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217話 武辺者と、訪問者戦争・5

 試験が終わると同時に答案用紙の束が文官執務室へと運び込まれた。マイリスやプリスカ、ロゼットは採点のために赤ペンを握り、テンフィも採点しながら解答欄の右上に合否を書いてゆくが、しかしその答案用紙には“珍答案”が躍る。


「『(-7)÷3の商と余りを書け』って問題、意外と引っ掛かってる人が多いな」


 テンフィが全員の答案用紙を見ながら独り言ちる。


「え、『-2余り1』じゃないんですか?」


 赤ペンを握りながらプリスカが言うが、それを聞いてロゼットが苦笑いをして言った。


「割り算は掛け算の逆になるんだから逆算してみなさいよ。あんたの計算だったら『-5』になってしまうから、『-2余り-1』に決まってるでしょ?」


 二人の答えを聞いてマイリスがにやりと笑う。


「余りは『割られる数』より小さく、ゼロより大きくなきゃだめだからロゼットちゃんもダメ。答えは『-3余り2』になるのよ」


「え、てかすごくズルい問題じゃない、これ?」


 ロゼットがそう言いながら要らない紙に検算してみると、マイリスの言う通りの答えになるし模範解答も『-3余り2』と書かれている。


「文章を読んで既存のルールが理解できる能力があるかを問うにはちょうどいいかなと思ったんですが……正答率があまりにも低いですね」


 別の答案には分数と小数の計算問題にはこう書いてある。


《私はモリス侯爵推薦の者であり──》


「回答欄で自伝を書いても点数は付きません」


《カレーの作り方では香辛料にこだわるよりもコンソメをたくさん加えたほうが……》


「いつの時代も判らない問題にはカレーの作り方を書く人って居るんですよね」


 テンフィが静かにペケ印をつけたがプリスカが身を乗り出した。


「えと……分数と小数って、どうやって計算するんだっけ?」


 ロゼットが肘でつつく。


「あんた、初等学校のときも算数は苦手だったわよね」


「このレベル、高等数学だよ!」


 ロゼットが吹き出しかけ、場が一瞬和んだ。テンフィは苦笑しながら手を止める。


「夜間学校は誰にでも門戸を開いています。算数に不安があるならいつでもいらしてくださいね」


「先生。私、初等学校ぐらいは卒業してますけど」


「ならプリスカ君も八割は取れてくださいね」


 文官執務室には笑いが小さく弾け、また静けさが戻った。やがて合格基準の八割を超えた答案は、全体のほんの一掴みに過ぎないと判明した。


「合格、五名……」


 マイリスが答案用紙の束を持ち上げるとその中に異様なほど達筆な字の答案が一枚あり、最終問題には四行詩が綴られていた。



土に生まれ


泥に泣き


風に立つ


わたしはこの地の子ですから



 マイリスは黙ってチェック印をつけ、束を重ね直したのだった。


 *


 その日の午後、領主館前にある掲示板の前には人垣ができていた。


「そもそも試験内容が間違っている! こんな簡単な問題で何を測るというのだ!」


「合格基準八割は高すぎる!」


「私はモリス侯爵の──」


 一次試験合格者五名が貼り出され、名のない者たちが騒いでいたのだ。どこの領主も官僚採用試験では小論文や専門科目試験を課す場合が多いのだが、初等学校卒業試験程度の問題で出鼻をくじかれたのか不合格になったからか声は次第に怒号へと変わってゆく。しかし一次試験の問題傾向についても受験票と共に届いた受験概要にも書かれていたのだ。……つまり、何も読んでないし対策もしてないというのが丸わかりである。


