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17話 武辺者の女家臣、ぶっ放す

 キュリクス西の森の洞窟は、朝早くに突如崩壊した。


 火気厳禁のはずの洞窟で、よりにもよって火魔法をぶっ放したのが――あのアニリィ。

 当然のように洞窟は崩れ、彼女と三人の冒険者が閉じ込められてしまったのだ。斥候隊の事故速報を受けて領主軍と冒険者ギルドが合同で救助隊を組み、現場へ急行しようとしていたその時――。



 ドォンッ!!



 地面が轟音とともに崩れ落ちた。

 突如として出現した巨大な穴に、救助隊の面々は言葉を失う。

 恐る恐る縁に近づいた者たちの視線の先――そこから、涙目になったアニリィが飛び出してきた。


「ごめん、報告はあとで! まずはお手洗い!」


 そのまま全力で斥候隊の廠舎へと駆け抜けるアニリィ。

 あっけに取られる救助隊。さらにその後、土まみれの冒険者三人がそろりと地上に這い出てくる。


「要救助者、全員自力脱出。――やっぱりアニリィ閣下だな。解散!」


 救助隊隊長のイルバンがため息まじりにそう言い放つと、招集されていた救助隊の面々は「日当出るよな?」などとぼやきながら、三々五々その場を去っていった。


 ――いったい、洞窟の中で何が起こっていたのか?

 少し時間を巻き戻してみよう。




 * * *





「トイレ行きたい。――ぶっちゃけ、う●こしたい」


 洞窟内に、まるで凍りついたかのような沈黙が走る。

 背が高くて不器用な“大”。

 酔っ払ってアニリィに絡み、ぶん投げられて以来彼女の前だけはすっかり舎弟ムーブの“小”。

 そして、何事も受け入れてしまう冷静な“ヒゲ”。

 三人とも、その“見た目だけは麗しい”女武官から放たれた衝撃的な一言に、固まってしまったのだ。


「――いや、マジで限界。尊厳とか言ってる場合じゃない。二日目だから大丈夫かなぁって思ってたけど。――ごめん、救助隊なんか待ってられないわ。みんな、物陰に隠れて!」


「へあっ!?」「ちょ、姐さん!?」「了解、避難完了。閣下、どうぞ」


 なぜか妙に統率のとれた応答を背に、アニリィが洞窟の中央に歩み出る。



「――我が内に眠る炎よ、秘められし魔力よ、古よりの主神に誓い、我が魂と炎を捧げ、奇跡を起こす、爆裂せよ! ――აფეთქება《もえあがれ》!」


 詠唱の終わりとともに、両手から青白い光が弾け――




 ドンッッ!!!




 中規模の爆発魔法が、洞窟内にたまっていた引火性ガスと連鎖し、さらに派手な爆発へと拡大した。崩壊した岩盤を貫き、“偶然にも”閉じ込められていた地点と地上とが繋がった――というわけだ。

 そして冒頭、涙目でトイレへ駆けていったアニリィの話に戻る。





 * * *




 ――だが同時に、誰も知らなかった“深部”が、ぽっかりと口を開けていた。

 そこからは、不気味な気配が漂い、まるで目が光っているかのように、暗闇の奥で何かが息を潜めていた。




     ★ ★ ★




 裂けた地面から覗く凶悪な瞳。

 なんともいえない不快な異臭。

 恐ろしい形相の魔物たちが、今にも襲いかかってくる――そんな気配に、息が詰まる。


「はぁっ! ――え、あっ」


 慌てて飛び起き、荒い息を吐きながら私は目を見開いた。

 洞窟内……じゃない。ここは――? 見慣れない幕舎の中。


 ひとつだけ置かれたベッド。その傍らにはサイドボード。そこに置かれていたコップを手に取り、そっと口に含む。僅かなぬくもりと、ほのかに甘いハーブの香りが鼻をくすぐった。じんわりと胸の奥が熱くなって、思わずもう一口、また一口――自然と喉が動いていた。


 思い出しただけで、私は自分の不甲斐なさに頭を抱えた。

 いつもぶっきらぼうだけど頼れるパウラ先輩。

 その隣で、何もできなかった私。

 鈍くさくて、あたふたして、ゴブリンの姿を見た瞬間、戦う前に気を失ってしまった私。


 ――もう、辞めよう。


 あのパウラ先輩をこれ以上呆れさせるくらいなら、このまま静かに姿を消した方がいい。

 斥候隊のみんなが言っていた、あの優しい先輩を――。

 そう思った瞬間、視界がゆがんだ。

 涙がひとつ、またひとつ。ぽろぽろとあふれ出してくる。

 再びコップを手に取り、一口、また一口。

 飲むたびに、胸の奥がじんわりと熱くなって、涙が止まらなくなった。


 そのとき――幕舎の布が、さわ、と揺れた。


「よっす、気がついたかジュリアちゃん」


 入ってきたのは、アニリィ閣下だった。

 ――いや、今は“様”って呼びたくなる。そんな気安さ溢れる雰囲気だった。


「――あら、どうした? どっか痛むか? すぐ医者、呼ぼうか?」


「いえ、大丈夫です――」


「大丈夫だったら、涙なんか出ないよ。――どうした。私で良かったら話、聞くよ?」


 まっすぐに向けられたその瞳には、優しさが滲んでいた。

 その声は、思っていたよりずっと、やわらかくて。あたたかかった。


 私は堰を切ったように、ぽろぽろと涙をこぼした。アニリィ様は何も言わず、私の隣にそっと腰を下ろす。末端兵の私にもこんなに近くに寄り添ってくれるなんて――噂よりもずっと優しい人だった。私は深く息を吸う。鼻の奥がつんとして、喉が詰まる。



「――訓練隊のとき、すごく、辛かったんです。全然できなくて。行進で転ぶし、敬礼は遅れるし、私のせいで連帯責任やらされた事も――。だから、“エース”ってあだ名、つけられて――」


 ほんとはあまり思い出したくなかった訓練隊時代。

 でも、アニリィ様の視線が、そっと背中を押してくれる。だから、私は続けた。


「それに、相棒がすごく自由で、――振り回されてばかりで。エースだし、相棒はアレだし――。訓練隊、ほんとにきつくて。でも、持久走と弓技だけはちょっとだけ評価されて――。それがうれしくて。ちょっとだけ、自信がもてたんです」


 アニリィ様は黙って頷いてくれた。その沈黙が、逆に心をほどいていく。


「――それに、指導教官のメリーナ小隊長に憧れてて。軽やかで、強くて、いつも笑顔で。私も、あんなふうに強くなりたくて、斥候隊を志望して――。入れたとき、本当にうれしかったんです――!」


