149話 武辺者と、「夏のすいか」・1
真夏の午後、キュリクスの西区職人街。石畳の路地は熱気を孕み、あちこちから槌を打つ音や鋸の音が響く。家々の軒先では洗濯物が揺れ、通りを渡る風も熱を帯びていた。
果物屋の前に大きなたらいが置かれている。冷たい井戸水に浸されたすいかや桃が陽光を跳ね返してきらりと光っていた。その中で――アクウィリアが腰巻きの下に水玉模様の水着を覗かせ、果物と一緒に涼しげに浸っていたのだ。陽に焼けた肩や腕は健康的に輝き、胸元を伝う雫が艶やかさを添える。笑顔は西区の夏そのものの輝きだった。通りの向こうから歩いてきた俺──シャルポは、その光景に足を止めた。止めずにはいられなかった。たらいのすいかと共に揺れる彼女の姿に、思わず見とれてしまったのだ。
幼い頃は神童と呼ばれ、領主からも「将来は逸材となれるよう頑張りたまえ」と励まされた。ヴィオシュラ学院で法律学を学ぶため留学したが、周囲は自分以上の秀才ばかりで、たちまち落ちこぼれた。どうにか卒業して帰郷したものの、目立った成果はなく、官僚登用試験や法曹試験、代書屋の試験までも落ちた。努力しても届かないと悟った瞬間、心はぽきりと折れた。夢破れて帰ってきた俺は、大店商家の子女への家庭教師で糧を得ていた。給金は悪くない。夢を失い虚無を抱えていたはずが――今、この瞬間、胸の奥で別の熱が静かに灯るのを感じたのだ。
「お兄さん、桃、試食しませんか?」
柔らかな声が、夏の蝉時雨よりも鮮やかに響く。俺は小さく頷きながらも、視線を逸らせなかった。逸らせば、また彼女の持ってる“二つのすいか”に目を奪われるのがわかっていたからだ。
その日から俺の帰り道は変わった。遠回りしてでも必ず果物屋を通り、桃を買って次の商家へ向かう――そんな習慣が静かに始まった。
そんなある日、路地の角に「クルーズ団」がたむろしているのが見えた。東区を拠点にする、金と暇を持て余した若者たちの不良集団だ。派手な身なりに同じ赤色のバンダナを巻くのが特徴で一目でそれとわかる。喧嘩や揉め事の火種ばかりを抱えており、関われば碌なことにならないと本能が告げていた。俺は思わず物陰に隠れてしまう。その連中らの視線の先には、いつものようにたらいに入って笑顔で果物を売るアクウィリアが居た。
その前に立ちふさがったのは西区の若者集団「ローバー団」だった。先頭の大柄な男が、低い声で言い放つ。
「東のボンクラが西区まで来てキモい顔で笑ってんじゃねぇよ──くそボケが」
男の名はダンマルク、西区の若者たちから一目置かれる腕っぷしの持ち主でこの界隈では顔役だ。過去には仲間を守るために東区の連中に一人で殴り込みに行き、勝ってみせたという逸話もある。同世代ならキュリクス中の誰もが知っている男だった。
「あぁなんだ? あれ、“ロバ団”のダンじゃねぇか」
「“ロバ団”って名前だからあいつ、アホな馬面してんのか?」
挑発的な笑い声と共にクルーズ団の一人がダンマルクの肩を小突く。瞬間、ダンマルクの拳が閃き、相手の鼻先で寸止めした。空気が一気に張り詰める。
「あんたねぇ、馬とロバは別種なのよウスラポンチン! 脳みそにカニみそ詰めるわよ!」
そう言ってダンマルクの横で啖呵を切る小柄な女はトトメス。腕っぷしは強いが口下手な彼に代わり、勢いよくまくし立てる。脳みそを高級カニみそにしてどうするんだ──と思わず心の中で突っ込んでしまった。
彼女の啖呵を合図に、両陣営の間で押し合いと罵声が飛び交った。ダンマルクは素手で力任せに暴れ、クルーズ団の男たちはついにナイフを抜く。刃先が夏の陽に反射して一触即発の緊張が走った。
商店街の大人たちが官憲を呼び、そこへ数人の制服姿が駆け込んできた。瞬く間にダンマルク達は乱闘寸前から散り散りに逃げ去った。この小競り合いはすぐに街中の噂になった。新聞屋は事実に尾ひれをつけ、物語を面白おかしく仕立てては下らない論評を並べ立て、売上を伸ばしていた。
