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171話 武辺者、ついに結婚へ──後日談・1

 厚い毛織のタペストリーが風に揺れ、窓から山地特有のひんやりとした風が流れ込んでくる。ルツェル公国の政庁・小会議室。地図台の上に広げられたのは南北の交易路を描いた羊皮紙で、鉱山と峠、河川の曲がりが赤い線で記されている。


「――あの“爆弾娘”もついに婚約か」


「はい、キュリクス領クリル村にある文官長トマファの実家、ならびにルコック家、双方の家中で確認済みです」


 古くから大公に仕える重臣フーベルトが低く唸りながら問うと、若い書記官が頷いた。


「特にエルンスト殿の喜びたるや、宮中でも噂になってるほどです」


 普段は鳩尾あたりをさすりながら渋い顔で参内するような辛気臭い男が、なんとすれ違うメイドにまで笑顔を振りまき、時折スキップ混じりに執務室へ入っていくようになったという。あまりの変わりようを説明した書記官の言葉を聞いて会議室では小さく笑い声が響いた――その婚約話が本物だと、誰もが確信するほどに。


 「元々は通商封鎖を食らったキュリクスに文官長がわざわざあの“爆弾娘”に通商の相談をしたんだよな。──あの二人に元々、接点はあったのか?」


 直近の情勢から観ればルツェルとキュリクスが政治的に急接近したのは半年以上前の『クモート領主通商封鎖事件』である。歴代のキュリクス領主はロバスティアのクモート領主との私的で“太い”交流があり、クモートからの鉱物資源を安く融通する代わりに様々な便宜を与えていたという。しかし領主がヴァルトア子爵に変わったことでクモート領主へ都合の良い便宜が止まってしまう。しかもクモートの鉱物市場の利権はキュリクス系商会が握っているため、クモート領主は鉱物市場の利権を独占しようと意図的な荷止め工作を行ったのが事件の発端だ。


 クモート領主の当初の考えは輸出通関を意図的に止められた商会は売り上げ減から急激に弱体化し、その利権をすぐにでも手放すと踏んでたようだ。そして金属加工やガラス細工を得意とするキュリクスの産業は大混乱に陥るし、市場利権も手に入る。こうなればキュリクス領主へ失った便宜分を取り戻す交渉事が出来るし今後は言い値と物量で鉱物を販売できる。しかも領主の娘婿の先物取引の損失もそれでカバーできるだろうといった随分と稚拙な工作だった。しかしその目論見はロバスティアに放たれていた有能な“草”から文官長に見破られており、むしろその稚拙な工作を逆手に取った取引上の情報戦で完全に自滅させた。そのうえ仕返しとばかりに今まさにキュリクスがロバスティア東部に格安の果実酒を送り込んで“ヴィシニャク漬け”の酒攻勢をしているという。


 その間の不足分を補うため、ルツェルの鉱物商工会に定期購入分以外の『相対相場での現物買い』、いわば追加分をハルセリア経由でお願いしてきたのだ、これが両国接触の始まりといえるだろう。


「え、フーベルト閣下はお忘れですか、あのハルセリア先輩が起こした”ヴィオシュラ決闘事件"。──あれってキュリクスの文官長の名誉を守るための闘争だったんですよ」


 若き女官・ファレプが説明した。“ヴィオシュラ決闘事件”──シェーリング公国と断交寸前にまで至ったヴィオシュラでの衝撃的な一件はルツェル宮中で知らぬ者はいない。その事件の衝撃と彼女の好戦的な性格から宮中や中央省庁では“爆弾娘”と呼ばれるようになったという。ちなみに過去にフーベルトが発表した財政政策についてハルセリアが『なんですか、その希望的観測に基づいた経済論理は! 詳しく説明しなさい!』と噛みついてきた事があり、【あれは爆弾娘じゃねぇ、もはや狂犬だ】と漏らしたこともある。もし宮中に“ハルセリア被害者友の会”があれば、フーベルトもその会員の一人だろう。もっともその被害者の会の代表となるのは父エルンストだろうが。


「ですからハルセリア先輩は十数年越しの片思いを結実させた、ルツェルの乙女たちにとって憧れの女性って言われてるんですよ」


 ファレプがわずかに頬を赤らめて言った。この一報を受けたルツェルの大衆紙『フローリア』でハルセリアの略歴をユーモラスに紹介したところ、『衝突と国外追放、それでも温められた情愛と恋』がルツェルの乙女たちの目に留まり、「恋は願えばいつかは叶う!」と勇気を与えたという。なおこのファレプ、ヴィオシュラ学院を追われたハルセリアが編入学してきたルツェル女官学校の一年後輩であり、『フローリア』の記者から婚約の話を初めて耳にした彼女は「え、先輩ついに爆発した!?」と応えてしまい、それが紙面に大見出しとなったという。──そしていつか来るであろう、“おっかない先輩”から『フローリア見ました』という手紙が怖くて仕方がないらしい。まぁ来たら来たで冷やかして誤魔化そうと考えてもいるのだが。


