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148話 武辺者、大使館設立へ奔る・3

「少し休憩しましょう」 


 車椅子の文官長トマファが穏やかに言うと、一同は疲れ切った様子でそろって頷いた。領主館への帰り道、練兵所裏の並木道を歩いているとクラーレがふと小さな喫茶店を見つけた。領主館の近くにありながらこれまで誰の話題にも上らなかった店だ、キュリクス出身のプリスカでさえ「こんなところにあったんですね」と驚くほどだ。入口の扉は欅材のガラス入りで、中の様子がほのかに見える。その扉には半ば消えかかった金文字の小さな看板が掛かっており、その扉を開けると鈍く鳴る小さな鐘が彼らを出迎えた。


 風の通り道なのだろうか、店内はひんやりと涼しくて、炎天下を歩き回った彼らには心地よく染み込んだ。カウンター奥には大小のポットと綺麗なティーカップが整然と並び、壁には色褪せた木炭デッサンがいくつも掛かっている。天窓からは光の粉が降り注ぎ、空いた椅子や丸テーブルをやわらかく照らしていた。かすかに茶葉の香りが漂い、奥から湯のたぎる音が聞こえる。客の姿はない。


「いらっしゃい──好きに座って」


 店の奥から白髪の老女が姿を見せた。背筋は真っ直ぐに伸び、手には磨き込まれた木盆が載っていた。お茶を頼むと、盆をカウンターに置いて淹れ始めたのだがどの仕草一つとっても静かで無駄がない。お茶を淹れるのが抜群に上手いマイリスよりも洗練された動きであった。しばらくすると上品なティーカップに並々と注がれたお茶を出してくれた。こちらの疲れに気づいたのか、ほほ笑みながら小皿に甘味も添えてくれる。出されたお茶は香り高く、使ってる茶葉にもこだわりが見て取れる。


「ひょっとして、ヴァルトア子爵様の文官殿かえ?」


 老女が声を掛けるのでクラーレが「えぇ、ちょっとあちこち課業で回ってました」と応える。


「この喫茶店、長いですよね? 赴任してからキュリクスは随分と回ったと思ってたんですが」


 クラーレが言うと老女はふと視線を店の奥に移す。


「昔は賑やかだったの。キュリクス学院の若い学生がチェス盤を持って来てね、ここで一局打ってから講義へ走っていったり。散歩の老夫婦は毎朝手を繋いでやってきては窓際の席でお茶を飲み、帰りに庭の花の話をしてくれたり。そういえばうちで使うお茶葉だけ買いに来るお婆さんもいたっけ。今じゃ、ほら、この通り」


 老女は笑うでも泣くでもない表情だった。かつては若い学生やカップル、それに老夫婦がやってきては常に誰かの温もりを椅子に残していたことだろう。だが統一戦争の戦火はキュリクス学院を閉ざし、学生たちはこの地を去ることに。今じゃ誰も触らずに置物と化してるチェス盤、積み上がった古い娯楽小説の山、美術科生が書き殴ったであろう在りし日の老女の木炭デッサン。この店はそこから時が止まったままなのだ。そのキュリクス学院の跡に建っているのが領主館と練兵所、そして軍人病院が建つ。


「うまい」


 プリスカが短く言い、両手でティーカップを包む。その指先はティーカップのなだらか線をなぞるように確かめるように撫でた。彼女が口にした「うまい」は誇張ではない、爽快な渋みと軽快で花のような香りのバランスが本当に良いのだ。領主館や練兵所の裏にあるから目立たなかったのかもしれないが、この店の名が館内で語られたことは一度もなかったのが不思議である。


「えぇ、本当に落ち着く味ですね」


 ようやく一息つけたのだろう。土気色だったアンドラの頬にほんのり朱が差し、甘味を一つ口に運んでは唇の端にかすかな笑みが戻る。指先で小皿をくるりと回し、視線を皆へとやる。クラーレはこれまで見て回った物件の簡易図を見ながら摘まみ、ハルセリアは椅子から軽く身を乗り出し、店内の壁や窓、柱の太さに目を走らせながらつまんだ。ドレンチェリーがちりばめられたクッキーも紅茶の邪魔もしない繊細な味だった。


「ねぇハルセリアさん、大使館の窓口なんて机と椅子だけあれば良いんでしょ?」


 クラーレがお茶を一口すすると、半分ため息半分冗談で言った。ハルセリアは喫茶店の内装が余程気に入ったのかあちこち見て回っている。そしてハルセリアと老女は壁に掛かる木炭デッサンを見ては「美術専科の子たちがこの店でよく徹夜して作品づくりしてたわよ」という話もしていた。


「まぁね。あとはルツェル公国法令集と個人情報保護のための金庫ぐらいしか要らないわよ」


「ふぅん。なんならさぁ、ここの隅で店でも開かせてもらえば?」


「クラーレさん、そんないい加減なこと言うもんじゃ……」


 トマファがティーカップを持ちながら苦笑した。言い終える前に老女がぱちんと指を鳴らす。


「ええよ? なんだか物件探ししてたんでしょ?」


 一瞬、時間が止まった。さっきからクラーレとハルセリアは物件についてあれこれ情報交換してたんだから老女の耳にもその話は入ってたのだろう。老女は嬉しそうに瞳を丸くし、客席の奥を指した。


