166話 武辺者の家臣、声を荒げる
昼の光が領主館の応接間に差し込み、磨かれた窓ガラスを透かして床に四角い光を落としていた。壁や家具、調度品は簡素ながらも清潔に整えられ、書類の山が端に積まれた机の上にはティーカップが三つ並ぶ。部屋の隅では魔導冷房装置が低い唸りを上げ、室内に涼やかな風を送り込んでいた。
そこに並ぶ三人。車椅子に座るトマファはいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。彼の隣、濃紺のブラウスに文官徽章を付けたクラーレは腕を組み、視線を落としがちに仏頂面を崩さない。指先が小さく机を叩き、溜め息を噛み殺す仕草にはハルセリアへの不愉快さが滲んでいた。
そして彼らの正面には淡いグレーの上着に濃紺のスカート──ルツェル式の外交官服だ。その胸元には銀色の徽章、左耳には三日月のピアスが陽を受けきらりと揺れる。外交官らしい自信に満ちた笑顔を浮かべ、書簡を差し出した。
「二週間前に始めた大使館の工事も、ようやく終わりましたわ。──大公陛下ならびにゲオルギーネ公妃殿下からの謝状をお預かりしております」
誇らしげな口調に、トマファが軽く頷きながら受け取った。
「いやあ、思ってた以上に早く済んだんですね、工事」
「“カリエル君”がキュリクスの大工ギルドに骨を折ってくれたおかげで、とても早く仕上がったと思いますわ」
ハルセリアは軽やかに肩を竦める。細かい経緯はさておき、彼女一人の力では到底進められなかった工事を、トマファはキュリクスの大工や建具のギルドに頭を下げ回って切り抜けられたのだ。クラーレは眉をひそめて、冷たい声を挟む。
「……ところで工事予算の出所は?」
「ルツェルの外交機密費よ」
当たり前でしょ、と言わんばかりの調子に軽口を乗せるとクラーレは小さく鼻を鳴らした。応接間に一瞬、空気のずれが走るがトマファは笑みを絶やさずに会話を繋ぐ。
「家具の調達はどうでした? あの建物、入り口が狭かったはずですが」
「ええ、作業机や金庫を入れようとしたら扉の寸法じゃ無理でしたから、窓を外して運び込んだんですの」
ハルセリアはおかしそうに笑う。「でも、これで“栄光ある”ルツェル民がふらりと立ち寄れる場にもなったと思うわ。もちろん、“カリエル君”ならいつでも歓迎しますわよ」
ルツェル大使館は領主館近くの古い喫茶店『エンバシー』の一部を借りて開設された。その女将も「これでお客さんが増えるなら私も嬉しいわ」と口にしているという。
「そういえば、公国旗の掲げ方でも笑われましたわ。『もっと高く掲げなきゃ』って近所の子どもたちに」
喫茶店の前にある小さな掲揚ポールは元々、冬の主神祭の頃にランタンを掲げるためのものなのでそんなに背の高いものではなかったのだが、そこにルツェル公国旗を掲げたところ、「これじゃあ小さな子どもたちがいたずらしちゃうよ」と、おてんば四人組の子らから指摘されたという。
「はは、もう既にキュリクスの人達から受け入れられてるみたいで、いいじゃないですか」トマファが柔らかく笑う。「それなら掲揚塔の設置はどうします? 女将が良いと言うなら大使館開設祝いとしてこちらで作りますよ」
「お気持ちは嬉しいけど……もし民衆たちから『領主館におねだりした』なんて言われたら“栄光ある”ルツェルに泥を塗ってしまうからこちらで手配します、ありがとね──“カリエル君”」
ハルセリアはそう言うとティーカップにそっと口を付ける。今日、マイリスが出してくれたのはラズベリーの甘い香りのするお茶だった。「ここに来ると、いつも面白いハーブティが出るのね」と漏らすと彼女は軽く話題を変える。
「で、“カリエル君”、あの件は受ける気になった?」
「いえ、僕はヴァルトア卿を支える文官でしかありません。過分なお言葉ですとフランツ・ヨーゼフ大公陛下にお伝え下さい」
「そぉ、残念ね」
