191話 武辺者と、秘密の日記帳騒動・3
安息日だというのに領主館内は騒然としていた。軍議の間の長卓を囲んでいるのは、領主ヴァルトア、武官長スルホン、長男ナーベル、次男ブリスケット、若き文官レニエ、そして当直メイドのロゼットとプリスカである。中央には例の手帳が鎮座していた。なお、文官長トマファやクラーレ、レオナに軍略担当ウタリはキュリクス市街で各々休みを過ごしてるため、警備隊に『見つけ次第軍議の間へ出頭を』と指示しておいた。スルホンは腕を組み、険しい顔で手帳を睨んでいる。
「これは間違いなく暗号だ! ──早く数学者を呼べ! 言語学者はどこだ!」と声を張り上げる。しかしヴァルトアは頭を掻きながら冷ややかにお茶を飲む。領主たるもの動かざること山の如し、そう言いたげにどかりと座っている。しかし心の中では『スルホンが暑苦しいな』と思っている。一方でナーベルとブリスケットは真剣そのものだった。手帳に書かれている記号のような可愛らしい文字を紙に写し取りながら「頻出する文字を洗い出せば……」「いや、これは母音の繰り返しだろ? “ああいう”ってやつだ」などと推理しては外す、暗号解読“ごっこ”に熱中していた。もちろん二人とも暗号解読はやったことがない。
その混乱した軍議の様子を当直メイドのロゼットとプリスカはいささか冷ややかな目で見ていた。
「どう見ても女の子の持ち物じゃない?」
「てか、初等学校時代に友達とかとやったじゃん、交換日記。あれっぽくない?」
ロゼットが耳元で小さく呟くと、隣のプリスカも頷いた。だが軍議に出ている誰一人として二人の声が耳に届くことはなかった。
一方その頃。
不審者として捕えられたアニリィとモリヤは、領主館近くの警備隊詰所に連行された。しかし、コートと眼鏡と帽子を外した途端に現れたのは、皆がよく知る二人の顔だったので、場は一転して大笑いだ。不審者だと早合点して信号砲を放ったクイラは顔を真っ青にして震え上がってるし、警備主任は腹を抱えて「んだよ、閣下かよ!」と大爆笑していた。
「本当に申し訳ございません、私の早とちりで!」
「いやいや、むしろよかったよ。本当に怪しい奴だったら大変だもの」
と、土下座してぺこぺこ謝るクイラに警備主任はフォローを入れていた。
「そーそー。せっかく信号砲が配備されてるんだから、さっさと撃って私たちを呼んでくれた方がクイラちゃんの万が一を考えなくて済むんだから!」
クイラと同期のレンジュが彼女の肩を支えて立たせようとする。ちなみにクイラ、レンジュ、モリヤが訓練隊にいた頃、三人はほとんど言葉を交わしたことはない。しかし同期というのは『訓練隊というあの地獄で、同じ期間に同じ空気を吸い、同じ釜の飯を食った仲』という不思議な絆、連帯感があるせいか部隊配属で離れても自然と親身になれるようだ。
そこへ警備兵の一人が駆け込んできた。
「あ、アニリィ様! 領主館で緊急軍議が開かれております。至急お越しください!」
「おっ、マジか! それならモリヤ、あんたも行くよ」
「はいっ!」
緊急軍議と聞いてモリヤはぱっと顔を輝かせた、まるで胸が高鳴っているようだった。「メイドが軍議でばしっと発言したら一隊率いさせてくれますかね?」
「──あんた、それも漫画の影響?」
やがて軍議の間にアニリィとモリヤが姿を現した。ナーベルたちの解読予測を聞いていたスルホンは顔を上げるや否や、目を剥いて噛みついた。
「アニリィ、忙しい時にお前は何をしていたんだ!」
「いやぁ、ルチェッタたちが街でどんないたずらしてるのかなって、ちょこっと後をつけてたら警備兵に身柄を拘束されちゃいまして」
アニリィは悪びれもせずに答える。モリヤが真面目に説明を試みるが、スルホンに「今それはいい!」と一蹴されてしまう。スルホンは頭を抱えながら叫んだ。
「今、間諜の秘密通信文を解析中なんだ! お前もナーベル殿たちの作業を手伝え!」