 声が震え、目元が熱くなる。


「パウラ先輩と組まされて、ちゃんと教えてくれて――でも、でも――」


 もう、声にならなかった。


「――優しいパウラ先輩を、がっかりさせたんです。怒られるより、怖くて。どうしていいかわからなくて――」


 言葉が、喉の奥で絡まっていく。吐き出したいのに、苦しくて、苦しくて、声にならない。


 そんなときだった。ふいに、あたたかな腕がそっと私の肩を包みこんだ。やわらかな力で引き寄せられ、私はそのまま、アニリィ様の胸元に抱き寄せられた。


 あまりにも突然のことで、戸惑いすら追いつかなかった。だけど、ほんの一瞬でわかった。ああ――この人、なんにも言わなくても、全部わかってくれてるんだ、って。服越しに伝わる体温があたたかくて、まるで深くて静かな湖みたいに、すべてを受け止めてくれる気がした。


「――そっか。ジュリアちゃん、よく頑張ったんだね」


 そのひとことが、静かに落ちてきた。

 まるで心の奥底に触れるような、やさしい声だった。


 その瞬間、胸の中にせき止めていたものが、決壊した。

 自分でもどうしようもないくらいに、涙があふれて止まらなくなった。

 わかってほしかった。誰かに、ちゃんと見ていてほしかった。怖かったし、情けなかったし、それでも――本当は、すごく頑張ったんだって、気づいてほしかったんだ。


 ああ、私は――ただ、誰かに抱きしめてほしかっただけなのかもしれない。


 声にならない嗚咽がこぼれる。涙が頬を伝い、アニリィ様の服に染みを作った。でも、アニリィ様は何も言わずに、ただ静かに、やさしく背中を撫でてくれた。

 私はアニリィ様の胸に顔をうずめて、言葉も出ないまま、ぐしゃぐしゃに泣いた。涙と洟でみっともない姿だったけど、それでも、今は泣かずにいられなかった。

 そして、震える声で言った。



「――もう、辞めます。お世話になりました」




 * * *




「――パウラっちもね、新兵の頃は“エース”って呼ばれてたんだよ?」


 アニリィ様のぽつりとした一言に、私はぽかんと目を見開いた。

 えっ、パウラ先輩が――? まるで信じられない。アニリィ様は、そんな私の反応にふふっと笑うと、どこか懐かしそうに視線を宙に漂わせた。


 どこの隊にもいる、“エース”と呼ばれる存在。でもそれは褒め言葉じゃない。ぽんこつ兵を小馬鹿にして呼ぶ、皮肉なあだ名。アニリィ様のやわらかな語りの奥に、ほんのりと苦さがにじんでいた。


「パウラっちってね、ほんとすごかったんだよ? 『右向け右』って言ったら左向くし、行進訓練じゃ隊旗を落とすわ、どっかに置き忘れるわ。短槍の素振りやらせたら――もう、槍がぽーんって飛んでくの。空高くね。みんなでその飛んでった先をぽかんと眺めたもんよ」


 思わず、ぷっと吹き出しそうになった。

 だって、あのパウラ先輩がそんな!? いつも完璧で、無駄がなくて、ちょっと近寄りがたい先輩。そんな人にも、そんな“人間らしい時代”があったなんて。想像もできなかったけど――不思議と嬉しかった。


「でもね、配属決めの時、メリーナちゃん(小隊長)が言ったのよ。『あの子、訓練すればちゃんと伸びる子だよ』って。そこからはもう、周りの隊員たちが根気強く教えてさ。何度も何度も付きっきりで。そうして、今のパウラっちができあがったの」


 ぶっきらぼうでちょっと怖いと思っていた先輩が、少しだけ近くに感じられた気がした。私と同じように、もたついて、転んで、でも諦めずに前に進んできた人――。


「それにさ、ジュリアちゃん。パウラっちって今でも、ちょっと怒ってるみたいな喋り方するでしょ? でもあれ、ただの癖なの。前の相棒の子も、それが怖くてさ、よくメリーナちゃんに泣きついてたっけ」


 アニリィ様は笑いながら両手をぐっと上に伸ばし、のびのびと身体を伸ばした。

 なんだろう、それを見ているだけで、こっちまでふっと肩の力が抜けていく。


「――でね、ジュリアちゃんが失敗してもたついてる時、パウラっちは何考えてると思う?」


 ドキン、と胸が跳ねた。

 私はこくりと頷いて、固唾をのむ。


「たぶんね。前の相棒と同じだと思うよ。――『うん、かわいい』ってね」


 アニリィ様はにやっと笑って、両手をそのままストンと落とした。そして今度は、まるで妹を見守るような、あたたかい目でこちらを見る。その視線に、胸の奥で固まっていた氷が、すこしずつ、すこしずつ溶けていく気がした。


「――あの子、口ぶりとは裏腹でとにかく世話好きなのよ。ほんといい子なのよ? ――まあ、パウラっちと私、同い年なんだけどね」


 ――え? え、えええぇ!?


「同い年って――でも、階級が全然違うじゃないですか!」


 思わず声を上げてしまった私に、アニリィ様は少し肩をすくめて、目を細めるように笑った。どこか懐かしそうで、あたたかくて――その笑みに、胸の奥がふっとあたたかくなった。


「うん。実はね、パウラっちって、もともと新都エラールで人気の踊り子だったの。でも支配人と大ゲンカしてクビになっちゃってさ。で、入隊上限ぎりぎり22歳で来たの。それから『エース』を返上すべくコツコツ努力して、今の階級まで上り詰めたわけ。――すごいでしょ?」


 そう言って笑うアニリィ様の顔を見ながら、私は密かに納得していた。たしかに。パウラ先輩って、機敏で、しなやかで、どこか“舞うような”動きをするときがある。あれって、踊り子の経験だったんだ――!



