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186話 武辺者、長兄がキュリクスへやってきた

 夕刻の領主執務室には緊張と期待の入り混じった空気が漂っていた。旅装のままの青年──ナーベル・ヴィンターガルテンが王宮勤めを辞してようやく父母の元へと戻ってきたのだ。


「よく帰ったな、ナーベル」


 ヴァルトアが武辺者として鳴らした屈強な腕で長子の肩を抱く。隣ではユリカが微笑み、弟ブリスケットは気恥ずかしげにその様子を見守っていた。ナーベルの幼き頃を知る武官長スルホン、かつて王国軍で部下だったアニリィも整列して深々と敬礼を送る。文官のトマファとクラーレもまた緊張の面持ちでその場に臨んでいた。


「父上、母上……そして弟よ。ただいま戻りました」


 ナーベルは堂々と答えて帰還を報告した。


 エラール王宮の荒廃は新聞報道だけでなく、エラールに駐在する執事ジェルスからも伝えられていた。レピソフォンがノクシィ一派を王宮から一掃したかと思えば場当たり的な政務で混乱が続き、ついに徳政令騒動だ。


 レピソフォン政権には寛大だったロバスティア王国も大使を引き払うと宣言するほどであり、新都エラールの市場は阿鼻叫喚の大混乱に陥ってしまった。それをなんとか抑えようと若き財務官が経済健全化五ヶ年計画を打ち出したが、無能な執行者の逆鱗に触れて辞職に追い込まれた──そんな話もヴァルトアの耳には届いている。


 追われた財務官ことナーベルはエラールで馬を買い、退職慰労金もなく、痩せた馬とともに一人戻ってきたのである。


「長旅で疲れているだろう。しばらく休むといい」


「いえ。父やブリスケと共にこのキュリクスを盛り立てたいと思ってるのに、休んでなどいられません」


 しかしナーベルの瞳には疑念の光が宿っていた。産業も特産も乏しい辺境の地でなぜ多額の税を期日前にきっちり納め、さらに寄付金まで送ってこれるのか。周辺領邦は納税に苦しみ、しかも寄り親である高位貴族を使ってまでして王宮へ減額の嘆願ばかりを送ってくるのに。──もしや恐怖政治や搾取が行われているのではないか、そんな疑いが胸に渦巻いていたのだ。


「政務については文官長トマファに聞くといい」


「トマファ君ってあのクラレンス伯の紹介で当家に雇い入れたの。ブリスケのヴィオシュラ学院時代の同級生だったんですって」


 ヴァルトアとユリカは若き文官長トマファの肩に手を置き、息子に紹介した。トマファはにこりと微笑み、軽く会釈する。


「この"カリエル君"はよくやってくれてるよ。それに兄さんと同じくチェス好きだから、仲良くなれるんじゃないかな?」


 弟ブリスケットはそのトマファの横に膝をつくとにこやかにそう言った。トマファはあまり褒められ慣れていないのか、苦笑いを浮かべつつ頬を掻く。


「ではトマファ君。今後キュリクスをどう盛り上げていくつもりか、聞かせてくれ」


「承知しました。資料は文官執務室にございますので、是非」


 そう言うとトマファは車椅子の車輪に手を置いた。それを見て部屋の隅で待機していたメイドが車椅子の取手を握り、静かに押した。


「いつもありがとう、モリヤ嬢」


「いえいえ、気になさらずに」


 トマファがさも自然に礼を言い、若いメイドは当然のように応じた。行き届いたサービスと、それに返す礼、幼い頃から見てきたヴィンターガルテン家の変わらぬ自然なやり取りだった。王宮勤めが長くなると実家の当たり前をふと忘れていた事に気付いてしまう。


 案内された文官執務室には帳簿と業務日誌が整然と並び、机上には直近の財務諸表や外交記録が置かれていた。ナーベルがまず驚いたのは、異様なまでに整えられた室内だった。チリ一つ落ちておらず、帳簿類も角を揃えて並べられている。そして文官一人ひとりの机には余計なものが置かれていない。──ただ、手前の机だけはサボテンの小さな鉢植えがあり、白い小さな花を咲かせているのを見て、ナーベルは思わず笑みを漏らしてしまった。


