177話 武辺者と、聖霊の光・3
そろそろ新学期じゃねって子どもたちの声が街中で聞こえるようになってきた。昼はまだまだ暑いけれど蝉の声で目を覚ますことも無いし、朝晩は随分と涼しくなってきた。
クイラは夜間学校を終えてからゾエとヴァシリと三人で純喫茶へ行き、詩作批評を楽しんでから領主館へと帰ってきた。ヴォナティへの熱狂は一段落したとは言えメイド居住区に入るときは少しだけ緊張してしまう。『今日も大挙して待ち構えていないよね』と思いながら、階下のシャワー室で汗を流し、三階へと上がる。しかし杞憂だったみたいで常夜灯が灯る廊下に若い子たちの笑い声が僅かに漏れ聞こえていた。
「ただいま帰りました」
「よぉ苦学生、おかえり!」
いつも通り床にはタイツやガーターが散らばっている、それを一つずつ拾っては洗濯籠に入れた。しかし彼女のぱんつを拾うのだけは少々気が引けたので足指でつまんで放り込んだ。そしていつものようにヴォナティを祭壇に戻って頂くべくドールハウス前にお菓子を置き、クイラは祈った。
「──ん、ヴォナティ反抗期か?」
「よく判りません」
今日に限って祈ったり、声に出したりするもヴォナティは祭壇には入らない。部屋の中をふわりふわりと明滅しながら飛び回っていた。
「とにかく明日は早いし、もう寝ようぜ」
そう言うやワイン瓶などベッドの上に撒き散らしてたものをサイドボードに置き、サンティナは蝋燭をふぅと吹き消した。部屋はヴォナティの放つ光がちかちかとだけ。光はなかなか落ち着かず、深夜になるとまぶしく光ってはサンティナが「寝られない」とぼやくほどであった。
*
ヴォナティが落ち着かなくなって既に一週間経った。普段の生活で特に問題は無いが寝る頃に不安定になるせいかクイラもサンティナも完全に睡眠不足だ。このままでは仕事に障りが出る、意を決してクイラはメイド執務室でオリゴとアニリィに相談することにした。
「最近メイド達が“ヴォナティ様”って騒いでいるの、それのことだったのね」
表情一つ変えず漏らすオリゴにクイラは背筋を伸ばして謝った。
「申し訳ありません」
「メイドたちが何を信仰しようが私の預かり知ることではありません。ですが身の丈に合わない高級菓子を休憩室に置いたり、あなたやサンティナが寝不足になるようじゃ困ります。──ところで過去の報告書でヴォナティと心を合わせる事で詩作が出来るとありましたが、今もやってますか?」
「あ、はい。夕べひねったのが何篇か書いてありますのでご覧ください」
クイラはピナフォアのポケットからメモ帳を取り出した。普段は仕事の指示を事細かに書くメモだが、時折ヴォナティと詩作したものをも書いている。最近の詩作では「泉・聖地・満月・光」の単語が増えたなとクイラは思っていた。
「……ねぇアニリィ、何か考えは?」
アニリィは腕を組んで少しうーんと唸り考える。こんなときの彼女の直感はよく当たるらしく、オリゴは試しに聞いてみたのだ。
「泉に帰りたがってるんじゃないかな? その子って元々、月詠の泉から拾ってきたようなもんだし。──ちょうどエルフの祭事が近いし、イオシスも一年ぶりに里帰りぐらいはしたいだろうからエルフの長たちに相談してみますよ」
アニリィがエルフ族との窓口となってるモルポ商会に書状を託すと三日ほどで返事が届いた。『祭礼前なら月詠の泉を訪れてもよい、』というあっさりとした内容だった。
月信教や聖心教の多いキュリクスでは時季の変わり目に盛大な祭りを行うが、エルフは秋分を過ぎた最初の満月の日に月詠の泉へ行き、そこで祝詞を上げて祈るらしい。たまたまあと数日後に祭礼前最後の『満月』だということ、クイラの詩作で最近よく出てくるようになった『満月』のワード、そしてイオシスの絵にあった謎の『満月』。何度も続く単語だったので、満月に併せて月詠の泉へ行く事になったのだ。
