204話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・14 =幕間=
エラール王宮内のレピソフォンの執務室はいまや質素そのものだった。紫檀で出来た執務机や革張りの豪奢な椅子、北方産の重厚な木材で作られた高級家具などは国庫の足しにと売り払われてがらんとした空気が漂っている。王宮に勤める侍女たちも大量離職が進み、ついには掃除も行き届かず部屋の隅には綿埃が積もっていた。そしてレピソフォンの前に置かれていたのは黒ずんだライ麦パンと魚のスープのみ。彼は椅子にふんぞり返るとぎしぎしと耳障りな軋み音を漏らしていた。
「なんだこれは! これが“王位を戴く者への食卓”だと!? これは民が怠けているからだ! いや、カルビン、貴様の無能さが原因だ!」
怒声とともにパン屑が飛んだ、レピソフォンは自身の失政を省みることなく矛先を数少ない家臣へと向ける。カルビンは机の端に身を縮め、震える手で報告書を抱えながらその嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。とはいえエラール王宮の信頼を完全に崩壊させたのはほかならぬレピソフォンの“徳政令”発言である。その結果が各国の大使は呆れて母国へ引き揚げされ、銀行家たちは激怒してエラール公債を投げ売りを始め、そして通貨価値は暴落してエラール経済は破綻寸前に陥ったのだが今では財務官僚たちの必死な再建策でどうにか信用を保っているにすぎない。だが無能な王子を放置し続けた自分にも責任はある──カルビンも口を閉ざすほかなかった。
そのとき、ドアが乱暴に開いた。
「……!?」
ノックもなく入ってきたのは地味なドレスに身を包んだ一人の若い令嬢だった。静かな瞳の奥に冷たい光を宿し、王子の不満の渦にまっすぐ割って入る。
「レピソフォン殿下」
彼女は王子の目を射抜くように見つめ、淡々と告げた。
「妊娠したっぽいです」
部屋に沈黙が走った。
次の瞬間、王子は絶叫するとぎしりと音を立てて椅子から飛び上がった。それに驚いてカルビンは持っていた書類を取り落としてしまう。
「はぁぁ!? 誰だお前は! 私はもっと華麗で、私にふさわしい美女としか──これは陰謀だ! 私の天才的な遺伝子を貶める罠だ!」
その姿は道化のように滑稽であったが、発せられた言葉は権力者の被害妄想そのものだった。今更になってレピソフォンを貶める必要が無いことぐらい誰でも知ってることだ。しかし女は一歩も退かず、唇の端をわずかに動かした。
「──この執務室での夜のこと、お忘れですか?」
その一言にカルビンはふと思い出す、いつぞやの仮面舞踏会でレピソフォンが田舎者丸出しの令嬢を”お持ち帰り“したのだ。彼が社交界に顔を出しても蜘蛛の子を散らすかのように令嬢たちは逃げ惑うので、仮面舞踏会に参加しては一夜限りの関係を愉しむようになったのだが、王宮であった仮面舞踏会で一人の令嬢をこの執務室に連れ込んだのだろう。彼は取り落とした書類を拾おうと女の顔を凝視したときに青ざめてしまった。
(ま、まさかこの女……!?)
喉が勝手に動き声が漏れた。 「──アリス・ハスペンゴ嬢?」
かなり愚かな失言だった。レピソフォンの視線がぎょろりとカルビンに向く、どうしてこんな地味な女の名前を知ってるのかと。彼は慌てて口をつぐみ書類をかき集めるとアリスの手を引いて執務室を飛び出して行った。だがその時にはアリスの視線は冷酷に光っていた。
アリス・ハスペンゴはエラールより東へ五日ほど行った先の在郷貴族の娘であり、現在はエラール高等礼節学校に通うため侍女と共に新都に住んでいる。地味な顔つきに少し遅れたファッションセンス、それに少々ふっくらした体格のせいか決して美人という評価は得られない。進学の大義名分についても高等教育を受けるためとされているが、実際の狙いは良い血統の貴族嫡子を射止めることであった。そのために舞踏会に出向けば必ず居るとまで陰口を叩かれているほどである。
そのアリスの腕を取って執務室を飛び出したカルビンは廊下向こうの使われていない倉庫へと駆け込んだ。そこなら誰からも見られる事も無いだろうし侍女やメイドたちも近づこうともしない。カーテンの隙間から入り込む秋の陽射しが、ふわり舞い上がった塵を白く浮かび上がらせた。
「……ここなら人目はない」
カルビンは肩で息をしながら扉を閉め、震える声で問い詰める。「──アリス! なぜこんなことを言い出した!? その腹の子は……誰の子なんだ!? 俺か、それともあの愚かな殿下か!」
彼は必死に声を抑えようとしていたが、気が動転しているのかかなりの大声になっていた。額には冷や汗が滲んでいるし床に雑然と置かれた古書を思わず蹴飛ばしていた。対してアリスは落ち着き払っており、じっとカルビンを見据えると冷徹な声音で告げた。
「……そんなもん、どちらでも構いませんわ」
「な、何だと?」
「仮にあなたの子だと公表したところで、ハスペンゴ家が得られるものは何の一つにもありません。無能な伯爵家の子を宿したところで誰も祝福はしませんもの」
アリスはカルビンに一歩近づくと鋭い言葉を続けた。「……ですが殿下の子であれば話は別、私とこのお腹の子は王宮の“道具”となりますわ。そしてあなたはその道具の協力者であり理解者。裏で実権を握る“真の父親”として名を刻むこともできますわよ?」
カルビンの喉がごくりと鳴った。彼の中で恐怖と野心がいろいろとせめぎ合うが、やがて愚かさが勝ったのか震える手でアリスの手を掴んだ。
「そ、そうか……! 殿下の威光と腹の子を利用すれば……。その計画に乗ろう、ただし真実は絶対に明かすな!」
アリスの瞳が細く笑った、それは完全に勝者としての冷たい光だった。実を言えばカルビンは伯爵家の嫡子であり、アリスは“少しでも良い血”をと狙って彼に近づき何度も関係を結んだ経緯があるのだ。しかしそれよりもずっと“価値ある獲物”を釣り上げた今となっては彼に執着する必要はない、加えて時期的に見てもどちらの子か現時点で断定できるはずもないのでアリスはこの“慶事”を徹底的に利用することに決めたのだった。──こうして無能な政務官と地味な令嬢との間に王子を欺く秘密の協定が結ばれたのであった。
──彼女が持ち込んだ騒動はただの混乱では終わらない。ここから王宮の暗い渦が始まるのだった。