 そこへ旧練兵所からやってきた女が一歩進み出た。アニリィ・ポルフィリ、腰の大剣には触れずにただただ騒いでる者たちへと視線を投げかけると大声で言い放った。


「初等学校卒業程度の問題で八割も取れないバカがこの辺境で何の役に立つ気? ここに名前も載らない不合格者はとっとと帰りなさい」


 憮然とした表情で吐き捨てるアニリィに、先ほどからモリス侯爵がどうとかと騒いでいた男が顔を真っ赤にして、苛立ちに任せて剣を抜いてしまう。アニリィはその男に一歩近づき、無言で手首を蹴り上げると彼女の身体が僅かに沈む。そして男の胸倉と右腕を軽く掴んだかと思えば、男の身体が宙を浮いていたのだ。──背負い投げ。男が地面に放り投げられたとほぼ同じ瞬間、男の右手から離れた剣も地面に転がり落ちる。


「私はヴィンターガルテン家に仕える武官、アニリィ・ポルフィリだ。採用試験に不正や不公平があったなら声を上げれば良いし王宮裁判所に訴え出れば良い。いや合格にしろと実力行使を選びたいなら遠慮せず、玄関ポーチに掲げられる戦乙女の旗の下で剣を抜きなさい。その瞬間、王国法での成敗要件が満たされるから、私に斬られても文句は言えなくなるよ。──そして、『女に負けた』って汚名を一生背負える覚悟はある?」


 人垣のどこかで小声が走る。


「あれ、王国軍の士官だった“酔いどれ”のアニリィだよな……」


「あいつと同僚は勘弁だ」


 あれだけ騒いでいた男たちはひとり、またひとりと背を向けた。地面に転がされた男も女がアニリィと判った途端、剣も回収せず走って逃げて行った。あれだけ文句を言い騒いでいた男たちもいなくなり、掲示板の前にはアニリィだけが残ったのだった。


 その様子を執務室の窓辺でずっと見てたヴァルトアが、小さく肩をすくめる。


「アニリィだってあの問題、解けねえだろ……」


 ヴァルトアの隣で同じく様子を見守っていたトマファが淡々と答える。


「アニリィ殿に試しに解いてもらいましたが、彼女、ほぼ満点だったんです」


 それを聞いてヴァルトアは目を丸くし、そっと視線を逸らすのだった。──ちなみにヴァルトアが解いたところ六割しか取れなかったという。


 *


 二次試験から数日後、採用試験の最終結果が発表された。合格は二名、ひとりはヴィルフェシスの錬金術ギルドの研究員を技術武官として採用通知を出し、もうひとりは文官補助員としてゾエに内定が出た。彼女は初等学校卒業試験が合格次第、文官補助員として活躍して貰うことになったという。


 この結果で喜んだのはゾエではなく、クイラと同じ詩作仲間のヴァシリ、そして彼女の上司であるノーム爺だったという。そのゾエはと言うと、「合格してなんだか申し訳ありません」と恐縮していたという。


 領主館に漂っていた熱気が、まるで冷めてゆくお茶のようにゆっくりと落ち着いていく。届く手紙も訪問者も減り、いつもの日常が戻ってきたかのようであった。湯気の立つ香茶を持ってユリカがヴァルトアの執務室へと入ってきた。


「これで一息つけるわね」


 マグカップを持ちながら微笑むユリカに、ヴァルトアが苦笑した。


「俺、これ以上部下が増えても名前を覚えられる自信がないぞ?」


 書類の束を整理していたオリゴがふと顔を上げる。そして真顔のまま、静かに告げた。


「では、全職員の胸元に名札を──見やすい大きさで付けましょうか?」


 オリゴが胸元に指で名札を指し示すと、それを見てユリカが「まるで学生さんじゃない」と言って吹きだした。


「いやぁ、俺はそっちの方が良いと思うんだけどなぁ」


 ヴァルトアはそう言って後頭部をかりかりと搔くのであった。こうして“書簡戦争”は幕を閉じた。──しかしヴァルトアの執務机の上には次の行政課題が山のように積まれている。静けさとは、ときに嵐の前触れでもあるのだ。

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