「こちらが過去五年分の税収内訳と行政キャッシュフロー計算書です。そしてこちらが現在キュリクスが抱える対外関係報告書です。良ければどうぞご覧ください」


「ちょ、ちょっと待ってくれ。──キュリクスではキャッシュフロー計算書まで作ってるのか?」


「えぇ、ヴァルトア卿がキュリクスに赴任してからの分だけですが、行政運営に係わる“行政活動収支"、公共施設やインフラ整備にかかった“投資活動収支"、そして債券の発行・利払い・償還の“財務活動収支"の三種類に分けて毎月記帳しております。大店商家が自身の支払い能力や財務健全性を評価するために書かれてるのですから、領主も作って当然では?」


 さも当たり前でしょうというトマファにナーベルは面食らってしまった。領主の経営状況は秘匿されるのが常だ。なにせ金があればあちこちから集られ、無ければ商人ですら敬遠する。だが領主は“適度な"富を誇示するため派手な衣装や豪華な宴を催したりするが。それに領主らの財政状況は大体が“どんぶり勘定”でやってるため、現在どれだけの借金があるかすら把握しておらず、利払いに追われ、元金は減らずに増えていくものだ。


「それに──さっきから気になってはいたんだが……これってキュリクス領全体の地図だよな!?」


 ナーベルは壁に貼られている精緻な地図を見て思わず顔を強張らせた。地図は本来軍事機密だが、分館執務室に方位と縮尺まで書かれた地図が執務室に大きく貼られているのに驚きを隠しきれないでいたのだ。


「えぇ。工兵隊の測量技術向上のため作ってもらったんです、縮尺も合ってますよ──あ、ちなみにこちらが領地全部の検地図です」


 ついにナーベルは頭を抱えてしまった。まさか父ヴァルトアが治める領地の内政がここまで丁寧かつ整然と進められているとは思いもしなかったのだ。他にも気になった書類、対外関係報告書とは何だと思い、立派な革張りの束を手に取った。まず表紙を開くとルツェル公国との対外交渉議事録が挟まっているが、何枚かページをめくった時に手が止まってしまった。


「……ルツェル公国との技師交換と技術提供の覚書だと……?」


「はい、ヴァルトア卿とルツェル大公とで取り交わしました。ルツェルは精密機械の研究が盛んな国ですし、キュリクスには冶金や金属加工、ガラス工芸の技術という強みを持ってます。技術と技師を交換し、互いの成長を目指す協定です。──ところでキュリクスの錬金術ギルドがエラール中央ギルドと揉めて離脱を仄めかした話はご存じですか?」


「あぁ、農薬技術を巡って揉めたとは聞いてる」


 その話はナーベルも知っていた。キュリクスで行われていた農薬の基礎研究に中央ギルドが手を伸ばしたが、成果を奪えず失敗に終わったという笑えない話だ。そのうえ帰り道で接収した薬品が化学反応を起こし、異臭騒ぎまで引き起こしたことも王宮にまで伝わっていた。


「当然のことですが、技術はきちんと保護されねばなりません。農業と工業は領地経営を支える両輪です、──しかも軍事転用も可能な技術ですよ? そのような大切な技術を信用ならない連中に預けるつもりは、キュリクスにはございません」


「じゃあルツェルは信用できるのか? エラール王宮に対して“控え目に言ってバカなんじゃね?”って言い放ってきた、建国千年以上を自称する古臭い王権国家だぞ」


「はい、少なくとも信用に値すると判断しました。ただ、最初に無礼を働いたのはエラール王宮です。旧交を笠に着た居丈高な書状を送り付けてきたからこそ反撃されたのです。そして、その無礼な書状を受け取り、熨斗付けて送り返したのは、僕の妻となる女性文官のハルセリアです」


「君があの“爆弾娘”を妻に迎えると決断した勇者だったのか!」


 ナーベルの耳にも隣国ルツェルの“切れ者”女性政務官僚の噂は届いていた。『次代のルツェル女宰相』と称賛される一方、気性の荒さから“爆弾娘”と陰口を叩かれていたのだが。しかし彼女が繰り出す財政政策には目を見張るものがあり、ナーベルも注目していた。そしてエラールの新聞で小さく“爆弾娘、結婚”と報じられたのを見たときは、さすがに驚きを隠せなかった。──誰だよその勇者、どう考えても内憂だろと思ったぐらいである。


