18話 武辺者の女家臣、ぶっ放す・2
窮屈な岩の通路を抜けた瞬間、ふいに空気が変わった。
私とパウラ先輩、大・小・ヒゲの冒険者さんたち、アニリィ様、そして錬金術師のテルメさん。計七人でたどり着いたそこは、明らかに自然の洞窟とは異なる空間だった。
荒削りの岩肌とは違い、天井も壁もなだらかに削られ、まるで人の手が入った“広間”のように思えた。息をのむほどの静寂が支配する中、私はついぽつりと呟いてしまった。
「うわ、なんか、ここだけ違くないですか?」
その声が、しん……とした空間に反響する。まるで石造りの教会で聴く讃美歌のような“荘厳な響き”――リバーヴが、私の胸をざわつかせた。
パウラ先輩はテルメさんの前に立ち、すぐにでも短剣を抜けるように構えている。その姿はまるで職人のように無駄がなく、背筋がぴんと伸びていた。さすが私の、――うん私の、相棒。
そして、アニリィ様はというと――広間の隅で這いずりながら地面を這って金探しをしていた。なんだろう、尊敬していいのか、軽蔑したほうがいいのか判断に困る人になってきた。
先頭を歩いていたヒゲが、片手を挙げて立ち止まる。すぐさま大がたいまつを持って横に並び、薄暗い空間の奥に私たちは“それ”を見た。
「おい、見ろ。――なんだあれ。門か?」
広間の奥、そこだけはまるで異世界から切り取られた遺構のような巨大な『門』が静かに立っていた。
石造りの両開き。幅は大人がぎりぎり通れる程度で、縦に長くそびえている。表面にはぎっしりと刻まれた模様――いや、『文字』のようなものが並んでいた。ぱっと見には、ただの幾何学的な線と曲線の羅列。しかし目を凝らせば意味のある文のようにも見えてくる。だが、誰一人として、その意味を読み取れる者はいなかった。
「――お宝の匂いがする、なぁ」
大が低く笑い、小はその横で鼻を鳴らして拳を握った。
「門ってことは、この先に何かあるってことだろ? だったら、とっとと開けるしかねぇだろ!」
そう言うや否や、小はピッケルを肩に担ぐと、無造作に門の継ぎ目らしき部分へ打ちつけた。
――カンッ!
甲高く乾いた音が、洞窟全体に響き渡る。
まるで金属同士がぶつかったような音だった。だが門は、びくともしない。まるで鋼鉄のように、その姿をぴたりと保っていた。小は眉をひそめ、もう何度か打ち込んでみたが、疵一つすらつかなかった。
「――駄目だ。全然びくともしねぇぞ」
小が汗を拭いながら振り返る。そこでようやく、ただの“門”ではないことに、皆が気付き始めていた。そのあとも大やヒゲで押してみたりもしたがびくともしない。
するとおもむろに、ヒゲが門の表面をボロ布でごしごしと擦り始めた。舞い上がる埃がカンテラの灯に照らされて、きらきらと宙を舞う。
パウラ先輩がするのを見て、私も慌てて首に巻いていたバンダナを鼻まで引き上げた。テルメさんも同じように埃を吸わないようにする。訓練生時代、こういう埃は絶対に吸い込むなと言われたのを思い出す。
「なぁ、錬金術師の姉ちゃんや。これ――あの壁にあった文字っぽいのが見えるんだが、読めるか?」
ヒゲが門の上部を拭き終えながら振り返る。その指差す先には、灰色の石肌に埋もれていた彫刻の文字が、淡い光を浴びてゆっくりと姿を現していった。テルメさんがパウラ先輩に守られながら門へと進む。しかし、彼女は私と同じぐらいの背丈なので、ヒゲが指差した文字がよく見えないらしい。
「姉ちゃん、俺でよかったら肩車してやるぞ?」
「お願いします……オルテガ様」
「様はやめてくれ。学者先生が冒険者ごときにそんな言い方、もったいないって」
大は耳まで真っ赤になりながら、頭をかきつつしゃがんでテルメさんをひょいと担ぎ上げた。「おい、俺がリーダーだろ! その役、代われよ!」と小が怒鳴っていたが――マッシュさん、あなたじゃ絶対に届かないと思うよ?
テルメさんは門に刻まれた文を目で追い、そっと呟いた。
我を開かむと欲する者は、知恵をもて形を極めよ。次の問いを解きて、その答えを我に示せ。
筒なるもの金板にて作らむ。その筒、両の端ともに金蓋にて閉ざされり。斯くのごとき筒積一定となしおきたる場合に、その作に要する金板を最少なく済ませむに底径と高の比、いかにせむや。その比を求め、底径、高にて割りたる数を答えとせよ。されど金板の厚さ顧みることなかれ。
耳にした瞬間、私は思わず息を呑んだ。
まさか――この門、クイズ形式で開けろってこと……?
「なぁ、なんかすっげぇ小難しいこと書いてねぇか? “金”って単語がいくつもあるしよ。……やっぱりこの先、金があるんだな?」
小が下卑た笑い混じりにそう言ったその隣で、パウラ先輩がぽつりと呟いた。
「――数学の問題?」
「わかるんですか!?」
私は思わずパウラ先輩に訊くが、彼女は静かに首を横に振った。そっか、先輩も私も初等学校しか出てないもんね。私はテルメさんが解読した言葉をメモに写し取り、それをアニリィ様に差し出す。国軍の士官だったのなら、きっと解けますよね! ……だよね? だって今日はずっと地面を這いずって、金探してただけでしょ!? ここぞというところで見せてくださいよ!
「え? 私が? わかるわけないじゃん」
――ずこーっ!
……で、ですよねー。
「じゃあもう、爆発させるしかないな。アニリィ姐さん、例のアレ頼むわ!」
小がご機嫌取りのように揉み手をしながら振り返る。
アニリィ様は「え~?」と気の抜けた声を漏らしつつ、肩をすくめた。てか小、お前アニリィ様がいないときは『呑んだくれアバズレ』とか言ってたの、知ってるんだからな! 急に“姐さん”呼びとか、どんだけ小物だよ! しかも揉み手がマジきもい。
「無理無理。あれね、お酒って『潤滑油』がないと打てないの。てか、いま禁酒命令中だしぃ」
「じゃあ! 帰ったらワイン一杯――いや一本つける! な? な?」
「――じゃあ考えとく~♪」
私とパウラ先輩は思わず顔を見合わせた。え、ええ……!?
本当に爆発させるつもりなの、この人たち!?
とはいえ、アニリィ様の手のひらに浮かんだ小さな火球は、ぱちぱちと瞬いたあと、すぐにしゅんと消えてしまった。どうやら『潤滑油』が本当に必要らしい。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は思わず声を上げていた。「この問題、意味があるはずです! たぶん、ですけど! 破壊したら取り返しのつかないことになるかもしれませんよ!?」
するとヒゲが、ふむ、と顎に手をやってうなずいた。
「確かに……その可能性はあるな。で、だ。――この中で、これ解けるやつ、誰かいるのか?」
私たちの視線が自然とテルメさんに集まった。唯一の学者、唯一の希望。どうか、お願い――この門、正攻法で開けられますように……!
ヒゲがちらりとテルメさんを見た。
「なぁ、学者先生よ。あんた錬金術やってンなら数学もイケるんだろ? さくっと解いてくれよ」
「――はい?」
「ほら、おめぇさんは“理系女子”ってやつだろ? 頭柔らかいって聞くし。若いし。スタ●プ細胞とか、あるんだろ?」
「ありません!」
間髪入れずに、テルメさんがきっぱりと否定した。あ、やっぱ無いんだ、ス●ップ細胞。ちょっとがっかり。
「――んじゃ、おいちびっこギャル。お前はどうだ?」
「え? わ、私ですか? いやいや、無理無理! 解けると思います?」
「じゃ、パウラさんは?」
「――無理」
ふたりして即答で否定。ヒゲは肩をすくめながら、門に刻まれた“謎の問題”の翻訳メモをくしゃくしゃの手帳に雑に書き写し、それを私に押し付けてきた。受け取ったメモを見て、私は再び絶望する。――文章の意味がまずわからない。てかこれって本当に答えがあるんですか!? パウラ先輩が数学って言ってたけど、どこをどう計算するんですか?