「私はっていうと――数年前までは国軍の士官だったわ。でもね、酒でやらかしまして。結局、停職十二ヶ月か自主退官かって迫られてさ」


 その瞬間、アニリィ様の笑顔にほんの一瞬だけ影が差した。でもすぐに、照れたように頭をかく。


「それでね、どうしようって途方に暮れてたら、知り合いがユリカ様を紹介してくれて。で、ヴァルトア様の被官として再就職ってわけ」


 さらっと言ってるけど、なかなかの波乱万丈――。

(――そこまでやらかして、まだ飲んでるのがすごすぎる)

 内心つっこみかけたけど、それは言葉にしなかった。アニリィ様はふっと目を細めて、少し声を落とす。


「ヴァルトア様ね、あなたのことをこう言ってたわ。『失敗した? それがどうした。新兵なんて、失敗してナンボだろう』って」


 その言葉は、まるで静かな焚き火の火が灯るみたいに、私の胸の奥にじんわりと広がった。優しくて、でも確かにそこにあるあたたかさ。冷え切っていた私の心の奥に、小さな火種がぽっとともった気がした。


「一回の失敗で辞めたいって。――それなら私なんて、何度クビ飛ばしたことか」


 アニリィ様は照れたように笑い、首筋をさすりながら、どこか誇らしげに言う。


「パウラちゃんだって、あなたのこと、ちゃんと気にしてるのよ? そのサイドボードに置かれたメモ――パウラっちが書いたんじゃない?」


 言われて、私はあらためてその紙片を手に取った。

 ――間違いない。パウラ先輩の筆跡だ。

 ずっと目に入っていたはずなのに、気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。


「除隊はいつでもできる。希望するなら、スルホン様に部署替えの相談もできる。でも、その前に。もうちょっとだけ、頑張ってみない?」


 アニリィ様は、にっこりと笑いながら言った。「斥候隊の誰一人、あなたの失敗を笑う奴なんていないわ。――まぁ、万が一それでもいたなら、その時は私とメリーナちゃんが斥候隊全員に仲良く連帯責任だぞと教練で言うわ。この家では後輩の失敗を笑うような先輩はいないもの」


 その言葉に、私は思わず胸をぎゅっと押さえた。

 この人が“お姉さま”って呼ばれる理由、ちょっとわかった気がした。

 ――だけど、ちょっとだけ汗くさいです、アニリィ閣下。


 

 * * *



 もう少し。もう少しだけ、斥候をがんばってみようと思う。

 だって、自分で選んだ道だもの。パウラ先輩のこと、嫌いじゃないし――むしろ、好きなんだ。

 

 アニリィ閣下との面談を終えた私は、その足で駆け出した。

 向かう先は、パウラ先輩と私が寝泊まりしている廠舎。

 扉を開けると、パウラ先輩が私の顔を見るなり目を見開いた。

 たぶん、泣きはらした顔を見て「除隊する」って言いに来たと思ったんだろう。でも私は、違う言葉を差し出した。


「パウラ先輩。――私を、一人前にしてください」


 その一言に、パウラ先輩はぴたりと動きを止め、じっと私を見つめた。そして、緊張していたその表情が、ふっと少しだけ緩んだ。


「もう辞めるって、言うと、思ってた」



 いつもぶっきらぼうで、言い捨てるように話すパウラ先輩。

 でも、今日のパウラ先輩は、いつもと少し違って見えた。それよりも『私、ここずっとパウラ先輩と話すとき、ちゃんと顔を見ていなかったんだ』というのに気がついた。吐き捨てるように言うパウラ先輩のことが怖くて顔から視線をずらして見てなかったんだ。



「大丈夫。――また、明日。頑張ろう。はやく、寝なさい」


「はい。――あの、枕元の水、美味しかったです」


 私がそう言うと、パウラ先輩は一瞬だけぽかんとした顔をして、だけどすぐに、気恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべた。その顔が、思いがけず――いや、けっこうかわいかった。




 翌日。

 パウラ先輩の背中を、私は必死に追いかけていた。

 洞窟の奥へ続く道は暗く、ひやりとした空気が肌にまとわりつく。

 足元の石がカランと転がるたびに、心臓が跳ねた。

 だけど、すぐ前を歩くパウラ先輩の背中は、揺るがずまっすぐだった。


 『希望したんだもの』。


 そうだ、これは私が選んだ道。

 気がつけば、先輩の背中が、昨日よりも少しだけ頼もしく見えていた。




『この先、注意、探索』

『――了解』


 先行するパウラ先輩が後ろ手で送った手信号に、私はすぐ応えて立ち止まる。そして腰の探索棒をスッと伸ばした。昨晩、眠る前に何度も確認して練習した動き。もう、あたふたするわけにはいかない。探索棒を軽く振り出すと、パウラ先輩が一瞥して――ほんの少し、口元を緩めた。


 一つ、こくんと頷いてくれる。そのささやかな仕草が、嬉しかった。


 コツ、コツ、と探索棒の音が壁に響く。

 パウラ先輩は、時折振り返りながら、


「ここ、もう一度、確認。ちょっと、あやしい」


 と、いつも通りのぶっきらぼうな口調で言う。

 私は『了解』と手信号で返し、探索棒を握り直した。

 少しずつ、手の震えが引いていくのを感じる。


「大丈夫っぽいですね。では奥へ行きましょう、パウラ先輩。――あの冒険者たちが待ってますよ」


「うん、そうだね」



 どれだけ進んだだろう。

 ふいに、パウラ先輩が足を止めた。


『これ、なんだと思う?』


 手信号と、探索棒の先にある何かを示す動き。

 私は目を凝らす――松明のわずかな灯りの中、小さな四角い粒が鈍く光っていた。

 パウラ先輩がしゃがみ込み、それを指先でつまみ上げる。


「――パウラ先輩、それ、金ですよね?」


 思わず声が弾む。洞窟や迷宮には“お宝”がある、って話は聞いていた。まさか本当に、こんなふうに拾える日がくるなんて!


「さっそくお姉さ――アニリィ様に報告しなきゃ!」


 駆け出しかけた瞬間、肩をガシッと掴まれた。


「落ち着いて。斥候は、どんな時でも――慌てない」


 パウラ先輩はそう言って、私の頭をぽんぽん、と軽く叩いた。その手つきは、ぶっきらぼうなのに、どこか優しい。胸の奥が、じんと温かくなった。




 私とパウラ先輩は、足早に野営地へ戻る。すれ違う隊員たちからは「お疲れ」「ジュリアもお疲れ」と声が飛ぶ。パウラ先輩は敬礼で応え、私もそれに倣って――ちょっとぎこちなく、小さく敬礼を返した。――なんか慣れないなぁ。


 ふたりで向かった先は、アニリィ様の幕舎だった。



「し、失礼します! 斥候隊、パウラ・ジュリア組、入ります!」

『――入れ』


 パウラ先輩が先に一歩、私はそのあとに続いた。

 幕舎の奥では、アニリィ様が小さな文机に正座して、何かを書きつけている。声をかけるべきか迷っていると、ちらりと隣のパウラ先輩を見る。――うん、いつも通り。三角山みたいな口で突っ立ってる。ああ、そうだった。先輩って口下手だった。羽ペンが走る音だけが、静かに幕舎を満たしていた。


 やがてアニリィ様が「うーん」と唸って、勢いよく羽ペンを放り投げた。ペンはくるくると宙を舞い、床を転がって――私の足元へ。その拍子に、ようやくアニリィ様がこちらに気づいた。


