182話 武辺者と、オークが遺したもの・4
執務室の長机には解剖を終えた十一体分の検案書と魔法陣の写しが幾重にも重なっていた。乾いた羊皮紙に転写された奇怪な記号と古文字は、生温かい血の記憶を宿しているかのように見える。そして夜更けのランプが放つ光は不吉な影を机の上に這わせていた。
ロゼットは執務室の隅で盆を抱えたまま立ち尽くしていた。今夜の軍議はカップの音ひとつでさえ議論を遮る不作法になりそうで盆を置く判断ができない。いつも軽口が飛び出る喉は奥でぐっと固まり、視線は自然と羊皮紙の束から遠ざかる。目を向ければ眠れぬ夜を確信してしまいそうだった。
そんな中、沈黙を破ったのはスルホンであった。低く掠れた声はランプの炎を一段と小さくしたように思われる。
「──ということはあの“造られた異形"を誰かが森に放った、というのか?」
アニリィがすぅと息を吸ったのか、肩がぐっと持ちあがる。そして彼女の指先には血の気の退いた白さと、今もなお戦いの昂ぶりを見せていた。
「オークの頭蓋骨の裏にと心臓に刻まれていた魔法陣、そして頸椎付近の縫合痕──錬金術ギルドのドリー師やマルシアさん、そしてテルメ嬢に解析してもらったところ間違いなく“人為的に生み出された異形”です」
アニリィが一息で言い終えた瞬間、室内の空気が一瞬薄くなったかのように感じられた、誰もが息を呑んだのだ。魔術に縁薄い者でもその意味を遅れて理解し、椅子の背に体を沈める。スルホンは椅子を軋ませると震える両の拳を固く握り、半ば身を乗り出して言った。
「じゃあなんで、豚の頭なんかくっつけたんだ?」
確かに荒唐無稽だ、わざわざ馘頸して豚の頭を付ける理由など無い。ウタリが紙片を指で押さえながら冷ややかな調子で応えた。
「ドリー師の見立てでは『肉体の根本改造と反動防止』だそうです。人間の肉体をどれほど鍛え変じても限界は必ず来ますし、痛覚が命令や意識を阻害する、と。そのリミッターを外すため魔導理論を組み込んだ“豚頭”を移植し、心臓に改造を施したのではないかと」
ウタリが言葉を紡ぐたびにロゼットの背には冷汗が流れた。机上の写しに描かれた渦や古文字はただのデザインや趣味ではない。意味を持つ何か──秩序の外側から侵入してくる悪心そのものの図形だ。スルホンはウタリの説明を聞いて小さく唸った。
「そうか。ところでこのオーク、どこの誰が作ったのか判ったか?」
ウタリは手元の解剖検案書の控えをぱらぱらと捲る。
「一番大柄な解剖個体004号、そして009号と011号の刺青の紋様をもとに犯罪者リストなどとの照合を急いでいます」
個体004号──前線のアニリィらを避け、ぼろぼろの錆剣を振り回しながらクイラへ突進した狂戦士だった。襲ってきたオークの中で唯一、武器を携えていた。ネリスが足を撃ち、アニリィが脊柱を一刀両断するまで異様な執着でクイラに食らいついてきたあの個体だ。
「軍事実験か、威嚇か──それとも」とヴァルトアが低く呟き、「嫌がらせか」とスルホンが即座に繋いだ。ふたりの間に走る暗黙は戦場の臭いそのものだった。
クラーレが資料の束からキュリクスを中心とした周辺地図を広げた。キュリクスより北部ヴェルフェシスへと行く北街道は霊峰テイデ山とヴェッサの森を迂回するよう西にぐるりと迂回している。北街道の右分岐にコーラル村。左分岐して旧街道宿場町だったシュツ村、現在の街道沿いにトマファの出身地クリル村、ルチェッタの実家があるアンガルウ領、そして隣領でアニリィの地元ポルフィリ領、アニリィの姉セレンの嫁ぎ先フルヴァン領へと続く。ポルフィリ領からテイデ山稜を通ってヴェッサの森をまっすぐ、赤い点線で示されている。
「そう言えばヴェッサの森の通行権で揉めた相手がいたな。──プロピレン伯家」