「ここに大使さんと参事さんの机と本棚を置いて……喫茶スペースのある大使館なんて素敵じゃない! だってここの店名、『エンバシー』だもん」


「——エンバシー?」


 プリスカが訊くと老女が指した先にはティーカップが収まる棚があり、その中に古ぼけた看板が置かれていた。積み重なる時間で剥げた落ちたその看板に“EMBASSY”の文字が見て取れる。長い時間に晒されて最後の二文字が掠れて“エンバシ”に見えるのだが。


「そぉ、大使館って意味よ」


 この喫茶店の内装を気に入ってたハルセリアは壁や窓枠に手を当てて具合を確かめる。いい木材で作られているのがよく判る、節の少ない柱に立派な梁。扉は重厚で建付けには問題はない。店前は広い通りにも面しているし、領主館の正門までは歩けば数分だ。もし仮にハルセリアの身になにかあれば要人保護のための出動も容易だろう。


「歴史があって、領主館のすぐそこだし、素敵だし……いいかも!?」


 ハルセリアの声が自然に明るく弾む。


「そ、そんな勢いで決めちゃって良いんですか!?」


 アンドラが椅子から跳ね、先ほどからメモ書きをしていた手帳を高く掲げる。ハルセリアは自分の席に戻るとお茶を啜る。


「物件見て回る度に『もうここにしましょうよ』と言ってた人とは思えない発言ね」


 ハルセリアは笑いながらそう言うと、ポーチから煙草を一本取り出した。その仕草を目で追っていたトマファと、ふと視線が絡む。彼女はわずかに肩をすくめ、「ごめん」と小声で謝ると小さく溜息をつきながら煙草をしまった。


「管轄の照会や用途変更申請ならカリエル君と一緒にやるからいいし、事業用賃貸借契約書の締結はさっきのノーカさんに仲介して貰えばすぐだろうから、あとはルツェル大公への認可書類さえ揃えれば問題ないわよ。ただ、私はともかくアンドラちゃんの住むところ——」


「二階に居住スペースもあるから、すぐに住めるわよ」


 老女は重ねて言った。「私はね、今は息子夫婦の家に住まわせてもらってるの。ここで住む事ももうないだろうし、昔みたいに店に泊まり込んで作品づくりに励みたいって子もいないだろうから、あなたたちが使えば良いと思うわ。建物って人が使わなくなると、途端に痛むからね」


 老女に言われてハルセリアとアンドラ、クラーレにプリスカは店の奥へと案内される。狭い階段を上がると二間続きの部屋があり、小ぶりだが水回りはついている。窓は東と南にひとつずつ、朝日と昼の風が通り抜けるだろう。


「視界良好、逃げ道も二つ、防衛線も引きやすいかな」


 プリスカが小声で言うと階段と裏口を確認する。


「表の通りからの死角は、看板の位置を少しずらせば潰せるかな」


 ピナフォアからメモ帳を取り出すと見取り図を書き出した。彼女もメイドとはいえ軍属だ、見聞きした情報は必ずメモするように癖がついてきたようである。最近は特に優秀な後輩メイドが何人も配属してきたのだ、彼女もうかうかしてられない。


「……では良い隣人として仲良くやっていきましょう」


 あとはキュリクスとルツェル公国に開設に関する書類のやり取りは必要だろうが、ハルセリアと老女とで使途や賃料、内装工事等についても話は付いたようだ。


「もちろんよ──私にできるのはお茶を出すことだけだけど、お客さんがまたやってきて賑やかになるのなら、ぜひ使っても良いわよ」


 老女はにっこり頷いた。ハルセリアはみんなの顔を順に見た。トマファは静かに笑い、クラーレはメモ帳に必要な机椅子の数を書き、プリスカは窓の鍵に触れてうなずいた。アンドラは大きくため息をついた後、小さく頷いた。


「ところでハルセリアさん。さっき、あなた『私はいいとしてアンドラさんの住むところ』って言ってたけど、あなたはどこか良い物件見つけたの?」


 クラーレが不思議そうな顔をして訊くからハルセリアは胸を張って応えた。


「えぇ! カリエル君のお部屋に転がり込むわ!」


 クラーレとプリスカの表情が覿面に悪くなったのは言うまでもない。それを聞いてアンドラはさらに大きなため息を付いたのだった。


「では」 


 そんなことはお構いなし、トマファは言う。「各種申請書類の体裁や契約の条項はノーカさんと僕とで詰めておきます。ハルセリア嬢とアンドラ嬢は後に二人の元に大工ギルドの親方衆たちが伺うと思うので内外装工事はどうするかを店主と共に話し合ってください。ただ、看板だけは——」


「“エンバシー”のまま、ね?」


 ハルセリアが笑った。「だって、ここが見つけてくれたんだもの」


 夕風が天窓を揺らし、月信教の時を伝える鐘がかすかに聞こえる。老女が新しい茶を用意する音、通りを行く荷馬車の軋み、遠くで子どもがはしゃぐ声。がらんどうだった店に、音が一つずつ戻ってくる。


 その晩、ハルセリアは扉の脇に小さな札を下げた——『ルツェル公国大使館窓口(準備中)』。墨の匂いが乾くまでの間、老女はティーポットを磨き続け、アンドラは手帳に今日の記録を少し書き足す。ハルセリアとアンドラの長い一日はようやく終わりを見せた。お茶の湯気は細くまっすぐに立ち上り、やがて見えなくなった。次にここを訪れる誰かのために席は拭かれ、扉鐘の舌はそっと休められる。明日が来たらもう少しだけ賑やかになるだろう。——エンバシーはその始まりの匂いで満ちていた。

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