「おぉう! あれ? パウラっちとジュリアちゃんじゃない、どうしたの?」


 アニリィ様は机に積まれた羊皮紙をがさっと脇に避けて、こちらを向く。一枚がふわりと舞い落ちて、私の足元に。――見なかったことに、しよう。――って思ったけど、見えちゃった。


 “反省文”。


 昨日の爆発魔法の件に、きっと違いない。私が悪夢にうなされていた頃、アニリィ様は――たぶん、また全力でやらかしてたんだ。――ほんと、どこまでもアニリィ様らしい。


「報告。――第七階層、金、拾いました、以上」


 パウラ先輩が敬礼しながら、淡々と告げる。

 その視線もきっと、さっき床に落ちた“反省文”を一瞬だけ捉えていたに違いない。――だが、何も触れない。何事もなかったかのように。それが、きっと軍人としての在り方なのだろう。パウラ先輩は迷いなくアニリィ様の前に出ると手のひらの小粒金をアニリィ様へ差し出した。アニリィ様は慎重にそれを受け取り、ランタンの光にかざす。角度を変えながら指先でそっと表面をなぞり、最後にふっと息をつく。


「おおぉ――これ、本物っぽくない? 明日、こっそり探索行こっか。――一番鐘に出発、それまで少し休め。では、爾後の行動に移れ」


「「移ります」」


 さっきまで反省文を書いていたとは思えない。アニリィ様の顔には、まるで宝探しを前にした子どものような期待が浮かんでいた。――秘密を共有するって、こんなに胸が高鳴るものなんだ。




     ★ ★ ★




 その頃。

 洞窟のさらに奥深く、三人の冒険者たちは終端の見えない道を慎重に進んでいた。

 (マッシュ)は探索棒で床を叩き、(ガイヤ)は足取りを記録し、ヒゲ(オルテガ)はカンテラで周囲を照らす。単調で地味な作業だが、彼らの目には、どこか高揚感が宿っていた。

 ――そして、ふいに。

 ヒゲのカンテラが石壁を照らし、風化しかけた奇妙な文字が浮かび上がった。



Ցանկությունը ոչնչացնում է ամեն ինչ

  ――Պայքարիր իմաստությամբ։ ֍



「おい――これ、文字か?」


 壁に刻まれた異様な筆跡に、ヒゲが眉をひそめる。

 鋭利なもので荒々しく削られたようなそれは、明らかに落書きとは違っていた。


「なんだよガイヤ、立ち止まって――へっ、ただの落書きだろ? てか何語だよこれ」


 ヒゲに呼ばれて戻ってきた小は、一瞥だけして鼻を鳴らす。


「おいオルテガ、お前読めんのか?」


「――さっぱり。けど、姐御(アニリィ)には報告しておくべきだな」


 大が真面目に言うその横で、ヒゲは思わず身震いした。背筋に、ひやりと冷たいものが這い上がってくる。

 (なんだ……この寒気……)



 だが、すぐに小が陽気に口を開いた。


「んだよ、おまえらビビりすぎ。とっとと先行こうぜ? ジュリアだっけ? あのちびっこギャルにまた煽られんぞ。『おじさんたち進捗遅い〜』ってさ」


 軽口に、大もヒゲも思わず苦笑する。

 気づけば、そのまま何となく前進してしまっていた。

 誰も、その警告めいた古文を深くは気に留めなかった。


 * * *


 だが、探索を続けるうちに――ヒゲの違和感は次第に強まっていった。この洞窟では、奥へ進むにつれて、ゴブリンの姿が減っていたのだ。さっきも単体の個体が現れたが、大とヒゲで囲んで問題なく処理した。本来なら奥へ進めば進むほど、敵の数は増えるはずだ。なのに、魔物の気配がどんどんと希薄になっている。


「なぁ、マッシュ――やっぱ変じゃないか?」


 ヒゲの問いに、小は地面を雑に探索棒で突きながら肩をすくめた。


「戦闘がないならむしろ都合いいだろ? てか最深部が近いから魔物も居ねえんじゃね?」


「いや、それでも――」


 大が珍しく口を挟む。


「俺も変だと思う。今すぐ姐御のとこ戻ったほうがいいかも」


 ヒゲも頷いた。彼の手のひらはじっとりと汗ばんでいる。そんな彼らの空気を読まず、小が笑いながら吠える。


「ったく、ガイヤもオルテガもチキンかよ! 未踏の洞窟探索なんて人生で一度あるかどうかだぞ? それをよ、あの呑兵衛アバズレに任せて――」


 小がそう捲し立てるとアニリィへの悪口が止まらなくなる。大もヒゲもうんざりした表情で黙って聞き流していた。だが、ぼんやりとしか見えないこの薄暗い洞窟の中では小には二人の表情は見えていないだろう。


 小は小心者で喧嘩も弱い。以前、あの洞窟でアニリィ様に詰め寄った際――

「ちっちぇことばっか言ってねぇで、酒飲んでイモ食って屁ぇこいて寝てろ!」

と、首根っこを掴まれた挙句に放り投げられていた。それ以来、小はアニリィ様の前で完全に舎弟モード。 大とヒゲはその一部始終を見ていたからこそ、今こうしてまた息巻いている彼の態度にげんなりしているのだ。


『なぁオルテガ、お前はどう思う? ――俺は、やっぱ姐御に報告したほうがいいと思う』


大がぼそっと隣のヒゲに話しかける。ヒゲはみぞおちあたりをさすりながら、低く返す。


『――腹減ったから、キャンキャンうるせぇマッシュ置いて帰るか』


『――賛成』



「おいおいお前ら! 勝手に帰んなよ! リーダーは俺だぞ!?」




     ★ ★ ★





「これ、自然にできた疵じゃないですよね――?」


 探索棒で壁を叩きながら、私はパウラ先輩に問いかけた。黙々と探索を続ける先輩は、私が棒で示した箇所をじっと見つめる。


「ん? ジュリアちゃん。金、見つかった?」


 地面に這いつくばっていたアニリィ様が、むくりと顔を上げて訊いてくる。私が「いえ」と首を振ると、「なぁんだ」と言ってまた這い戻った。――いや、アニリィ様、そんなみっともない姿を私に見せないでください。


「これ、なんだろ――」



 パウラ先輩が腰を少し曲げて、壁に描かれた何かをじっと見る。先輩は背が高いから、私の目線では見上げる位置なのだが――ちょっと、うらやましいな。いや、いまさっき天井に頭をぶつけて『痛ッ』って言ってたから、私ぐらいのこじんまりサイズのほうがいいのかな。


