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205話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・15 =幕間=

 山のように積まれた書類を前にレピソフォンは今日もカルビンに暴言を吐いていた。彼の執務机の上は未整理の書類や伝票ばかり。しかしそんな沈滞した空気をひとりの女の声が軽やかに切り裂いた。


「殿下。これらの書類……日付順に整えてもよろしいでしょうか?」


 アリス・ハスペンゴ、突然レピソフォンの元へとやってきた女だ。妊婦と言いながらも仕事の手が早いし機敏、しかもよく動くのだ。軽く笑みを浮かべた彼女はレピソフォンが制するよりも素早く書類を手に取った。そして瞬く間に整理し、重要な箇所には鉄筆でアンダーラインを引き、難解な行政文書にはわかりやすい要約メモを別添した。その一連の作業は、まさに手練れの秘書官のようだった。そして「こちらは決裁署名だけで大丈夫ですよ」と言って机に置き、官僚たちへと回す書類をワゴンに乗せてそのまま駆けて出て行った。


 そして官僚たちの部屋へと入ったアリスは淀みなく彼らの机から机へと移動してレピソフォンの部屋で滞っていた大量の書類を配っていく。当初官僚たちはアリスの事を「あの馬鹿殿下がどこからか連れてきた女だろう」程度にしか思わず、特に詮索もしなかった。だが彼女の仕事ぶりがあまりにも優秀なのにすぐに気づき一目置かれる存在となるのに時間はかからなかった。


 レピソフォンはアリスの手際の良さと優秀さに口を開けて呆然とし、カルビンも何も言えずにいた。これまでの彼らと言えば、行動や性格が災いして有能な女官が誰一人として付かなかっただけでなく政務官を自称するカルビンもそこまで優秀ではなかった。そのため仕事が滞る事が当たり前になってたのにアリス一人の働きで溜まりに溜まっていた書類が『決裁署名のみで可』や『考慮した上で可否』と仕分けされていった。彼らにとって仕事が格段にやりやすくなったのは言うまでもない。


 しかしアリスは妊婦だ、あからさまに重そうな書類をワゴンに乗せて王宮内を走り回るためカルビンは慌てて彼女に声をかけた。


「お、おいアリス! お前、そんな雑務は別の官僚にやらせればいい、お腹の子に障るだろうが……っ」


「──雑務?」


 呼び止められたアリスは小首をかしげにっこりと笑った。「これらは大事な国政の書類ではありませんか。……お腹の子も退屈してますので」と言うと再びワゴンを押して官僚執務室へと走っていくのであった。


 アリスについては以前「地味な顔つきで、決して美人という評価は得られない」と記したと思う。しかし彼女の魅力はその奥にある、素朴そうな彼女がにっこりと笑うその表情には飾り気のない可愛らしさと、守ってあげたくなるような弱々しさがあったのだ。そのためモテない男はそれを見てコロリと心を奪われる。その隠された可愛らしさ、そして何度も肌を重ねた記憶をふと思い出したカルビンは思わず笑みをこぼすと慌ててアリスを追いかけ、彼女の仕事を手伝うことにしたのだった。


 有能な女官がレピソフォンの下に付いたとなれば王宮内で噂にならないはずはない。誰に対しても分け隔てなく柔らかく接するアリスを見て侍女たちが「あらまあ」と目を丸くするし、普段よりも楽しそうに仕事をこなしてくれるようになったという。それに普段は怒鳴られっぱなしの官僚たちはというと「殿下よりよほど話が通じる」「カルビン様より安心できる」と声を潜めて囁きあうのだった。しかしそんな声がレピソフォンの耳に入らないわけがない。


「あ、あの女、一体何を考えて……!」


 無能な人間ほど有能な人間に要らぬ嫉妬心を抱くというが、レピソフォンもその例外ではなかった。重厚な執務扉を丁寧にノックするとアリスが静かに入ってきたとたん、彼の顔は赤くなり椅子をきしませて立ち上がった。