「すまん、俺らはこのまま調査を続ける。斥候のお嬢たち。このメモを地上へ持ってって、誰か頭のいい奴に見せてきて答えを調べてみてくれ」
「「了解!」」
私とパウラ先輩は、きびすを返して敬礼した。けれど、一つ懸念がある。絶対、見過ごせないやつ。
「――どうした、ちびっこギャル?」
「アニリィ様を――彼女にくれぐれも酒は与えないでください。絶対ですよ?」
「善処する。――たぶんな。酒は持ち込んでないはずだが、まぁ……うん、たぶん」
語尾が妙に弱いのが、いっそう不安をあおる。でもここはヒゲを信じるしかない。私とパウラ先輩はメモをしっかりと胸に抱き、地上へ戻るべく踵を返した――その背後で。
「よっし、アニリィ姐さん! 飲む? 飲む? んで、爆発、しよ?」
「おー、いいねー! 爆発の準備しとくかー!」
おーい! ヒゲーーー!!
お前の“善処”って、宴会の仕込みすることだったの!?
しかもテルメさんまで車座で腰下ろしてるし! あの知的美人、思ったよりノリが良いタイプだった!
「ねぇパウラっち、ジュリアちゃん。定時になったらちゃんとアガりなさいよー? それとテルメちゃんも連れて帰ってね~」
そんな呑気な声を、アニリィ様が笑顔で投げかけてくる。
……信じて、いいのかな、この人たち……。
「大丈夫でしょ。――閣下も、そこまで、馬鹿じゃない」
パウラ先輩がため息まじりに呟き、私の手からメモを受け取る。そしてじっとそれを見つめた。けれど私は、ううん、私だけは思ってしまう。このままだと、やらかす――絶対に。
「ジュリアっち。これ、誰かに、見せよう。数学、得意な人」
「はい、そうですねパウラ先輩」
私たちは走り出した。
奇妙な問題を握りしめ、謎の門を前に足踏みする仲間たちのために。
そして“爆発魔法でどうにかしようとする破天荒な女勇者”から未来を救うために――!
「じゃ、行こうか!」
背中に酔っ払いの錬金術師・テルメさんを背負ったパウラ先輩が、いつもの調子で前を駆け出す。いつの間に飲んでたんですかあなた!
* * *
私とパウラ先輩は、洞窟から街へと続く道をひた走る。パウラ先輩は酔っぱらったテルメさんを背負い、私の手には、あの謎の門に記された『問い』を写したメモ。先輩が前方、私が後方。斥候が撤退する時のの基本配置だ。地上に近づくにつれ、遭遇するゴブリンの数も増えたけれど、先輩の手信号を頼りに、私は無駄な戦闘を回避し続ける。
(やっぱり……すごい)
ぐんと前を駆ける背中。息は少し切れてるはずなのに、まるで迷いがない。
ようやく地上へ抜けたとき、見慣れた『アニリィ様製トイレ用脱出口』が目に入った。
「うう、ちょっと……マジ、走った」
ぽつりと先輩が呟く。え、珍しい。弱音? かわいいかも。それともテルメさんが重かったとか?
「ジュリアっち、大丈夫そ?」
「えぇ、大丈夫です。――厳しい先輩に鍛えられてますから!」
そう返すと、パウラ先輩はふいに視線をそらしながら、頬を赤くした……ように見えた。いや、きっと夕焼けのせい。そう思いたい。ちょうどその時、月信教寺院の夕鐘が響く。訓練生時代はこの鐘を聞くとホッとしたんだよね。だってメリーナ小隊長の地獄の訓練の終わりの合図だし。今じゃ日勤業務の終業の鐘でもあるんだけど。
「あ、もうそんな時間ですね」
「じゃあ、帰ろう」
アニリィ様がぶち抜いた“トイレ用通路”のおかげで、洞窟近くにあった仮設の廠舎はすでに撤収され、今は部隊の隊舎に戻ることになった。私とパウラ先輩、そしてテルメさんは、夕暮れ迫る洞窟を抜けて地上へ出て、キュリクスの街への道を歩く。なんというかもうぐったりだった。先輩も私も汗と埃まみれ。テルメさんに至っては、完全に酒が入っててふらっふら。洞窟内は急ぎの移動だったからパウラ先輩が背負ってたけど、地上に出れば歩けるよね? ――だめかも?
「うふふ……ちょっと揺れる地面……。こら地面、真っすぐ歩きなさいっ」
西の門で入城手続きをする際、テルメさんがふらつく足取りだったので、警備兵から「――あなた、飲んでます?」と訊かれたが、テルメさんは「まだ酔い(宵)のうち♪」と天使のような笑顔で返していた。逆になんか怖い。
「大丈夫――私は、頭脳労働の、錬金術師ぃ! 知性と、論理と、エレガンスの体現者……。帰りは、あの……あれ、馬が引く、あの、ほら……」
「辻馬車?」
「そう、それ! それに、乗って、帰るの……。乗り場、こっち、で……したっけ?」
なんとか辻馬車の停車場まで付き添い、東居住区行きの便に乗せると、ほっと胸をなでおろした。
「――パウラ先輩。テルメさん、ちゃんと家に着きますかね……」
「東居住区の終点、あの“小屋”ギルド前。寝過ごしても、大丈夫」
あぁ! だから御者さんに「錬金術ギルドの技師!」と何度も言って乗せてたんだ。パウラ先輩めっちゃ賢い! そんなことを言いながら歩いていると、ふと、私の心にぽっと火がともった。石畳の道を二人で歩く。街灯に照らされる道、まだ手に汗が残るメモを私は握りしめたまま。
「――あの、パウラ先輩」
「ん?」
声が少し裏返りそうになる。でも勇気を出して――言った。
「よ、良かったら……このあと、飲みに行きませんか?」
ぴたり、と先輩の足が止まった。振り返るその顔に、やっぱり……赤みが差して見える。そして、少し間を置いて、小さく、まるで乙女のような声が返ってきた。
「……うん、いいよ」
どくん。まるで心臓が跳ねたみたい。わ、私の方が動揺してる!?
「えっ、い、いいんですか?」
「……うん。ジュリアっちと、飲みたい。相棒だもん」
その言葉は、いつものぶっきらぼうな調子じゃなかった。たどたどしくて、でも、心の奥からしぼり出したような声色で――私はもう、それだけで胸がいっぱいになった。
「じゃあ、私、奢ります! 先輩の分!」
「えっ、そんな、私が出す……」
「だって私から誘ったんですもん!」
「……じゃあ、半分こ」
照れくさそうに目をそらすパウラ先輩。ああもう、かわいいんだから!
「パウラ先輩、おすすめの酒場ありますか?」
「ううん……ジュリアっちの、おすすめがいい、キュリクスの町、よく、わからないし」
そっか。領主様と共にキュリクスに赴任してきたんですもんね、パウラ先輩って。
「じゃあ、ぜひ行きたい店があるんです。訓練隊時代の相棒の実家で、前から一度行ってみたかったんで!」
その名は『酔虎亭』。
訓練隊時代のアレな相棒の実家で、停車場近くにある酒場だ。
訓練隊の卒業式のあと、『迷惑かけたからぜひ飲みに来てよ』と殊勝な事を言っていたのでせっかくだし行く事に。猫みたいな奴だと思ってたけど店は虎なのかよ。
店の中に入ると、こじんまりとした立ち飲みスタイルの店だった。客層はというと職人街が近くにあるから仕事上がりの親方衆が多いって印象。いかつい親父がガハハと笑いながら小さな樽、いや親父たちがいかついからそう見えるだけ、を囲んで一杯やっていた。
「あら、軍人さんいらっしゃい! 好きなとこ使ってねぇ」
笑顔の小柄な女将さんが、お盆片手に出迎えてくれる。ざわざわと賑わう店内。テーブル代わりの樽を見つけて、私たちはそこに立つ。その女将さんを見ているとプリスカの顔が透けて見える、あぁ間違いなく母子だわ。
「領主軍の方ですよね? ウチの娘、お世話になってます……ご迷惑、おかけしてませんか?」
「プリスカのお母さまですよね? 私、訓練隊時代の――」
「あらま! ってことはあなたがジュリアちゃん!? ――うわぁ、うちの子が本当におご迷惑を!」
深々と頭を下げる女将さんを慌てて制する。いや、たしかに大迷惑だったけど、ここで謝られると逆に申し訳ない! 耳元で『サービスです』と言いながら手にしたジョッキを二つ置いて、
「――プリスカ、ジュリアちゃん来たわよ!」
と、その声が響いた瞬間、店の奥から、ぴょんっと軽い足音がする。
「え? あ、ほんとだ! ジュリア、ひっさしぶりーっ!」
なんと店の奥から小柄な影が弾丸のように飛んでくる。客が使っている樽をいくつも前方宙返りで飛び越えながら――え、ちょっと待って、両手にカップ持ってる!? なんでこぼれてないの!? こら、もういっちょって言いながら前宙するな! ぱんつ見えてるって!
