209話 武辺者と、オークが遺したもの・6
ポルフィリ領ジリノスからブリスケットが早馬で駆け戻ったのはまだ夜も開けきらぬ時刻であった。街の入場門とは別の特別な通用門が開かれ、馬から降りることなく街を駆け抜けると埃まみれの姿で領主館へと入っていった。先触れのない帰還だったが、衛兵隊らは敬礼をすると馬を預かる。
ヴァルトアの執務室には一番鐘が鳴る前だというのにトマファ、アニリィ、ミトゥらが集まっていた。ナーベルやスルホン、ユリカとオリゴまでもが顔を揃えており、部屋には重苦しい空気が漂っていた。ブリスケットは報告を始めた。
「シュランク事件を掘り進めた結果……蒼晶宗が信者にオーク化術式を施している疑いはほぼ確実となりました」
部屋の空気が一段と冷える。トマファは左頬を引きつらせ、ナーベルは頭を掻き、アニリィが腕を組んで険しい目つきで鼻を鳴らした。ミトゥが指先で鼻頭をひと押しすると淡々と付け加えた。
「銀行筋の情報ですが、ジリノスの銀行内で蒼晶宗とプロピレン伯が『話が違う、金返せ』『お布施は返せん』と揉めておりますね」
シュランクの家宅捜索の直後、ウタリはミトゥへ蒼晶宗関連の金の流れを追ってくれと密書を送って依頼していた。大銀行家の彼にとって例え極秘の取引記録だったとしてもジリノスの泡沫銀行の取引記録をかき集めることなんて赤子の手をひねるようなものだ。すぐにプロピレン領との取引に関するトラブルを嗅ぎつけたという。
「ヴァルトア様に報告したプロピレン領の“無敵の傭兵団を買った”なんて話、やっぱり本当だったのね」
アニリィが腕を組みながら低く呟いた。彼女はオーク事件よりも前、『リューン沖岩牡蠣密漁事件』の時から北部プロピレン伯領へは強制捜査すべきだと訴えていた。だが密漁に関しての“落とし前”はクラレンス伯の仲介でまとまりかけ、補償金額の落とし所も見えていた。しかしプロピレン伯が突然、『キュリクスはヴェッサの森を突っ切る街道を整備したのなら、その分の金は払うからこちらでも使わせろ』と言い出してきたのである。彼らにとっても街道の短絡線は魅力的だ。しかも歴代領主らが一切手を付けてこなかったヴェッサの森を使った物流革新は、多少金を積んでも領主としての威信向上にもなる。
他領の水産資源を盗んでおきながら、解決金を多く払う代わりに街道使用を求めるとはまさに身勝手な振る舞いだった。アニリィはその話を聞いた時は「ぶん殴ってやる!」と大暴れ、その横暴さに腹を立てて憤懣を抱え込んでいたのだ。
しかし無用な動揺を避けたいヴァルトアたちに止められて強制捜査は出来なかったので、アニリィは独断でプロピレン伯領を内偵することに。そのため彼女は時々有給休暇を使ってはキュリクスから姿を消していたという。そしてそこで嗅ぎつけたのが“無敵の傭兵団”という情報だった。
「つまり──蒼晶宗はオーク化した信者を“無敵の傭兵団”として売り込み、プロピレン伯領がそれを買おうかと興味を示したら手付金を求められ、じゃあ『棘草や風穴など、危険な無人の樹林帯』であるヴェッサの森の踏破を試しにやらせてみたら、偶然アニリィ殿らが月詠の泉に居て阻止された。その結果、支払った手付金を取り戻そうとプロピレン伯が蒼晶宗と揉めている、という訳ですか」
トマファが事件の詳細を要約するとヴァルトアは苦い顔で尋ねた。
「ジリノスでの捜査の進展は?」
ブリスケットは一瞬ためらい、視線を逸らした。
「……実は一つ懸念があり、遅らせております──クラーレ嬢の件です」
「ふむ、どういうことだ?」
