表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

208/247

208話 武辺者、盗賊を襲撃する・6

 広場に据えられた大鍋は、まるで祭壇に置かれた聖器のように湯気を立ちのぼらせていた。それは秋の朝の冷気を押し返すような温もり、空腹を誘い出す香りを広げてゆく。鍋の中では豆と麦、獣肉と根菜が煮えたぎりっているようで、修道者が汗を流しながら木杓文字でかき混ぜている。その周りには聖句を唱えながら列をなす群衆がいた。広場に並ぶ人々の顔は俏れていながらもどこか安らぎを帯びていた。


 炊き出しの受付には蒼晶宗の修道者たちが揃いの青灰色の外套をまとい、等しい間合いを取って並んでいた。広場にいる人たちの朗々と唱える聖句、「聖霊は曇りなき魂に必ず還る」は周囲の壁に反響しまるで天から降る賛歌のようであった。炊き出しと聞いて『生きるために必要な食料を得る場』と思っていたクラーレたちはあまりの異質な世界観に言葉を失っていた。特にロバスティア国内でヴィシニャクを流通させるため、聖心教の炊き出しにも参加していたプリスカに至っては「思ってたのと違って、なんか怖い」と漏らすほどであった。なお、ウタリによれば蒼晶宗において『精霊』とは清らかな魂に宿る光と本質を指すのだという。一方、『罪』はその光を覆う「曇り」に過ぎないのだとか。つまり罪を犯した者であっても、その「曇り」さえ晴らされれば誰もが救われる、という希望を示す教えなのである。


 炊き出しが始まった。修験者のひとりが大鍋をかき混ぜ、そしてひとりが柄杓で掬い、木椀へと注ぐ。その一連の流れは日常の給仕ではなく、まるで典礼のようであった。幼子が差し出した椀に温かなスープが注がれ、握りこぶし大のパンも配られる。幼子は驚いたように瞳を潤ませ、そのまま聖句を漏らす。修道女がそっとその頭に手を置き、「御許への救済が共にありますよう」と囁く。群衆はその光景に思わず息を呑み、まるで聖像が奇跡を示したかのように静まり返っていた。青灰色の外套を纏った修道者の中に一際目を引く巨漢の男がいた。腕や胸元には鮮やかな入れ墨が見え、その面差しには戦いの痕跡が残されている。しかし彼の荒々しい姿も「御許への救済が共にありますよう」と唱え、一瞬だけ浮かんだ笑みは、彼の心の奥底にある安堵そのものだったのかもしれない。


 広場を見渡せば老いも若きも善き者も罪深き者も等しく、一椀の温もりとパンを手に恍惚とした表情を浮かべていた。光に照らされたその光景はあまりにも美しく絵画のように荘厳で抗いがたい魅力を放っていた。だがその崇高な美の中に名簿の文字が重なって見えた。「御許」と「救済」という言葉だ。温かな祈りと賛歌の背後で人々は知らぬままに印を押され振り分けられているのかもしれない。


 *


 宿の一室は、広場での異様な炊き出しとは打って変わって静寂に包まれていた。窓の外から聞こえるのは通りを駆ける荷馬車の音と、遠くの街から届く喧噪だけだった。ウタリたちは聞き込みや裏付け捜査に出ており、留守を任されたマイリスがプリスカに捜査記録の整理を教えていた。この秋に一階級昇格したプリスカは捜査同行の機会を得たばかり。この記録整理は今後も捜査同行へ出せるかの第一段階の研修中だ。


「プリスカちゃんよくできました! ちょっと休憩しようか」


「はい……さすがに疲れました」


 プリスカは羽ペンをインク壺に放り込んだ。机の上には役所や警邏隊から持ち帰った資料が山と積まれ、秋の弱い陽光がその端を照らしている。彼女が何気なく資料の山から一枚を引き抜き、声を弾ませる。


「あ、これ! 酒場とかに配布される特別な手配書と同じですね!」 


 引き抜いたのは古びた指名手配書だった。そこそこ立派な羊皮紙に描かれた顔の素描だけでなく、肩口に刻まれた入れ墨の色や造形、耳の欠けまで細かく記されている。これは市場や役所の掲示板に貼り出されている簡素な手配書とは一線を画すものだ。飲食店や宿に配布されるそれは、客に紛れ込んだ危険人物を見抜くために身体的特徴がより詳細に記載されているのだ。マイリスがその手配書を受け取り、静かに頷いた。


「……役立つかもしれませんね」


 彼女は捜査記録に入れ墨情報を転記しながら淡々と説明書きを添えた。紙束から他にもいくつかの指名手配書が出てきたので、それらも転記していったのだった。


「マイリス副長、これってどういうことですか?」


 ポルフィリ領の捜査記録簿をぼんやり読んでいたプリスカが、また一つ不審な点に気づく。軽微な罪で投獄された者が刑期を終え釈放された後、蒼晶宗に引き取られて暮らしているというのだ。しかもこれは一例だけでなくいくつもの記録に散見される。表向きは更生を助ける善意の行為に見えるが、一度宗派に引き取られると彼らの消息はぷつりと途絶え二度と公的な記録に現れることはない。ブリスケットが持ち帰ってきた納税記録簿にも年金保険記録簿にも無く、どこで何をしてるかが判らないのだ。