「何語だろ、センヴェリア語? ――違う」


「あの凸凹冒険者さんたちはどう判断したと思います?」


「知らない」


と、先輩が吐き捨てるように言った。要調査の×印がないということは、冒険者たちは見落としたか、無視したのだろう。それとも、意味が分からなかったか。


「アニリィ閣下、報告」


「どうしたのパウラっち? 金を探している私の射幸心を煽るような報告をお願いね」


――なんですかその言い回し。


ちょっとずつですが、私の中でアニリィ様の株価が下がってます。



「――思わぬ事態が我々を待ち受けていたのだ。なんと、壁に奇妙な文字が書き殴られていた。この文字はいったい何を意味するのか!? 我々への警告か!? 答えは闇の中だ!」



 えっ。パウラ先輩って、こんなにスラスラ喋れるんだ!それより、なにそのナントカ探検隊の煽り文句みたいなやつ。


「あー、パウラっち。相変わらず好きねぇ、その手の探検奇談。――ジュリアちゃん、知ってる?」


「え、あ、はい閣下。フジオッカ探検奇談ですよね?」


「ちがうわよ! この手の話するなら本家本元のカッワグーチシリーズでしょ! ねぇパウラっち?」


「この探索、はたして成功するのか――!?」


 ――ああもう、わかんない。ていうか、真面目に探索してください! 私は胸ポケットからメモ帳を取り出し、壁に刻まれたその奇妙な文字を書き写した。


「さっきのパウラ先輩の煽り文句じゃないですけど、古代文字――ですかね?」


 壁に残された謎の記号列を見上げながら、私は探索棒の先でそっと指し示す。何か、こう、似たような形が繰り返されているように見える。それが母音じゃないかと、そんな仮説が浮かぶ。言語ってたいてい、子音に母音を添えて音を作るって聞いたことがある。


「んー。……この文字、どこかで見たことあるのよね」


 アニリィ様はようやく立ち上がると壁の前に行き、こめかみに指を当てて首をかしげた。考え込む姿はちょっと真面目そうに見えるけれど、きっと『今日は何を飲もうか』って考えてそう。だけど私も、なんとなくだけど、見た記憶がある。どこだったかな――。


「――あの、パーラーの看板」

「「あっ!」」


 パウラ先輩の一言で、私もアニリィ様も同時に思い出した。そうだ――キュリクスで空前のアイスブームを巻き起こした、あのお店の看板に使われていた文字だ!

 訓練隊時代の相棒・プリスカがパーラーの噂を聞きつけて、夜中に脱走騒動を起こした事までついでにフラッシュバックしたけど。


「じゃ、この文字、パーラーのオーナーに聞いてみよう」


 アニリィ様がそう言うや否や、「撤収ーっ!」と高らかに叫んで駆けだした。

 えっ、はやっ!? でも上官の命令だから、従わないわけにはいかない。私も慌てて探索棒を縮めて腰に差し、パウラ先輩とともに駆け出した。


 その後、私たちは洞窟を後にし、西の森を駆け抜けてキュリクスの街へ戻った。

 ものすごい距離を走ったせいで、パウラ先輩も私も、もうへとへと。脇腹は痛いし、足は棒だし、髪の毛もぼさぼさになっている。なのに――アニリィ様だけは、ほんのり息を切らす程度でケロリとしていた。


「ちょっと汗かいたわ~。お風呂入りたいねぇ」


 そんな軽口を叩く姿が恨めしい。どういう体力してるんだろう、この人。

 最初に向かったのは、あのパーラーのオーナー宅。言わずと知れた“キュリクス・パーラー革命”の仕掛け人。もともとは田舎の貧乏酪農家だったけど、今では成功者の証――領主館近くの高級住宅街――に堂々たる屋敷を構えている。


 門をくぐるだけでわかる。庭には無駄に巨大な噴水、玄関には金縁の飾り文字が施されていて、「品」と「慎ましさ」の概念が一切感じられない。そして設置意図がよく判らない白亜の半裸女性の石像。なまめかしすぎて――正直キモい。


「よくこんな家に住もうと思えるわね――」


 私のぼやきに、パウラ先輩は無言で頷く。


「領主館所属のアニリィとその従者です」と警備に名乗ると、突然の訪問だったけどメイドたちが私たちを応接室に通してくれた。客人に出されたお茶は一級品だった。香り高く、茶器もあの木製食器だ。だが――


 そのソファに、脚を開いてどかりと座る男の姿はまるで「場違い」だった。光沢ある極細麻糸の上布生地のシャツに金ボタン。指にはごつい指輪がいくつも光り、くわえていたのは甘ったるい香りの葉巻。


「へいへい、お疲れさん。アニリィのお嬢ちゃんと――そっちは? ああ、斥候の娘っ子か」


 私には目をくれず、パウラ先輩を見るなり男の顔が微妙に歪んだ。値踏みするかのように、そしてどこか侮るような目つきで見るので、あからさまに態度が一段落ちたのが分かった。


「要件、なんだっけ?」


 アニリィ様が軽く口を開いた。


「あなたの店の看板に使われていた文字について聞きたいの。軍秘で詳しくは喋れないけど、似たような文字を見かけてね。何か関係があるのかもって思って」


 オーナーは鼻で笑った。


「んあ? ああ、あれな。看板屋に『それっぽくて異国風なやつで!』って言っただけ。こっちは何の文字かなんて知らないし、気にしたこともないなぁ」


言葉の端々に、『自分はもう成功者』という妙な自信と、『お前らは泥臭い下っ端の小娘ども』という無言の見下しがにじんでいる。


「それだけ?」


 あくまで事務的な声。もはやこちらに興味はないという態度があからさまだった。アニリィ様はほんの一瞬だけ視線を細めたが、それ以上はなにも言わず、さっと立ち上がった。


「うん。お茶、ありがと」


 アニリィ様がそう言って、さっさと立ち上がる。まったく未練のかけらもない態度だった。私たちも黙ってその後に続く。長居してもしかたないもんね。そんなときだった。



「――なぁ、アニリィ様や。そこののっぽの姉ちゃん、一晩おいてけや」



 唐突に背後から響いた、下卑た声。誰が言ったかなんて振り返らずともわかる。あの応接間のソファにふんぞり返っていたオーナーだ。さっきからまるで牛の値踏みでもするかのような目つきでずっとパウラ先輩を見ていたもんね。言葉にするまでもない。ぞわりと背筋に冷たいものが走った。


