174話 武辺者、エール一杯で揉める
キュリクスの街はトマファとハルセリアの婚約話で持ち切りだった。今日も朝早くから領主軍の面々が大通りを修繕したり花壇を綺麗にしていた。その姿を見て街の人々も箒を手に取り街中を掃除し始めたという。そして朝の大鐘が鳴ると開門し、ルツェルとビルビディアの豪華な箱馬車が入ってくる。
ふたりの婚約話は夜になっても市中でも尽きることが無い。今夜の酔虎亭もその話題でもちきりだった。
「車椅子の兄ちゃん、勃つんけ?」 「バカ言え! おめぇの息子より元気に決まってら!」 「ハルセリアって嬢ちゃん、意外と胸でかいよなあ」 「文官長殿、うちのカカアと取り換えっこしてくれ!」 「もったいねぇわ!」
職人街の立ち飲み屋だ。下世話な声が飛び交い、店は笑いの渦に包まれていた。皿や空ジョッキを運んでいたプリスカが、「もう、みんなスケベだよ!」と顔を赤らめながら肩をすくめる。猫のように軽やかに客席を抜け、母のトトメスに「レオダムさんトコにエール2杯」と声をかけた。
そのとき扉が開いてひとりの旅人が入ってきた、小麦色の肌に南国出身者独特の服装、そして頭に巻く帯状の布。いかにもビルビディア人の男であった。
「エールを一杯!」
ビルビディア訛りで注文した旅人は、プリスカから受け取ったエールをぐいぐいと飲み干した。そしてお代わりすると、またすぐに飲み干してしまう。最初は陽気に笑っていたが三杯、四杯、五杯と飲むにつれ目が座り、呂律が回らなくなる。そして突然、隣の鍛冶職人らに絡み、場の空気を重くしていった。
「なんだあいつ、ビルビディア人だよな?」
「俺がゲオさんと鋲螺の話をしてた時に突然『キュリクスは初めてだ』と言ってきたなぁ」
「──ウザ絡み、だよな」
「てかあいつ、飲むピッチがモグラット師より早くね?」
近くにいた職人たちが徐々に距離を置き始める。その旅人、小麦色に焼けた肌なのに酒のせいで顔が赤黒く見えてしまう。しかも相当に酒が回っているせいか、かぶりを振ったり二の腕をこする仕草まで見せ始めた。
「おい、そこの猫メイド、エールだ」
「猫じゃねぇつってんだろ! はいよ!」
たぶん八杯目を頼んだときムッとした顔のプリスカがジョッキを差し出した。旅人はそのジョッキを見た瞬間、突然叫び出す。
「おい、そこの猫! これ、小さすぎやしないか!」
「んだとぉこの野郎!」
腕まくりしながら怒鳴るプリスカの声も重なり、酒場がしんと静まりかえる。なおこの時、ちょっとした行き違いがあった。旅人はジョッキを指差していたのだが、プリスカには胸を指差されたように見えたのだ。 「猫じゃねぇし、セクハラかよ!」とプリスカがブチギレる。もちろん店内にざわめきが広がった。黙って成り行きを見ていた女将のトトメスと大将のダンマルクが、ついに旅人の前に立った。
「なぁ、こんなしみったれたジョッキで銅貨3枚たぁどういう了見だ?」
「──お客さん、何言ってるの?」
トトメスは腹を立てて旅人に掴みかかろうとするプリスカを右手で制し、尋ねる。
「うちのミラフォンじゃ“エール一杯”はこれの二倍はあるぞ!」
「うるせぇ、ここじゃこれが一杯だ! 文句があるなら──」
主人ダンマルクがドスの効いた声で返す。しかし「まぁまぁ」と、トトメスがにこやかに遮った。店主が客に「出ていけ」などと言うのを必死に防いだのだろう。
「この酔虎亭はねぇ、4種類のエールを揃えてるから小ぶりのジョッキなんだよ」
トトメスが優しく宥めるが、旅人はそれも聞かず「ジョッキが小さい」と騒ぎ立てる。それまで笑顔を繕っていたトトメスの表情が一瞬だけ曇る。元ヤン時代の女将としての素顔が僅かににじませると旅人はびくりと肩をすくめ、日和ってしまう。
「てか父ちゃん、大ジョッキってないの?」
「ねぇよ! 酔虎亭は代々このサイズって決まってんでぇ!」
