203話 武辺者と、オークが遺したもの・5
昼間はまだ汗ばむほど暑くなるのだが、朝晩はぐっと冷え込むようになってきた。市場では栗やイモを焼いて売ってるのだろう、秋風が吹きこむと同時に良い香りと賑やかな声がふわりとやってくる。しかし領主ヴァルトアの執務室には重苦しい空気が漂っていた。ヴァルトアは机に肘をつくと深いため息を吐きだした。
「で、残党オークについては……それっぽい遺骸が一体見つかっただけか」
月詠の泉でのオーク騒動のあと。エルフ三家からの要請に対してアニリィを総大将に総勢70名ものの精鋭をヴェッサの森に派兵した。その派兵結果報告をするアニリィはというと背筋を伸ばし、真剣な顔つきで答えた。
「はい。軍医のアルベルト・クラウス殿と共に検死したところ、どうやら風穴に転落して脱出できなくなり、そのまま息絶えたものと推定。ただ、あからさまに腐乱してましたので私の判断で荼毘に付しました」
第一発見者は斥候隊のジュリア・パウラ組だった。風穴から漂う強烈な異臭に気付き、すぐにアニリィへと報告が入ったのだ。そのおかげでアニリィと軍医アルベルトが周辺を封鎖、他の兵たちに知られることなくこの“異形な腐乱死体”を検分した上で処分したと彼女は続けた。検死を行ったアルベルトも『例のあれです』と小声で耳打ちしてきたというから速やかに火魔法で焼却したという。本来ならキュリクスへ持って帰ってきちんと解剖すべきだったのかもしれない、しかしアニリィは兵たちの秩序を守ることを優先したのだった。言葉はきっぱりとしていたが、その声には独断で処理したことへの迷いがわずかに滲んでいた。
静かに聞いていたヴァルトアは眉をひそめる。
「……所持品は?」
「何もありませんでした。前の時と同じです」
アニリィは小さく首を振ると、唇を軽く嚙んだ。ちなみに軍医アルベルトは『勝手に荼毘に付しちゃって大丈夫なんすか?』とぼやいてたというが、アニリィの判断は的確だったとヴァルトアは思った。もし“異形な腐乱死体”を兵たちの目に晒せばどのような混乱や噂話が広がるか判らないし、余計な騒動に発展すれば秩序を保つ事が困難になる。アニリィが言うには、第一発見者の二人は幸い脚部しか見てないというので、『嫌なものを見ただろうからすぐに忘れるように、無理ならカウンセラーを紹介する』とだけ伝えたというし報告書も求めていない。
「そうか。まぁ、“オークが出た”と騒ぎ立てられるよりかはマシだよな」
ヴァルトアは湯気立つマグカップを傾けた。その場を引き取るようにナーベルが低い声を投げかける。「……それでブリスケ、例の作戦はどうなった?」
ブリスケが一つ頷くと、手に持っていた羊皮紙をヴァルトアの机の上で静かに広げた。皮の擦れる音が部屋に響き、皆の視線が集まる。
「はい。──ヴェッサの森の詳細な測量と地図作成、無事に完了しました」
その地図には飲める泉や湧き水、危険な風穴や沼地までもが事細かに記されていた。斥候隊が危険箇所を調べ、その後ろから工兵隊が測量し記録を取った結果である。測量中は無防備になる彼らを歩兵たちが短槍を持って守っていたのだが、その歩兵や工兵隊を指揮していたのがブリスケットである。なおヴェッサに住むエルフ族ですら知らなかったという森の全貌を記録に残したのだ、その報告には誇らしさがほのかににじみ出ていた。
「北部テイデ山へと繋がる道は一本だけですが、フルヴァン領の方向からまっすぐに月詠の泉へと向かう獣道がありました。アニリィ殿が処分したオークの遺骸が直線上のここですから、その獣道を使ってオークたちが侵攻したのでは」
「今後はウタリっちの捜査進展次第ですが、このオーク騒動はプロピレン伯家とフルヴァン領が絡んでるって話です」
ブリスケットに続いてアニリィが言う。プロピレン伯家はヴェッサの森の通行権や密漁事件などと因縁はあるし、フルヴァン家はアニリィの姉セレンの嫁ぎ先だが家内統治に課題を抱えているが、捜査に関しては今も進展がない。
「判った。ウタリから令状の申請があったら動けるようにしておけ。この前の銀行員シュランクの自死の件もあるから、次は下手を打つなよ。──で、この地図は今後大いに役立つだろう。アニリィもブリスケットもご苦労であった!」
ヴァルトアがそう言うと二人はようやく表情を緩める事が出来た。実はこの報告の直前、二人は旧友のトマファに不安を漏らしていたという。
「僕たちの戦果って地図作りだけだったけど、これだけで十分だったのかな」