「ジュリア、斥候隊どぉ? なんかさ、メイド隊で活躍してるって噂になってるよ!? ――あ、あなたが今の相棒さん? どうも! 私の元・相棒がお世話になってます!」
「パウラです」
ぺこりと頭を下げるパウラ先輩。その横でプリスカは相変わらず元気いっぱいにしゃべりまくる。
「パウラさんって階級章みると伍長なんですね! すごーい! メイド隊で言ったらパルチー先輩やステア先輩と同格だよ!? ――あ、これ私からのサービスねっ!」
くるっと回転しながら、今度はグラスワインを持ってくるプリスカ。あのね、転んだら一発で店じゅう酒びたしだからね!? ほんと器用すぎるでしょ!
「ねぇ、プリスカ……そのメイド隊の制服、まさかそのままの恰好でここで仕事?」
「あ、うん! 縫製しっかりしてるし、着心地いいし? ね? ねっ?」
――うん、それ絶対ダメなやつだよ。服務規程で副業は禁止されてないけど、その副業を『業務中の制服や戦闘服で行ってはならない』って書かれてるから!
そんな中。
「あれ――?」
私の目に留まったのは、店の奥でじーっとこちらを見ている人影だった。
「あの奥にいるのって」
「マイリスさん。めっちゃ、見てたね――あ、こっち来た」
領主館のメイド隊副長のマイリスさん。あのオリゴ様の右腕にして、生真面目一直線のあの人がジョッキ片手ににっこり近づいてくる。左手にはおつまみの盛り合わせ(ソーセージ3本とキャベツの酢漬け)まで持って。――ただし、プリスカは気づいていない。というか周りのお客さんに自分の仕事について熱弁を奮う、たぶんプリスカ人生最大のミス。
「プリスカさん、ごきげんよう」
「はーい、ごきげ――ッ!?!?」
本当に“今の今まで”気づいてなかったらしい。固まったプリスカの顔は青ざめて、目をぱちぱちさせている。これが『Majiでピンチの五秒前』って顔だよね、もしくは逮捕の五分前?
こいつのこんな顔、初めて見たかも。
「……あなたの制服だけ、汚れ方が他のメイドたちと違うなって思ってたんだけど。――そういうことでしたか」
マイリスさんが、すっとジョッキを私の前に置く。そして、空いたその右手がプリスカの顔をがっしり掴んだ。
ギシギシギシ……。
耳でわかる、プリスカの頭蓋骨というか蝶型骨の悲鳴。こういう時、ちっちゃい顔って損だよね。プリスカがどんな顔をしているか見えないけど、間違いなく絶叫してるはず。
「詳しい話は明日、オリゴ様と共に伺います。――日朝点呼までに、必ず、遅れずに、出頭を」
「ひ、ひゃい……!」
はぁ、やっちまいましたなプリスカ……南無。
「なぁマイリス。君のアイアンクローは本当に痛いからさ、使い方は少し考えよう?」
ふと、柔らかな声が店の奥から届いた。見れば、気品を感じさせる青年が苦笑しながらマイリスさんの隣に立っていた。眼鏡をかけたすらりとした長身。手には彼女のジョッキの“お代わり”を持っている。
「ジュリアっち。この方、テンフィさん。マイリスさんの、旦那さん」
「えっ!? 知ってるんですか?」
「うん。たまに話す。――昔、教師だった人」
パウラ先輩がぽつりと呟いた。
――教師!?
その言葉に、胸がどきんと跳ねた。
私は思わず胸元にしまってあったメモを取り出すとテンフィさんに顔を向ける。
「あの……すみません、突然なんですけど。お願いが、ひとつだけ。――あ、斥候隊所属のジュリアです!」
少しだけ緊張しながら声をかけると、マイリスさんがにっこり笑って首を傾ける。
「あらジュリアちゃん、まさか……NTR?」
「その発言の意味がわかりません!」
なんで微笑みながら変なこと言うんですかこの人は!
そんなやり取りを挟んで、テンフィさんが眼鏡を押し上げて私を見る。
「おや、どうしたんです?」
「これを……これを読んで解いていただけませんか?」
私は、ヒゲさんから預かったあのメモを差し出した。テンフィさんはそれを丁寧に受け取り、視線を落とす。
しばしの静寂。眉間に皺を寄せじっと文字を見つめるその姿を見て、私は祈るような気持ちでテンフィさんを見守る。
「――これは、いったいどこで?」
「現在調査している洞窟の最奥で発見されたものです。アニリィ様が、“解ける人に託してこい”と」
「なるほど……つまりこれは、アニリィ様からの――挑戦状ですね?」
急に目を輝かせ、テンフィさんの指がメモの上を滑る。そして何かをひらめいたように呟いた。
「――ああ、これは“円筒の表面積”の最適化だ。“底面×2+側面”の合計を最小に……ああ、なるほど!」
すごい勢いで式を立て始めたテンフィさんは、鞄から石筆を取り出すと、近くの樽の上に躊躇なく突き立てて書き始める。
「ちょ、ちょっと! それウチの備品だからね!?」
と、プリスカの小声のツッコミが入るが、誰も止められない。
「底面の半径r、高さh。総面積Sは――、これをrについて最適化して――導き出されるのは、r = h、つまり底径と高さが等しい時に金属板の使用量が最小になる。――はい、解けました」
樽の上に踊る数式、そして書き込まれる注釈。マイリスさんがうっとりとした顔で見つめ、私もパウラ先輩も古代文字をみるかのごとくそれを見る。
「答えは“底径:高さ=1:1”。つまり、底と高さが同じ時に、必要な金属板の面積が最小になります。解答は1ですね! って見せかけておいて2です!」
そう言って、テンフィさんは誇らしげに私を見た。だけど正直何が書いてあるのか全くわからない。私が数学で知ってるのって三角形の面積くらいだし。
「す、すみません。私、初等学校しか出てなくて……」
「いえいえ! むしろ、ヴァルトア様の計らいで近いうちにこのキュリクスで夜間学校が開かれる予定なんです。興味があるならぜひとも遊びにきてください」
どこまでもまっすぐな先生だった。
「――で、この解法で……門は開く、んですよね?」
「理屈の上では、間違いなく。この設問を作った数学者がへそ曲がりでないなら、確実に答えは“2”で通じるはずです」
私は思わず拳を握る。
「ありがとうございます、テンフィさん! ――さぁパウラ先輩、急いで戻りましょう!」
そう言った私に、テンフィさんがにこやかにひと言。
「酒気帯びで現場に戻るなんて――まるでアニリィ閣下ですね」
「うっ……!」
ズドーンと胸に突き刺さった。まじで、それはグサっときます、凹みます!