 空気が一瞬、凍りつく。


 アニリィ様は、立ち止まらない。何事も聞かなかったように、振り返りもせず、ただそのまま扉に向かって歩く。けれどその背中には、確かに殺気めいたものが一瞬だけ漂った気がした。けれど私は見た。アニリィ様の手がわずかに拳を握っていたことを。


 パウラ先輩も表情を微塵も動かさず、ただ静かに歩を進める。


 私――私は顔に出ていたかもしれない。まじで気持ち悪い、って。胸の奥がぐらつくような嫌悪感。吐き気すらした。


 軽々しく口にしたその一言がどれほど下品でどれほど浅ましく、そしてどれほど侮辱的か。

 あの人にはきっと一生わからないのだろう。でも――あの時、誰も言葉にしなかったのはきっと相手に言葉を費やす価値すらないと感じたからだと思う。




 玄関を出て、アニリィ様が小さく呟いた。


「成金って、ほんとすぐに“自分は偉くなった”って勘違いするのよね――」


 パウラ先輩が、無言で「うん」と頷いた。さっき投げかけられた言葉なんか気にも留めてないって顔をしていた。私ははらわたが煮えくり返るほど腹立たしいのに。これが子どもと大人の差なのかな。


 私は振り返って一度だけあの屋敷を見た。立派な外観に、派手な飾りと、高そうな家具。そして残念な住人。だからかな、どこか冷たい感じがした。――なんだか『こんな家に住むんだったら隊舎の方が良いわ』ってのが正直な感想だった。


 * * *


 それならばと、私たちはパーラーの看板を作ったという看板屋へと足を運ぶ。街の西側、技術職人が多く暮らす一角にその工房はあった。派手な外観も看板もなく無造作に吊るされた木板に「書工房ヤルコフ」とだけ筆文字が書かれていた。


 扉を開けると、ほんのりと木材の香りと古いペンキのにおいが鼻をくすぐる。工房の中は様々な書体で描かれた板や見本の紙、カラフルな顔料の瓶がずらりと並べられていた。その一角でひとりの男性が無言で作業していた。年の頃は五十手前くらいかな。目元には深い皺、頬は日に焼けてつなぎの作業着はあちこちペンキが跳ねてまだら模様になっている。


「すみません、こちらでパーラーの看板を作られたと聞いて――」


 アニリィ様が尋ねると、男性は顔を上げるでもなく、黙ったまま筆を一度置き、作業台からそばの見本を引き寄せて確認する。


「――ああ、あのアイス屋のか。あれは……字のデザインだけ錬金術ギルドに頼んだ。うちは板切って、下地塗って、色を乗せただけだ」


 静かで、ぶっきらぼう。けれどその声には妙な威圧感はなかった。ただ、長年手を動かしてきた人の“当たり前”がにじんでいるだけの声だった。


「錬金術ギルドの――誰が担当だったか、覚えてます?」


「たしかテルメとかいう子だ」


 そう言って、今度は木の札に筆を走らせ始める。会話はそれで終わり。けれど不思議と不快感はなかった。職人の仕事に邪魔をしてはならない――自然と、そんな気持ちにさせられる空気だった。


 私は工房の中をそっと見渡した。壁に飾られた見本の中には、商家の屋号や子どもの誕生祝いの名前札なんかも混じっていて、どれもどこか温かい。――ああ、こういう空間、なんか落ち着くな。


 さっきの成金オーナーの、ギラギラした応接室とは大違いだ。あちらは“見栄”で飾った空間だったけど、ここは“暮らし”と“手仕事”のにおいがする。




「なんだか――お使いイベントみたいですね」

 私がぼそっとつぶやくと、隣のパウラ先輩がぽつりと応えた。

「――アイス、食べたい。あのパーラー以外のとこの」


 うん、それすごく分かる。てかパウラ先輩、めちゃくちゃ気にしてた!

 さっきのオーナーのところで出してくれるかなってちょっとだけ期待してたんだけど、あんな言葉を吐く人のなんか絶対食べたくない!


「アイスぅ? じゃあ、この謎言語が解読できたらあのクソ成金のじゃないアイス、奢ってあげるわよ」


「えっ、本当ですか?」


「――火酒ぶっかけるとおいしいやつ。東区の酒場にあるわ」


「――アニリィ様、それもうアイスじゃないですよね?」


 やれやれ。ほんと、この人はどこまで行っても“呑兵衛女勇者”なんだから。でも、ここまで振り切ってくれるとちょっとだけ――頼もしく感じてしまう。


 * * *


 そして私たちは錬金術ギルドへ向かう。

 そういえば、私――キュリクスで生まれ育ったけど錬金術ギルドって一度も行ったことがないや。あまり縁のないところだったし、錬金術ギルドってなんだか影が薄いし。たしか場所は東市街区のはず。西区の看板屋から東市街区までって、街を横断する感じになるんだけど、まあ、街歩きも悪くないかも。入隊してからは練兵所か任務地へ向かうだけだったから、こうして街のあちこちを見るなんて久しぶり。


 町並み自体は変わってない。でも、人の賑わいや店の並びに活気がある。子どもが焼き菓子屋の前ではしゃいでる声とか、軒先から聞こえる笑い声とか――なんてことない日常の風景が、なんだか懐かしい。少しだけ胸があたたかくなる。

 ――で、着いた。


「えっ……ここ?」


 私の口から、自然とそんな声が漏れた。

 そこにあったのは、どう見ても“小屋”だった。いやいやギルドって言ってたよね? あれって普通、大きな建物じゃない? 冒険者ギルドなんて石造りの二階建て、いかつい看板、いかにもって連中らが出入りしてるトコだよ? 製薬ギルドだって白壁で清潔感があって、いかにも『研究機関』って感じだったのに。


 むしろ目の前にあるこの“小屋”は木造。外壁のペンキははげかけてるし看板は歪んでる。ドアなんてアニリィ様が乱暴に開けたら壊れそう。しかし煙突から黒い煙がモクモクと空に吐き出されている。大丈夫なの、これ?


