185話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・13 =幕間=
新都エラールの治安は完全に崩壊した。ならず者による暴力的な取り立てや貸し剥がしが横行し、物価は午前と午後で価格が変わるような状況になってしまった。朝は白銅貨一枚でパン一斤買えたのが午後には半斤も買えなくなるようじゃ民衆はエラールを捨てて地方や他国へと逃亡し始めたのだ。さらに徳政令の発布発言によって国外からの信用は失墜。誰もが「もうエラールは終わりだ」と口にする中、ただ一人、財務官のナーベルだけは諦めていなかった。彼は王宮に残る財務担当官たちを密かに呼び集め、緊急会議を開いたのである。
「我々が動かなければ、この国は本当に滅ぶ」
机の上には未払い手形と赤字帳簿が山と積まれていた。重苦しい空気を破ってナーベルは黒板にカツカツと書き出すと淡々と方策を語り始めた。
「七日以内の超短期に信用を立て直すための方策はこれだよ、きっと僕らならやれるよ」
・暴力的取り立ての即時禁止。近衛兵団を非常治安隊に再編し、取り立て屋は即刻逮捕する。
・公設穀物会所を設置。倉入れ証券を現物担保通貨として発行する。
・近隣諸国から生活必需品を緊急仕入れし、安価で販売する。代金は五年償還・年二回利払いの『穀物債』で賄う。
官僚たちは顔を見合わせて口々に言った。
「無茶ですよ」「だが……他に策はない」「レピソフォンが邪魔しますって」
ナーベルは眼鏡を指で押し上げ、にこりと笑った。彼はこういう場面でどんな表情を見せれば人が付いてくるかを熟知していた。しかめっ面では反発を招き、険しい顔では諦めを誘い、へらへらすれば癪に障る。だからこそ安心を与える穏やかな微笑みを選んだのだ。「みんな、出来ない理由を探すのはもう辞めよう。出来る方法、方策、手段を考えるべきだ」
そういうとナーベルは全員の顔を見つめてにこりとほほ笑むと、革製の大きな帳面を開く。
「──そして1〜4週間の短期決戦で信用再起動に移る。徳政令の補正法、王室資産の担保化、公設オークション。そして必需品の価格コリドーだ」
ざわめきが広がるが、ナーベルはさらに黒板に書き加える。
「九十日の中期スパンでは、関税前取り債と王立手形を中立清算所で外貨に換え、国際決済の錨とする。そして半年から一年以内に関税と王室歳費を分離し、破産庁と高利貸し免許制を整える。穀物と銀のスワップ枠で次の危機を防ぐ」
会議室が静まり返った。誰もがその大胆さと具体性に言葉を失ったのだ。沈黙の中で、額に浮かんだ汗をぬぐう者、唇を噛みしめる者、紙に震える手で走り書きをする者──それぞれの顔に緊張と恐怖、そして一抹の希望が浮かんでいた。
「──これを明日、記者団の前で発表する」
ナーベルの声に皆は息を呑んだ。ここに集まってる全員、高等学校で経済学や財務学、法学を修めたエリート官僚たちである。その彼らでさえナーベルの示す財政健全化策を凌駕できる対案を持つ者は誰一人いなかったのだ。もはや誰も止めることはできない──乗り掛かった舟はすでに漕ぎ出していたのだ。ただしナーベルは集まってもらった財務官らに一つだけ黙っていることがあった……レピソフォンへの相談は一切していない、という事実である。
*
庭園に設けられた演壇の前に、エラールだけでなくルツェルやビルビディア各紙の記者が集まっていた。“あの”王子の姿はなく代わりに登壇したのは若き財務官ナーベルであった。彼はざわつく記者たちを二度、三度と見回して彼らが口を噤むのを待った。そして一つ息を吐くとこう言い切った。
「エラールは信用を失いました。市場は混乱し、民は飢え、国外からは嘲笑を浴びている。──ゆえに本日、財務官僚を代表して再建策を布告します」
他の財務官たちは記者一人一人に資料を配るとナーベルは力強く一つひとつ政策を読み上げ、記者たちは驚きと共に書き留めていく。やがて質問が飛ぶ。
「近衛兵団を非常治安隊に再編とのことですが、軍部大臣レンゲショウ公爵から許可は?」
「無論です。閣下は『治安維持のためならお前の権限で動け』と承認してくださいました。──私は武官でもあり、軍団編成権を持っています」
記者団は「おぉ……」とざわめく。
「では、公設穀物会所の担当は誰が?」
「伯爵クラレンス閣下にお願いしています。損失が出ればご自身で責任を取ると仰ってます」