「アニリィ殿、こちらがその秘密通信文と思わしきメモ帳です」
ナーベルが二人して解析し書き取った紙束をアニリィに渡した。しかし彼女はそれを一瞥しただけでこう言ってのけた。
「あー、これカルトゥリ語だよ」
場が一瞬静まり返った。ナーベルは怪訝な顔を浮かべるし、ブリスケットは「カルトゥリ?」と漏らす。スルホンは「どこかで聞いたような」と言うとレニエは思い出したかのような表情を浮かべた。──ヴァルトアは静かにお茶を飲んでいた。そうだ、カルトゥリ語はヴェッサの森に住むエルフ族固有語だ。アニリィは日記帳の一文を指差し、
「筆跡がばらばらだけど、ここに“ルチェ”“イオシス”って書いてあるから、これ、ルチェたちの交換日記なんじゃない?」
とあっさり断言した。呆然とする一同。まぁ、手帳の文字の並びを見て「カルトゥリ語だね」と言える文官長トマファやクラーレ、メイド長オリゴが居なかったのが混乱を招いたのだろう。ちなみに領主館内でカルトゥリ語が読めるのはアニリィだけだが。
しかしロゼットとプリスカだけが「やっぱりね」と顔を見合わせていた。
無意味な招集だったと判明し、軍議の間に広がっていた重苦しい雰囲気は一気に間の抜けたものに変わった。とはいえ、安息日に緊急軍議を開こうとしても文武官全員をすぐに集めることは難しいと分かっただけでも収穫だったのかもしれない。ちなみにヴァルトアと息子たち、それにスルホンは狩りに出かけようと馬を用意していたところで招集がかかったため、すぐに軍議に出られただけである。
ヴァルトアは深いため息をつきながらも「……だから安息日に会議なんか開くもんじゃないんだ」
大広間に乾いた笑いがこだました。
その日の夕方、例のおてんば四人組が領主館の文官執務室に呼び出された。窓際のソファに座らされた四人の前にトマファが姿を現す。
「これ、君たちのものかな?」
差し出されたのは、無くしたと思っていた日記帳だった。四人は顔を見合わせ、「……中身、見ました?」と恐る恐る訊く。トマファは施錠されてるのを見せて小さく笑って首を振った。
「僕は一切見ておりませんよ。それより──落とし物をしたら、すぐに領主館へ相談に来なさい。子どもたちだけで夜に探し回るなんて感心しません」
穏やかな説諭に、四人は胸を撫で下ろすのだった。
領主館を出た四人はいつもの公園のベンチに腰を下ろした。夕暮れが差し込む中、日記帳を開くと──最後のページにルチェッタの書き込みが残っていた。
『最近、イオシスにいじわるする男子がウザい』
その文字に矢印が引かれ、さらにカルトゥリ語で書き加えられた走り書きが目に入る。
『そういう男子には、“私の事、好きなの?”と笑顔で訊けば撃退できるよ ──アニリィ』
「……え?」
四人は固まったあと、顔を真っ赤にして一斉に叫んだのだった。
「ちょっと待って!? なんでここにアニリィ様の字がーーーっ!?」
カルトゥリ語とセンヴェリア語には共通点がひとつだけある──それは文法である、きっと言語系統は元々一緒だったのだろう。
単語はまったく異なるのだが子どもの柔軟な言語感覚ゆえか、ルチェッタもエイヴァもオリヴィアも比較的早くに読み書きができるようになったという。イオシスも少し訛りはあるものの領主館の誰とでもセンヴェリア語で不自由なく会話できる。やはり子どもの言語スキルの柔軟さは、大人の想像以上なのだろう。
秘密の交換日記にカルトゥリ語を使おうとしたのも子どもたちなりの“秘密を楽しむ遊び”の延長だったに違いない。今も彼女たちは秘密の日記帳は四人組の中で回しているという。その内容は今、どうなっているのか──それは読者諸氏の想像にお任せする。
なお、イオシスをからかう男子に向かって、「そんなに私の事、好きなの?」と聞いてみたところ「うっせぇブース!」と返されてしばらく凹んでいたという。