155話 武辺者、禁断の研究に手を付ける・1
キュリクス錬金術ギルドの実験室は今日もまた戦場のごとき有様だった。
長年の経験を積んだ老錬金術師レオダムがミスリル合金を使った新しい触媒の調合に挑んでいた。煤で黒ずんだ手で慎重にフラスコを傾けると液体はかすかに青い光を帯びた。
「……よし、今度こそ成功じゃ」
そう呟いたのも束の間、薬品とミスリル触媒が混ざって発熱反応を起こした。氷水で冷やすべきところを怠ったせいでフラスコは急激に熱を帯び、握っていられないほどになってしまう。慌てたレオダムは耐え切れずフラスコを手放した──だが実験机の上は広げられた研究ノートと溶剤、そしてマグネシウム粉という可燃物ばかり。落下したフラスコがそれらに触れた瞬間、事態は爆発的に加速した。
「む、それはアカン──」
次の瞬間、轟音がギルド全体を揺らした。
──ドカーン!
爆風が研究室を吹き抜け、天井板が一枚吹き飛ぶ。フラスコやビーカーは雨のように降り注ぎ、窓ガラスは二枚外へ飛んでいった。ギルドの自慢、屋根から突き出た高い煙突からはブホッと黒煙が吐き出された。街の広場からも見えるほどであった。
「今月何回目だと思ってるんだァ!」
爆発でめちゃくちゃになった実験室で片づけする研究員たちの背に怒号が響き渡る、錬金術ギルド長フリードだ。顔を真っ赤にし、頭に血管を浮かべながら実験室へ駆け込んできたのだ。しかし当の研究員たちにとって爆発はまるで慣れっこだ。
「ははっ……いやぁ、今回も派手にいきましたね」
「まぁ、誰も死んでないから大丈夫ですよ」
テルメとマルシアは肩を揺らして笑いながら白衣に飛び散ったガラス片を払い落とす。彼女たちにとって爆発は日常の一部でしかない。そして煤まみれになったレオダムは、しれっとした顔で立ち上がる。
「──いやぁ、実験机が散らかってたのが原因だ!」
「ちゃんと片づけてから実験しろっつってんだろぉ、レオダム先輩ぃー!」
その言葉にフリードは頭を抱え、実験室の床には飛び散った薬品が煙をくすぶらせていた。
爆発の煙がまだ漂う中、後始末はいつものことだった。床には黒い煤とガラス片が散乱し、壁には飛び散った薬品がこびりついている。フリードは怒鳴り散らしながら箒やモップを投げつけ、研究員たちに掃除を命じていた。
「いいか! 次に壁を吹き飛ばしたらギルドごと崩れるぞ! ──あとレオダム先輩、ぶっ壊したビーカーなどの器具代は給与から天引きしとっからな!」
「うるせぇ、──錬金術は爆発だッ!」
フリードから箒を受け取ったレオダムは床を掃きながら吐き捨てる。フリードも箒で落ちたガラス片を集めていた。その後もフリードとレオダムの怒声が響くなか、ドリーは黙々と破片を拾い集めていた。額の汗を拭いながら机の下に潜り込むと──何か硬い感触が指先に触れた。
「ん……?」
取り出してみれば一冊の古びたノートだった。革表紙の端が裂け、指先にざらりとした感触が残る。表紙は擦り切れて色あせており、何気なく開いたページには緻密な魔導回路と奇妙な数式が並んでいた。
「これは……魔導“命令”回路の理論式……?」
ドリーの目が思わず釘付けになる。その瞬間、背後から声が飛んだ。
「ドリーちゃん、どうしたの?」
顔を上げれば研究員で妻のマルシアがこちらを覗き込んでいた。笑顔の奥に僅かな疑念がにじむ。
「あ、いや……何でもないよ」
慌ててノートを閉じ埃を払うふりをして机の上に置いた。呼吸を整え、表情を固めて心臓の早鐘を悟られまいとした。だが胸の奥では確信していた。──これはテルメが机にしまい込んでいた、あの同僚の研究ノートだ。
触れてはならぬもの。けれど目を逸らすには、あまりに強烈な魅力を放っていた。
深夜の錬金術ギルド内は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。今夜は徹夜をしてまで実験に明け暮れる研究者は居ないらしい、測定機器のリズミカルな発振音だけが響き渡る。窓から差し込む月明かりが廊下を青白く照らすなか、ドリーは足音を忍ばせながら地下へ降りた。石造りの壁が続く冷たい通路の突きあたり、奥まった部屋の鍵を開けて禁書室の扉を引き開けた。扉の軋む音に一瞬後ろを振り返って身をすくめてしまう。幸い、今夜の夜勤者は自分一人のはずだ、誰もドリーに気づく者はいない。