「まあ、明日でいいじゃありませんか。アニリィ様のことです、どうせ――」
「――アニリィちゃんのことだからとっくに爆破してるかもしれないわよ?」
マイリスさんがぽつりと呟いた。それは笑いながらだけど、どこか現実味があった。
「でもさ、もう終業でしょ? 一緒に飲もうよ」
ジョッキを手にプリスカがやってきたが、『あんたは働いてなさい。そして早く着替えなさい!』とマイリスさんに叱られてた。ちぇーって言いながらプリスカがメイド服を店の中で脱ごうとした。みんなで止めた。親方衆からも『しょんべんくさいガキのストリップなんか見たくねぇ』って言われてた。ちょっとかわいそう。
その後、私たちはそのまま酒場で歓談した。マイリスさんが酔いながら披露する“出会いののろけ話”がとんでもなくて――。
「私、実家が小作農だったんで、実は入隊時は文字の読み書きすら出来なくて。ですからメイド隊に入って階級が上がっても命令書が読めないんです。それで夜間学校で文字を勉強してたんですよ。日が暮れてからの授業で、眠くて眠くて。でも、そこで教鞭をとっていたのがテンフィさんだったの」
「教壇に立ったときから気になってましたね。『この子は眠そうだけど、真面目だな』って――それが第一印象でした」
「そこから、まぁちょいちょいあって恋が始まってたのよね。あの時の夜の事とか、今でも思い出せるのよ!?」
――いやもう、すごい。私もパウラ先輩もお互い顔を見合わせて笑うしかなかった。『ごちそうさまです』って二人で言ってしまった。気が付けば、私たちは樽の上に手をついて笑っていた。
「あと、パウラさんって『赤風車』の踊り子だったでしょ?」
へべれけに酔ったマイリスさんが、ふいにそんなことを言い出した。
「私が夜間学校に通ってた頃、近くに『赤風車』てキャバレーがあってね。そこでセンター張ってたティターンちゃんの相手役、男装の踊り子が――あなたでしょ? 五年くらい前の話だけど」
それを聞いたパウラ先輩は、耳まで真っ赤にして俯いた。恥ずかしそうに、でも誠実に小さな声で応える。
「――はい」
なにそれ、すごいんですか?
てか、パウラ先輩の男装の踊り子ってのがパワーワード過ぎ、その破壊力はちょっと想像を超えてた。
「ジュリアさん、『赤風車』って踊り子の世界じゃ登竜門よ。そこのセンターの相手役なんて、本当に踊りが上手くて、背が高くて、見栄えがする子しかできないの。――どうして辞めちゃったの?」
マイリスさんの無邪気な質問に、パウラ先輩は言葉を詰まらせたまま、瞳にうっすら涙を浮かべていた。あっ、これ以上は聞いちゃいけない話だ。私はすぐにマイリスさんにアイコンタクトで制止を送る。たしか、支配人と大喧嘩して辞めたってアニリィ様が言ってたけど――きっと、それだけじゃない。
「そっか。残念ね……。ねぇ、ちょっと踊ってみせてくれない?」
「え、えぇぇぇっ!?」
まさかの無茶ぶりに、私が思わず叫ぶ。けれど隣にいたプリスカが唐突に反応した。
「え、踊るの? 四拍子? ――じゃあ、八分の六拍子で」
そう言うと、ドンチャッチャッと口でリズムを刻みながら、手拍子を打ち始める。周囲の酔客たちも「お?」とざわつき、リズムに合わせて手を叩き出す。ちょ、やめようよ、先輩が可哀想じゃ――
でも、パウラ先輩は何か覚悟を決めたのか、顔つきが変わった。そして軍服のままだけど半長靴を脱いで裸足になると、すっと右手を前へ突き出す。左足を引き、体を低く構える。その一歩が踏み出された瞬間、空気が変わった。
――美しい。
長身の体躯が、手拍子に合わせてしなやかに、滑らかに、そして鋭く動く。重さと軽さを同時にまとった動き。全身が言葉を持って踊っているかのようだった。指先の一本、身体の筋一本で流れを表現する動き、それが踊りなんだ。
そこへ、プリスカがひょいっと飛び込んでくる。くるくると前転して軽やかに舞い、パウラ先輩と向かい合って踊りだす。ふたりのステップはまるで打ち合わせたかのように噛み合い、呼吸がぴたりと合っている。
テンフィさんが私にぽつりと説明してくれた。
「パウラさんの踊りはね、相手の動きを“導く”タイプなんですよ。指先ひとつ、足の位置ひとつ、顔の位置ひとつで、相手の演技を最大限に引き出すんです。プリスカさんは、それに応えているし、パウラさんはそれに併せてますよ」
確かに。ふたりはたった今出会ったとは思えないほど完璧な“ペア”だった。
「おいおい! 俺たちの酔虎亭、キャバレーになったのか!?」
「もう一曲いけー!」
「おい、誰か辻音楽師呼んでこい!」
親方衆がやんやと大騒ぎする中、ちょうど仕事帰りの吟遊詩人がいたらしく、酒場の空気がさらに高まっていく。詩人はリュートを肩にかけ、中央の空いた樽の上に腰かけると、静かに指を弦に落とした。爪弾かれる旋律はやさしく、少し哀しげで、どこか誇り高い。吟遊詩人が高らかに唄い出したのは――『白鳥騎士物語』だった。
物語の中での白鳥騎士は、遠い異国から白鳥の舟に乗って現れた正体不明の勇者。
彼はブラバント公爵令嬢エルザを不当な訴えから救うために戦い、勝利し、愛を語る。けれど、その条件はただひとつ――「私の素性を、決して問わないこと」――それが破られた瞬間、物語は悲劇へと転がってゆく。
ふたりが婚礼の儀を前に大聖堂へ入るシーン、歌声とリュートがそれを描くと、パウラ先輩とプリスカの踊りにもいっそう深みが加わる。見ているだけなのに、胸が締め付けられるようだった。物語の中の登場人物たちの不安と希望と、覚悟が伝わってくる気がした。
でも、私がこの物語の中で一番好きなのは――
吟遊詩人の声が一瞬だけ静まり、間を置いたあと、低く力強く、まるで宣誓するように響いた。
「我が国のために、我が国の剣を持て――!」
――その台詞だ。
親方たちも右手に盃をもって「俺らも俺らの剣を持て!」と叫ぶ。飲み屋でこの場面を謡うと親父たちはそう叫ぶのはお約束だけど――私も腰に差した短剣を抜いていいかな? 駄目だよね、メリーナ小隊長から叱られるよね。あ、目の前で投げナイフ抜いてるメイドが二人もいたわ。
「我が国のために、我が国の剣を持て――!」
物語の中で、王ハインリヒが白鳥騎士に語った言葉。
あの瞬間だけは、物語の中の誰よりも、白鳥の騎士が“国の希望”だった。
その一言を読んだとき、まだ訓練にも志願していなかった私は――胸がぐっと熱くなったのを覚えてる。「私も、誰かにそう言われたい」って思った。
そう。私が軍に志願したのは、たぶん、この一文のせいだった。誰かに必要とされる剣になりたい。役に立ちたい。自分のことなんて誰も見ていないって、ずっと思っていたけど――。
もしも、自分の名前を呼んで、「この国のために、お前の剣を貸してくれ」って言ってもらえたなら、それだけで、私は、どこまでも戦える気がした。――それが、夢だったんだ。
実際は、そんな大仰な命令なんて誰からも出されてないし、戦争だって起きてない。でも、今の私は、キュリクスを守る一兵士。ヴァルトア様のために、剣を預かる者。まだ未熟で、まだ弱くて、泣いてばっかりだけど、それでも、あの言葉に憧れた私の剣は、ここにある。もしヴァルトア様がそう仰ってくれたなら、私は喜んで剣となろうと思っている。士気爆上がりだとおもう。ついでにあの腐りきった新都のバカな王族どものケツを蹴り飛ばしたい!