武芸者としては優秀な二人だが、武功らしい武功を挙げられなかったことに物足りなさを感じていたのだ。しかしトマファは静かに、そしてきっぱりと告げたのだった。
「胸を張って良いですよ。誰にも成し遂げられなかった最大の功績なんですから」
*
「それにしても……“人魔大戦記”では恐るべき弓兵族とあったが──実は剣も古代魔法も使えない民族だったとはな」
ナーベルが記録を手に眉をひそめた。彼のその声には驚きと落胆と少しの軽蔑が混じっていた。この世界でのエルフ族像と言えば、人魔大戦記に書かれている『耳長人族』の項目から来ている。『山野に紛れて短弓や短刀で戦い、独自の系統魔法を使う民』と書かれており、その影響からエルフ族と直接戦闘となれば甚大な被害は免れないだろうと後の軍略書にも書かれている。トマファは小さくため息をつくとナーベルに続いた。
「──森の毒草や風穴が、外敵を遠ざけてくれていただけにすぎないという事ですよね」
ヴェッサの森には『眠り草(քնած խոտ)』と呼ばれる野ばらのような有棘植物があちこちに群生しており、身体に引っかけると毒液が侵入して急激な眠気を引き起こすという。しかもその植物、茎や葉から僅かに毒液を蒸散させてるらしく、森を歩いているだけでも突然急激な眠気に襲われるともいう。エルフ達は慣れているからどうってことは無いが、兵たちもそれでふらついたり転んだりして軽傷者を出している。他にもテイデ山の火山活動でできた溶岩洞窟の風穴が大小あちこちにあり、足を踏み外せば地中奥深くまで墜落してしまう事もある。しかも風穴自身が草木や雪に埋もれていて厄介極まりないし、転落しても溶岩石は脆く崩れやすいため手助けが無ければ脱出は困難だ。それに下手な落ち方をすれば致命傷にもなりかねない。大自然が要害と化したヴェッサに居れば、彼らにとっての脅威は熊や猪といった野獣だけである。
ヴァルトアは腕を組むと重々しい口調で言った。
「なるほど……オーク騒動で彼らの実態が露見したというわけだ」
「弱さと言えば領主軍は半年ぶりの実戦出兵でしたが、課題も多く見えました。斥候が毒草で眠り込み、工兵が風穴に足を取られ、通信不良で信号弾を誤射……」
ブリスケットのその声には悔しさが滲んでおり自然と低くなった。アニリィは頬をかき苦笑する。
「メリーナ姉さんが一番凹んでましたね。“ボクの育て方が悪いのかな”って」
ナーベルも困ったように頬を掻きながら言った。ナーベルにとってもブリスケットにとってもメリーナは幼い頃から何かと面倒を見てくれた気のいい「姉」であった。彼女が珍しく落ち込んでおり、二人はそんな彼女にどう声をかけどう対応していいのか悩んだという。
ヴァルトアは静かに頷き、諭すように言った。
「まぁ事故は起きるべくして起きるもんたから、原因追求と対策はきちんとして訓練に反映すべきだ。どれだけ精強な軍団でも戦地では予期せぬことが起きるからな」
その言葉を聞いて再び静けさが広がるなか、アニリィが背筋を伸ばして重い口調で告げた。
「そしてエルフ三家から正式に要請がありました。──ヴァルトア様を領主と認め、朝貢する代わりに保護を願うと」
そのアニリィの言葉の奥にはエルフたちがどれほどの恐怖と恥を呑み込み、必死で願い出たかが込められていた。ナーベルは顎に手を当てて言う。
「彼らの作る木製食器には市場価値があります。さらにヴェッサの森自身がテイデ山の向こう側、プロピレン伯領との緩衝地帯としての役割も担うでしょうから彼らを保護し、共存する道が最も合理的です」
ナーベルの思考は昔から冷徹で合理的な判断をする癖があるため他人からは冷淡だと受け取られていた。しかし彼は利得を冷静に見極めるマキャベリズム的な性質の持ち主であり、本来領主に求められる非情さをも備えている。むしろそうでなければ権謀術数渦巻く王宮に長年勤められるわけもない。その意味では彼は、ヴァルトアよりもよっぽど領主としてふさわしいと言えよう。しかし領民思いの今のやり方に慣れてるアニリィが“緩衝地帯”と聞いてぎょっとした表情を浮かべていた。
「だけど、ヴェッサの民たちはみんな親切な人たちでした」
しかしブリスケが穏やかな表情を浮かべながらの一言に執務室の緊張が少し和らいだ。半年前のイオシス捜索ではアニリィらに冷淡に当たってきたプロイスも、今回のオーク掃討戦では食事を用意してくれたりと随分と協力してくれたという。
「……ということは、疎開していた子どもたちを森に返すことになるな」
「それなんですが──二人が“帰りたくない”と強く訴えています」