「てか、今回の結びつきは”栄光ある“ルツェルと勃興のキュリクスとの結び目としての意味が大きいのではないか?」


 フーベルトと同じ年かさの重臣・ランバードが指で地図を叩く。ちなみにルツェルの産業は精密機械製造や金融業など、人の交流を前提とする産業を持つ小さな内陸国であり、そのルツェルの王都ファドゥツシュタットから見て北東の位置にキュリクスがあり、昔から鉱物資源や酪農産品、ビルビディアからの穀物の通商売買が盛んだ。


「ようやくこの“栄光ある”ルツェルにも海への扉が開くな」


 ランバードがそう言うと若い武官・ユーゲルが缶入りクッキーを差し出しながら身を乗り出した。


「それなら技術系ギルドと領主館との連携を視察する団を送るべきです。ハルセリア嬢やアンドラ嬢からの報告書にもあるようにギルド所属技師や学生、専門職の文官が共同研究して新たな産業を興そうとしているのです。例えばこれ、領主館のメイドと菓子商ギルドとの共同研究で生まれたこの缶入りクッキーは大人気だそうで!」


 ユーゲルがこのクッキーのふたを開けると手書きのかわいらしいメモが一片顔をのぞかせた。そこには『──仲良しの秘密、素直になること』と手書きされている。これはキュリクス領主館メイド隊副長マイリスが自ら一枚一枚手書きした格言だという。たまに格言かどうかわからない一文も混じっており、わざわざこれを蒐集するためクッキーを買う者もいるそうだ。


「派遣の前に、まずは峠の治安を整えるべきだろう──物と人が行き交うなら特にマールブン峠は命綱だ。山賊共の“稼ぎ時”の前に衛兵を両国で再編し、早急に整備すべきだ」


 老職人出の参事ボルックスが静かに告げる。キュリクスとルツェル、ロバスティアの国境沿いにオーブラン山脈が聳え、キュリクスとルツェルを繋げる急峻なマールブン峠には離散農民が徒党を組んで山賊に変わることもある。ルツェル軍は仮想敵であるロバスティアやルツェル王宮に注力しているため国境沿いの峠の治安維持に兵力を割く余裕がない。このボルックスの言を借りるなら、「交流を盛んにするなら、その見返りとして兵を出して欲しい」という事らしい。


 先ほどハルセリアの武勇伝をまるで自分のことのように誇らしげに語っていたファレプが懐から地図を差し出すと口を開いた。


「ボルックス参事、それはあまりにも図々しいお願いだと思いますよ。むしろそんな無礼なお願いをしようものなら我が“栄光ある”ルツェルが主権を持つマールブン峠を寄越せと言われかねません」


「そこなんじゃ。せっかく流通が活発化しても横でかすめる盗人が出れば、尻すぼみになりかねん──てか、なんじゃこれ」


 ファレプが差し出した地図をボルックスたちが身を乗り出して覗き込む。等高線まで精密に引かれたキュリクス西の森の地図だった。さらに地図右上には方角と縮尺まで書かれており、他にも水場や小橋、危険地帯などが細かく記されている。その地図を覗き込んでる一同に、ファレプは軽くて透明なプレートに埋め込まれた方位磁針を差し出した。縦辺と横辺には定規代わりの目盛りが振られ、方位磁針の周囲には360度の目盛りを刻んだ回転リングが備えられている。まさに野外活動用の方向コンパスを思わせる精巧な道具だった。


「ハルセリア先輩の婚約は宮中でも衝撃的でした、なにせ“行き遅れ必至の爆弾娘”ですよ。──こほん、これは“先輩個人の慶事に見せかけた我が国家の選択”です。──ちなみにこちらは、駐在キュリクス大使のアンドラ参事が密かに手に入れたキュリクス領主軍が実際に使用している末端兵用の地図とコンパスです……。精緻な測量や各種三角点の設置、そして末端兵向けとはいえこんな精密な地図に方向コンパス。こんなの新興の地方領主の仕事ではありませんよ」


「つまり、ファレプ嬢は何が言いたい?」


「私たち”栄光ある“ルツェルにはキュリクスに比べれば多くの優れた技術はありますが、こんなのを高級将校でなく末端兵が使ってるんですよ! 私たちにも測量や地図製作の技術はありますがそれに胡座をかいてるのかもしれません。それならハルセリア先輩とキュリクスとの結びつきを最大限活かし、積極的に技術協力や人材交換を行う事で互いに発展できるはずです」


 短い沈黙ののち、フーベルトが側に控える侍女に「ペンと羊皮紙を持て」と言うと静かに差し出した。それをファレプに差し出すと静かに告げた。


「技術交換の覚書を書き起こせ。測量・衛生・教育行政に金属加工の代わりにこちらは機械細工と酪農産品、金融工学の技術提供ができる、と――『暮らしを支える技』に限るがな」


