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172話 武辺者、ついに結婚へ──後日談・2

 センヴェリア大陸南部に広がるビルビディア王国は古来より黄金色に波打つ小麦畑や柑橘の果樹園が一面に広がる豊穣の地であった。夜明けとともに農民たちは畑に出て汗を流し、昼には陽気な歌を口ずさみながら収穫を市場へ運ぶ。昼食には焼きたてパンと肉のサンドイッチと柑橘酒を味わい、しばし木陰で昼寝をしてから再び夕方まで働く。その暮らしぶりを象徴するように、国章には麦束と柑橘、そして聖心を示すハートと月の意匠が刻まれている。冬は雪に包まれ厳しいが、夏場には燦々とした陽射しが平原を照らし出す。


 その国章にも使われる小麦束と柑橘の飾り彫りで彩られた大広間に商人や高級官吏たちがぞろぞろと集まってきた。若き王族レオノールが主催する定例会議だ。会議机の真ん中には焼きたてのパンや菓子が並び、香ばしい匂いが広間に立ちこめている。とても会議の場とは思えない。誰かが「まるで宴の準備だな」と囁けば、周囲はくすくすと笑うだろう。騒然とする中、宰相代理ブリンマーが黒板を背に立った。白いチョークを鳴らしながら力強く告げる。


「本日の議題は……ルツェルの“爆弾娘”と、キュリクスの“車椅子”の文官長との婚約だ」


 ざわめきが走る、菓子を頬張っていた商人まで口を止めた。


「ただの縁談と思うなかれ。婚約を契機にキュリクスとルツェルの間で『技術交換の覚書』と『港湾施設利権の譲渡』が交わされたそうだ」


 黒板に書かれたのはキュリクスとルツェルを結ぶ短い線とハートマーク。それを見て吹きだす商人たち、「いいね若いって」と漏らす若手女性官僚、美味しそうにシューケーキを摘まむ老師と様々だ。しかし、この時点ではビルビディアに旨味はない、ただの慶事である。


「さらにキュリクス東部、モバラ漁港近くに新しい貿易港の整備が始まる。来年には運用開始の予定とのことだ」


 次に黒板に描かれたのはビルビディアの文字と海路の線。ブリンマーは説明を続ける。


「資金は“株式化”によって集められた。つまり一口いくらかの債権を売り、投資を募ったと聞く。債権者――いわゆる株主は、半期ごとに港の使用税から利払いを受けられるし、会議にはは港湾利用に関する発言権も認められていると聞く。だが発行株の半分はキュリクス領主館が、四分の一はルツェル王宮が保有している。つまりキュリクスは開発資金を引き出しつつ、利権の四分の一をルツェルに持参金代わりに渡した形だ。これで二国間の結束は一層強くなる。──もちろんこの時点でも、ビルビディアの旨味はゼロだ」


 パンをかじっていた壮年の商人が眉をひそめた、どうも彼にはブリンマーの言葉にいまいちピンと来てないようである。


「穀物輸出はルツェルやロバスティア経由での陸上輸送はもともと順調だろうに。何がどう違い、変わるんだ?」


「これまでは穀物の通商線はロバスティアやルツェルを経由して陸路でキュリクスへと繋がっていた。だが海路直結が始まれば陸上輸送は激減するだろう、しかもキュリクス-ルツェル間のマールブン峠は今も昔も冬季の通商は危険が伴うから活発ではなかった。しかし婚約で両国間の結束が固まり、そこに海路直結での利益をキュリクスとルツェルで分け合う事で陸上輸送の減少分を補うそうだ。そしてビルビディアは海路という旨味を独り占めできる」


 そう言うとブリンマーは新しい線を引く。驚きの声が重なり、数人の商人が思わず席を立った。


「港が動くなら、金穂屋と契約だ!」


「金穂屋のオッタヴィオの親父はケチだぞ、奥方のフラウ夫人を丸め込め!」


「婚約の持参金が港湾利権とは、派手な花婿だな!」


 冗談交じりの軽口に広間は笑いに沸いた。だが商人たちの目は笑っていない。金の匂いを嗅ぎ取り、狙うのは穀物販売と港湾利権だった。


「そう言えばキュリクスは“魔導エンジン”を使って粉挽き機の開発を始めたとか」


「それなら粉挽きのギア機構はどうだ! 我らビルビディアに一日の長があるぞ」


「いや、粉挽きのグラインダー技術はルツェルが上手い!」


「先を越されるな!」


 商人たちの声が一段と熱を帯びた時、若き王族レオノールがゆるやかに立ち上がった。凛とした瞳が一同を制する。


「ならば好都合、婚約によってキュリクスとルツェルの結束は強まったんだ。そこへ我らビルビディアが加わり、粉挽きの歩留まり率が良いビルビディアの技術とルツェルのグラインダー技術を合わせ、キュリクスを舞台に技術交流をすればよい」


 広間が静まり返る。やがて誰かが「なるほど!」と声を上げ、頷きが広がった。婚約は協力の口実となり、ビルビディアも旨味を得るのだ。


 そのとき別の商人がぽつりと呟いた。


「……そういえばリリア川を忘れちゃいませんか。あれはハルセリア嬢の実家、ルコック家が運上利権を握っていますぜ」


 それを聞いて勘のいい男が「あっ!」と叫ぶ。


「陸路と海路に加え、リリア川経由を整えれば“三本立て”。ルコック家もキュリクスも、それに我らもニンマリですぞ!」


 ざわつきが広がる。しかし老学匠ガイアスは白髭を撫でながら渋い声で制する。


「……だがリリア川を使った水上輸送も、オーブラン山脈の峠は急峻で山賊も多いと聞く。夢物語にすぎぬぞ」


 すると机を叩き、熱に浮かされた商人が声を張る。


「夢物語ですと? しかし今は違う。ヴァルトア卿とエルンスト伯は婚約で渡りができた。それなら我々ビルビディア商人が旗振り役をして両家を煽って共に運河を掘るという大胆な手もある! ルツェルを通す以上、陛下の妹君ゲオルギーナ公妃を動かせば大公フランツ殿も必ず首を縦に振るはずです!」」