「穀物債の利回りは?」
「年利七・三パーセント。これ以上高ければ償還が困難になる。──我々で算定した限界値です」
記者たちは感嘆の声を上げた。
「……経済学が不勉強で恐縮ですが、価格コリドーとはなんでしょう?」
ナーベルは頷き、はっきりと答える。
「上限と下限を設定する制度です。パンや麦、牛乳や薪などの必需品が安すぎれば会所が買い支え、高すぎれば在庫を放出する。国外三国の協力を取り付けるため債券の年利も満足いただけるよう設定しました。借金を踏み倒す王宮と言われようとも、この借金は必ず返す──それが王宮の、国家の責務です!」
記者団から大歓声と拍手が巻き起こった。ナーベルの会見と言葉は号外として街中で配られると民衆の心に届いたのである。
*
その日の午後、王宮執務室。激怒したレピソフォンと取り巻きがナーベルたち財務官を呼びつけたのだ。彼らの手には新聞各紙が配り歩いた号外を手にしている。
「勝手に記者を集め、政策を発表するとは無礼千万! お前は裏切り者だ!」
腰巾着カルビン・デュロックが声を荒げる。「殿下親政の邪魔をし、権威を下げようとした反逆行為だぞ!」
他の取り巻き立ちも口々に「無礼者、国家反逆者」と罵るがナーベルは睥睨するととたんに取り巻きたちは口を噤む。そうだ、ナーベルは武官でもあるため腰から大剣をぶら下げているのだ。しかも今日に限って財務官たちも身の丈ほどもある剣をぶら下げていた。ナーベルはふぅとため息を付くと静かに答えた。
「私はエラール王宮の一級財務官であり一級武官でもあります。ですから財政安定と治安維持は私の権限内です。そしてこの布告は軍部大臣レンゲショウ公爵、財務大臣ポリニャック侯爵の承認を得ていますよ?」
ざわめく取り巻きたちを制するようにナーベルは言葉を強めた。「つまり、私の行動を違法と断じるなら──殿下ご自身がエラール王宮どころか国家秩序を否定することになりますよ?」
執務室に沈黙が落ちた。レピソフォンは顔を真っ赤にし言い返そうとしても言葉が出ない。ナーベルは一歩進み出てにこりとほほ笑んだ。
「そう言えば殿下、そしてお歴々の二級三級官僚の皆さま。そういえば徳政令騒動が起きてから王宮であまりお姿を見かけなくなりましたが、どちらかお出かけだったんでしょうか? ルツェルやビルビディアなどの大使に頭を下げて資金集めをしてたなら私が早まったことをした、王宮に恥をかかせたとして断罪してください──どちらもエラールを引き払って現在キュリクスに大使館を置いてますから、連絡するにも片道一週間はかかりますけどね」
「──んぐっ!」
レピソフォンの顔はどんどんと紅潮したが、腰巾着たちは逆に青ざめていった。彼らは民衆からの信を失って以来、現実逃避のために朝から奥宮へ籠って酒宴に耽っていたのだ。そのためナーベルらを呼びつけた彼らの口からは異様なほどの酒臭が漂っていた。それを知ってたナーベルは敢えて平然と指摘したのである。
「殿下、私は裏切り者でしょう。ですが……国家の信頼が崩れ、治安が瓦解し、民衆革命であなたの首が飛ぶのと、僕ひとりの首を落とすのと──どちらがよろしいですか?」
レピソフォンは舌打ちをして肩を怒らせ、言葉もなく執務室を出て行った。取り巻きたちも何も言うことなく、号外を床に叩き捨てて慌てて出ていく。
「ナーベルさん!」「さすが一級財務官ですよ!」
「いえいえ、皆さんが民衆から浴びせられた言葉できっと忸怩たる思いだったでしょう。ですが皆さまが集めてくれた資料があったからこそ僕はアウトラインを引けた、そしてルツェルやビルビディアの人たち、銀行家が国債の償還を待つと言ってくれたんです。あとはレンゲショウ公、ポリニャック侯、クラレンス伯と連絡を密に取ってやりとげないとね」
ナーベルは机に白い封筒を胸元から出すと静かに置き、財務官たちに向き直る。
「……僕は責任を取って辞めます、あとは君たちでやりなさい。家から戻ってこいと言われてたし、殿下からも嫌われたからちょうどいい時節だよ」
そう告げると彼は背を向けて歩み去った、残された者たちはただ呆然と見送るしかなかった。そしてレピソフォンの執務机には丁寧な字で『辞表』と書かれていた。
「ナーベルさん!」
一人の財務官が声を掛ける。ふと振り返ったナーベルの顔は、いつものように笑顔だった。
──ナーベル・ヴィンターガルテン。彼こそキュリクス領主ヴァルトアの長男であった。