俺にとってまったくもって下らない出来事だった。おかげでその日はアクウィリアと話す事が出来なかったし桃も買えなかったのだ。翌日買いにいった時、昨日の事件の話をしたら、
「おまわりさんたち怖かったねぇ」
とだけ。その、どこかズレたところがまたかわいいなと思ってしまった。そして後日、この小競り合いを耳にした領主がまた、ピントのズレた発表をするきっかけとなったのだ。
クルーズ団とローバー団の小競り合いはその後も何度も起こったらしい。街を歩けば商人たちは「またか」と肩をすくめ、職人たちは「馬鹿馬鹿しい、いい加減にしてくれ」とぼやく。子どもたちは面白がって「ジェット団、シャーク団」と別れて真似事を始め、老人たちは「昔はもっと真剣だった」などと訳のわからない昔話をする始末だ。
そんな折、領主邸で急きょ開かれる評議に俺は呼び出される。下らないことで時間を割かれたくはなかったが、「西区青年会代表として出てくれ」と町会長に言われたのだ。その言葉にまず驚いた、俺はいつのまに青年会なんぞに入っていたのか? と。
とはいえ、行けと言われて無視すれば西区で肩身が狭くなるのは目に見えている。そこでやむなく出席を決め、その日は家庭教師の仕事を休んだ。評議の議題は「若者たちの抗争を鎮めるための方策」だった。
執務室に集まった俺や役人たちの前で領主は満面の笑みを浮かべて告げた。
「夏の主神祭に合わせて――若者たちのために広場でどーんとダンスパーティを開くことにしたぞ!」
場が一瞬で静まり返る。書記官がペンを落とし、隅にいたメイドが思わず咳払いをする音まで響いたのだ。
「ええと……伯爵様、それはつまり?」と恐る恐る誰かが尋ねる。
「簡単だ! 東も西も若者が集まって楽しく踊れば、喧嘩などする暇はないだろう!」
俺は思わず天を仰ぎ、深く息を吐いた。喧嘩をやめさせるためにダンス? 眉間に皺を寄せ、心の中でその突拍子もない案を押し返そうとした。
だが領主はしたり顔で『そうすれば全て丸く収まる』と信じて疑わぬ表情を浮かべていた。文官たちは互いに目を合わせず、曖昧な笑みでやり過ごす。おそらく彼らも、この案を今初めて聞かされたのだろう。
「ついでに、街の果物屋や飲み屋にもじゃんじゃん出店してもらおう。華やかにすれば民も喜ぶ」
その言葉に一部の商人たちは目を輝かせた。金になると思えばたとえ無茶でも乗るのが商売人だ。こうして半ば呆れ、半ば諦めの空気の中、領主の珍案は決定された。
俺は頭の片隅であのアクウィリアの笑顔と二つのすいかを思い浮かべていた。
*
夕鐘が鳴り、石畳の路地に長い影が落ちる頃。西区の裏通りはひとけも少なくいつも通り静かだった。そこへ茜色のワンピースを揺らしながら果物屋からの帰り道を歩くアクウィリアが現れる。表情には一日の疲れと安堵が混じっていたが、その前に音もなく赤いバンダナを巻いた男たちが立ちふさがった。なんとクルーズ団の三人がにやりと笑いながら彼女を囲み、腕を掴んで強引に引っ張ったのだ。
「困ります、痛いです、やめてください!」
彼女の必死の声が、偶然市場通りを歩いていた俺の耳に飛び込んできた。胸の奥に熱いものが走り、気づけば足は路地へと飛び込んでいた。狭い道の奥でアクウィリアの手を引き、さらに奥へと連れ込もうとする男たちの姿が見える。
「離せ!」
俺は持っていた書籍を一冊、全力で投げつけ、その勢いのままアクウィリアを乱暴に掴む男に肩から突っ込んだ。だが次の瞬間、そいつの拳が俺の頬を打ち抜いていた。世界がぐらりと傾く。続けざまに鳩尾を蹴り上げられ、肺の中の空気が一気に抜けた。石畳に叩きつけられる感触と共に、口いっぱいに広がる鉄の味。
「シャルさん!」
かすかに聞こえた声に顔を上げると、アクウィリアは必死にもがきながらも男たちに引きずられていく。手を伸ばすこともできず、その背中が闇に飲まれていくのをただ見送るしかなかった。
――誰かに知らせなければ。
膝が笑い視界が滲む中、俺は石畳を蹴って走り出した。血の味と怒りが喉の奥で混ざり合っていた。