 広間が熱に沸く。商人はさらに続けた。


「夢物語でも、婚約が口実となればルコック家を巻き込む糸口になる。……香りだけでも嗅がせれば十分だ!」


 笑いと喝采が交じり、場は宴のように沸き立った。やがてレオノールが帳面を閉じ、声を張る。


「まずは婚約祝賀の名目で特使を送ろう、甘い菓子と柑橘酒を手土産に調査団もな。そのついで、ルツェルに続くキュリクス駐在の大使館設置を探る」


 商人や官僚は胸に拳を当て、ビルビディア式の敬礼を揃える。若王族を見送ると、広間は再び菓子と笑い声で満ちた。残されたガイアスがひとり呟いた。


「……一番行きたいのは、殿下ご自身でしょうな」


 レオノールはかつてヴィオシュラで留学生を保護する特別領事を務めた。その任期中に“爆弾娘”ことハルセリアの事件を耳にし、情報収集に奔走した直後、彼女の行動のせいでルツェルとシェーリング公国の関係悪化が表面化したのである。間もなく父王フィロソフィオ7世から調査命令が下り、彼は情報をまとめて速やかに送達し帰国したという。この件をきっかけにビルビディアはシェーリング公国を『信頼できない国家』と公式に認定し、その影響で十年以上もヴィオシュラには留学生を送らなかった。しかし昨年になってようやく子爵家の子女とその従者を国費留学生として送り出した──それがエルゼリアとリーディア、ミニヨやセーニャの友人である。


 隣の商人が焼き菓子の包み紙を懐にしまい、皆がくすくすと笑う。香ばしい甘い匂いと共に、会議は終わったのだった。


 *


 夜のしじまを破るように分厚い扉が軋んで閉じられる。石造りの広間は夏というのに底冷えし、燻った松明の匂いがこもっていた。遠くからは夜哨訓練の掛け声がかすかに届き、室内には鎧の擦れる音と咳払い、たまに誰かの貧乏ゆすりだけが広間に響く。


 その夜、親ロバスティア派の面々が集っていた。場所は王城の奥まった軍議の間。壁には古びた地図と槍が掛けられるだけで飾り気は一切ない。灯火は少なく重々しい空気が漂っている。集まったのは将軍や武官、国境防衛に携わる者たちばかりで、商人の姿はなく軍務一辺倒の顔ぶれだった。


「……例の婚約など茶番にすぎん」


 初老の将軍が吐き捨てるように言った。キュリクスの文官長とルツェルの女性官僚の婚約話はビルビディアの王都ミラフォンでも新聞の裏一面を飾った。将軍は鼻で笑い、「ルツェル紙『フローリア』まで大騒ぎしている」と付け加える。


「伯爵家の“じゃじゃ馬娘”と文官の婚姻などまさに些事。それを商機だとレオノール殿下らは大騒ぎだが、国防には何の力にもならん」


 別の武官が机を叩く。「しかも聞くところによると、キュリクスはロバスティアへの通商破壊の報復として“ヴィシニャク”なる果実酒を格安で売りつけているそうだ」


「は? 酒を止めるのではなく格安で売りつける? そんなもの、我らが買い漁ればいい。馬鹿ばかりだな」


「そりゃ統一戦争時に糧食の配分を間違え、部隊を飢え死に寸前に追い込んだのが領主ヴァルトア卿だと聞くぞ」


「なんだそれは。算数も出来ぬ武辺者が治めているとは、領民が気の毒だ!」


 強硬な声が次々と上がる。とはいえ彼らですらエラール王宮には顔をしかめた。「あれはもう腐敗しきって頼りにならぬ。寄りかかれば共倒れだ」と口々に言う。


「酒を安売りするとは理解不能だ」と一人の武官が鼻で笑う。しかし、キュリクスから流されている酒毒がロバスティアでどれほどの害を生んでいるかなど考えもしない。彼らは文治主義や重商主義を取るフィロソフィオ王権を穏健派・ハト派と嘲り、武断政治による拡大主義、敷いては帝国主義へ移行すべきだと考えている。


 むしろセンヴェリア大陸で穀物一大産地を持つビルビディアが拡大主義を取らないほうが不思議な話である。食糧需給度の低いルツェルやロバスティアを抑えてしまえば勝手に干上がるだろう。


「なんならエラール王宮やキュリクス領まで攻め立てれば大陸の半分は我らのものだ!」と豪語する武官まで現れた。だが歴代の王は拡大主義を退け、法と秩序による支配、農産品を武器とした重商主義を取り続けている。


 やがて議論は国境防衛へ傾き、ルツェル国境沿いの要塞化やトーチカ建造、徴兵拡大が議題に上がった。そして同じく拡大主義を取るロバスティアとの同盟強化こそ唯一の道だとまで断言する声が響き渡った。


 やがて一人の老将が立ち上がり、低く結んだ。


「恐れるべきは婚姻外交などではない。我らが真に避けるべきは、ロバスティアを敵に回すことだ」


 その言葉に広間は静まり返った。こうして親ルツェル派(商業・交易重視)と親ロバスティア派(軍事・同盟重視)の対立は鮮明となり、王国政治に新たな深い溝を刻んだのだった。

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