「プリスカちゃん。私、聖心教徒だから余所の宗派のあれこれはあまり言いたくないんだけど──蒼晶宗って、なんか胡散臭くない?」


 *


 夕方、捜査拠点としている宿の一室は静かに張り詰めていた。部屋の外ではマイリスとプリスカが、廊下に人影が差さぬよう見張り役を務めている。ウタリ、クラーレの二人が腰を下ろし、かき集められた捜査情報、ポルフィリ領の簡易な地図、そしてキュリクス北部の精緻な地図が机の上に広げられていた。ランプの炎が心許なく揺れ、壁に不気味な影を映し出す。緊迫した沈黙の中、机に置かれた捜査記録簿をクラーレが指でなぞり、蒼白な顔で口を開いた。


「こ、これって……」


 彼女の声は完全に震えていた、ウタリが静かに口を開く。


「……ミトゥ殿にジリノス周辺の銀行取引を調べてもらったんだ。その結果、蒼晶宗が“無敵の傭兵団”を周辺領に売り込んでいたという噂を掴んだ。実際、プロピレン領がそれを買ったらしい」


 部屋の空気が凍りついた、ウタリは続ける。


「さらに……彼らはその“無敵の傭兵団”を宣伝するためポルフィリ領からテイデ山を越え、ヴェッサの森を直線で踏破させ、コーラル村を襲わせる計画を立てていたそうだ。だが……失敗に終わってる」


 クラーレの唇が蒼白に震えた。「じゃあ……月詠の泉のオーク事件って……」


 ウタリが地図に目を落とし、低く答えた。


「あぁ。マイリスたちが集めたシュランクの名簿人物で“救済”と書かれていた者の入れ墨情報とヴェッサの森で回収されたオークの入れ墨が一致した。……それに炊き出しが行われていたこの施設、“生きた豚”の搬入が多いんだ」


「じゃあウタリっちの推理では、この名簿の人間らは蒼晶宗がオーク化の術式を施した被害者だというのかい?」


「──ご明察、ここに“救済”と書かれている人間は十二人、現在ヴェッサの森で回収したオークの遺骸の十一体とアニリィが焼却した一体の事だ。“御許”と書かれてる三十一人はきっと……そういうことだよ」


 蒼晶宗において“御許”とは一切の苦しみからの解放、すなわち死を意味する。オーク化の術式が身体に馴染まなかったか、それとも拒絶したかによる落命だろう。


「じゃあ残り三人の“未救済”って」


「シュランクが書き残した時にはまだオーク化の術式をまだ受けていない人だよ──ほら、炊き出しで身体中に鮮やかな入れ墨があったスカーフェイスの巨漢の男がいたろ? あれは“未救済”の男、エルマン・ルポル……実はバルトノフの長男だ」


 ウタリが机の上に出したのは領主館のカリンから貰った"特別手配書"だった。随分と劣化しており羊皮紙の端からぽろぽろと粉を吹いていたが、そこ書かれていた風貌や顔の傷、そして入れ墨の意匠は笑顔で聖句を言いながら木椀を差し出した巨漢の男と同じであった。


「え、どういうこと!?」


「この領に捜査助力を願いに行ったとき老臣バルトノフだけが頑強に反対したんだ、ヴァルトア殿から領主ポルフォ卿や嫡男カリン殿には捜査依頼を出していたにもかかわらずな。──変だなと思って少々探りを入れたら、バルトノフが自身の息子を秘密裏に保護させていたことが判った。彼も蒼晶宗徒だからシュランクが蒼晶宗関係者だって事も知っていたし、下手に捜査して息子が娑婆に引きずり出されるのを避けたかったんだろ」


「だけど、バルトノフ様の家名はミルタザよね?」


「これはアニリィっちに教えてもらった話だが、エルマンは二十年近く前にバルトノフから勘当されてからルポル姓を自称するようになったらしい。しかしポルフィリ領内で傷害致死事件を起こし、バルトノフは自身の息子だとバレないよう戸籍情報に細工をした。そして刑期が明けてからの彼は行方不明となってるが、蒼晶宗に保護させる代わりに色んな便宜を図っていたようだな──孤児の中から優秀な者を率先して高等学校へ行かせたり、奨学金制度を拡充したりとか、な」


「じゃあシュランクが銀行員になったのも?」


「そう、ご明察。──奴は金蔓要員だ。他にもヴィオシュラやエラールの高等錬金学校へ送り込んでオーク化技術を完成させたんだろ。……まぁ散々な結果でプロピレン領はカンカンらしいけどな」


 外から足音が近づき、控えていたプリスカが短く告げた。「ブリスケット様たちがいらっしゃいました」その報告を受けてウタリとクラーレは立ち上がる。ほどなく扉が開き、ブリスケットと、フードを目深に被り粗末な服を着た大男が姿を現した。二人は即座に敬礼する。


「──ようこそいらっしゃいました、ヴァルトア様」


 ウタリが敬礼をしながらそう言うと、大男はフードを脱ぎながら言った。


「うむ。明朝一番鐘と共にポルフィリ領とフルヴァン領にある蒼晶宗へと一斉に強制捜査に入るぞ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