二日後のメイド長執務室。オリゴに呼ばれたクイラは、同期のネリス、そしてイオシスとともに部屋に入った。その様子をルチェッタたち"おてんば四人組"がこっそりと見守っている。
「明日から三日間、クイラとネリスは勤務から外します。急な出張ですからクイラは学校にも届けを出しておきました、二人は訓練の一環と思って気を付けて行ってきなさい」
「承知しました」
「はい、がんばります!」
クイラとネリスは敬礼して応えると、オリゴも答礼する。
「──イオシス嬢は久しぶりの実家帰省です、お土産や着替えはこちらで全て用意しますから、あなたは何の心配もいりませんよ」
「わかったよー、オリゴ様ぁ!」
イオシスもそれっぽくふにゃっと敬礼するが、オリゴは表情一つ変えず綺麗な答礼をした。「二人は彼女の護衛、ネリスはテントや竈の拠点設営を頼むわね」
クイラとネリスに命令書を手渡すと二人は深々と頭を下げる、その様子をずっと覗いてたおてんば四人組、ルチェッタの「今だ」って声と共に三人がメイド長執務室へとなだれ込んできた。
「メイド長! イオシスの護衛なら私たちでも務まりますわ!」
ルチェッタが胸を張って宣言するが、オリゴは一つため息をつくと私も行きたいと駄々をこねる三人に静かに告げた。
「今はヴェッサの民との関係を作っている大事な時期なの。しかも正規の訓練も受けてないあなたたちが出来るとは思えませんし、安全も保障できません。しかもこれは領主ヴァルトア様の命令です。勝手に動くのは禁止、我慢なさい」
クイラは少し緊張しながらも、行き先が“あの歌の泉”だという事、同期ネリスとの協同活動だと思うと心が不思議と高鳴り、ネリスも一年ぶりの相棒に訓練の成果を見せる時だと一人ニンマリするのだった。
*
翌朝、アニリィが手綱を握る幌馬車に乗ってクイラとネリス、そしてイオシスの四人はヴェッサの森へと向かった。途中荷物に紛れてたルチェッタたちは出場門の衛兵にあっさり見つかり降りてもらったが、それ以外にトラブルは無い。途中のコーラル村で馬車を預け、雪兎亭の女将と炭焼きのモルススの先導でヴェッサの森へと入ってゆく。
風で葉の擦れる音、草食獣の遠鳴き、虫の声。雪で何もかも覆う冬とは違って夏の森は何かが蠢いてるようだった。ネリスは探索棒であたりを確認しながらモルススと歩き、イオシスは木々を見て「あっコガネムシだ!」と駆け出そうとする。クイラは彼女の手をしっかり掴みながら後ろからの警戒を怠らない。アニリィはというと女将と楽しそうにイオシスの近況を話しながら歩く。
下界とは距離を置くヴェッサのエルフや炭焼き職人たちが使う獣道は非常に歩きづらい。しかしアニリィたちは訓練でこのような道を嫌と言うほど歩いてるので苦痛は無いし、イオシスも生まれ故郷の気楽さからか疲れは無い。もしおてんば四人組を連れてたらクイラたちの体力も時間も削り取っていただろう。居残りとなったおてんば達には悪いが、「連れてこなくてよかった」というのがアニリィらの思いだった。──もちろんイオシスはそんな事おくびにも出さず、「残念だねー」と口には出してたが。険しい獣道を右へ左へとしばらく歩いた先にエルフ三家の一つ、ニアシヴィリ家へと着き、父マスキンが出迎えた。
『あ、父ちゃん!』
『イオシス……でかくなったなぁ』
自然なカルトゥリ語で話す二人。そういえばイオシスはこの半年でぐんと背が伸びた。エルフ族は女性でも1ヒロぐらいの背丈になるため、イオシスには人間族より少し早い成長期を迎えているのだろう。キュリクスに来た頃はルチェッタと大して変わらなかったのに、今ではおてんば四人組の中で並ぶと頭1個分は背が高い。