そして今――
目の前で踊るパウラ先輩とプリスカは、たった一度の即興で、まるで長年連れ添った舞姫のような息の合い方を見せていた。すごい。感動した。なのに――少しだけ、胸がきゅうっとなった。だって今日初めて出会った二人が、こんなにも息ぴったりに踊れるなんて、ちょっとずるいよ。
私がプリスカのように踊れるわけもないし、パウラ先輩とあんな風に“並べる”気もしない。
ただの羨ましさ? ううん、ちょっと違う。悔しい。――悔しいのか、私。
きっと、踊りじゃない。“心が通じ合ってる”ことが、悔しいんだ。私も、先輩ともっと息を合わせたい。心を通わせたい。そう思った。
後で女将さんがこっそり教えてくれた。
「プリスカね、実はあの子、踊り子になりたかったのよ。でも背が小さすぎて、舞台映えしないからって落とされてね――」
と。そうだったんだ。だからあれだけ踊れるんだ。だけど踊り子を諦めてなぜ軍隊に? そしてなぜにメイド隊へ志願? 女将も判らないといってたけど、私にも判らないや。
パウラ先輩とプリスカの踊りが終わると、ふたりは腰に手を当てて、西国風のレヴェランス。粋で、堂々とした締めだった。拍手が巻き起こり、吟遊詩人のリュートケースには銅貨が雨のように投げ入れられる。ときおり、白銅貨まで混じっていた。
その後も、マイリスさんが酒の勢いでナイフジャグリングを始めたり―― テンフィさんの頭の上にジョッキを置いて、的にしたり。いくらなんでも、領主館のメイドがやる芸じゃない!
夜鐘が鳴り響く頃、店の中は笑いと拍手に包まれていた。
投げ銭で飲み代がぜんぶ賄われてしまったのはちょっと悔しかったけど――楽しかった。ほんとうに、楽しかった。また来よう。今度はもっと、先輩とちゃんと“相棒”として隣に立てるよう。
★ ★ ★
――一方、酔虎亭で盛り上がっている頃、洞窟の最奥。
ぼんやりと青白い光が差し込む奥深く、厳めしい石造りの門が、沈黙のままそびえ立っていた。まるでそれ自体が意志を持ち、眼下の者たちを見下ろしているかのような、荘厳な門。
「ダメだ。こいつ、びくともしねぇ。ああ見えて、構造強度が異常だ。斧もハンマーも通じねぇよ」
「だからさぁ、もう魔法でぶち破ろうぜ? 姐御、そろそろいいでしょ?」
振り返った小の視線の先、酒瓶を片手に胡坐をかいて座っていたのは、例によって酒気を帯びたアニリィだった。
「……ん~、まだちょっと足りない……。もう一口、火酒ちょうだい」
「まーたそれか! 姐御、もうだいぶ飲んでるって!」
「酔ってなきゃ爆破なんてやってらんないのよ……だって、火気厳禁なんだもん」
「ならやめとけよ!」
ヒゲが心底うんざりした顔をしつつ、大がしょうがねぇなと瓶を渡す。アニリィはそれをくいっとあおってから、ようやく立ち上がった。
「よし、じゃあいっちょ、ぶちかましてやりますかぁ。ぼっちをこじらせた私たちの咆哮を!」
「よし来た! ボッチ姐御の咆哮、門に轟かせてやれー!」
アニリィの笑顔は、いつもの軽やかさと違う、どこか狂気を帯びた“酔いどれ特有”の輝きがあった。それをやんやと小が酒瓶掲げて叫ぶ。
「念のため確認だけどさあ――開かなくても誰のせいでもないよね?」
「誰よりも姐御のせいだけどな。頼む、一発で吹き飛ばしてくれ」
「わかったわよ――我が内に眠る炎よ、秘められし魔力よ――」
アニリィは右手を突き出すと目を閉じた。そして左手に持つ火酒を一口らっぱ飲みすると詠唱を始めた。小はヘルメットを被るとアニリィの後ろに避難する。大とヒゲはもともと後ろにいたので、小がうろちょろしているようにしか見えない。
「――古よりの主神に誓い、我が魂と炎を捧げ、奇跡を起こす――」
アニリィが突き出した右掌に具現化した詠唱スペルが青白い炎球となって小さく輝きだす。
「てか、この中でボッチなの、アニリィ閣下とマッシュだけじゃん。オルテガには嫁いるだろ? 鬼嫁だけど」
「うるせぇ! ――姐御に聞かれたら集中が途切れるぞ」
「――奇跡を起こす……! え、オルテガってボッチじゃないの?」
アニリィの掌に集まる炎球にいくつもの火花が飛び散り、あたりを青白く照らす。冒険者たちは耳を塞ぎ、慌てて岩陰へと身を寄せた。
「あ、あぁ。――それ言ったらガイヤなんてかわいい娘もおるぞ?」
「ちょ、お前ら余計な話してんじゃねぇよ!」
小が慌てて叫ぶが、すでにアニリィの集中は少しだけ乱れていた。
「――爆ぜろリア充ッ! აფეთქება(アフェトケバ)!」
――詠唱の最後尾が、派手にブレた。それは爆発魔法“中”じゃない。現在では王国内で禁忌魔法となっている『爆破魔法・大』だ。空気が一瞬沈黙し、洞窟の天井に微細なひびが走った。その直後。アニリィの掌から放たれた蒼白の炎球が、洞窟の静寂を裂いて一直線に走った。――そして次の瞬間。
どどどどぉぉぉぉんんんん!!
風がうねる。空気が波打つ。視界が一瞬、真っ白になった。
「うわあああああああッ!!」
「耳がッ! 鼓膜が!!」
「俺のリュック飛んでったァ!!」
爆風とともに巻き起こる砂塵が視界を奪い、洞窟全体が低いうなり声のような振動に包まれる。岩肌が悲鳴をあげ、遠くで石が崩れる音すらする。まるで、最深部そのものが咆哮したようだった。
舞い上がった煙と砂塵の向こうにアニリィがふらふらと立ち尽くしていた。顔は煤け、目は虚ろ、髪は爆風で逆立ち、肩で息をしている。
「ふっ……ふふっ――ふはははっっ!」
笑い始めた。完全にテンションがおかしい。これはダメな方のアニリィ様だ。
「お、おい、門が開いてるぞ! ――おいッ、金だ! 金があるぞ!!」
思わず叫びながら、小が中へ駆け出す。アニリィはふらふらとしながら彼を追い、酔ったまま門の亀裂を指でなぞる。
「ね? やっぱり爆破って、ロマンでしょ」
「やりすぎだよ!」「大丈夫かよ姐御」
門に寄りかかるアニリィの肩をヒゲと大が二人でしっかりと支えた。
「お前らも早くこいよ! 金だぞッ!」
一人だけはしゃぐ小、目の前の光景だけは――疑いようもなく、本物だった。
ついに固く閉ざされていた門は開かれた。金はそこにあったのだ。
少なくとも――今のところは、誰もその“代償”に気づいていなかった。
★ ★ ★
「……パウラ先輩、奥から、なんかすごい音が――!」
「私も、聞こえた。――行くよ、ジュリアっち」
パウラ先輩の声に頷いて、私は洞窟の奥へ駆けだした。
爆風で舞い上がった砂埃のせいか、視界が霞んでいる。焦げたような臭いが鼻をつき、天井の岩肌には煤がくっきりとこびりついていた。壁の一部がえぐれ、足元には黒く焦げた小石や金属片が散乱している。
まるで戦場の跡みたいだった。――でも、違う。これは、爆破魔法の仕業だ。
私たちがたどり着いた時には、門はもう開いていた。
あの堅牢そうだった石の扉は大きく開き、その横にアニリィ様がぐったりと腰を下ろしていた。顔は煤だらけで、腕はだらりと力が抜けている。
その傍にはヒゲ――ガイヤさんが付き添っていた。アニリィ様の肩を支えるようにして、なにやらぽつぽつと話しかけている様子。
門の向こうでは、大と小が笑いながら跳ね回っていた。二人ともズボンのポケットに、なにかキラキラ光るものを必死に詰め込んでいる。
「えっ、なに。もう――全部、終わってるの?」
言葉が喉の奥で引っかかって、絞り出すように呟いた。心臓がざわざわと落ち着かない。今までの努力も苦労も、全部置いてきぼりにされた気がした。せっかくテンフィさんに解いてもらったのに、遅かったか!