「――ちょっと、アニリィ様。ここで合ってますよね?」


「んー? 合ってる合ってる。ほら、看板にうっすら『錬金術ギルド』って書いてあるでしょ? やだなぁ、ジュリアちゃん。こういう隠れ家的な感じ、いいでしょ?」


「――“隠れすぎ”だと思います」


 このギルド、深夜になったら地下で人体錬成とか禁忌の研究とかしてそうなんですけど。呆れたようにぼやきながら、パウラ先輩と目を合わせた。先輩も少し眉をひそめている。どうやら私だけじゃないらしい。――よかった、正常な感覚。


 でもアニリィ様はまるで気にしていない様子で、勝手に扉を開けてズカズカと中へ入っていく。あ、意外と扉は壊れなかった。――さすがギルド。

 しかたなく私とパウラ先輩もその後に続いた。


 でも、扉を開けて中に入ると外の喧騒とはまるで別世界だった。

 薄暗いランプの灯り。静謐な空気。規則正しく並んだ書棚と薬棚。その合間に机が配置され、白衣姿の受付嬢や研究者が黙々と書き物をしていたり。すべての動きが静かで、どこか研ぎ澄まされていて――ひとことで言うなら、“静かに集中する空間”。

 なのに。


「よっすー! テルメちゃん、いるー?」


 その空間を、アニリィ様の声が見事にぶち抜いた。

 一斉に白衣たちの視線がこちらを向く。いや、睨む。私とパウラ先輩は同時に身を縮める。あぁ、これだよ。これが“お姉さまアニリィ”の真の姿。――がさつ。


「――しっ」


 受付カウンターの向こうから、眼鏡をかけた女性が指を口に当てて小声で制した。見るからに事務方のその人は、白衣の制服にエプロンを着けていて、何か記録帳をつけている最中だった。


「す、すみません。アニリィ様がちょっとだけ――あの――アレなんで」


 私が慌てて頭を下げると、女性は小さくため息をつきながら言った。


「――お連れの方ですね。テルメさんを呼んできますので、()()()()お待ちください」

と強調して言ってから、「できれば、ですが」とボソッとさらに付け足した。耳が痛いけど、ド正論すぎてなにも言い返せなかった。


 数分後。

 ギルドの奥から現れたのは小柄で細身の白衣の女性だった。黒髪を後ろでゆるく結び、このギルドのようにどこか静謐な雰囲気をまとっている。動きに無駄がなくて足取りひとつ取っても凛としていた。まるで“正統派お姉さま”って感じ――理知的で落ち着いた、いかにも“本物”の知性派だ。


「お呼びと聞きましたが――アニリィ様。お久しぶりですね」


 その声にこもるのは、丁寧な敬意と、心からの感謝――でもその奥に、ほんのちょっぴり呆れが混じってるのがわかる。だって、この場の空気を読まず押し入ってきたんだから当然だ。


「あら、テルメちゃん。元気してた?」


 アニリィ様はいつもの調子で、あけすけな笑顔を見せる。


「ええ、おかげさまで。アニリィ様はお加減お変わりなさそうですね。――今日はまた、何か“面白いこと”でも?」


 口調は穏やか。でも、語尾の“面白いこと”に、明らかに意味が込められている。以前にも何か、とんでもない騒ぎがあったに違いない。アニリィ様はまるでそれを楽しむように、にっこりと笑った。

 まったく、懲りない人だなあ……。



「ヤルコフの親方から聞いたのよ。この謎言語について少し教えてくれない?」


 アニリィ様はさっそく、例の壁に刻まれていた文字のメモを取り出して差し出した。


「見せていただきますね」


 テルメさんは丁寧にそれを受け取ると、ふっと目を細めた。指先でなぞるように行を追いながら、眉間に小さく皺を寄せる。


「これ――グラバル語ですね。人魔大戦が行われていた頃に当時のハヤサ族社会で使われていた言語の一種です。今ではほとんど使われていません」


「ってことは、読めるってこと?」


「はい。少しお待ちを。意味を書き出しますね」


 そう言って、すぐそばの筆記机へ向かい、さらさらと筆を走らせた。その手つきは淀みなく、迷いがない。まるでこのギルドで呼吸をして生きている人、って感じだった。

 やがて、テルメさんは書き終えた羊皮紙をこちらに差し出した。




《訳文》

欲心は滅びをこそ招きけれ

 ――知恵をもて越へよ




「……たったこれだけ?」


「意味深ではありますが、あの文字列だけですとこれだけです。壁に書かれていたというのが本当なら、何らかの警告か、聖典に記された試練の一節に似てませんか?」


 テルメさんはそこまで言うと、少しだけ声を落とした。確かに聖典で、主神は人間の知識を試すだけでなく限界を示すことで主神の偉大さを明らかにしてる一節があるよね。


「じゃあ、この֍マークは?」


「ハヤサ族が自分たちのルーツを示す印です」


 ハヤサ族がなにかが判らない。歴史の授業でやった記憶があるけど全然覚えてないや。



「――アニリィ様。よろしければ、私も調査のお手伝いをさせてください。その場所、非常に興味があります」


 私は目を見開いた。あの落ち着いた錬金術師の女性が、少しだけ熱を帯びた表情をしていたのだ。“知”の力に導かれる人たち――それが今、このキュリクスの街で静かに、ひとつの謎へと集まり始めている。







(とある新任女兵士、ネリスの日記)

 訓練生18日目


 もし訓練3か月をクール制で考えるなら、今日で第2クールの終了日。明日と明後日は待ちに待った二連休! せっかくだから外で過ごそうと思って、外泊届をメリーナ小隊長に提出した。てっきり「どこ行くの? 何するの?」なんて訊かれるかと思っていたら、「わかったよー」と、いつもの笑顔であっさり受理された。なんか、拍子抜け。


 他の訓練生たちもこぞって提出してた。実家に帰る子、友達と過ごす子、彼氏とお泊まり予定の子――みんないろいろみたい。 あ、私? 届は出したけど――まだ予定は未定。無理そうなら外出だけでもいいかなって思ってる。


 ちなみに、私の相棒・クイラ訓練生だけは、どうやら提出しなかったらしい。詳しくは誰も知らないけど、周りがそっと噂してた。



 今日の訓練は短槍を持っての行進や走行ではなく、まさかの『ほふく前進』。

 しかも昨夜から雨が降り続けていて、練兵所はところどころに立派な水たまりができていた。

 ということは、ぬかるみだろうが水たまりだろうが関係なし、短槍を抱えて地面を這いずる訓練だ。

『くっそ重い槍持って、ドブを這えってか――』と内心思いつつ、そういうのが軍隊ってもんだとも思う。



「よーし、今日を乗り切れば連休だ! ボクも連休だぞ? ってことで、今日はここからずーっと、第三ほふくでガーッと突っ込んで!」


「「はいッ!」」



 メリーナ小隊長が笑顔で指さした先には、どう見ても沼地みたいな水たまりまで待ち構えていた。ボウフラ浮いてるの、見えてるからね? 私の後ろに立つマルガリート訓練生が小声で「嫌だ、絶対くさいよ、汚いよ――」とつぶやいた。わかる、でもな、それが軍隊ってもんよ。しかも第三ほふくってことは、服も靴も、そしてぱんつまで――ずぶ濡れ確定コース。訓練後、洗濯が先か風呂が先か、それが問題だ。諦めろ。


「みんな嫌? やっぱり汚れるの嫌? でもねぇ――ちょっと濡れたら気持ち悪いけど、べっとり濡れたら逆に気持ちいいもんだよ! どーんといっちゃいな! ――ではまずは、ネリス・クイラ班! 行け!」


 笛が鳴る。

 私は短槍を右手に構え、左肘と左尻を地面に滑らせながら前へ。隣にはクイラ訓練生。目が合った瞬間、彼女はスッと速度を上げた。


(なんだ、こいつ。張り合う気!? なら、私だって――!)