ヴァルトアが眉をひそめるとブリスケットは言葉を絞り出した。クラーレは北部ヴィルフェシス出身のため精霊信仰者であるが、普段から信仰はしているが崇拝をしているわけでもないし聖句を唱える素振りも見せていない。だから彼女は一体どの宗派を信仰しているのかがウタリには分からなかったのだ。もし仮に蒼晶宗だったとしたら捜査情報の漏洩を警戒しなければならないし、捜査班から突然外すわけにもいかない。シュランク名簿に記された“オーク化”の痕跡、ちらつく蒼晶宗の陰には実は早くから気付いていたものの、クラーレが奉じる精霊信仰が蒼晶宗なのか、あるいは別の宗派なのかの判断がつかず、結果として捜査の歩みを鈍らせてしまったのである。
「蒼晶宗もいずれ我らの動きを感づくと思いますから、早急に強制捜査を」
「しかしトマファ殿、宗教関係の強制捜査には王立宗教裁判所の許可が要るはずですし、捜査権も向こうが持ってるのでは……?」
オリゴの一言で執務室の空気が一瞬止まった。王国法において宗教関係施設への捜索には王立宗教裁判所からの許可が必要とされている。王国憲法では信教の自由が保障されており、領主が気に入らない宗派を理由なく弾圧することは出来ないよう監視し捜査する権限をも持っているのだ。
「オリゴ姉さん。今回は行方不明事件やオーク化術式の使用って世俗的事件が絡んでますから事後報告でも問題無いはずです。というか宗教裁判所の捜査権限というのは宗教上の教義と王国法に齟齬が生じた場合や、違法性のある弾圧にのみ発動されるものです。今回のような事案は領主権限で捜査できるのです」
「ですがナーベル様、ポルフィリ領やフルヴァン領の蒼晶宗への強制捜査をキュリクスが勝手にやったとなれば……」
「シュランクの名簿に何人か出生地が書かれていない者が居ました。──ありふれた名前ですからその者の捜索だと言い張ればいいんです」
ナーベルの言葉を聞いてヴァルトアは重々しく腕を組み、考え込んだ。強制捜査をすることでプロピレン伯との決裂、エラール王宮からの政治的圧力、仮に証拠が見つからなかった場合の信者たちの反発──あらゆるリスクが頭をよぎる。しかしその逡巡を断ち切ったのは妻ユリカの毅然とした言葉だった。
「このままもたもたしてたらジリノスの街でオークが暴れ回るかもしれないのよ、ヴァルちゃん。……プロピレン伯の事なんか蒼晶宗の事件を片付けてからでもやっつけてやればいいわよ!」
オリゴが静かに頷くと「──ご決断を、ヴァルトア様」と告げた。その一言でヴァルトアの眼光が鋭くなる。
「──よし。メイド隊の一部と衛兵隊を除きほぼ全兵力を動員して事に当たる。今回、俺が陣頭指揮を執るので予備役含めて招集をかけろ!」
宣言と同時に執務室の空気が変わった。アニリィが「よし」と一言漏らすとそのまま執務室を飛び出していった。やがて──街に夜明けの一番鐘が鳴り響く。その余韻を断ち切るように今度は領主館の大鐘が低く重い音を立ててがん、がん、と力強く響き渡った。アニリィが必死に綱を引いて鐘を鳴らしているのだろう。
予備役含めた全員の招集を告げる鐘の音はキュリクス中へと広がっていったのだった。
*
「突然の訪問、済まんな」
「いえ……ヴァルトア様、どうなさったんでしょう?」
ヴァルトアとブリスケットは粗末な椅子に座り、横にはオリゴが静かに佇んでいた。向かいに座るクラーレは何事かと驚き戸惑っているし、ウタリは額にうっすら汗をかいている。
「ウタリから今さっき聞いたと思うが、蒼晶宗へ強制捜査に入る。──そこで、確認だけさせてくれ」
「あ、はい……?」
「クラーレ嬢は蒼晶宗とは関係は……無いよな?」
「──はぁ?」
素っ頓狂な返答が返って来たことで、ウタリ達が抱いていた疑念はあっさり晴れたのだった。
*