錬金術師なら誰でも思ってるだろう、『研究なんて試行錯誤の連続だ』、と。何でもかんでも実験して一発で全て納得いく結果が出るわけではない。失敗を積み重ねて法則を見つけて理論を組み立てるのが科学だ。
その試行錯誤の途中、研究者の意図とは違う結果が生まれることはある。中には公表をためらうような危うい成果が出ることもあるだろう。だが研究者としては、実験結果の記録は何らかの形で残しておくものだ。だからこそ、そうした結果や論文が封じられた「禁書室」が、どこのギルドにも存在するものだ。
禁書室の扉は滅多に開けられることは無い。ひんやりとして、わずかなかび臭さと古文書独特の古紙とインクの匂いが鼻を突く。ドリーは震える指先で、棚の背表紙をなぞる。探し求めていたもの──新しい背表紙の報告書、『アルカ島探索結果報告書』が書架の中に眠っていた。
「……これだ」
机に広げるとびっしりと並ぶ専門用語と独特な筆致の文字。これはドリーには心当たりがあった。一年前、キュリクス領主館の調査隊が提出した報告だ。文責者はテルメで、難解な文章ばかりで評議会の連中でさえ理解しきれなかった代物だ。しかしそれを読んで違和感しか抱かなかった。筆跡がテルメとは異なるし、そもそも彼女はこんな回りくどくて難解な文章を書く研究者ではない。自身の利権ばかりに気を取られてる評議会の連中らはそんな事も気づかず、そして彼女の報告書をまともに査読することなく「追加で発見された事項があれば論文にまとめて報告するように」と適当な返答をしたはずだ。だが査読に係わったドリーが気になった単語──“自立運動”が記されていたのだ。
ページを繰るうちに見慣れた文字の走り書きが顔を出す。独特の丸っこい文字に、左利き特有の筆跡──紙の汚れと右下下がりの文字列、右利きとは逆になりがちな書き順、テルメのものだ。その走り書きにはドリーの背筋を凍らせる記述が目に飛び込んできた。
『コッペリウスの自律人形の元ネタは動くスケルトンと魔導“命令”回路なのでは』
──かつて「人魔大戦記」に名を残す辻芸人コッペリウスは自律人形を作り、戦乱で傷ついた街の人々を喜ばせたと伝えられている。だが実際は、監獄島アルカで囚人の骨を素材に自律人形を作り上げた男の存在が元となったのではないか、と。アルカ島は八百年近く前に放棄されたはずだった。にもかかわらず、昨年の調査で動き出したスケルトンが確認され、その頭蓋骨の裏や骨盤には未解読の魔導回路が書かれていた──と。
その回路をテルメが丁寧にメモに残していた。ドリーはそれを読み込んで自身のメモ帳に書き写す。その文字や綴りをよく読めば東方民族の古代語であるシュテルベン語のようである。今ではほぼ死語と化した言語だし、テルメ自身が魔導回路についての知見が少ないから『未解読』と表現したのだろう。
書き写しながら不意に学生時代の授業を思い出した。学生時代、暇だからという理由で選んだ「魔導理論命令学」。魔導と付くくせに国家魔導師試験に関係ないため受講者は自分を含めて三人だけだった。うち一人は中央ギルド評議会に居るメルキュル、そしてもう一人がカンナ──テルメの同僚だった女だ。その授業は、魔導回路に命令文を加えて開閉スイッチを操作する基礎理論を学ぶものだった。昼間に拾ったカンナの実験ノートに書かれていた“魔導命令回路”の法則は、教授の講義を自分なりに理論づけしたものだ。つまり彼女の組み立てた理論、一直線の魔導回路にいくつもの分岐と処理をこの禁書の『未解読の魔導“命令”回路』に当てはめると自律人形が動かせるかもしれない……。
「……カンナ嬢は、自力でここまで辿り着いていたんだ」
ノートと報告書を照らし合わせながらドリーの手は震えた。冷たい汗が背中を伝う。ノートの半ばに書かれていた魔導回路には閉開路の書き損じがあり、このまま魔素エネルギーを注入すれば無限ループを始めてしまうだろう。つまりカンナが起こしたあの暴走事故は魔導回路の“異常なループ”が原因だったのではないか。あの時の事故報告書では『魔素エネルギーの異常膨張』となっていたが、今では魔導理論命令学は完全に廃れた学問のため原因特定が出来ずにどうとでも捉えられる文言で誤魔化したのではと思えてしまう。スケルトンに書かれていたとされる魔導回路をもう少し解像度を上げて解析した上で、カンナの理論を完成させたい。恐怖と同時に胸の奥から湧き上がる抑えがたい衝動が彼を突き動かす。
「だけど……自律人形の製作は、魔導師と錬金術師共通の夢。僕だって──」
ごくりと唾を飲み込む。
「……触れてみたい」