表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

178/206

178話 武辺者と、精霊の光・4

 女神ヴォナティが言葉を切り、霧がさらに深くなった直後だった。森の奥からべきべきと木をへし折るような音と重い足音がいくつも響く。大地がかすかに震え、鳥たちが驚声挙げて一斉に飛び立った。クイラは思わず長槍を握るとイオシスの肩を引き寄せ「私の後ろに居て目を瞑っててください」と告げる。


「──来るぞ!」


 アニリィが長剣を抜き放つと焚火に鋼鉄の刃がぎらりと反射した。ネリスも素早く槍を構えてアニリィの左後ろに立つ。泉の縁に立つ女神の前でヴェッサの森の静寂がついに破られた。


 霧の向こうから姿を現したのは三体のオークだった、しかも森の奥から山のような影があと三体見える。豚のような顔に赤黒い目、牙を剥き出しにして唸り声をあげていた。大木のような足がうなりを上げ地面を踏みしめるたび土が跳ねる。思わず目を開けたイオシスは蒼白になり、逃げようとしたが腰が抜けてじたばたするばかり。おとぎ話と同じく、エルフにとってオークは生理的に抗えない恐怖を呼び起こす存在らしい。イオシスも全身が凍りつくように恐ろしくて、この場から逃げ出したい衝動に駆られていた。


 思わぬ敵襲だったがアニリィは冷静に状況を把握するや、


「クイラちゃん、イオシスを守れ! ネリちん、私が露払いする!」


と叫ぶと先頭のオークに躍りかかる。長剣がきらり軽やかに舞ったかと思うと先頭のオークの逞しい太腿を斬り裂いた。返す刃で二体目を袈裟斬りして三刃目で三体目の喉笛を切り、黒い血がぱっと飛び散る。ネリスは足を斬られて転がる一頭目のオークを槍で脳天を突き、身体から赤黒いものを吹き出す二頭目三頭目を正確に叩き伏せた。衝撃で腕が痺れるほどの手応えを感じながらもアニリィが切り伏せてゆくオークを突いて殴ってと確実にとどめを刺して回った。


「こっちだよ、豚野郎!」


 アニリィの怒鳴り声が森に響く。彼女の剣は嵐のように閃き、森の奥から出てくるオークの巨体を次々と切り伏せていった。ネリスの槍も寸分違わず急所を打ち狙い、苦鳴を上げる怪物を地に縫い止める。


 しかし、森の奥に居た一体だけは戦況を把握してか泉と少女を背にして守る女に目をつけ、途端に走り出した。長剣を振り回す女と冷静に命を刈り取る小娘を襲うより、泉の前の少女たちのほうが"楽に狩れる"と思ったからだろう。


 クイラは震える手で必死に中段構えを取り、ぼろぼろの錆びた剣を振り回しながら飛び込んでくるオークと対峙することとなった。メイド隊でも週に一度は戦闘訓練を受けるよう勤務割が組まれているが、訓練と言っても護衛目的のナイフ格闘術ばかりが行われていた。槍を持っての訓練などメイド隊に配属されてからは数えるほどしか経験が無い。蒼白な顔してへたり込む少女を守りながら慣れない槍術で戦うのはあまりにも無謀だった。そしてこの大柄なオークの圧倒的な膂力にどんどんと間合いが詰まる。奥歯を強く噛み締め過ぎてたせいかいつしかクイラの口の中で血の味が広がっていた。


 前線ではアニリィが躍るようにオークを仕留めてるのを見て自分の力量の無さを思い知った。こうなれば捨て身の突き技で強引に間合いを作るか、長槍を捨てて使い慣れてるスティレットに持ち替えるか彼女の中に一瞬の迷いが生まれてしまった。


 ザンッという音とともに長槍の先が切り飛ばされてしまう。からからと音を立てて転がる穂先に悩みは吹っ切れた。クイラは長槍を捨てると腰からスティレットを抜き、オークに突進していった。


「ネリちん、向こうをカバー!」


 アニリィが言うが早いかネリスは駆け、長槍をオークの脇腹に突き立てた。でっぷりとした肉壁に槍は耐えきれずにへし折れたがオークの注意を逸らすには充分だった。ふと視線を外したオークにクイラは鳩尾めがけて刃を立てる、そして太腿を蹴って間合いを取った。今度はクイラを見やるオークにネリスは太腿にダガーを突き刺した。


「ぶ、ぶぉぉぉおおお! ──オッ」


 激昂したオークが悲鳴のような雄叫びを上げる。しかし次の瞬間、巨体はゆっくりと正面に傾き、時間を置いてどさりとうつ伏せに倒れ込んだ。背後からアニリィが脊柱を真っ二つに切り裂き、命を刈り取ったのだ。