 フーベルトの意見に「賛成」と若手が勢いよく頷く。


 その熱気を壁の影で聞いていたのは軍装の者たち――軍閥派の連絡役である。彼ら二人は視線を交わすと無言で部屋を出た。熱くなっていた会議室内と違い、ひんやりとした廊下の冷気が頬に刺さる。


「あの“爆弾娘”が地方の文官長ごときと結ばれて何を浮かれてるんだ、と言えれば楽なのだがな」


 軍帽に白い詰襟姿の若い“女”が呟いた。首元にはルツェル高級将校を示す“金色の二重の月輪”の国号を示す徽章がきらりと光る。もう一人の濃紺の詰襟姿の若い男は「ですね」と応える。


「――文官連中は気付いてないだろうが、二か月前のキュリクス北街道の盗賊掃討戦をたった四人で制圧してる"ヘンタイ"領主軍だぞ。しかも四人中三人はエラール士官学校卒だ」


「へぇ、マッシソヌ少佐もエラール士官学校でしたよね」


「あぁ、どいつもこいつも名前を聞けば『あいつかよ』と言いたくなる連中だ。──特にあのアニリィ閣下が居た事にビックリしたけどな」


「アニリィ閣下……あぁ、『エラールの酔っぱらい』でしたね」


 若い男が言うとマッシソヌは皮肉げに口角を上げて笑った。「ふっ、確かに酒で問題起こして王国軍を追い出された女だったな」と漏らす。酒の話では必ず名が挙がるアニリィだが、『飲まなければ非常に優秀な女性武官』だ。書類仕事が苦手で部下にうまく丸投げするが、そんな部下にも何故か慕われる良い武官だったとマッシソヌは懐かしそうに言う。


「エラール王国軍でも五本の指に入る剣豪だったし、用兵術や戦術学といった座学も優秀だった、気に食わん上官が居れば殴り飛ばすような奴だったが──爆破魔法使いだぞ」


「はぁ!? そんなもん、『酔っ払い』一人で一個小隊じゃないですか!」


 煙草の先や竈に火をつける生活魔法が使えるものなら意外とおり、トマファやプリスカ、レオナも実は生活魔法ぐらいなら使えたりする。しかし攻撃性の高い火魔法や爆破魔法など使えるものは多くはない。しかしアニリィの場合、詠唱時間が短く威力も高く、その点だけをみれば彼女は非常に危険な存在と言える。そのため本来であれば王国軍を退役する際、彼女の左腕には爆破魔法を封じるための魔法陣が入れ墨として刻まれている。それでもなお今なお爆破魔法を使えているのだ。──キュリクス西の森の洞窟が崩落したのもアルカ島上陸地点を綺麗に吹き飛ばしたのも、彼女の爆破魔法だ。


「他にも文民枠士官だった『ほのぼのパワー系』のブリスケット殿、飛び級で士官学校を出た『怜悧な軍略オタク』のウタリ先輩とヤバイのが雁首揃えてるんだ。それよりヤバイのが士官“じゃない”ヤツだ」


「へぇ、士官学校も出てないんだったら一般兵卒ですよね?」


 マッシソヌは歩みを緩めず大股で進み、詰襟姿の若い男はその速さに躓きそうになりつつ追いすがった。廊下の角を曲がり、政庁舎から軍務棟の渡り廊下を歩く。


「残りの一人は“寒冷地獄”の北部ヴァイラ女隊に三年もいた精強兵あがりの農業系と税務会計系の文官で、訓練用のメイスを片手で振り回すような女だそうだ。──文官ですら元軍属なんて、頭おかしいとしか言いようがない」


「んまぁ、きっとそうやって“文民統制”を行ってるんですよね」


「多分な。──あとキュリクス領主軍は人材だけじゃない、【レオダム式防犯閃光筒】という閃光催涙弾まで自己開発してたし、どの兵も信号弾も常備してる。しかもさっき見た精緻な地図にコンパスまで末端兵が持ってるってそれだけでも総合軍事力が異常って判るだろ」


「ま、まぁ……我が“栄光ある”ルツェル公国軍にすら配備されてませんね。最近ようやく望遠鏡が来たって弓矢隊の観測手が大喜びしてましたから」


「隣国に意図不明な技術的先進国が居て、しかも密かに軍拡を続けてるキュリクスの地は恐怖でしかない。しかも憎きロバスティアと違って拡大主義を見せぬところがなおのこと不気味なんだよ」


 彼らが打ち鳴らす軍靴の音は床に敷き詰められた赤絨毯に吸い込まれていく。そして彼らが飛び込んだ軍務棟の戦略室では地図に新たな線が引かれていくのだった。

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