「ぶちかましたわね」
パウラ先輩がそう言った。冷静な声だった。でも、その視線は門の奥に据えられた壇上へと真っ直ぐ向いている。私もその視線を追って、ほんの少し歩を進めた。そのとき、足元で何かを蹴飛ばした気がした。
「……あれ?」
地面に転がっていたのは小さな革袋だった。どこからか吹き飛ばさてきたのか、それともまるで“そこにあるべくしてあった”みたいに、きれいに転がっていた。パウラ先輩が短剣の先で引っ掛けてひょいと拾い上げる。袋の口を軽く開いて中を覗いた先輩が、ぽつりと呟いた。
「――麦? 手紙も入ってる」
中には細かい文字がぎっしり詰まった紙片と脱穀前の麦粒がびっしりと詰まっていた。巻物らしき紙には見慣れない――でもどこかで見たような古い文様が記されている。
「これ、グラバル語? 読めない」
「パウラ先輩、地上に戻ったらまたテルメさんに解読してもらいましょう。とりあえず、なんでこんなところに麦なのかもわかんないし」
「うん、私も、そう思う」
それだけ言うとパウラ先輩は革袋を懐にしまった。その間も、あの小粒金を拾いまくってる冒険者たちは私たちに目もくれず踊り狂ってるし、アニリィ様はまるで屍のようになってヒゲさんに支えられてる。
「それより、アニリィ閣下、大丈夫そ?」
「てかアニリィ様……大丈夫ですか?」
思わず声をかけると、アニリィ様がうっすらと目を開けた。
顔は煤まみれで、髪も服も爆風でぼさぼさだ。でも、口元だけは相変わらずのんきにゆるんでいた――。
「あ、ジュリアちゃん。お酒、持ってない?」
「ば、馬鹿ですか!?」
そう言いつつも、私は冒険者用の食料袋から昼食用のワインを一本取り出してアニリィ様に差し出した。アニリィ様はそれを見た瞬間、がばっと起き上がると一口であおった。
「んくっ、ぷはーっ! 生き返ったーっ!」
そして、あろうことか門の奥へ駆けだした。
「金! 私も拾うーっ!!」
「姐さんには、俺様の貴重なモノを二つと一本くれてやる!!」
小がズボンに手をかけ、腰をぐいっと動かすような仕草をした。
「や、やめてぇぇぇっ!! そういうのマジでダメなんですぅぅ!!」
もう、泣きそう。やっぱり、小のこと、ほんとうに嫌い!
* * *
キュリクスの街に戻ったとき、小を先頭に大も自慢げに胸を張りながら、大荷物のリュックを抱えていた。
「いやぁ、俺たち、やったんじゃねぇの!? 俺、酒場のツケ全部払えるわ! あとアレだ、女も――」
「マッシュ、お前ほんとそれしか考えてねぇのな」
「あったりめぇだ! おめぇもこれだけの戦利品持って帰ったら鬼嫁も子猫ちゃんになるだろうよ!」
「や、やめろよッ! ――もぉ」
大と小の浮かれた声が響くたび、まるで宝を抱えて帰ってきた子どもような顔だと分かった。目が輝いていて、止まらない下らない話が続く。そしてどこか地に足がついていない。見ているとまるで夢の中を歩いているようだった。
その様子を、私はどこか冷めた気持ちで見つめていた。
(……本当に、あれが金だって、誰が証明したの?)
きっと誰もが疑っていない。でもそのこと自体が私には不安だった。門が開ききらきら光る“何か”が見えたけど、それだけで金と断定できる理由なんて、どこにもなかった。
でも、そんな冷静な言葉浴びせるほど、私は空気が読めないわけではない。むしろこの場で何かを口から紡ぐことは出来なかった。だから私は、ただ黙ってパウラ先輩の隣に立っていた。先輩は終始無言でぼんやりと歩いていた。
アニリィ様はご機嫌だった。
「いやぁ、やっぱ飲んどくもんね! 酔ってたらツキも寄ってくるってか? ワハハ!」
高らかな笑い声が、まるで夢の中にいるような感覚だった。きっと宝くじに当たったのならこんな風に夢見心地になるのかな。
(……でも、夢って、醒めるから夢なんだよ)
メイド隊のステアリンさんに導かれてヴァルトア様の執務室に通された。浮かれる大と小とアニリィ様。そしてなんか醒めてる私と無表情のパウラ先輩。入口すぐのソファに座り待つと、お疲れ様と武官長スルホン様がねぎらいの言葉を言いながら腰掛ける。
「報告書はウタリ殿から頂いている。もうじき鑑定士が来るからそれまで詳しい話を聞かせてくれ」
そう言われアニリィ様が金を発見した経緯を語りだした。しかしすぐにスルホン様の表情が曇る。私は夢見心地のアニリィ様の言葉をぼんやりと聞き流していた。
「失礼します、遅くなりまして申し訳ありません」
まもなくして鑑定士がやってきた。キュリクスでも名の知れた宝石商の次男で、仏頂面に銀縁眼鏡をかけた男だ。顔が細長いので私は小さい頃から『眼鏡ナスさん』と心の中で呼んでる人だ。その眼鏡ナスさんは慣れた手つきで鑑定魔導具を並べる。
「では、鑑定が必要な物品はこちらへどうぞ」
眼鏡ナスさんがシャーレをローテーブルに置くと小が得意げにポケットからひとつ、あの光る小粒金を取り出して乗せた。鑑定士はシャーレを手にすると無言で一瞥してごく短く、淡々と告げた。
「これ、黄鉄鉱です。金じゃありません」
その言葉が発せられた瞬間、場の空気が一瞬で凍りついた。
冒険者たちは固まったまま動かない。アニリィ様も口をぱくぱくさせて何かを言おうとしたが言葉にならないようだ。小がポケットから金をいくつか出してテーブルに置くが、眼鏡ナスさんは静かに首を横に振った。ヒゲはゆっくりと眉をしかめ、深くため息をついた。
「え? ちょ、ちょっと待って――これ、ぴっかぴかだったよね? 鑑定魔導具にも掛けてないのになんで断言できるんだよ!」
小が詰め寄ろうとするのを、ヒゲが軽く腕で押さえて首を横に振る。眼鏡ナスさんは特に動じることもなく、ただ事実を、まるで宝飾具の教科書を読み上げるように告げた。
「見た目は金ですが黄鉄鉱です。“愚者の黄金”とも呼ばれてます」
――愚者の黄金。
その言葉に、まるで打ちのめされたようにアニリィ様の顔から笑みが消えた。ほんの一秒前まで明るく笑っていたその口元が、ぴしりと音を立てて引きつるように歪む。
「てか金がダイス状になってる時点でどうして気が付かないんです?」
眼鏡ナスさんはさらに追い打ちをかけるように言った。そうだ、金なら延べ棒にするなり指輪状に加工すればいい。だけどダイス状に加工する理由は見当たらない。
「――まじかぁ」
小の力の抜けた声、魂が抜けてしまったような声を出す。そして全身から気力が全て抜けたように項垂れる。これで立ち上がれるのかな、帰れるのかな。
パウラ先輩はというと無言で、テーブルから足元に落ちた黄鉄鉱の粒をひとつ拾い上げた。それを陽にかざし淡くきらめく偽物の輝きに目を細める。「やっぱりね」とも「そうだと思った」とも言わない。ただ、その横顔には深く冷えきった諦念がにじんでいた。
私もなにも言えなかった。
嬉しさでも悔しさでもない、冷たいものが胸の中にじんと広がっていく。これで洞窟探索の仕事が終わった――そんな気持ちが、全身を覆っていた。
「以上ですか? スルホン閣下、また何か面白いものが発見されたらお呼びください」
眼鏡ナスさんは無表情で静かにそう言うと鑑定魔導具を手早く片づけて執務室を出て行った。この冷え切った空気のせいで、皆の呼吸音と外から聞こえる子鳥の鳴き声だけが鮮明に聞こえた。
しかしその沈黙を切り裂いたのは、静かでいて鋭く重い声のスルホン様だった。
「なぁ、アニリィーー」
「なんスか、スルホン様」
「お前、――酒臭くね? ここにいる皆んなは、アニリィに禁酒令が出てるって知ってるはずだよな?」
アニリィ様の表情が一発で凍りつく。そしてドキリという心音が静かなこの執務室で響き渡るようだった。冒険者たちも、そして私たちも顔を青くする。