霊峰テイデとヴェッサの森を大きく迂回していた旧来の街道に対し、赤い点線で示された部分はモルポ商会の通商路として整備された登山道だ。本来ならキュリクスに富を齎す商会には広く使って貰いたいがエルフ族は人間との接触を極度に嫌っているし、ここを通商路として使っても彼らにはメリットがない。むしろ人間との接触というデメリットしかないため、古くからエルフ族と付き合いが深いモルポ商会にのみ使用許可が下りている。だが街道を西にぐるりと迂回せずポルフィリ領へ出て王国北部のヴィルフェシスやシェーリングを結ぶ要の捷径、利便性があれば争いの種も芽を出てしまう。フルヴァン伯家の隣にあり、テイデ山稜北部に所領を持つプロピレン伯はしきりに「モルポ商会だけでなく俺らにも使わせろ」と現在も圧力をかけてきているのだ。アニリィが机にどんと手をつく。
「それならプロピレン領が容疑者ですよ、強制捜査しましょう!」
「証拠もないのに強制捜査なんかできませんよ。岩牡蠣密漁の件でも補償と和解に向けての交渉中なんですから」
クラーレは声を張らずにさっと手を振った。夏が来てすぐの頃、『バカンス行きたい♡』と言って企画したメリーナが沖合に停泊する船籍不明船に泳いで乗り込み、拿捕したところプロピレン伯領の漁船で岩牡蠣の密漁が発覚したのだ。その海域の漁業権はキュリクスにあるし、近隣の漁港からも密漁船の取締を強化して欲しいと嘆願があったのだ。──むしろ漁港側も拿捕を試みて失敗続きだったらしいのに停泊・密漁中の船を泳いで乗り込み、拿捕してしまうメリーナの常識も疑ってしまうのだが。
「じゃあ領土紛争じゃないですか。それならヴェッサの森にとっとと防衛線を引きましょう!」
アニリィは席を蹴り上げるかの勢いで立ち上がりながら叫んだ。しかしその隣に座るウタリが彼女の袖を掴む。
「領土紛争にすれば裁定だと言ってエラール王宮がどんなちょっかいをかけてくるか判らんぞ」
ウタリが淡々とアニリィを諫めた。彼女の表情には計算し尽くした冷たさがのぞく。そもそもキュリクスからエラール王宮に様々なお伺い書を書いても返答は来たことがない、それもこれも吹けば飛ぶような子爵家だから軽んじてるからなのかもしれない。しかし伯爵家となれば支配地も広いし王宮内での発言権も強い。そんな高位貴族家から訴えがあれば王宮がどんな形で首を突っ込んでくるか判らない。几帳面なトマファは指先で書類の角をそろえる。
「同じ王国内の伯爵家を仮想敵にするのは得策とは言えません」
「穏便に済ませられんかとクラレンス伯には仲裁を頼んでいる」
ヴァルトアが静かに口を開いた。子爵家が伯爵家の圧力に応戦するには分が悪いため、ヴィンターガルテン家の寄り親である迷宮都市ヴィルフェシスの辺境伯に中に入ってもらっている。下手な揉め方を避けるため、現在、クラレンス伯とヴァルトアは密に連絡を取り合っている状態だ。
「まずはプロピレン伯領が疑わしいと考えるより、あの異形は誰が作ったかの証拠を積み上げるべきですよ」
解剖検案書の写しを見ながらトマファは言った。今のところオーク襲撃の証拠はこちらが握ってるし、解剖や調査は今も行われている。さらに証拠を積み上げていって、異業を生み出した者をあぶり出すべきだろう。ウタリはふと視線を落とし、トマファが持ってる検案書の写しを見た。
「私は無神論者のつもりだが……月信教や聖心教の聖典での解釈が間違っていたら言ってくれ。──聖典には、主神がそれぞれの生き物を『種類に応じて創造した』とあるよな」
それを聞いてトマファが「えぇ。創世記にその記述はあります。創造秩序──とも言いますね」と頷く。アニリィが「ウタリっち、どうしたの?」と首を傾げる。物事をドライに考えがちのウタリの口から“主神”という言葉が出てきたのでクラーレの表情が曇る。