 肘と脚で這い進む。抜きつ抜かれつ。あのボウフラ水たまりが近づいてくる。

 突然クイラが減速した。ためらってる? なら、今なら差せる!


「ばっしゃーーん!」


 思い切って飛び込んだ水たまりは、想像以上に深かった。頭までずぶ濡れ。でも私は、座学で習った通りに短槍を頭上に掲げたまま、静かに前進する。そして、泥水の中から這い出ると、さらに第三ほふくで前へ前へ。


「ネリス訓練生、クイラ訓練生、お疲れさん」


 いつの間にか、ゴールを過ぎていたらしい。古参兵が私とクイラの肩をぽんぽんと叩いた。

 私は素早く立ち上がって敬礼。クイラもそれに倣う。


「それにしてもネリス訓練生、本当に“どーん”と行ったわねぇ。“どぼーん”って言ってたけど。――あの水濠にためらいもなく突っ込む新兵って珍しいわね、素敵よ?」


 古参兵が笑いながらそう総評する。でも、そのあとクイラのことも何か言ってた気がするけど――まあ、私は聞いてなかったし、たぶんクイラも私のことなんて聞いちゃいないだろうし。


 その後、他の訓練生たちも、笛の合図に合わせて泥と水を跳ね上げながら、全身ずぶ濡れでほふく前進していった。みんなもう吹っ切れたような顔だった。――けれど、一人だけ動かない子がいた。マルガリート訓練生。何度も合図が鳴る。けれど、彼女はうつむいたまま、一歩も動かなかった。



「あれれ? マルガリート訓練生、ボクの声が聞こえないのかな?」

「――聞こえます。でも、こんな汚いところでほふく前進なんてできません!」


 言った、あいつ、言いやがった――。

 私たちは誰もが息をのんでその場面を見守る。あの笑顔の小隊長に、真正面から逆らうなんて――。


「そっか、できないんだね」

「――できません!」

「――抗命罪になるけど、それでもいいの?」

「構いません!」


 メリーナ小隊長が静かに肩を竦める。その横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。

 そのとき、空からぽつ、ぽつ、と雨が落ちてきた。


「ひとつ、聞かせて。――マルガリート訓練生、あなた、どうして領主軍に来たの? 物見遊山? それとも、奨学金目当て?」


 その一言に、私の胸がちくりと痛んだ。だって――それ、まさに私のことだから。私なんてもろ奨学金目当てだ。年季が明けたら除隊して、自分の夢を追いかけるつもり。そう思ってる。でも。


「――あなたがどんなつもりでここにいるのかは、ボクにはわからない。だけどね、軍にいる以上、上官の命令と規律は“絶対”なの」


 メリーナ小隊長の声に、強さと優しさが混ざる。彼女の言葉は、雨音にもかき消されないくらい、はっきりと聞こえてきた。


「“絶対”には、ちゃんと理由があるんだよ。――みんな、集まれ!」


 メリーナ小隊長の右手が挙がった瞬間、私たちは反射的に駆け出して整列していた。身体が、勝手に動いてた。この18日間、私たちの中にはいつの間にか“小隊長の命令は絶対”が染みついていた結果だと思う。


「いい? ボクたちが訓練しているのはね、いざという時、この短槍を持って“戦う”ため。なんで戦うの? ――それは、有事になったらこの街と人たちを守るためだよね?」


 メリーナ小隊長が私たち一人ひとりを見るように視線を巡らせる。「だからボクたちは、命令で動く。上官の指示通りに動けなければ、守るべき命を守れない。そういう訓練を、今してるの」


 そう言って、小隊長はマルガリートの肩にそっと手を置いた。「“絶対”って言葉は怖いかもしれない。でもね、それは君たちを傷つけるためじゃない。守るためにあるの。その“絶対”には、マルガリート訓練生の命も、ちゃんと含まれてるんだよ」


 ああ、そうか。私はいつの間にか“敵を殺すための訓練”をしていると勘違いしてたのかもしれない。そう思いこんでいた。けれどそれは違うんだ。“自分や仲間の命、領民の命を守るための訓練”なんだ。


「マルガリート訓練生、もう一度命令する。行け!」

「わ、わかりました――!」

「ボクも一緒に行くよ!」


 メリーナ小隊長が地面に身を伏せ、第三ほふくで前進する。その姿はどんな兵士よりも軽やかで美しくて、力強かった。マルガリートも少しためらってから、そっと地面に這いつくばる。そして、ゆっくりと、一歩ずつ進み始めた。


 さっきメリーナ小隊長が言ってた、

 『ちょっと濡れただけなら気持ち悪いけど、べっとり濡れたらむしろ気持ちいい』――

 あれ、ほんとだと思う。マルガリートもそれがわかったのかもしれない。泥だらけになりながらも、彼女の動きは次第に良くなっていった。ついには水濠にもためらいなく飛び込み、そのまま最後まできちんと第三ほふくで進み切った。


「はい、ゴール! マルガリート訓練生、お疲れ様!」


 古参兵の声が響いたその瞬間、誰かが拍手した。その音につられて、私たちも自然と拍手を送っていた。――たぶん、みんな、ちょっと嬉しかったんだと思う。なんだか一つになれた気がしたと思う。



「全員、集まれ!」


 メリーナ小隊長の声に、私たちは走って整列する。

 よし、これでようやく訓練終了――明日からの休暇、ゆっくり楽しめそう!



「みんな、お疲れさま。――だけどね、みんな。抗命罪ってけっこう重いの。全員、連帯責任!」


 ――あ、やっぱり。

 みんなは一瞬だけ「えっ?」って顔をしたけど、まあ、すぐに観念した。腕立て伏せでも腹筋でも、なんでも来い。だってしょうがない。嫌なものは、誰だって嫌なんだから。それに明日から二連休、気にしないよ!


「外泊届、出してた子たち――全員、禁止。外出は認めるけど門限は夕鐘まで。――以上!」


 ――けっこう重い連帯責任だった。

 まぁ、仕方ない。私はそう思っている。――マルガリート訓練生のことはいまも正直ちょっと苦手だけどさ。

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