「あと、禁忌の爆破魔法を無断で使ったらしいな」
その声に、場にいた全員の背筋が凍った。頑固一徹を体現したかのようなスルホン様は、無駄が一切ない所作でアニリィ様の前に立ち、言い訳をしようとするのを指一本で静かに制した。
「アニリィ・ポルフィリ。禁酒令違反、命令無視、爆発魔法の無許可発動、そして度重なる軍紀違反。――懲戒処分を下す、よってしばらく自宅待機してろ」
その声に誰もが声を失った。金を鑑定する前まではふざけていた小は頬をひきつらせたまま黙りこんでいる。ヒゲは何も言わず静かにアニリィ様の背を支えていた。
あぁ空気が、重い。ずっと重く冷たい沈黙が支配していた。
その時だった。
「――ま、今回は厳しい処分を出さんとな」
ゆったりと歩み寄ってきたのは、領主のヴァルトア・ヴィンターガルテン様だった。逆光を背に、漆黒の軍靴が地を踏むたび音が静かに反響する。その風格に誰もが息を呑んだ。怒号も叱責もない。ただ、その顔に浮かんでいたのは――深いため息。そして呆れだった。
「アニリィ。お前には、何度も酒の失敗は繰り返すなと伝えたよな。だが今回もやってくれたな」
アニリィ様は、俯いたまま「はい」と蚊の鳴くような声で答えた。笑いもせず、反論もせず、ただ小さく頷いていた。そんな沈黙の中で、ヴァルトア様はふと笑みを見せると隣にいた執事ノックスさんから革袋を一つ受け取り、冒険者たちへと差し出した。
「冒険者の諸君。本当にお疲れさんだったな。――少ないけどこれで慰労会でも開いてくれ」
小がそれを恭しく受け取ると、ノックスさんがにこやかに三人を案内した。彼らは軽く一礼して静かに執務室を後にする。
場が一転、さらに静まり返る。
「――君が、ジュリア君か」
そんなとき、思いもよらぬ呼びかけに私はびくりと背を伸ばし反射的に立ち上がって敬礼していた。
「は、はいッ! 斥候隊訓練兵、ジュリア・ジャヴァドです!」
少し声が裏返ったのは……緊張のせい。
「ふふ、そんなに畏まらなくてもいい。座ってくれ給え」
「い、いえ、立ったままで構いません!」
ヴァルトア様はわずかに口元を緩めながら、私の顔を覗き込むように微笑む。
「今回の任務、本当にご苦労だったね」
そう言ってヴァルトア様は右手を差し出した。その掌を恐る恐る取ると、包み込むように強く、けれど優しく握られた。すごく大きくてごつごつした熱い手だった。
「いい手をしてるな、よく訓練された手だ。――気分を害したらすまんが、ジュリア君の短剣を少し見せてくれないか」
「えっ?」
戸惑っていると、傍らのスルホン様が小さく頷いたので、私は腰から鞘ごと外して短剣を差し出した。ヴァルトア様はそれを丁寧に受け取り、鞘から刃を静かに抜いた。ぎらりと光る刃。そこに刻まれた刃文が反射する光に揺れていた。
「うむ……手入れが行き届いている。君の相棒の影響かな? それとも、メリーナ姉さんの仕込みか」
冗談めかしてそう言うと、ヴァルトア様は短剣を丁寧に鞘に戻し、私の手に返してくださった。そして、ヴァルトア様はパウラ先輩へと視線を向けた。そして静かに一礼。深々と、頭を下げた。パウラ先輩は面食らったように目を丸くし、戸惑った表情を浮かべる。しかしヴァルトア様は頭を下げたまま言った。
「報告書を読んだ。ホブゴブリンとの遭遇戦で、ジュリア君を決死の覚悟で守ってくれたそうだな。本当に、ありがとう。君のような部下がいてくれたから、大切なジュリア君の命が守られた。領主として礼を言わせてもらいたい」
「……いえ、あの……アニリィ閣下の……おかげです……私も、すごく、怖かった、です」
パウラ先輩は静かに肩を震わせていた。目元が潤んでいるのを、私は隣で見ていた。そっか。先輩だってあの時は怖かったんだ。私を守るためにあんなに頑張ってくれてたけど、本当は震えてたのかもしれない。
「ですから、アニリィ閣下にどうか、御配慮を――」
ぽと、ぽと、とパウラ先輩の頬から雫がこぼれる。小さな声だけど、その言葉は部屋の隅々まで響いた気がした。ヴァルトア様は、ただ静かにその言葉を受け止めるように頷き、そしてスルホン様へ目をやる。
「判った。パウラ殿の配慮、しかと受け取った。ここから先はスルホンと話し合って決めるつもりだ」
「承知しました、閣下」
スルホン様が頷いた時、私はようやく少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。
「――さて、君たちも、一杯くらい飲んでから帰りなさい」
そう言って、ヴァルトア様は懐から小さな革袋を一つ、そしてもう一つ取り出して私たちに渡してくれた。
「え――えっ?」
私は手にしたその重みに驚きながら、口を開けたまま瞬きを繰り返す。
「ジュリア君とパウラ君への慰労だ。遠慮するな。だが、あくまで“適量”だぞ?」
「ありがとうございます!」
思わず声が上ずってしまったけれど、嬉しかった。だけど――
(もったいないから、まだ使わないでおこう)
せっかく頂いたご褒美だったけど、今じゃない。
私とパウラ先輩、ふたり仲良く階級が上がったその日――その時こそ、先輩と一緒に乾杯しよう。
だからその時まで、大事にとっておこうって決めた。
今もその革袋は、ふたつ並んで隊舎の部屋の壁にぶら下げてある。仲良く並んで、まるでお守りみたいに。
「ねぇジュリアっち、この袋を二つぶら下がってると、なんか卑猥じゃない?」
「……パウラ先輩、最低ッ」
「これが本当のキン玉ぶく――」
「も、もうパウラ先輩なんか大っ嫌い!!」
そう言いながら、私は笑ってた。
悔しいけど、やっぱりこの先輩が好きだなって思いながら。
★ ★ ★
やがて、誰もいなくなった洞窟の奥。
冒険者たちも、斥候隊の少女たちも、そして黄鉄鉱の鑑定結果を出した鑑定士も、誰ひとりとして戻ることはない。そこは再び時間が止まり、ただ静けさだけが満ちていた。無理にこじ開けられたせいで石柱が崩れ、今では最下層はもう立ち入れなくなったのだ。
微かに焦げた匂いが、最下層で起きた爆発の名残を伝えていた。崩れた門の片側は、熱と衝撃で焦げつき、石壁のひびは奥へと広がっていた。――そして、その奥。
門の裏手、薄暗い岩の裂け目の先。爆破の衝撃で開かれかけた、ほんの僅かな亀裂の向こう。あと数歩、ほんの少しだけ探る時間があったなら――。そこには、誰の目にも触れなかった『真の宝物庫』が、今もなお眠っている。
精緻な装飾を施された石柱が、まるで古の神殿のように並び立ち、中央の台座には、高純度の金塊が数本、燦然と輝いていた。
それは明らかに“誰か”が意図してそこへ納めたもの。
無造作に積まれた偽物の黄鉄鉱とは違う、“価値ある本物”。
そして、その石壁にはもう一つの碑文が彫られていた。
あの『問い』――筒をいかに効率的に作るかという設問――
それを正しく解き明かし、“知恵”という鍵で門を開けた者だけに与えられる、さらなる真実の答え。
《答えに至りし者よ。知恵を示したその刻、我は真を示す》
《されど破壊にて進む者には、愚を以て応えん》
しかし、誰もその言葉を読むことはなかった。
誰も、その先を踏み入れることはなかった。
知恵の門は、力でこじ開けられた。
それに応じて門は、“愚かなる挑戦者”に対し、まやかしの黄金――愚者の金を差し出したのだった。
本物は、奧にあった。
たった一歩、その奥へと進めば、真実は目の前にあった。だが、その一歩は誰も選ばれなかった。
光の届かぬ、地の深き底。崩れた岩壁の奥、亀裂の先。――そこに、本物の黄金が今もなお、誰にも触れられることなく、ひっそりと眠っている。
静かに、重く、確かに。
『正しき者』の到来を、ただ静かに待ち続けている。
