216話 武辺者と、訪問者戦争・4
礼儀見習い騒動の余韻がようやく収まった頃、領主館の文官執務室には再び書簡の山が聳え立っていた。毎日大量に届く書簡のせいで、今まで「楽でヌルい仕事」と思われていたメイド隊の郵便係は『苦業』となり、急遽人員を増やしたほどである。
「……また始まりましたね、書簡戦争の第二波です」
マイリスが苦笑しながら書簡の束を文官執務室へとせっせと運び込む。それを受け取ったテンフィは差出人を記帳していった。
「応募総数、今のところ二百六十七人。うち同一人物が三通以上送っている例が十九、名前を書き忘れた者が二人ですね」
「……名無しのゴンベエさんはどこまで本気なんでしょう? それに一人で三通も送ってきても合格するって訳じゃないのにね」
マイリスがこめかみを押さえてため息をついた。
この“履歴書戦争”の発端はヴァルトアの辺境伯任命だ。エラール王宮からの公報が出たその日から「我こそ官僚に」と名乗り出る志願書が、「我が配下の者を使ってくれ」という推薦状が、雪崩を打ってやってきたのである。中には「物を知らん武辺者を導いてやろう」と上から目線で志願書を書いてきたの者もいるという。
官僚とは領地経営における政策提言や戦略立案を行うシンクタンクである。今までは文官長トマファの提言を受けて色々やってきたが、ここから先、広大なキュリクス領のさらなる発展となれば彼一人の力量では限界だった。エラール王宮の元財務官だったナーベルや銀行家のミトゥ、農学や経理学を修めているクラーレに何でも卒なくこなすレオナやレニエ、技官ミルドラスもいるのだが、これでもまだまだ官僚は足りていない。トマファやナーベルが官僚増強の必要をヴァルトアやユリカに説いた事で、志願者の中からテンフィが選別するための試験設計を担当し、マイリスが実務を取り仕切ることになったという。
テンフィは採用試験の開催日や受験概要を記した受験票を、志願書に書かれていた住所へと速達で返送していった。ちなみに届いた志願書でキュリクスから一番遠い地からでも速達便なら五日もあれば届くので、その人が余裕持ってキュリクスへと来れる日を開催日として設定した。なお『名無しのゴンベエ』さんや返送先が書かれていないものはその時点で不合格として返送すらされていない。
この採用試験の受験概要はキュリクス周辺の各種学校にも貼り出されることとなった。能力ある文官や武官、技官を分け隔てなく広く集めるためである。もちろんその受験概要は領主館の職員食堂や休憩所にも貼られたという。
*
採用試験当日。
試験会場である旧練兵所の体育館はまるで年末大市のようであった。エラール王立学院の制服姿の青年や貴族子弟と思しき男たちのざわめきの中に混じって一人の少女が静かに試験開始を今か今かと待っていた。
ゾエ、領主館の作務師見習いでクイラの親友だ。昼間はノーム爺の元で雑務をこなし、夜はキュリクスィの夜間学校に通う生徒である。強く握りしめられた彼女の指先は白くなっており、緊張で少し冷たく震えていた。
「なんだあれ、田舎娘が混じってやがる」「記念受験ってやつだろ」
ゾエをみて周囲の男たちの声があちこちから聞こえたが、彼女は静かに息を吐き、心の中で小さく呟く。──大丈夫、私は私を信じるだけだ。
やがて試験会場の扉が開き、試験監督官クラーレが入ってきた。濃紺のスカートに黒のジャケットといった、キュリクス領主館の新しい女性文官の制服姿に白手袋をはめ、静かな声で告げた。
「午前は“基礎学力”を問う筆記試験です。配点は問題に記載してありますが、合格ラインは八割以上。それを一点でも下回ればどんな推薦状を持っていようと不合格です。“敗者復活”はありませんので悔いのないように」
ざわめきが広がるが、クラーレは淡々と続けた。
「なおカンニングが発覚した場合、今後二度とキュリクス領への一切の受験は認めません。……もっとも、バレないようにやるなら止めはしませんが」
受験者たちの間から笑いが漏れ、クラーレが軽く肩をすくめる。そこへマイリスが試験用紙を配り、プリスカとロゼットが監督官として立ち会った。二人とも真剣な顔をしているが、目の奥は明らかに楽しんでいた。
「カンニング監督班、出動です!」 「副長、何があっても見逃しませんよ!」
ちなみになぜプリスカとロゼットなのか? ──この二人、初等学校時代はなんと「カンニングって受験者の隠匿技術とそれを見破る試験官との真剣バトルだ」と言い、進級試験のたびにあの手この手でカンニングをしてたからである。もちろん初等学校卒業試験は二人仲良くカンニングがバレて再試験となっているが。
受験者たちの緊張が頂点に極まった頃に試験開始の鐘が鳴った。そして受験者が配られた問題を見た瞬間、多くの者が顔を引きつらせた。
──初等学校卒業試験でかつて出題された『良問』と言われた数学の過去問ばかりだったのだ。
分数、割合、図形、面積計算、驚くほど基本的で簡単な問題が並んでいるが、エラール王立学院といった高学歴を誇る志願者でも筆が止まってしまう問題ばかりだったのだ。教科書通りの解き方しか知らない者ほどドハマリするといういやらしい問題ばかりが並んでいるし、人によっては「解き方すら判らない」とペンを投げたくなるような問題ばかりだったのだ。これは試験設計をした数学者テンフィらしいと言えるだろう。
そんな中、ゾエは深呼吸して静かにペンを走らせた。
「分数や割合の問題は、落ち着いて解く」
「このような図形・面積問題は、補助線を引く」
かつてテンフィが貴族子女相手にエラールで教師をしていた頃、数学なんて『金勘定』の学問だから貴族が勉強すべきものではないとして忌み嫌われていた。そのためこの国では高位貴族ほど数学は疎かにする傾向が強いのだ。しかし数学というのはただの計算問題ではなく、物事をいかに論理的に考えるべきかを指し示す学問である。そのためテンフィは、キュリクスの学校で数学を教えてくれとヴァルトアから頼まれた時、こう伝えたという。
「どう解くかを『考える』学問として数学を教えたい」
ヴァルトアはマイリスの夫であるテンフィを信じ、
「後進の育成として最良の手段だと思う事を君の自由にやりなさい」
と応えたという。そのため夜間学校でテンフィが教える算数は算術計算が四割、論理的思考力や処理力を鍛える課題が六割である。もちろん学びに来てる生徒のレベルに合わせた授業をしているが、よりレベルアップを求める生徒にはそれ相応の授業や課題を用意していたのだ。だからゾエにとってこの基礎学力を問う試験はそこまで難解だとは思ってもいなかった。
そして最後の問題(5点)にはこのような課題があった。
『キュリクス領での志望動機を書きなさい』
この問いに彼女は迷わず一編の詩を記した。
土に生まれ
泥に泣き
風に立つ
わたしはこの地の子ですから
さらさらと答案用紙にインクがゆっくり染みてゆく。あちこちから響く受験者たちのうめき声の中、風がそっとカーテンを揺らしたのだった。
・作者註
“基礎学力”を問う筆記試験
例題1
長方形ABCDの中に任意の中点Oがあったとする。△ABOの面積が17平方センチメートル、△BCOの面積が19平方センチメートル、△CDOの面積が13平方センチメートルだと仮定した場合、△ADOの面積を求めよ。
例題2
1/(2×3)+1/(3×4)+1/(4×5)+1/(5×6)と延々と続き、1/(1145×1146)までの和を求めよ。