「ふぅー、これで掃討できたかな?」


 アニリィは長剣についた血糊を振り払い、懐からボロ布を引っ張り出すと剣を拭う。それを見てネリスはへなへなと地面に腰を落とした。黒い血の匂いが霧に混じり、森に再び静寂が戻る。イオシスもへたり込んだまま震える声で「こわかったよぉ……」とつぶやいた。クイラはイオシスの元へ駆け寄ると彼女の肩を抱きしめ、「大丈夫、もう大丈夫ですよ」と繰り返していた。


 ヴォナティは泉の上でふわりふわりと明滅を繰り返しながら声を響かせる。


『このたびはこの血を守ってくださりありがとうございました。私の声が届いたおかげでエルフの里が救われました──今夜はあなたたちに感謝を』


 アニリィは剣を鞘に戻すと泉のほとりまでゆっくりと進み、跪く。


「ヴォナティ様、いくつかお尋ねしたい事があります。よろしいでしょうか?」


 ヴォナティはふと眉をひそめると『構いませぬ』と応えた。ただし、これも声ではなく心のなかに語りかけてくるようだった。耳からは秋虫の声、静けさを取り戻した森の葉音だけが僅かに響く。


「まずひとつ、ヴォナティ様は今回のオークの襲撃は解っておられたのでしょうか?」


『はい、私の声が聞き取れる少女たちに伝えてきました。ですがそこのエルフ少女は冬の日の一回きりしか伝わりませんでしたし、そこのメイド少女は詩として認識してしまったみたいです』


「つまり夜中に煌々と輝いてたり、メイドたちの願いを叶えてたのも"早く気付け"ってことだったのね」


『えぇ、私の思いがなかなか伝わらないので焦りました、私を信奉するエルフたちに危機が迫ってるのですから。──ですが、メイドたちの願いは聞きはしましたが叶えてなど居ませんよ? 因果律を変えるような事は致しませんし、できませんもの』


 ヴォナティはふと笑みを漏らすと、アニリィは『したたかな女神様だな』と心の中でぼやいた。


「では次の質問、ヴェッサの森でオークが出るなんて私は聞いた事がないし、そもそもオークなんておとぎ話の世界の生き物だと思ってました。──なんだか人為的な匂いがぷんぷんするのは気の所為でしょうか?」


『そこから先はあなたたち統治者の仕事でしょう。特にこの森について本気で考えてるなら、ね──そろそろいいかしら? 人の形を成して話すのは千年ぶりで疲れるのよ』


 そういうとヴォナティの光が徐々に小さくなっていく。アニリィはふと後ろを振り返るとクイラに「ヴォナティに何か言う事あるか?」と訊いた。


「ところで、何度も聞いたかもしれませんが、どうして私に付いてきたんですか?」


 女神は小さく笑うように光を瞬かせ、答えた。


「あなたとはなぜか波長が合ったのです。あなたと、そこの工兵少女と同じようなもの」


 それを聞いてクイラもネリスもお互いを見てふと頬を緩ませた。女神は二人の様子を見るやにこやかに微笑む。


「あなたと過ごした日々は楽しかったですよ。お供えのお菓子、美味しかったですし。──そろそろ時間ね」


「……もうちょっとおしゃべりしません? なんならワイン開けますよ?」


 アニリィがワインを開栓する仕草を見せると女神はふと苦笑いを浮かべた。


「あなたはエルフ族の血を継いでるんですからお酒を控えなさい!」


「ヴァルトア様やスルホン様、オリゴ様に続いて女神様にまで言われたなら堪んないわね!」


 アニリィが苦笑し、ネリスもクイラも肩をすくめた。イオシスはようやく落ち着きが払えたか笑顔を取り戻し、泉と女神を見つめた。


「ひょっとして、もうお別れですか?」とクイラが尋ねると、女神はひらひらと手を振るように光を揺らした。そして徐々に光と姿が消えていく。


「またいつか、会えるわよ」


 その時、後ろから草を踏みしだく音がした。アニリィは急に立ち上がると長剣を抜き、茂みの中に剣を突き立てた。討ち漏らしのオークだろう、悲鳴を上げてどさりと崩れ落ちる音がした。


「一体でも残ればエルフの里は恐怖に包まれる。報せと対策を考えないとね」


 剣を払ったアニリィが低くつぶやいた。オークの侵入はただの偶然ではないだろう、その不安がこの地の代官であるアニリィの胸に重くのしかかる。アニリィはおもむろに腰から下げた照明弾を二発打つ。──しばらくしてエルフの里からも照明弾が一発上がった。


「さぁ、朝になったらヴェッサのエルフたちと一緒にこの聖地を片付けないとね──ネリちんとクイラちゃん、それにイオシスちゃんは少し休みなさい」


 彼女の言葉に三人は静かにうなずいた。霧の向こうで月がさらに明るく輝いたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