「じゃあ、人間と動物を混ぜてその境界線を曖昧にするのは、その創造秩序を侵犯する行為じゃないのか? 人の頭を落とし、豚の頭を縫い合わせて肉体を強靭化する──狂っているという言葉では、まだ足りない」
ウタリの声は穏やかだが異様に鋭かった、というより腹を立ててるようにも見えた。トマファはそれを察してか優しい口調で続ける。
「えぇ、狂人の技術です。素体になった人間の尊厳を踏みにじるだけでなく、主神への唾棄行為そのものです。月信教徒が多いルツェルの人々、聖心教の信者が多いロバスティアの人々が知れば吐き気を催すでしょう。……実際、僕は胃の淵が不快で仕方がない」
クラーレも両手を胸の前で組んだ。「私はどちらの宗派にも属してませんが到底受け入れられません。倫理的禁忌を踏み荒らしてます」
ランプの火が小さく揺れる。ロゼットはようやく盆をそっとワゴンに置いた。茶は冷めていたが誰も口に運ぼうとしない。皆もあまりの出来事に青い顔を浮かべ鳩尾あたりを撫でていたのだ。ヴァルトアは椅子にもたれず両肘を机につくと、軍議に出てる者たちの顔をしっかりと見た。
「ウタリ。兵站線の構築に加えて、このオークを作り出した“狂科学者”の捜査も並行して進めてくれ。作り手は必ずいるはずだ」
「御意」
ウタリは即答するとスルホンが立ち上がった。
「ドリー師が実況見分したいと仰ってるので斥候隊を伴ってヴェッサへ派遣しよう。あとは掃討戦に出す兵はメリーナ姉さんに選抜してもらって俺とアニリィで出る──よし行くぞ、アニリィ」
アニリィは席から立つと隣のウタリを見やる。
「004号の照合、戻ったら私も手伝わせてください。……あいつ、クイラちゃんへの狙いを変えなかった。あの“執着”は訓練されてる」
「助かる、アニリィっち──さぁて、スルホン殿らの隊を飢えさせないためにも兵站をどうするか決めようか、クラーレっち」
そのウタリは向かいに座るクラーレに優しい口調で言うと彼女は表情を緩めて帳面を閉じた。
「なんだかヴァイラ隊にいた頃を思い出しますね」
「はは、確かにな」
ぞろぞろと執務室を出て行き、残ったのはヴァルトアとトマファ、そしてロゼットの三人だった。トマファは手に持っていた検案書の写しを二つ折りにし懐に仕舞う。
「ところでトマファ、容疑者はどういう人物か推定は出来てるか?」
「まさか。──ですが医学の知識があり、遺体や豚頭が簡単に手に入り、そしてアルカ島のスケルトン事件のように魔導学に精通した者ですから無知の徒ではありません。そして故意に倫理を踏み越える狂科学者なのは確かでしょう」
「ふむ」
ヴァルトアが小さく頷いた。トマファが「では失礼します」と静かに言って車椅子を漕ぎ始めると、ヴァルトアは彼の後ろに回り、車椅子を押して「片付け頼む」と言うと共に執務室を出ていった。残ったロゼットは残ったお茶を片づけながらふと机上の魔法陣を見た。線と円と古文字が結ばれ、中心へと集まるその形はひどく人間の目に似ていた。
「……メイドの私でも、吐き気がしました」
誰にともなく小さく呟き、ロゼットは視線を外した。湯気の立たないカップをワゴンに戻す手がわずかに震えている。彼女は知っていた、今夜は眠れない。いや、灯火を消して目を瞑ればその“目"がまぶたの裏に浮かぶだろうから。
ロゼットは執務室の片付けを終え、ランプと蝋燭を消すと背筋を伸ばして一礼した。窓の梁に住むアルラウネのカミラーが「おやすみ」と静かに手を振る。彼女は扉を閉ざし、暗闇が続く廊下へと出ると遠く夜哨メイド隊の消灯号令が夜気を裂いたのだった。