ヴァルトアは表情を和らげ静かに言ったがトマファが声を低めて告げた。
オーク掃討戦完了の報はすぐに疎開している子たちに伝えられた。祭礼までには森に帰れると伝えたところ、どうしても帰りたくないと言い出した子どもが二人おり、今は同行してる保護者のエレナが説得を試みてるとか。
実を言うと森の子どもたちがキュリクスに残りたいと言い出すのではないかという懸念は彼らを受け入れる前からあったという。というのも、お洒落な服を着て髪もきれいに整えられたイオシスが半年ぶりにヴェッサへ帰郷した際、彼女を見た一部の子どもたちは「私も街に出たい」と羨望の声を上げたという。森の子どもたちとは馴染めず、家出の大騒動まで起こして街へ出たイオシスが見違えるように変貌して戻ってきた。これでは街への憧れが湧き上がるのも無理はない。まさにその憧れの情が強まっていたときにオーク騒動で「森は危険だ」とキュリクスへ避難させられたのだ。にもかかわらずあっという間に「もう森に戻るぞ」と言い渡されてしまえば、憧れを抱く子どもたちがかわいそうなのは当然だろう。
ヴァルトアは短く息を吐き、視線を宙に漂わせながら呟いた。
「……さて、どうしたものか」
その一言には誰も答えられなかった。
*
報告をすべて聞き終えたヴァルトアはヴェッサの地図をじっと見つめていた、まぎれもなく今回の派兵での最大の戦果だ。だが次の瞬間、彼は首をかしげた。
「──で、その“朝貢”ってやつは、なんだ?」
執務室にいた全員が一瞬凍りつき、そしてずっこけた。ナーベルは額を押さえ、トマファは噎せ返ったのか咳が止まらない。ブリスケは苦笑いを漏らし、アニリィは肩をすくめて笑った。
「ヴァルトア卿。この前の授業でとある大国の皇帝が行った政治的儀礼を伴う交易の話をしたじゃないですか」
「お、おぉ、そーだったか?」
こうしてヴェッサの森掃討戦は「戦果なし」と記録された。しかし、地図の完成とエルフ族の庇護要請という確かな実りを残したのだった。
*
夜。キュリクスの飲み屋街はヴェッサへの派兵から戻ってきた兵士たちで賑わっていた。酔虎亭の奥の一角では斥候隊と工兵隊の若者三人が肩を並べてエールを酌み交わしている。ジュリアはいつも以上にテンション高く顔を真っ赤にしてジョッキを振り上げていた。派兵中のお洒落は控え目にと言われてるので、今夜の彼女はまさに“気合"が入ってた。
「かんぱーい! あたしらのおかげで森の地図もできたし、もう大勝利だよ! しかも派兵手当もバシッと入ったんだからじゃんじゃん飲んじゃおー!」
「ちょっと、飲み過ぎよ」とジュリアの相棒・パウラが眉をひそめるが、ネリスが笑いながら「今日は少しぐらい羽目を外しましょうよ」と口を挟む。彼女も手にしたジョッキを軽く揺らしながら屈託のない笑顔を浮かべていた。
「いいじゃないですか。ジュリア先輩もパウラ伍長も棘草刈りや風穴探しで頑張ったんですから少しぐらいはっちゃけてもバチは当たりませんよ」
「うーん……じゃあネリちん、ちょっと馬鹿馬鹿しい話していい?」
ジュリアは酔いに任せて身を乗り出した。「どーしたんすか?」とネリスがエールを一口含んだ、その時。
「ネリちんってさ、オークって信じる?」
ぶはっとエールを盛大に吹き出した。テーブルの上に泡が飛び散り、突然の“吹き出し”に周りからどっと笑いが起きていた。
「ほら、ジュリアがバカ言うからネリさんエール吹いちゃったじゃない」
パウラが肩をすくめた。しかしジュリアは声を潜め、しかし目を輝かせながら囁いた。
「だって……内緒にしてよ? 風穴で見ちゃったんだ。腐乱死体。その頭、なんか猪っぽかったの」
ネリスは一瞬言葉を失い、それから慌てて笑って誤魔化した。
「──気のせいっすよ、うん。棘草でちょっとキマッてたんすよ、きっと」
そうは言ったがネリスの胸はざわめいていた。彼女自身、月詠の泉でのオーク襲撃に立ち会っている。しかもアニリィから「オークのことは誰にも言うな」と固く口止めされているため、とぼけるしかなかったのだ。
「そーなのかなぁ? パウラ先輩は見ました?」
「アニリィ様から『早く忘れるように』と言われたし、何であろうが人の生き死の話をぺらぺらするもんじゃない」
かなり厳しく窘められたジュリアは、ぷぅと頬を膨らませてしばらく黙ってエールを飲んでいた。しかし五分も経たぬうちに、けろりとした顔でまた楽しそうに杯を重ねていた。
体調がちょっと整わず毎日更新が滞ってました