『イオシスちゃん、街ってどうなの?』
『ちゃんとご飯は食べてるのかい?』
マスキンだけでなくニアシヴィリ家の者が彼女を取り囲み、街はどうだ元気にやってるかと聞いてくる。イオシスはふにゃっとした笑顔を見せて、
『毎日が冒険だよ!』
と言ってたが、それは彼女が夏休みだからだろう。毎日のようにルチェッタ達と冒険者ごっこしてるせいかしっかりと日に焼けているし、ご飯ももりもり食べるから非常に元気だ。そして彼女は麻綿混紡の色鮮やかな仕立て服を着ており、麻織の簡易なエルフの子達に比べてもおしゃれに見えてしまう。山の中での生活と街の生活の差はこんな形で目立ってしまう。
家族のふれあいが一段落したところでアニリィがマスキンへ月詠の泉への案内を頼む。
『日が暮れるまでに着きたいでしょうから、ささ参りましょう』
ここで女将とモルススとは別れ、マスキンの案内で森の奥へ奥へと歩みを進める。冬のイオシス捜索のとき工兵隊が測量して作ったヴェッサの地図はとても正確だった。しかし鬱蒼とした森に判りづらい獣道を右に左にと曲がるので、地図だけを見て歩いてもきっと迷子になる。案内人がいなければ進めないだろうとコンパスと地図で見比べながらアニリィは思ってしまった。
ニアシヴィリの集落を出てしばらく歩き、ようやく月詠の泉に着く。
「じゃあ明朝、お迎えに上がりますね」
とマスキンは言うと静かに村へと戻っていった。北に聳えるテイデ山頂は雲に隠れて茜色に染まり、ひんやりとした風が吹き降りてくる。昼間はむわっとする暑さだったのに急に冷えこんできたので各々野営の準備を始める。
「ではこちらに天幕張りますので、アニリィ閣下はこちらに竈を、クイラは哨戒を頼みます」
小柄なネリスは淡々と指示し、リュックを降ろす。イオシスは「私なにする?」と言うがネリスはポケットから飴玉を一つ出して「疲れてると思うから休憩してて?」という。さすが工兵隊、きちんと訓練を受けている賜物かあっという間に天幕を張る。アニリィも手早く竈を組み薪を集め、火をつける。そこへネリスは鍋を掛けて材料を入れスープを作る。野営準備に入る二人を背にクイラは辺りを見回りつつヴォナティを開放した。ヴォナティは泉のまわりをきらきらと飛び回り、まるで落ち着く場所を探しているようだった。
「はい、スープとパンをどうぞ」
「わぁ、ネリスちゃんのスープ久しぶり!」
イオシスは嬉しそうに笑う。彼女が発見された時もネリスが手早くスープを作って飲ませていた。ネリスの作るスープは乾燥野菜と干し肉を軽く煮込んでスパイスを振っただけの簡単なものだが、何故か美味しいと工兵隊や斥候隊の中では有名だ。
「アニリィ閣下もどうぞ、身体が温まるかと──」
アニリィは焚き火の前に座り、森の冷たさと火のあたたかさ、そしてスープのやさしさが体に重なるのを感じた。少ししょっぱく、さわやかで刺激的な辛みと酸味、そしてわずかな甘みが身体に広がるにつれ相当に身体が疲れて冷えてたのに気づかされる。
「やっぱここに来ると、不思議と心が落ち着くね」
スープとパンを平らげて食後のチーズを摘まみながらアニリィは漏らす。そのチーズに手を伸ばしながらイオシスは訊いた。
「アニリィちゃんのおばあちゃんって、シュヴァルの森のエルフなんだよね?」
「まぁね。森の声が聞こえるのはそのせいかもな」
シュヴァルの森はアニリィの実家ポルフィリ領にある広大な広葉樹林帯だ。そこにはヴェッサの森とは別のエルフ一族が暮らしており、古くからポルフィリ家とは通婚の習わしがある。エルフ一族は誰とも交流は持たず森に引きこもっているが、ポルフィリ家とは形式的な支配関係を結び、実際には森の自治を任されている。ポルフィリ家は自領なのに木材一本勝手に切り出せないが、エルフ一族が広大な森を整えその恩恵を返してくれるので、いうなれば緩やかな支配関係だ。アニリィの祖母がエルフなのも両家の結びつきを強めるためである。