「き、貴様ぁ、一体何が目的だ!」


 一瞬はきょとんとした顔を見せたアリスだったがすっと彼の前に歩み寄り、一礼する。


「殿下の御威光があるからこそ王宮が廻り、私たちも気持ちよく働けるのです。──全ては“神聖なる”エラールのために。……何か不都合がございましたか?」


 あまりにも堂々とした物言いにレピソフォンは「ぐっ」と声を漏らすと再び椅子に腰を下ろした。この女を殴ってでも腹の内を吐かせようとも思ったが、あまりにも淀みなく言い放ったその言葉に怒りが抜け落ちるだけでなく、むしろ気分が少しずつ良くなってきたのだった。しかもアリスはすぐに感情的になってしまうレピソフォンの“怒るタイミング”が判っているのか、その瞬間にうまく甘言を耳に入れて諫め、彼を立てる。


「い、いや……何でこんなに頑張ってくれるのかな、と」


「当り前じゃないですか! 殿下とお腹の我が子の未来のために何もしない女なんて、どんな価値があるでしょうか」


 そう言って顔を赤らめながら自身の下腹部をさするアリスを見て、レピソフォンの表情はさらに柔和さが出る。


「そ、そうだな……その通りだ!」


「書類の精査を終えてから今すぐお茶を淹れますが、急ぎ入れましょうか?」


「──あ、あぁ。書類なんて後で良い、お茶を頼む」


「御意にございます」


 書類が積まれたワゴンをそっと執務室の隅に置くとアリスは静かに執務室を出て行った。その姿をゆっくり見つめたレピソフォンは鼻を鳴らすと、そっぽを向いてぼそりと吐き出したのだった。


「ふ、ふん……少しは認めてやらんでもない」


 扉の向こう、わずかな隙間からアリスがレピソフォンの姿を冷え切った目で見やると、彼女もぼそりと呟いた。


(案外早くに“落ち”ましたわね)


 そして静かな足取りでティーセットを用意しに給湯室へと静かに駆けていくのであった。


 *


「カルビン。お前はアリスについてどれぐらい知っている」


 アリスがレピソフォンの執務室に出入りするようになってから既に二週間。レピソフォンは執務机に肘を付きながらワイングラスを傾けて訊いた。執務机の横に立ってご相伴に預かっていたカルビンは一瞬噎せ返りそうになったが、必死に胸を宥めるとグラスに入ったワインを一気に飲み込んだ。


「はい、ハスペンゴ男爵家の次女か三女だったと思います。ハープやフルートの演奏に優れており、詩作や刺繍も得意だと聞き及んでおります」


「そうか……」


「それが如何致しました?」


「俺の領地、今年は麦が不作でな。──もし高位貴族家だったなら持参金をいろいろ宛てにしようかと思ってたんだがな」


 それを聞いてカルビンは心の奥底で大きくため息をつきつつ思わず小さくガッツポーズをした、ついにこの“バカ殿下”も結婚を決心してくれたのかと胸をなで下ろしたのである。アリスと結婚となれば彼女から生まれてくる子どもも正式に認知せざるを得ず、カルビンとアリスとの秘密協定も守られる。ちなみに余談だが聖心教では“でき婚”であっても生まれてくる子どもは庶子扱いにはならないと定められている。


 しかし貴族家同士の結婚で重要となるのは持参金だ。花嫁の家族が花婿となる者へ多額の金銭を渡して結婚の証とするのが通例だが、身分差があるとそれが難しくなる。レピソフォンは王太子を自称しているとはいえ侯爵家という高位貴族、対するアリスは在郷の男爵家である。その釣り合いの取れなさは持参金の額にも反映されてしまう。大金が転がり込むことを期待していたレピソフォンにとってはなんともつまらない結果であった。


 レピソフォンはふんと鼻を鳴らすとワインをぐいっと飲み干した。


「それでも殿下としての懐の広さを見せてあげるべきではないのでしょうか?」


「俺の……懐だと?」


「アリス嬢の御実家は隣接する領地と揉め事を抱えてると聞きます。──そこに殿下が名采配を見せて徳とし、それをハスペンゴ家に見せれば良いのではないでしょうか?」


「──ほぉ、詳しく聞かせろ」


 カルビンはハスペンゴ家が抱えている領土問題についてレピソフォンへと耳打ちしたのだった。

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