180話 武辺者と、オークが遺したもの・2
「これが頼まれてた資料全部です、文官長殿」
「わざわざありがとうございます、ランズさん──はい、貸出カードと代金です」
領主館の文官執務室。トマファは図書館の司書長ランズに資料の取り寄せをお願いしたところ、夕鐘前までに執務室へと持ってきてくれた。普段なら図書館へ出向いて自身の目と足で探さなきゃいけないだろうが、司書長自らがわざわざ気を利かせて資料を取りまとめて領主館まで届けてくれたのだ。──なお意外でもなんでもなく本の貸出は有料だ。ランズは貸出カードに必要事項を書いて白銅貨を数枚受け取ると一礼して静かに部屋を出ていった。
ワゴンに山積みとなった書籍と丸めた羊皮紙の束、執務室内がインクと革の匂いがぐっと濃くなった気がした。
「さてと、ランズさん推薦の資料でも読みますか」
「言われてみれば、オークについて調べるって発想が今までなかったですね」
トマファがにこやかに言うとレニエとクラーレがワゴンからいくつかの書籍を自分の机へと移した。アニリィと医官たちの報告書を元にトマファ達はオークとは何かについて調べることにしたのだ。
「……『人魔大戦記』のここにも記されてますね。豚頭の半獣半人──オルクって名前で」
クラーレが広げた本の部分を声に出して読み上げた、トマファが顔を近づけると彼女はふと頬を赤らめる。しかし彼はそれに気づくこともなく冷静な眼差しで本を覗き込んだ。
人魔大戦記とは千年ぐらい前にセンヴェリア大陸で起きたとされる統一戦争をベースに歴史的事実をしっかりと織り込み、最後まで抵抗した王朝を魔族と見立てて描いた"軍記物語"である。歴史的資料としては疑問符は付くが、当時の風俗や文化、一次的資料との相違点を見る上でのベンチマークとされている。ちなみに実際に行われた戦の一つ一つを時間軸主観、人物主観、王朝主観で書かれているため、小さな紛争ですら多角的分析が出来るとして軍略学にも生かされているともウタリは言っていた。
その人魔大戦記にはオークに関する記述がいくつか見られ、たとえば数体のオーク兵が百を超えるエルフ兵を蹴散らしたとか、粗食には耐えるが飢えると凶暴化するとか、膂力が強すぎて通常の武器では強度が持たなかった──などが散見される。そして人魔大戦記よりも古い寓話にも「異形の者」とだけ記され、傍らに“オルク”の注釈が刻まれていた。だが実在を匂わす文献はどこにもなく、"物語"という世界から出てくることはない。ただし力強いオークに肖ってか、豚顔の皮を為政者の遺体の頭に被せて埋葬された事例はあったそうだ。
オークについてヴェッサのエルフ族にも聞き取り調査してみたところ“言うことを聞かない子はオークに食われるぞ”と脅しに使うと言うし、昔から“オークは危険なものだ”と教え込まれるという。そして秋の終わりの収穫祭に併せて村の若者がオークの恰好をして子どもたちを脅かす行事もあるという。幼き頃のそれを思い出したのかイオシスは襲撃時にパニックを起こしているし、エルフにはオークに対して畏怖心を植え付けるには充分だろう。しかしヴェッサでオークが出たという話はよく知らないと長老たちは答えていた。
エラールの王宮育ちだったレオナも幼い頃、我儘を言えば乳母から“オークの餌にすっぞ”と凄まれたというし、北方出身のクラーレも“オークやオーガが洞窟から出て来るよ”とさんざん言われたという。
一方、ルツェル出身のハルセリアやアンドラ、ビルビディア出身のエルザ(※スルホンの妻)は“私たちはトロルが来る"って言われたらしい。もちろんトロルやオーガも存在しない。地方によって襲ってくる魔物に若干の差異あれど『ありふれた異形』だということだ。
「ではトマファ殿、どうしてこんな空想上の怪物ってのが生まれたんでしょう?」
古ギュベル語で書かれた書籍を翻訳しながらレニエは訊く。
「先ほどの『数人の精強兵が百人もの兵を蹴散らした』って話はきっと実際に起きた事象なんでしょう。ですが物語性や娯楽性を追求した結果、"オーク"という架空の生き物を比喩表現として産みだしたのかもしれません。──若い子が“鬼っすねぇ”ってよく言いますが、鬼だっていませんよね? それと一緒ですよ」
「ですが──ヴェッサの森で回収されたのは伝承通りのオークですよ? じゃあトマファ殿はアレをなんて説明する気ですか?」
今まで部屋の隅で静かに資料を読んでたレオナがふと口を開く。
「じゃあ誰かが意図してオークを生み出し、放ったとしたら……?」
「だ、誰が何のためにですか!?」
クラーレの表情が急に歪む。執務室の全員が一度は考えた、そして一番考えたくないプランだ。異形の者をいたずらに生み出すだけでも罪深いことなのに、関係のないエルフ達の聖地を野放図に襲わせるなんてただただ卑劣だ。
「正直判りません。──ですが、推理小説の定石じゃありませんが、『ヴェッサの森や月詠の泉に被害を与えることで利益が生まれる容疑者X』の存在を推定し、証拠を集めるしかないですよ」
「レオナ嬢の言う通りです。──あと、今回の被害はゼロでしたが、第二、第三の襲撃があっても困りますし、それこそ人魔大戦記での記述通りに“百の兵を蹴散らす精鋭兵”を持つ軍団なんて脅威以外のなにものでもありません」
トマファは頷くと低くつぶやいた。クラーレは静かに羽根ペンを走らせ、議事録として業務日誌にまとめていく。執務室の中は重苦しいほどの沈黙が続き、外から聞こえる夜哨メイドの足音さえ不吉な予兆のように響いていた。