「そのシュヴァルの森のエルフってどんな人たち?」
「イオシスちゃんたちと変わらないよ。ちょっと頑固でちょっぴり我儘、だけどけっこう寂しがり屋──そういえば、イオシスちゃんそろそろ……入れるの?」
アニリィは自身の左二の腕に彫られた、魔法陣に似た文様の入れ墨あたりを見せて乱暴に触れる。エルフ一族は数え年で十を過ぎると所属する家の入れ墨を二の腕に入れる習慣があるのだ。──なおアニリィのは王国軍を退役する際に魔法止めとして無理やり施された跡である。
「痛いのやだー。てか、キュリクスで入れ墨してる人、あまり見ないね」
「意外とケツに書いてるんじゃない? “菊門一方通行につき、ここを舐めろ!”って」
「きゃはは、きたなーい」
イオシスはけたけた笑いながらカップに唇をそっと近づける。しかしカップは空だったみたいでカップをネリスに差し出した。「まだあるからね」とネリスは言うとカップをそっと返した。
「ねぇネリス、あんた料理上手くなった?」
ふとクイラが漏らす。アニリィも「だよなぁ、王国軍の陣中食に比べたら感動モンだぞ?」と続けると彼女もカップを突き出した。
「一か月も山ン中でメリーナ隊長に鍛えられたんですよ?」
日焼けした顔でネリスは少し得意そうに笑った。斥候隊と工兵隊の合同訓練で山の中をひたすら隠密行軍し、測量し、陣地構築し、食事を作って近接戦闘訓練する日々だったらしい。かなりハードな山暮らしを送ってたせいか体もしっかり引き締まっていた。
「ねぇネリスちゃん、ちょっと腹筋見せてみぃ?」
アニリィが言うのでネリスは満面の笑みでシャツをめくる。綺麗に割れた腹筋を見てイオシスが「6LDK!」と叫び、アニリィも「大豪邸!」と笑っていた。女子だけの緩さかクイラも訓練服をめくり、アニリィも武官服を脱ぎ、「これで16LDKだね!」とイオシスは大笑いしていた。──三人から同時に「18だよ!」と突っ込まれていたが。焚き火がぱちんとはぜて泉に波紋が広がった。
*
お腹いっぱいになった頃、イオシスは毛布にくるまりうとうとしはじめ、ネリスは夜哨用にと鉄槍の手入れを始めた。クイラは泉のほとりに座り、水面に手をかざす。ヴォナティは相変わらず不規則に瞬いていた。
「……風向きが変わった。テイデ山から霧が下りてきてる」
アニリィが空気の変化に気づくと、霧があたりを白く包む。南の空には満月が煌々と輝いているが、その月明かりのせいか辺りは真っ白に輝いている。先ほどまで泉の上で明滅していたヴォナティはやがて人の形を成し始めた。白い光が髪や衣を描き出し二ヒロほどの女神となって泉のほとりに立つ。彼女が裸足で水を踏むたび広がる波紋は幻想的だった。クイラは息をのんだ。ヴォナティとまるで同じ気配、でも迫力はまったく違う。胸の奥に驚きと恐れが同時にわいた。
『──この泉に危機が迫ってる』
声は耳からじゃなく直接心に届いた。アニリィは立ち上がって剣に手を置き、ネリスも槍を強く握る。眠っていたイオシスも目を覚ました。霧はさらに濃くなって森全体の空気が変わっていく。地面の下から地鳴りのような音が響き、何かが近づいてくる気配すらあった。
『ここへ向かってきているのは、粗暴で、鈍く、飢えた足音。本来、この森に入れないもの』
女神は泉の向こうを見つめ強い光で東の森を照らした。クイラの背中に冷たいものが走る。あの歌が今、警告に変わっていた。
焚き火が、不意に小さくはぜた。