ハルセリアを通じてルツェル大公フランツ・ヨーゼフ10世から大使館設置のために骨を折ってくれた事への謝意や報酬の申し出はあったのだが、ヴァルトアのいち家臣に過ぎないトマファが受け取るわけにはいかない。しかも受け取ると言っておいて過分な贈り物──例えば爵位とか──の目録を見て断るなんて以ての外、彼は領主ヴァルトア名義で丁重に断りを入れたのだ。しかしせっかちな癖に信義に厚い性格らしく『どうしても謝状だけは受け取ってくれ』と言うので、こうやって領主館にハルセリアを招いたのだ。異国で異性の高官同士が会うとなれば二人きりでは体裁が悪いというのでクラーレが立ち会っている。そのクラーレはというと視線は鋭く細め唇を噛んで机を指先で小さく叩いていた。その仕草だけで目の前に笑顔を振りまく“ルツェル女”がどうしても気に入らないのだ。自分の想い人を馴れ馴れしく“カリエル君”と呼ぶこの女が生理的に受け付けないのだ。
「解った、大公陛下にはそのようにお伝えするわ。──そういえばあの女将が、またお茶でも飲みに来てねだって」
そう言って、ハルセリアはふとクラーレへと視線を向ける。
「クラーレさんもぜひ遊びにいらして。美味しいお茶、一緒に飲みましょう?」
「……喫茶店の中に他国の公館があるとなると、私たちはそうそうと足を運べません」
仏頂面のままクラーレがつぶやいた。その返答だと判ってたかのようにハルセリアは軽く受け流す。外交官らしい表情は崩さず、応接間の空気は静かな均衡を保っていた。
やがて、話は一巡したのか静けさが戻る。トマファの穏やかな微笑の奥では次に切り出す言葉が準備されている。そしてその空気を破ったのはハルセリア自身だった。
「ところで大使としての仕事だけど……最近エラールで変わったこと、無い?」
トマファは微笑を崩さずに、ゆっくりと応えた。
「最近キュリクスの朝刊紙で評判になってる小説があるんですが……“おひつじ座のラー”――あれ、ハルセリア嬢の作品ですよね?」
クラーレは驚きに眉をひそめ、思わず椅子の背に体を固くした。実はこの小説を毎朝読んで楽しみにしていたが、想い人トマファの昔話だとは夢にも思っていなかったのだ。対照的にハルセリアは一瞬きょとんとした後、皮肉めいた笑みを浮かべて肩を竦めた。
「んー、どうしてそう思った? 私って秋生まれのてんびん座だから、おひつじ座じゃないわよ?」
「“Halseria”を並べ替えれば“Aries Lah”。──子供だましレベルのアナグラムかな、と」
トマファは顔色を変えずに言うとハルセリアは肩を竦めて視線を落とし、小さなため息を漏らした。「あちゃー、バレちゃったか」と軽い調子でハルセリアは応えると応接間の空気は少しだけ張りつめる。
「ハルセリア嬢、あの小説がキュリクス国内だけで盛り上がる程度なら、僕も笑って済ませられましたよ」
トマファの声色も表情も穏やかさを失い、徐々に強張っていった。「ですが、エラールの週刊誌やロバスティアの文芸誌が“掲載したい”とキュリクス日報に問い合わせが殺到してるようですね」
「そうなのよ! これでギャラが入ったら一緒に一杯飲みに──」
「政治の火種になるでしょうが!」
トマファは表情を引き締め鋭い声を放った。普段の穏やかな声音が一変し、クラーレは肩をびくりと震わせる。彼女はこれまで一年間も共に働いてきたが、トマファからこれほど強い言葉を聞いたことはなかった。机の向かい側に座るハルセリアも冗談めかした笑みを消し、目を丸くしていた。応接室に緊張が走るが、彼女は深く息を吐いて声を震わせる。
「だ、だけど……嘘は書いてないわ! 真実を握りつぶして、のうのうとしてる連中らへ──」
「ですが今のあなたは、遠くない未来のあなた自身だけでなくルツェル公国をも焼く火種も撒き散らしてるんですよ!」
ハルセリアは言葉を失い、瞳を瞬かせた。今まで浮かべていた冗談半分の笑みが剥がれ落ち、素の表情がわずかに覗く。クラーレは唇を引き結ぶと机の端を指で叩く手を止めた。
「キュリクス日報へは僕から“働きかけ”を済ませました。既に手を打ってありますから、あなたは何もしなくても結構です。──ですが、これ以上火種を撒くような真似──勝手に続編を書くとか盛るとかするなら……国外退去勧告を出さざるを得ません。あなたを守るためではなく、ヴァルトア卿を支え、この地を守るためです」
応接間に再び沈黙が落ちる。ハルセリアの肩が小さく震えているのを見て、クラーレは視線を落とした。いつもは勝気で強気な態度の外交官からは笑顔が消え、下唇をかみしめて俯いていたのだった。