獄だよ」


 リクが即答する。あの時はツェンダを指差して「けつあな確定な」と言ってた彼女だが、訓練兵全員に優しく、そして厳しい人だ。だが自分にはとてつもなく厳しいみたいで、あれだけハードな訓練を終えた後にも追加で訓練してるなんて異常だとトリスは思ってしまった。


「あ、そういえば……そろそろ行かないと二限目の授業に間に合わなくなっちゃう」


 ゾエは配膳台にそそくさと食器を置くと、はにかみながら「またよろしくね」と言って走って行ってしまった。


「ゾエちゃんって昼間仕事して夜勉強してって……すごくない? 私、無理だよ」


 ぱたぱたと走り去ってゆくゾエの背中を見送りながらリクが言うので、トリスは「私もだよ」と小声で応えたのだった。


 *


 深夜、クイラとゾエは領主館の通用門を静かに開けた。夜間学校が終わったあと、二人は詩作の話で盛り上がってしまって随分と遅くなったのだ。領主館には実は門限こそ無いが、非常識な時間に大きな物音を立てて帰ってくると翌日オリゴからお小言を頂くことがあるので、二人は抜き足差し足と静かに館内へと入ることにしたのだ。


「あら二人とも、遅かったわね」


 夜間受付のある入口へ向かう途中、中庭のベンチに訓練帰りのサンティナが静かに涼んでいた。深まった秋のせいか吹き込む風はひんやりとしているが、彼女は髪を後ろで結い、訓練服上衣を肩に掛けている。どうやら領主館近くの銭湯でひとっ風呂上がりの火照った身体を冷ましているようだった。


「サンティナ兵長お疲れ様です──こんな時間まで特訓だったんですか?」


 メイド服姿のクイラが敬礼をするとサンティナも綺麗な答礼をする。それを見てゾエも慌てて敬礼した。


「こんばんはゾエちゃん、また会ったね。……あなたは文官なんだから無理に敬礼しなくても大丈夫なのよ?」


「あ、す、すみません」


 ゾエは顔を赤くして俯いてしまったが、サンティナは「気にしなくて良いわ」と優しく言う。


「今期の訓練隊の子たちってびっくりレベルで優秀なのよ。だから少しでも努力しておかないとメリーナ隊長からドヤされちゃうのよね」


 サンティナは笑いながらクイラに言うと、「腕の具合はどぉ?」と自身の左腕をさすりながら訊く。


「とにかくギプス辛いっス。患部が痒くなるけど手が届かなくて掻けないし、蒸れるし、なんか汗臭い気がするし、そしてみんな好き放題に落書きするし……」


 クイラがそっとアームスリングをずらすと、左腕のギプスにはびっしりと『はよ治れ』や『現在ここ弱点』と書かれている。それを見てサンティナはクスリと笑ってしまった。


「いいオモチャにされてんじゃん」


「みんな酷いです、おかげでオリゴ隊長に叱られたんですよ?」


「そりゃ叱られるよ──てか、二人ともこんな遅くまで勉強していたんだ、偉いね」


 クイラもゾエも苦笑いを浮かべた。本当は勉強そっちのけで詩作の話で盛り上がってたのだが別に素直に言う必要も無いので、二人は苦笑いをして誤魔化すことにしたようだ。


「えっと、ゾエちゃんって私の事全然知らないよね? ちょっと前までクイラちゃんやネリスちゃんの部屋に居たサンティナって言うんだけど」


「あ、クイラちゃんから色々と教えてもらってます」


 ゾエは静かに頭を下げた。


 現在クイラとネリスは腕や肩の怪我のため、制服であるメイド服を脱ぎ着するにも介助が必要な状態である。ネリスは元々工兵隊の営舎住まいだったが、「事務兵」扱いとなったことで原隊復帰までは領主館内のメイド居住区に移されている。そして同じく事務兵扱いのクイラと同室にし、サンティナに着替えなどの介助をさせていたのだ。ちなみに他の二人部屋に比べてサンティナとクイラの部屋が少々広かったため、三人を押し込んだという。しかしそのサンティナが急遽訓練隊に移ることとなったため、その空きベッドにゾエが入り、現在は彼女が二人の介助を担当している。


「へぇ、クイラちゃんって私の話とかするんだ」


「あ、はい──かなりの頻度で」


 ゾエは少し考え、口をもごもごさせてから言った。


「“同室の先輩、ぱんつやストッキング、いつも床に投げっぱなしなんですよ”って」


 ──沈黙。サンティナはそれを聞いて一瞬目を丸くし、それから吹き出した。


「……ああ、間違いなく私の事だわ」


 そう言うと真正面に立つクイラの右肩をぽんぽんと叩きながら、サンティナはいたずらっぽく笑ってからこう言ったのだった。


「クイラぁ、腕治ったらお前……“しりあな確定”な」


「す、すみません」


 すぅと吹き流れる風のせいか、犬の遠吠えがほんのりと聞こえたのだった。

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