★ ★ ★
(とある新任女兵士、ネリスの日記)
訓練生25日目
隊舎の前の日朝点呼。
メリーナ小隊長がニコニコしながら言った。
「最近、みんな、たるんでる? それとも疲れがでてきたかな?」
――出た、爆弾発言。
一瞬、全員の空気が止まって、そのあと何人かが自分のお腹とかおしりとかをさすりはじめた。
ちがうちがう、そういう“たるみ”じゃないと思うよ!? って、内心で全力で突っ込んだのは私だけじゃないはず。でもね、私はちょっとだけ引っかかった。
(私……たるんでるのかな)
(確かに、ここんとこ疲れが顔に出てるって言われたし……)
とか考えてるうちに、次の一言が飛び出す。
「今日はねー、午後から短槍の個人戦やりまーす! トーナメント形式! 相手はくじ引きで決めるからねー♪」
みんなの顔から一気に血の気が引いた。もちろん私も。
やる気出してるのは、二人だけ。
一人はクイラ訓練生。フィオライゼ剣術の経験者で、無言で真面目。ずっとピリピリオーラを出してる私の相棒。もう一人は、夜中に脱走しようとしてメリーナ小隊長に捕まったレンジュ。いままで大人しくしてたけど、戦闘訓練の時だけはやる気出す子。
昼ごはんのとき、誰と対戦かねぇってみんなが言い合ってた。
私は誰とでもいいや、痛くなければさ。
「どしたー? ほら、ちゃんと食べなっしー」
食事を盛り付ける食堂のおばちゃん――いや、シーラ隊長が笑顔で皿に盛りつける。
「そろそろ短槍の個人戦の時期でしょ? 全力でやりまっしぃ」
「隊長、ありがとうございます」
「たくさん食べまっし」
何も言ってないけど山盛りにされた。まぁ食べるけどさ。
結果、くじで決まった私の対戦相手は――クイラ。
はい、終了。詰みましたー。初日からずっと無視されてて、ろくに会話もない。訓練生初日のアレ以来、目すら合わせていない。
(いやいや、無理でしょ……っていうかあいつ怖いもん)
でも逃げられない。名前呼ばれたら、「はっ!」って返事して、籠手や防面などの防具着けて、円形の小さな闘技場――お立ち台? に上がる。
木製の練習用短槍、防具あり、2本先取。
闘技場の外で、がんばれーとか言いながらメリーナ小隊長が楽しそうに手を振ってた。
(あの人、本当に嬉しそうだなぁ……)
闘技場に立つ私とクイラ。
私たち以外、しんと静まり返っていて、みんなが息を呑んで見ているのがわかった。
「始め!」という掛け声と同時に、クイラが動いた。
速いッ――!
木の短槍を構えたまま、真っ直ぐこちらへ詰めてくる。全然迷いがない。私の防御の間合いを読んでるみたいだった。慌てて受けにいったけど、スパッと籠手を弾かれてしまった。
「一本、クイラ訓練生!」
――うそ、速すぎるよ! やっぱ剣術経験者ってチートだよ!
こっちは必死で受けてるのに、あっちは無言で、顔ひとつ変えずに攻めてくる。
ねぇ、なんでそこまで私を嫌うの? そんなにムカつく存在かな、私――
胸の奥がざわざわして、それが逆に集中を乱す。
「次、構え!」
二本目。今度はやられたくない。あっさり負けてたまるかよ!
ぐっと槍を構える手に力を込めて、クイラの踏み込みに反応する。フェイント。下段狙い、読めた。
「やっ!」
反射で弾き返した。私の短槍がクイラの防面にカスッと乾いた音がする。当たった?
「一本、ネリス訓練生!」
――やった。取った!
観客から小さく「おおっ」て声が上がったのが聞こえて、心臓がバクバクした。
(私だって、ちょっとは成長してる……!)
でも喜ぶ間もなく、すぐに三本目が始まった。
防面で見づらいが、きっとクイラの目つきがさらに鋭くなったと思う。さっきの私の一撃が、逆に彼女の火に油を注いだみたい。
連撃を繰り返すクイラ、一撃一撃が重くて速い。
私は必死で防いで、距離を取って、回り込んで――
でも、フェイントからの足払い。ぐらりと体勢が崩れて、
――隙だらけの私に突きが入る。
「三本目、クイラ訓練生! 勝者、クイラ!」
負けた。
でも不思議と悔しさよりも、今のが“全力だった”って気持ちがあった。
闘技場で横に転がされた私は起き上がろうとすると、クイラが近づいてきた。
そしておもむろに右手を差し出して来た。――なんの風の吹き回し? 私はその右手を取った。外野から少し熱い声が聞こえるけど。
クイラが私の右手を掴むとぐいっと身体を持ち上げてくれた。
「――年季が明けたらとっとと辞めちゃう子だと思ったんだけど」
と、小さく、ほんとうに小さく言った。
「でも、違うみたいね」
――え? えっ? クイラが、喋った? 喋ったうえで、褒めた? 褒めた!?
衝撃が強すぎて、返事もできなかった。
でもなんだろう、胸の奥の何かが、少しだけ、ふわっと温かくなった。
――この一言で、変わるかも。私たち。そんな期待が、ほんのちょっとだけ芽生えた、気がする。
「じゃあ次の試合、いっちゃおうか〜。じゃ、次のカードは――」
「はい、トーナメント優勝はクイラ訓練生!」
クイラの圧倒的な強さが際立った午後の訓練だったと思う。
結局クイラに一本入れたのは私だけだったし。
あとは延々とゆる~い打ち合いをしていたモリヤ訓練生とポリーナ訓練生は見てて楽しかったかな?
「じゃ、優勝決定ってことでご褒美が出ます!」
え、聞いてないんだけど、良いなぁクイラ。何が貰えるんだろ?
「――はい、ボクと試合ね!」
「え?」
「えっ?」
「えええっ!?」
誰もが声に出した。クイラすら「はっ!?」となって硬直している。
けれど次の瞬間には、もうメリーナ小隊長は構えていた。
しかも手に持ってるの、短槍じゃない。練習用の短剣サイズ。ちっさ! やっば!
「じゃ、気合い入れてかかってきて〜♪」
メリーナ小隊長、闘技場に軽々とジャンプして飛び乗ると、二度三度と屈伸をする。手にした短槍を何度も構えながら戸惑っていたが、メリーナ小隊長は、
「それでいいよ、いつでもどうぞ」
と言うと短剣を身体に寄せて構える。クイラも意識を集中すると、防面の奥にある目の色が変わったなとなんとなく感じた。
いきなりクイラが強烈な突きを放つ。けどメリーナ小隊長はそれを紙一重でいなして、ぴょんっと飛び込む。そして首筋に、寸止め。完全に決まった。
「うわー。さっきあんなに頑張ってたのに、どうしちゃったの? やっぱりたるんでる?」
と、笑顔で言った。笑顔なのに、めっちゃ怖い。
私含め訓練生たち、全員引いてたと思う。
その後、メリーナ小隊長の笑顔で、
「はい、短剣使いに負ける短槍部隊は連帯責任! 全員ダッシュでランニングだよ〜♪」
「えっ、ええっ!?」
って感じで、練兵所を5周走らされた。もちろん後ろからメリーナ小隊長にガンガン煽られる。遅れたらもう1周追加だよーって笑顔で言われたら走らざるを得ないよね。
へとへとで隊舎に戻ると――部屋が荒らされてました。
あれです。ついに来ました「台風」です。
軍隊あるあるの、部屋の整理整頓が甘いと発生する、謎の暴風被害。
机はひっくり返ってるし、寝台の上に教本ぶちまけられてるし、布団なんて部屋の隅で山になっている。そして私の洗濯物、すべて裏返して干してあった、もはや芸術。
「これ、片づけないと寝れないよー♡」って言いながら満面の笑みでメリーナ小隊長が覗き込む。
「たるんでると、また台風が来ちゃうよー♪」
――この人、ホントに何者なの?
でも今日だけは、私、胸を張れる気がする。負けたけど、ちゃんと戦ったから。
クイラとも、たぶん少しだけ、近づけた気がするし。いつか、ちゃんと目を見て、笑い合って会話できたら――いいな。
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