プリスカの質問にダンマルクの声はさらに荒くなる。常連客にとってジョッキ一杯のサイズでここまで熱くなることは滅多にない。だからこそ、ダンマルクやトトメスがこの旅人と揉めているのを面白がって眺めていた。周りの酔客たちは口々に叫び合い、肩を小突き合う光景はいつものことだった。
「婚約祝いだから大ジョッキを出せ!」
「いやいや、このサイズが一番だろ!」
「俺はもう少し小ぶりなジョッキが良い!」と、なぜか客同士で小競り合いを始めてしまう。
「この野郎ども、まとめて叩き出すぞ!」
ダンマルクが腕をまくりながら叫ぶと店の空気が一気に剣呑な空気が広がりそうなところマイリスがジョッキを持って割って入る。メイド隊副長らしい威厳に満ちた落ち着いた声を響かせる。
「あなた、すこし飲みすぎです。冷えたお水をちょっと飲みなさい」
冷えた水をマイリスが旅人に差し出した。そしてマイリスは店中を見渡し、柔らかな笑みを浮かべる。
「みなさんも、お祝い気分で熱くなるのは構いませんが、気持ちまで熱くしちゃだめですよ?」
その声に不思議と店は静まり返り、誰もが「そうだな」「言いすぎた」と頭を掻いた。冷水を飲んで少し落ち着いたのか、旅人も「すまぬ」と漏らす。
「……さて」
旅人の前の樽の上に帳面を広げたのはテンフィだった。数学好きの彼はこんな場でも力を発揮する。ちなみに彼は下戸ゆえこの酔虎亭で数少ないシラフだ。
「旅人さんはビルビディアの方ですよね? でしたらあちらのジョッキは国内法で一杯1136ml、ミラフォン銅貨8枚って決まってましたよね?」
「あぁ、そうだ。私はそのサイズのジョッキ、銅貨8枚で飲み慣れてるせいか、熱くなってしまった」
「で、こちら酔虎亭のジョッキは……底面と高さを勘案して約400mlと仮定します。で、エラール銅貨3枚ですよね、ダンさん」
「──あぁ」とダンマルクは鼻を鳴らしながら応える。
「現在のミラフォン銅貨とエラール銅貨の交換レートは100:110ですから──計算すると酔虎亭のエールの方が僅かにお得です! ……まぁ10リットル飲んで銅貨2枚程度の差ですがね」
店内が「おお……」とどよめく。「つまりビルビディアのエールよりキュリクスのエールの方が得なのか!」と笑いが戻る。
「酔虎亭のエールは4種類あるから飲み比べ出来るようにこのサイズなんだよねぇ」
トトメスが言うと、ダンマルクが「文句あるなら余所へ行け!」と笑いながら宣言する。旅人はふぅと息を漏らし、「僕が悪かった。皆がすっかり気分よく飲んでたのに水を差すなんて」と頭を下げた。
「文官長殿の婚約に乾杯!」
誰かの一声に全員がジョッキを掲げ、声が揃う。店は再び笑い声に包まれた。旅人も笑みを浮かべ、「この街は面白い」と満足げに酔虎亭を後にした。
*
ふらふらと夜風に当たりながら大通りを歩くその旅人に、ひとりの老学者が駆け寄ってきた。
「探しましたよレオノール殿下!」
振り返った旅人は照れくさそうに笑った、手にはテンフィが計算したメモ帳を握っている。
「すまんガイアス、ちょっとキュリクスを愉しんでいた。……面白いところだったよ」
実は彼、ビルビディア王フィロソフィオ七世の子・レオノールであった。
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・作者註
『え、どっちのビールがどれだけお得なの!?』
①銅貨の交換レートが「ビルビディア:エラール=110:100」
→ビルビディア銅貨8枚=エラール銅貨8.8枚
※以下、エラール銅貨基準で書く
②ビルビディアのエール価格
→1136mlで、銅貨8.8枚→つまり銅貨1枚で129ml飲める
(1000ml当たり7.7枚)
③酔虎亭のエール価格
→400mlで、銅貨3枚→つまり銅貨1枚で133.3ml飲める
(1000ml)あたり7.5枚)
④だけど酔虎亭のジョッキ容積は厳密に測ったわけじゃないので。
Ans.
1000ml超えるジョッキてお腹ガボガボなるし、重くて腕おかしなるわ!
(でもさ、大ジョッキって謎のロマン感じる)