「まぁ、多少の爆発力は推進力にもなりますよ」


 トマファが顔を赤らめながら静かに笑った。ページを開くとナーベルの目が見開かれる。


「……お、おい。これ、ビルビディアとの対等条約じゃないか!? あの“大陸の穀物庫”を相手に取りまとめたのか!?」


「えぇ、通商と貿易港に関する取り決めで無事条件が整いましたから結びました。王宮には何度も書状を送ってるのですが梨の礫でしてね」


 ナーベルは沈黙した。エラール王宮ですらいまだビルビディアと対等な通商条約を結べていない。穀物の価格決定権はビルビディア系商会が握り、王国はその不平等に悩まされ続けていた。しかもレピソフォンによるノクシィ一派の粛清で通商交渉は中断したまま。たとえ王国が豊作で湧いたとしても市場を席巻するのはビルビディア産小麦だ。──そんな大国相手に辺境の一領主がどうやって対等条約を結んだのか。王宮で一切知らされなかった成果が、この青年文官の手で積み上げられている。


 貿易港の整備事業は一次計画が進行中で、早ければ来年春には運用開始できるという。ビルビディアからやってくる貿易船のために薪水や食事の提供地から交易所まで整備しているという。──ここまでくると悔しいとか思う以前に末恐ろしいと心の底で呟くしかなかった。


「ところで君はどうして、王宮の文官採用試験を受けなかった? ここまでの能吏なら王宮も放ってはおかなかっただろうに」


「あはは、それは買い被りです。──そもそも僕は初等学校修了の学歴しか持ってませんから」


「君はブリスケの同級生って事は、ヴィオシュラ学院を出てるんだろ?」


「──中退です。勉強は続けたかったんですが、在学中にこんな具合になってしまいましたからね」


 苦笑いを浮かべるトマファを見て、ナーベルはふとエラールで流行った小説『おひつじ座のラー』を思い出した。実在の留学生王族が起こした事件を題材にしたと噂され、新聞や雑誌で論じられたこともあるが、真偽は分かっていない。ただ、読者の間で今も語られている話題作だった。


 ナーベルは帳簿を閉じた時、トマファは静かに言った。


「ナーベル様、僕一人の力量ではもうじき限界が近いでしょう。──政務は僕やクラーレ君、レオナ君にレニエ君とでなんとか回してますが、官僚が足りません。特に財務と法務が手薄で、このままではじり貧になるでしょう」


「いやいや、君一人でここまでやってきたんだろ? それなのに“限界だ”と音を上げるには早いんじゃないか?」


「いえ、現在のキュリクスの都市価値は随分と大きくなりました。ですが急激な成長には歪みが出てきます。その歪みを正したり、政道を導く官僚が絶対的に必要です。──しかも、政務実施経験のある官僚が、です」


 ナーベルは車椅子に座る男を食い入るように見つめた。よどみなく言葉を繰り出すトマファの話にじっと耳を傾ける決意を固めたのだ。


「ルツェル官僚だったハルセリア嬢にも結婚を機にキュリクス政務を手伝ってもらう予定ではいましたが、やはり彼女はルツェル人です。民衆が『母国優遇政策を取っている』と疑われれば、何をしても足を引っ張られるでしょう。クラーレは農業技術に、レオナは工業技師とのつながりに強みを持つが、政務経験はないから近いうちに限界が来る。──いや、もう限界に来てるのかもしれません」


 ナーベルはこの目の前の車椅子の男は本当に有能だと確信した。自分や周囲の限界を冷静に見極めたうえで、率直に真実を語っている――そう感じられたからだ。やがてナーベルは静かに微笑んだ。


「……なるほど。僕の疑念は杞憂だったようだ、父上の下には信頼に足る仲間がいたようだな」


 トマファは小さく首を振った。


「心強いのは僕の方です。ようやく仲間が増えるのですから」


 ナーベルは思った。――この男となら、父を支え、この領地を未来へ導けると。

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