朝の一番鐘と同時にポルフィリ領・フルヴァン領の蒼晶宗施設に一斉捜査の兵が雪崩れ込んだ。武装した兵に囲まれ、信者たちは声を失い、床に膝をついて聖句を唱えながらも震えていた。狂信的な者ら数名が「救済への邪魔をするな!」と叫びながら突進したが兵士に押さえ込まれ、すぐに静寂が戻った。
ジリノスの炊き出し施設を担当したのはオリゴ率いるメイド隊と工兵隊の一部だった。隊員らが次々と帳簿や祭具を接収していく中、ネリスが工具を握りしめ鉄製の小扉をこじ開けた。クイラがネリスと目で合図をしてから慎重に押し開けると、階段が闇へと続いている。二人は目配せし、槍と魔灯具を手にして降りていった。
階段の先には大き目の扉があり、そこは鍵が掛かっていなかった。クイラが何気なくドアノブに手を掛けて二人で押し入ると闘技場のように広い地下空間だった。しかし次に二人の目に映ったのは鎖で繋がれた巨体のオークだった。二人が現れた途端、鎖を力任せに引きちぎる。胸や腕、そして全身に刻まれた鮮やかな入れ墨が印象的だった。
その異様な姿を前にクイラは思わずメリーナの軽口を思い出した──『扉を開けたら遭遇戦ってけっこうあるから気を付けてね♡』、と。二人は短槍を構える間もなく巨体が轟音と共に迫り、壁際へと吹き飛ばした。施設内に悲鳴と混乱が走る。
ネリスの緊急信号を聞きつけて増援の兵四名も駆け込んできたが怪物の前には木盾は砕け、槍は折れ、誰一人とて歯が立たない。さらなる救援を呼びに一人の工兵が信号弾を撃つ。クイラは震える足で再び槍を構えた。月詠の泉での敗北が脳裏をよぎる、前回も巨体オークに一方的にやられたのに今回も私はやられ役なのか。
その時、老人の声が広間に響いた。
「やめろ……こんな姿をしていても儂の息子なんじゃ!」
駆け込んできたのはポルフィリ家の重臣バルトノフだった。そう、鎖を引きちぎったオークはかつて炊き出しで見かけた巨漢の男──エルマンであった。
*
エルマンはバルトノフの一人息子であったが若き日から傲岸で扱いにくく、学び舎で問題を起こしては父を困らせていた。しかしそんなエルマンはついに領主の子に暴力を振るってしまい退学処分、ついにバルトノフは勘当を言い渡した。
「判ったよ、出てきゃいいんだろ!」
反発して飛び出した息子だが父は陰ながら行方を案じ続けていた。重臣の家の子という重圧がエルマンを歪ませていたことを知っていたからだ。やがて彼は裏街で罪を犯し、十五年の労役刑に服すことになる。父は家名を変えさせ、息子に再出発の余地を与えようとしていた。そして出所の後に蒼晶宗へと託し更生の道を与えたのである。
厳しい修行にも耐え、街の人々に教えを説く息子の姿を見たとき、バルトノフは胸の奥で呟いた。
(もし儂の子として生まれなければ、もっと幸せに生きられたのかもしれぬ)
──だが今、目の前にいる怪物は、間違いなくエルマンであった。
*
「すべての責任は父である儂が取る。──さぁ、家に帰ろう」
バルトノフは変りはてた息子に手を差し伸べた。父親として出来る、最期の愛情だったのかもしれない。一瞬、オークの目が揺れた。しかし次の瞬間、父を壁に叩きつけた。そしてバルトノフの腰の剣を掴み取り、振りかざして彼へと斬りかかる。その刹那、クイラが飛び出し短槍で剣を受け止めた。
「絶対に通さない!」
だが怪力に押し負け、吹き飛ばされそうになる。そこへネリスが割って入ると口許から血を垂らしながら叫んでいた。 「私が止めておくから──クイラ、仕留めて!」
クイラは渾身の力で突撃した。持っていた長剣を叩き落とし、槍の一閃がオークの喉を裂くと黒い霧のような血煙が噴き上がった。巨体が膝をついた瞬間、ネリスが槍で脳天を叩き割るとオークの目から光がようやく消えた。そして肩口に施されていた術式の紋様が弾け、光と共に消え去ったのだった。




